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1-1
――新しい朝が始まる。
――冬の雪解けと共に、新芽がその暗い地中から芽吹くように。
――積み重ねた記憶は、やがて思い出となるように。
――そこには光が有り……音が溢れていた。
季節は巡り、この間までの雪舞う寒さはどこへ行ったのかと思うほど、陽射しの暖かさを感じられるようになり始めた四月。山間のこの街にも、チラホラと桜の開花が聞こえるようになった頃、最も忙しい日を迎えている彼女の姿があった。
……ふぅ~。これで、この会社へのデータベースは完了っと。次の派遣先のデータシート――。
駅前にある少し大きめなテナントビル。その三階に彼女、
そんな小さなオフィスで橘優莉は所謂、障害者雇用枠として、入力業務を同僚の
『ねぇ、優莉ちゃん』
優莉がファイルを整理しながら、次の入力をしようと目線を上げた時、対面に座った児島が手を振り、自分を呼んでいるのに気がつく。『?』と疑問符の表情で彼女が見返すと、そのまま児島は少しニコッと微笑んで、
『最近、ブログの彼とはどうなの?』
『……えっ?!』
そのあまりに唐突な話に、優莉は手に持ったファイルを机に落とし、キーボードが意味不明な文字を叩きまくる。はたとそれに気づいて、慌ててファイルを持ち上げてから、一旦画面を凝視した後(……危なかったぁ~。変なキーを押してなかった)と一息つくと、向かいの児島は続けて『アハハ、大丈夫ぅ? ってかその慌て方、何かあった?』とくぐもった声で笑いながら話を続ける。
この事務所は小さい、そして机は所長の分も込みで五つ。……だから当然、そんな話をすればすぐに回りも気づくのだが、現状このオフィスには橘優莉と児島早苗の二人しか居なかった。その為、二人がどんなに騒ごうと、物音しかせず、話し声らしきものは実はしていない。
――児島早苗もまた
『もう! 何言ってるんですか。彼とは別にそんな関係じゃないし、大体佐藤君はまだ高校生ですよ』
『……佐藤君って言うんだ彼』
優莉がそう言いながら、パソコンに打ち込まれた変な文字列を、確認しながら消して行く作業を必死に行っているにも関わらず、早苗は変わらずニンマリと口角を上げながら、優莉のほんのり赤くなった頬を眺めて思う。
優莉ちゃん、やっぱり……ううん、かなり変わったわね。去年の今頃だったか、彼女がこっちに異動になったのは。その頃の彼女はこんな風に話しても、愛想笑いの受け答えしかなくて、ずっと壁を感じてたけど……。
『ブログ、始めて良かったね』
『……え? ナニカ言いました?』
『顔、赤くなってるって』
『えぇ?!』
『じゃあ、お先に失礼します』
「はい、ご苦労さまぁ。また明日ぁ」
「おつかれっすぅ!」
時刻にして既に六時を廻った頃、営業から戻った
――けど。
――それも今は少しずつ。
そう思えるようになったのは、彼女や、彼のお陰だろう。
ずっと――。
ずっと、私は心に鍵を掛けていた。お陰で心は冷え、氷のようになってしまい、寒くて辛くて、だけどどこにも手は伸ばせなくて……。
◇ ◇ ◇ ◇
「検査の結果、お嬢さんの症状は恐らく『
それは小学校で体育の授業中だった。兆候は有ったのだと思うが、小さかった私にそんなモノは判らなかった。寝ている時の突然の耳鳴りや偏頭痛、目がぼやけたりなど、大人になった今考えれば、それがそうだと理解は出来るが。当時の私には無理だった。ドッジボールのボールを避けきれず、右肩に直撃。思わず転んで肘を擦りむいた。普段ならそれで起き上がって、保健室で消毒してもらえば終わるはずだったのに……。私はそのまま意識を手放してしまった。
混濁し瞼が落ちていく中、慌てて駆け寄る先生やクラスメイト。何が起きたのか理解が追いつかず、ただただゆっくりと薄れていく意識の中。
――暗いよ! 怖いよ! 誰か! 先生! みんな! 助け――
次に目が冷めた時、全てが変わってしまっていた。
寝ても覚めても耳の奥でゴウゴウと嫌な音が響き、周りの音が殆ど聞こえない。お母さんが耳元で話しかけてくれるけど、それすらナニカの膜を挟んでいるようで、最初は水が入っているのかと思った。けれど、綿棒でいくら擦っても何も取れることはなく、擦り過ぎて傷が付き、血が滲んだ時にはもう、涙が溢れて止まらなかった。
◇◇◇◇
「おかえり! 橘さん」
「……ただいま」
数カ月後、学校へと戻った私の耳には、当時の最新式の補聴器が付いていた。見た目には小さく、髪を伸ばして耳を隠せば見えることはない。……が、それでもやはり皆の声は少し聞き取りにくく、徐々に輪の端からも外れ、何時しか遠巻きにその輪を見るだけへとなっていく。
「なんか橘さん、性格変わってない?」
「暗くなったと言うか、話しても無視される時とかある」
「なんだか――」
友達だった者がそんな言葉を言えばどうなるか、無邪気な彼らは知る由もない。それはすぐに悪意へと変わり、感情はひっくり返ってしまうのだ。仲の良かったものが話をしなくなり、私の周りの机に距離が生まれる。当然のように無視され、居ないものとして扱われ始めると、耳が聞こえにくい私は悲惨な状況に陥る。人間、目は後ろについて居ないのだ。いくら音を出しながら近づいたと言い訳されようと、聴こえない私にとって、それは唯の不意打ちになってしまう。
「痛い!」
「声かけたじゃんか、見せてくれってさ!」
無理矢理に引き剥がされた補聴器。それを手に笑うクラスメイトの男。耳を抑え、蹲っていると「つまんねぇな」と補聴器が床に叩きつけられる。
――もう、私の居場所は失くなってしまっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
母に連れられ、聾唖学校へと編入した頃、私の心はもう冷え始めていた。基本的に笑うことがなくなり、視線はずっと俯き加減なまま。
――重度のストレスにより病状が進行し、殆ど『音』が聴こえなくなってしまっていた。
『橘さん、これからは私達と一緒にお勉強しましょう――』
聾学校の静かな職員室で、紹介された先生が私の眼の前で身振り手振りで『それ』を使う。思わず私は目をつむり、母のスカートをぎゅっと掴んで俯くと「すいません、娘はまだ、手話に慣れていなくて……」と頭を下げ、先生が「いきなりでびっくりさせちゃったかな。でも――」と話すがそれは上手く聞き取れず、私の心はまた冷たくなって行く。
――どうして。
……どうして私の耳は聞こえないの?!
神様、お願いします。もう一度、もう一度、私の耳を治して下さい!
何度も何度も願ったが、その度私の耳に響くのは、ただゴウゴウという雑音だけだった。
◇ ◇ ◇ ◇
今も耳に聴こえるこの音は、ある意味で唯の雑音に過ぎないけれど、これを『潮騒』と教えてくれたのは、母だった。私がずっと俯いて暮らし、笑顔をなくしたあの日から、母は私の身の回りに何時も気を使ってくれていた。気分転換にと陽の当たる公園に、動物園など、色々な場所に連れて行ってくれ、色んなことを教えてくれた。そんな中、夏の終わりのとある日に、連れて行ってくれたあの海岸で、母が私に言ってくれたのだ。
――優ちゃんに聴こえるその音は、この『波の音』に似てるかもね。この音は『潮騒』と言って……。
そう、あの日から。
私が泣きながら伝えた耳障りなこの音を、母はずっと探してくれたのだ。私も
人の少なくなった夕暮れ近い海岸で、私は大きな声をあげて泣きながら「おかあさん!」と抱きついていた。
揺れる電車のシートに座り、自宅の駅までの短い間にそんな思い出がふと心に湧いてきて、胸の辺りが少し暖かくなった気がして、心の中で一言呟いた。
――ありがとう。
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