1-2




「あはは、まぁそこは、恵ちゃんと言う事で、

「……なんで、そうなるんだよ」




 冬休み開け、最初の登校日からの帰りに、妹の恵は自宅の玄関で気を失った。偶然、家に来ていた有紀が物音に気づき、すぐさま母に連絡を取ってくれたお陰で大事には至らなかったが、直後、彼女は理由も言わず、部屋に引き籠もる様になってしまった。


 ――僕が、僕のせいなんです!


 彼女が倒れた翌日、事情を知った竜太が、泣き叫びながらそう言って、何度も玄関先で土下座をし、額を血で濡らしながら状況の説明をしてくれた。


「……そうか」


 我が家の家族と、竜太の家族が揃う中、我が父はそれだけ言って小さく息を吐く。じっと目を瞑り、眉間に皺を作って苦悶に満ちては居るが、竜太を責めることは勿論出来ない。


 ――彼はただ、自分の素直な気持ちを恵に告げただけなのだから。


 そう、彼はただ、我が妹に頑張って「告白」しただけなのだ。ずっと一緒に育ち、大切に育んだ純粋で真剣な想い。ただそれを言葉にして恵に伝えただけなのだ。常日頃から犬猿の仲だったわけでもなく、いやむしろ良好な方だったと言えるだろう。互いに中学生となり、そう言う思いが在ったとして誰が責められようか。勿論彼自身の為人ひととなりは我が家を含めた皆が知っている。気弱な部分が無いとは言わないが、他人を思いやれるからこそ、その優しさが時として気弱に見えるだけなのだと分かっている。手先が器用で、真面目。押しは弱いが芯は強い。打たれ強くて、努力家で……。上げればきりがない程に、良いところが言えてしまう。そんな彼を恵自身も嫌ってなど居るはずもなかったのだが――。


 ――まだ彼女めぐみの女性としてのぶぶんは癒えては居なかった。


 佐知の話で覚えた『男』に対する価値観が『嫌悪』となって彼女の心の奥深くに、突き刺さってしまっているのだ。いくら表面上で普通に相対することが出来ていたとしても、深層心理の奥底で、男が『そう言う目』で見てくる。生き物としての認識が、彼女に『呪い』の様に積み重なって行き、そのギャップに苦しんでいる最中で、幼馴染でも有る竜太からの告白を受け、何とか抑えていた差異を埋め切られなくなって、彼女の心がしてしまったんだろう。


 竜太の家族全員が、父の前で床に頭を擦り付け「申し訳ない!」「謝って済む問題じゃないけれど!」「ごめんなさい!」を繰り返している。母が「そんなことはしなくて良い! お父さん!」と大声で父の肩を掴んでいると、不意に目を開いた父が言う。


「……今は、そっとしておきたい」


 静かに。小さく、まるでこぼれ落ちるように放ったその言葉に、その場の誰もが言い返す言葉を見つけられず、静まり返ってしまう。


 そう言った父が立ち上がると、見上げて俺はハッとする。覇気なく薄ぼんやりとした瞳には何も映っておらず、生気みなぎる黒い肌は見る影なく、炭色に見える。しぼんで縮んだ体躯は見窄みすぼららしくて、物悲しかった。


「……おい、何るんだよ!」


 何故、そうなったのかは分からない。いや、間違いなくそんな父を見たくなかったのだろう。俺はそう言って父に掴みかかると、勢いに任せて握り込んだ右の拳を、微焼ぼやけた彼の頬に叩き込む。


「なんであんたがしぼむんだよ! 娘がんだぞ! 喜べよバカタレが!」

「な、何を――」

「康太……」


 正直、意味の分からない事を口走っていたのは自覚していた。だが、そんな事より。何より、腑抜けた父を見ていられなかった。何時も。どんな事が起きたって。豪快に笑い飛ばしながら「あははは! 俺に任せろ!」と言っていたんだ。……確かに。確かに今回の件はどこにも悪い奴が居ないし、ただタイミングが悪かったとしか言いようがないけれど。……その弱い姿をまだ見たくはなかったんだ。


 いきなりの事に呆然と、ソファに倒れながら見上げる父。母や竜太達はそれこそ目を点にして、只々成り行きを見守っている。


「なんだ?! まだ殴られたりねぇ――!」

 俺の剣幕に彼は何かを感じたのか、一瞬覗き込んだ目に、メラメラと何かが燃え上がるのが見えた。


「……ふっ、クハハハ! まだまだ息子程度に負けるわけ無いだろがぁ!」


 感情回路がどこにどう繋がったのか。……いや、まぁ間違いなく脳筋回路に直結していたんだろう。やおら立ち上がり、赤黒くなった笑顔でこちらを睨みつけてきた親父と、取っ組み合いになった結果、ベッドに氷枕とアイスバッグで顔を半ば固定され、階下で何やら騒ぐ声が聞こえて意識が戻る。


「……ふぐぉぉ、痛ぇ」


 起き上がろうとして、体中の骨や筋肉がメキメキと嫌な音を立てる。片目も開かず、思わず出した悲鳴ですら、口中が痛くてもんどり打っていると「動いちゃ駄目よ」と母の声。


「……もうちょっとで救急車呼ぼうかと思ったわ」


 ……いや、今呼んでくれても構わないほど痛いですよ母上。


「……恵の事だけど。とりあえず今は様子を見ようって決めたわ。先ずはあの子自身に落ち着いてもらわないといけないから。大丈夫、部屋には私がから」


 動いてズレたアイスバッグを戻しながら、ゆっくり落ち着いた声音でそう話してくる母。視線は合わないが、目元を見れば揺れているのがすぐに分かる。……あぁ、やはり母もまだ辛いんだなとゆっくり閉じた瞼で、動く光をぼうっと感じていると、不意にその言葉が投げかけられる。


「ありがとね」


 部屋の扉が閉じる瞬間、小さく聴こえた。


 ――どういたしまして。



◇  ◇  ◇  ◇


 その日から一週間、父が職場に戻ってからも母は、開かずの間になった恵の部屋の前で語り、時に何も言わず。ただ、いつものような口調で。食事の用意だけは欠かさず続けた結果、唐突に彼女がリビングに現れた。


「……お母さん、お風呂、入る」


 深夜、または俺達の居ない日中、彼女は用を足し、シャワーだって浴びていた。故に母は何時だって彼女の服は洗濯して洗面に置いていたし、夜食にとテーブルにお菓子もたくさん並べていた。それが減るたび機嫌を良くし、俺への辛辣な発言もたまに減っては居た。……が、顔を直接会わせるのは、あの日以来。


「へ? ……あ、めぐ――」


 リビングで見ても居ないドラマを垂れ流し、ソファに座ってぼうっとしていた母がその声に振り返る。流石に一週間程度顔を見なかっただけだ、そこまで急激な変化が、彼女に起きているわけでもない。……が、目の下には薄っすらと隈が見え、ドライヤーを使わず髪を乾かしていたからなのか、少し艶が足りていないように感じ、全体的に『疲れている』様に見えた。


「お、俺が準備してくるよ」


 首をひねったまま、ぼろぼろと涙を流す母を見て、思わず俺が答えて立ち上がると、彼女は一瞬肩を跳ね「……ん」と小さく頷いた。



 季節が進み、底冷えと朝霜が消えた頃、彼女は家の中では自由に行動できるほどに回復していた。


 ただ――家人以外と話すことはまだ出来ず、自身もそれに苦しんでいる様子で、母に心配しなくて大丈夫と言われても、辛い表情は隠しきれない。有紀や佐知を一度家に呼ぶかと聞いてみたが、彼女たちが家のベルを鳴らした途端、妹は吐き気を催し、無理強いさせる必要はないと部屋へと戻した。


「……そんなに辛い事になってしまっていたなんて」


 佐知は、恵の様子を聞き、自分を責めようとする。全力で俺や母と有紀でそこは違うと説得したが、納得までは出来ないようで、少し考え込んでしまっていた。


「さっちゃん、お願いだから自分を責めるなんて事は、絶対しないで頂戴。……確かにあの娘にとって、ショッキングな事だったけれど、一番の被害者は貴女なんだからね。貴女がその事で誰に責められる事なんて、天地がひっくり返っても、私や、私達『家族』が絶対にさせないんだから!」


 俯く佐知を抱きしめ、背を擦りながら母がはっきりとした口調でそう告げる。俺や、有紀もそれを見て同時に頷き「そうだ」と答え「……ありがとう、皆」と佐知は少し潤んだ瞳で答えた。



 山間のこの街にも春の便りが届き始め、日中の日差しに陽気を感じ始めた頃、恵達は佐知、有紀、母親軍団でSNSのグループチャットを作っていた。初めは「うん」や「はい」程度だった恵の発言も、何時しか普段と変わりない発言になり、何故か主に俺や健二の愚痴が書かれていると聴いた時は解せん! と突っ込みたくなった。


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