六月十七日火曜日①

 翌日には、芹澤さんがきた。

 入室したときから中島さんと一緒だった。ときおりふたりで会話を交わしながらデッサンにとり組んでいた。斜め前あたりに座っていたぼくや嘉勢と話すこともなく、すれ違ったときにはやはりいないかのように通りすぎた。

 ぼくは何枚目かの紫陽花に挑戦しながら、様子だけでも窺ってみた。とくに教室と変わるわけではない。嘉勢に対する嫌味をいうことも、もちろんなかった。ただほんのちょっと元気がないようではあった。

 下校時間のすこし前、芹澤さんは美術準備室の手前で立ちどまった。イーゼルを片づけにいくところだった。

 ぼくも同じくイーゼルを抱えていたので、思わず声をかけた。

「しまっておくけど」

「あ、うん。ありがとう」

 ふいの対応だからか声色は明るい。気の抜けた表情は素朴にかわいく思える。梅雨の晴れ間の夕焼けに照らされ、豊かな髪がかすかにきらめいて見えた。

 ぼくが空いた片手でイーゼルを受けとると、芹澤さんは無言で立ち去る。鞄を肩にかけ、入り口近くで待っていた中島さんのもとへ足早に向かう。長身の中島さんと小柄な芹澤さんが並ぶと、年の離れた姉妹のようだった。

 なんだか、むなしくなってきた。

 あの子に人の首が切れるわけがない。ぼくも萩尾もひどく滑稽だ。それどころか、自分がふざけた無神経なやつに思えてくる。

 ため息をつきつつ、美術準備室の奥へと向かう。

 イーゼルを指定位置に置き、出入り口をふり返ると、小柄な影が立っていた。芹澤さんが戻ってきたのだろうか。電気をつけずに入ったので室内は薄暗く、美術室からさす逆光で瞬時には誰だか判断できない。

 蛍光灯がともる。

 影は竹村悠くんだった。耳とうなじを隠す、まっすぐで柔らかな長い黒髪。もの憂さの漂う切れ長の眼。尖った鼻。小さな顎。開襟シャツから伸びる首や腕は細く生白い。

「竹村くんも、もう帰るの?」

「うん。片づけるとこ」

 まだ変声期前の甲高い声音で、竹村くんは答える。

 ぼくは彼の隣に立つ。ぼくのほうが、すこしだけ背が高い。

 竹村くんとは、いつか話してみたいと思っていた。美術部の同期でただひとりの同性で、落ち着いた物腰や美術に熱中する姿勢には感心させられていた。

 竹村くんは出入り口から向かいの棚に置かれた段ボール箱を開ける。彼の影でよく見えないけれど、大きめの刷毛やマスキングテープ、エアブラシやハンドローラー、さらには水鉄砲まで、いまいち統一性のない種類の道具がごちゃごちゃと入っている。

「なんの箱なの?」

「三枝先生の私物。使っていいらしいから」

「竹村くん、水彩だったよね。なに描いてたっけ」

「そこの中庭」

 竹村くんはたったひとつの窓を指さす。曇りガラスなので見えないけれど、さきには第一校舎と第二校舎の間の庭がある。

 きれいに刈りこまれた芝生を、小ぶりな生け垣が囲んでいて、それが南北につづく。美術室付近には、木でできたベンチと机、石のモニュメント、小さな池まである。いまいち殺伐とした校内では和やかさを感じる場所だ。天気のいい日などは出てみると気持ちよさそうだけれど、生徒がいるところを見たことはない。

「これなんか使えるのかな」

 ぼくは段ボール箱の中から、小型で透明な水鉄砲を手にとってみる。小学生のころに遊んだ、懐かしさを感じさせる代物だ。

 竹村くんはまじめ腐った顔で答える。

「雨の表現とか、かな」

「前衛的だね。想像できないけど」

「まあ、今回はマステ借りただけなんだけど」

 竹村くんは胸ポケットからテープをとり出して、段ボールに収める。

「完成したら見せてよ」

「いいよ」

「竹村くん、毎朝きてるけど、むかしから美術やってるの?」

 小さく首をふる竹村くん。

「中学に入ってから。なんか、楽しくなっちゃって。こんなに自由にやっていいんだもの。運動部じゃこうはいかないよ」

「だよね。三枝先生の裁量なのかな」

「わかんないけど」

 ぼくたちは美術準備室を出る。竹村くんが持っていた鍵で施錠する。

 美術室にはぼくたちしか残っていない。机は平常授業のための位置に戻してある。窓の施錠を確認し、廊下に出て扉の鍵を閉めた。

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