月鬼の子

まきむら 唯人

月鬼の子




 奇妙な視線を感じ、一樹は足を止めた。

 ふりむいた先には幾つもの瓦礫があり、赤に染め上げられている。

 誰もいない。それは判っていた。幼い頃より一族によって鍛え上げられた身体、研ぎ澄まされた精神は生者のみならず亡者の気配すらも感じ取れるのだから。


 太陽は無く、赤い月が支配している。喪亡月の狭間そうぼうげつのはざまを煌々と照らす血の色は、時折強烈な光を発し辺りを染め変える。それはまるで日が沈む直前の揺らぎに似ていた。閉ざされた空間では時間の概念が狂いやすく、また、ないというのに。


 この世界はあらゆるものを以てして、侵入者を惑わそうと画策している。


「ぼうっとしてどうしたの」


 涼しい声が一樹の意識を呼び戻した。


「俺は正気だ」


 すぐ側に立っていた神崎かんざきを見る。

 彼の色素の薄い髪は喪亡月そうぼうげつの光で染まり、真っ赤だ。

 乱暴に腕を払われた神崎は困った風に両手を上げたが、瞳には何の表情も映してはいなかった。


「そう」 


 瞬間的に構えを取ろうとした身体は一樹の本能か。

 神崎の眼が赤く光ったかに思えたのだ。

 ほんの一瞬のこととはいえたじろいだ。一樹は睨み上げたが、肌をゆっくりと辿るように外された視線は、すでに一樹に関心を示してはいなかった。


「なら良かった」


 神崎の手にある銃が、淡い光を帯びる手首へと吸い込まれる。紋様は刺青のようでいて、だが一樹の眼をもってさえしても僅かに読み取れる彩度だ。


「……本当にこっちで合っているのかよ。お前の探知能力とやらにこっちは頼るしかないからな」


 その輝きも、あっという間に肌に溶け入る。霊力に秀でた者に現れるという紋様は、人ならざるモノを消滅させる武器を所有する証でもある。


「勿論合ってる。さっきも見たでしょ、俺の力」


 神崎はしれっと言った。

 一樹はようやく重い腰を上げる。前を向き歩き出した彼の後を追った。


「力の程と術者本人の性質は別だろ」


 もう何時間もこうして、神崎に言われるまま歩いていた。体感では数日にも思えるのは、喪亡月の狭間では時間や方向など、あらゆる感覚が狂いやすいからなのだろう。


 夕焼け色の荒廃した街並み、変わらない風景の中を制服を着た少年が二人、出口を求め彷徨っている。



 二人が今歩いているのは現世と常世の中間地点にあたる喪亡月の狭間と呼ばれる異空間だった。


 科学では説明のつかない未知の存在。物語の中に登場する魑魅魍魎をはじめ、生者の悪しき心により生み出される負の塊『月鬼げっき』と呼ばれる異形が生息しており、それら討伐を担う退魔師を一樹達は生業としているのである。


 一樹が生を受けた橘家たちばなけも脈々と続く退魔師家系だ。現在では政府機関『荊棘けいきょく』と提携を結び協力体制を敷くに至る。

 歴史が動く激動の時。修練と称して、各家系から若い芽が荊棘へと投入されはじめていた。


 高校に通いながら退魔師の仕事をこなす一樹、そして……


「へぇ!」


 振り返り非常に愉しそうな表情を浮かべる神崎もまた、その一人だ。


「何が「へぇ」だ。やっぱりわざと敵がいる方向を選んでるな、お前!」

「いやぁ、出会って数時間でそんなこと言われたのハジメテ! って思ってね」


 一樹はうなだれ、足を止めた。


「部隊長らとはぐれたのも、じゃないだろうな?」

「俺が何を思って何をしたとしても、今の状態に不服を言うのは違うと思うよ」


 意味を図りかね、一樹は顔を上げた。

 思ったよりも神崎は近くに立っていたらしい。


「だって、その場に留まる選択をしたのはキミでしょ」


 突き放すような物言いで、口元だけは笑みを装っている。カッと膨れ上がった怒りを、一樹は息を吐き出すことでなんとか堪えた。


 今日は一樹の荊棘初任務日だった。

 チームに同年代がいるらしいと、一族の者からは「心丈夫ですね!」などと送り出されたが、むしろ今は不安と不穏に駆り立てられている始末。


 神崎の初対面の印象は悪かった。上司にあたる荊棘の大人に対しても無遠慮で奔放な態度を取っており、暇さえあればスマートフォンか鏡を見ながら髪をいじっている。わかりやすいイケメンで、おまけに一樹よりも背が高い。

 しかし固有の武器を所有し、身のこなしなど各種身体能力が高い事がすぐ窺えた。先ほどから披露している探査能力も素晴らしく精度が良く、大人達にも引けを取らない。


 プラマイゼロならいい。

 特殊な職業だ、橘の家にも変わり者の一人や二人はいる。本人の性格はともかく、仕事をキチンとしてくれれば文句はなかった。


 ところが現状、神崎の指し示す目標は転々とした。行くところ向かうところ、味方と合流どころか必ず敵がうようよしている。時間の経過と共に増す危機感、楽天的な一樹の心にも流石に不審感が芽生えた。


――こいつ、ヤベえ!


 高揚した様子で愛機を乱射している姿はどこぞの戦闘狂だ。挙句、少し立ち止まっていただけで銃を突きつけられる。


「お前は鬼教官か何かか……あ~そうだろうよ。持ち込むなっつースマホを狭間に持ち込んでピッポッパし出したお前を何となく待ってたのは俺だよ。あ~俺が悪うございました!」

「あ、やっぱりもう月鬼げっきに取り込まれちゃった? イッとくー?」

「俺は正気だっつってんだろ!」


 喪亡月の狭間は能力者といえど、気を抜けばあっという間に闇に落ちる。神崎の言った「取り込まれる」とは言葉通りだ。影の形をした異形『月鬼』は人間の悪しき気が具現化したモノ。非戦闘時であっても心の隙間を突かれればソレは出現し、同化されてしまうことがある。そうなれば、もう元に戻すのは難しい。


「お前の遊びに付き合うのはごめんなんだよ。もう任務は終わってたし、俺は早く仲間と合流してサッサと喪亡月の狭間そうぼうげつのはざまからおさらばしたい」


 憤慨する一樹とは対照的に、神崎はニヤリとしている。

 手にしていた銃を指でくるりと回す様を目にした所で、一樹はようやくその意図を察した。

 形容のし難い違和感。

 薄っすらとした気配が一樹の背筋を這い上がり、危機を伝える。  

 神崎はとんだトラブルメーカーだ。

 だが鋭敏であるという事もまた、彼の中の際立つ部分であると認めるしかないのだろう。


「ちゃんと探してたんだよ? ほら、ヤツらが隠れて待ち構えてるってのがイイ証拠でしょ」


 指を通した銃はそのままに。神崎は胸の前で両手を掬い上げた。掌が光彩を放っている。見つめる一樹の前で、それらは強く瞬き二人の頭上へと打ち上がった。

 瞬きがキラキラと二人とその一帯に降り注ぐ。

 すると辺りは一変した。

 喪亡の月の赤に照らされた大地が蠢く。

 一樹は眼だけを動かし、素早く状況を確認した。


「冗談だろ」


 一樹は息を呑んだ。

 今まで何も無かった場所に、まるで空気から溶け出すように姿形を持ってゆっくりとそれが現れはじめた。

 血の闇が満ちる狭間、二人が立つ場所だけが光に浮かび上がっている。神崎の行使した何らかの術式は、生者とそうでないモノとを暴いたのだ。


「生体反応少ないと思った」


 あっけらかんと対峙した神崎とは対照的に、一樹の足が一歩後ずさった。


「……クソがっ!」


 二人の前方には死体の山があった。胸を貫かれたと思しき者、上下に身体が切り離されている者もいる。恰好からその誰もが恐らくと、数時間前に行動を共にしていた荊棘の術者達だと判った。


「全員か?」

「ヨユーじゃーん。他人の心配してる暇あるんだ」


 神崎はギラついた双眸を一樹に向けた。


「は?」

「じゃ、そっちはそっちでヤッちゃってよ」


 神崎はもう走り出していた。

 一瞬にして全身に気を巡らせ身体能力を高める技能。月夜に舞う姿は見惚れるほどに軽やかだ。

 死体の側で蠢いていた黒いモノは神崎を敵とみなしたのだろう。影ぼうしのように伸び上がり牙をむく。

 黒い塊、人型の月鬼だ。

 周囲にいた数体も獲物を見上げ狂声を響かせる。


「神崎!」


 空中で体勢を変えるのは熟練者であっても至難の業だ。月鬼に触れられれば、その箇所から侵され生体はダメージを受けてしまう。


「だから心配なんてしなくていいって」


 その時、にわかには信じ難い現象が起きた。

 空中に手をついた神崎の身がくるりと回転する。


「光?」


 一樹の目の前で、それは開かれた。

 喪亡月の狭間にあって光とは、赤だ。

 しかし今神崎から放たれた光は真白。一瞬だったが、それは焼かれてしまうほどに鋭いものだった。


『アアアアアァァッっ!』


 光は影を侵食していく。耳を突く哭声は月鬼が発しているのか。

 その身を焼かれながらも、光りから逃れようと月鬼の群れは激しく波立っていた。

 しかし、決してその場から逃れることは出来ない。


「いい子だから――」


 すでに月鬼の側に降り立っていた神崎が右手を差し出している。手首に発現していた固有の刺青は、今やはっきりとした輪郭をもって、その存在を一樹に示していた。


じっとしてなよ拘束


 この瞬間、一樹は悟った。

 どうして月鬼がその場に留まるしかなかったのか。

 今、眼前で起きている事象は神崎による言霊の力だ。


「散れよッ! アッハハ!」


 神崎の両手には二丁に分かたれた銃が光り輝く。

 身動きの取れぬまま、蜂の巣に撃ちぬかれた月鬼の群れは、硝煙に似た白い湯気を上げながら灰となっていった。


「……略式詠歌りゃくしきえいか


 一樹は驚愕していた。

 圧倒されたのではない。神崎が行使した能力を目の当たりにしたからだ。

 元来退魔師が使用する術式は言霊に則っている。詩行と呼ばれ、一語一句、正確に音読することが求められるのだ。大きな術になると、詩行は数行にも連なる。だが稀に、詩行を簡略化して術式を発動させることの出来る者が存在する。

 退魔師家系の名門でも、数十年に一人現れるかどうか。

 そんな傑出けっしゅつした才能を神崎は持っていたのだ。


「さぁ、キミはどうかな?」


 その時すでに神崎は次の獲物を見据えていた。

 一樹の背後を射抜く眼は、死地にあっても怯まぬ強さを湛えている。


「チッ!」


 背筋が粟立つよりも先に、身体が反応した。

 一樹は背後にいた月鬼からの一撃を交わし、手をついて身を翻す。


「来い!」


 日々体術の鍛錬を欠かすことはない。鍛え上げられた身に纏わせた風の力は、一樹の武器である肉体の強化と対霊への物理攻撃を可能にする。

 地に降り立ち、構えを取ったのは一瞬。


「『風早引き裂け』!」


 月鬼の懐に入った一樹は右腕をくの字に折り曲げ、強烈な肘鉄をお見舞いした。続いて連撃を叩き込む。


『アアアアアァァッっ!』


 気の流れによって強化された身体のステータスは、もはや人間のものでは無い。

 幾度と浴びせた攻撃は、異形に確かなダメージを蓄積させる。

 動きの鈍くなった月鬼の身体は食らった箇所の内側から弾け、泥のような肉塊を飛び散らせはじめた。


「これで――終わりだっ!」


 獲物を刈り取る鎌は、より鋭さを増す。

 最後と言わんばかりに放った後ろ回し上段蹴りが月鬼にトドメを刺した。


「っしゃあ!」


 激しい衝撃音と共に瓦礫に突っ込んだ月鬼はしばらく微動していたが、やがてぴくりとも動かなくなる。

 音もなく灰と崩れ去った様子を見て、ようやく一樹は警戒を解いた。


「キミも略式詠歌の使い手とはね。俺の勘は当たるんだけどなぁ~」


 神崎は顎に拳を当てている。

 ずるずると何かを引きずりながら近寄ってきたので、一樹は怪訝な表情を浮かべた。


「死ななかったね、予想外」

「お前はもうちょっと言葉を選べよ。ところで何だ? それ」


「一応生存者? かな」





  

 政府特殊機関超常異能課『荊棘けいきょく』。

 長きに渡り、人の世の影で異常現象を静めてきた退魔師家系から派生した組織が大きくなり、やがて形となったのが荊棘の始まりとされている。

 表社会へと進出したものの、代々続く血脈のみで構成されている退魔の家系とは今のなお、目に見えぬ隔たりが存在していた。


 それぞれが独自で機能し、互いに干渉しない。表立っての争いはなく、両者の関係はこのまま続くかと思われた。しかし、近年増え続ける人ならざるモノからの現世への影響を重く見たある青年が声を挙げた。


 ――白き水に沈みし魂、すべてを見通す水鏡、血脈ではなくその才を以て屈服せし者。


 誰が詠ったか。荊棘の歴史の中、思いがけず出現した特異な男を組織は受け入れた。彼の強き意志に基づいた邁進は凄まじく、今や荊棘と退魔師家系を繋ぐ中心人物となったのである。


「沢木補佐官に報告! 未だ謎の妨害は続いており、こちらからの操作は不能状態とのことです」

「やはりただの電波障害ではなさそうですね」


 音彦は眉をひそめた。眼鏡の奥の瞳は、壁面に設置された電子画面の映像を静かに見つめている。

 上等補佐官兼室長である音彦は、荊棘で退魔師家系との合同任務を取り仕切る立場だ。

 彼は今、都市地下に秘密裏に創られた荊棘本部内通信室に缶詰状態になっていた。一昨日に、喪亡月の狭間内で想定外の事故が起こったためだ。

 狭間に潜っていたチームからの連絡が途絶え、結果二名の死者を出す惨事となった。

 荊棘と退魔師家系との連携任務中、つまり試験的な試みの最中だったこともあり、事実確認は急務。だが悪夢覚めやらぬまま、忙しい音彦を嘲笑うかのように再び事は起こった。

 本日正午から喪亡月の狭間内に突入したチームとの連絡が途絶え、もう一時間になる。


「はい。一昨日の現象と酷似します。呼び掛けは続けていますが応答もありません」

 通信員の言葉通り、音彦の手元のタブレットにも動きは無かった。リアルタイムで更新される筈のパラメータは不自然に変化がなく、音声もノイズが聞こえるだけだ。

「呼び掛けを続けて下さい」

「了解しました」


 喪亡月の狭間では磁場の影響で機器全般が不安定にはなるが、完全沈黙は稀だ。こうも続くと何らかの力が作用しているのではないかと疑いたくもなる。

 音彦は端末を操作し、一昨日のデータをさらった。画面上に件の任務に参加した六名の詳細が映し出される。

 帰らぬ人となってしまった二人は、どちらもベテランの隊員だ。技能的な部分は勿論、人格やメンタル面にも問題はなかった。


 喪亡月の狭間の恐ろしさは承知している筈。調査任務という名目で敢えて奥深くに行く事も考えにくい。だが発見時、チームがいたのは予定地点よりもかなり奥、深部にあたる澱みの中だった。


 一体彼らの身に何が起こったのか。

 そして電波障害に加えて音彦の頭を悩ませているのは、生存者全員に不可解な記憶障害が起こっていることだった。

 死亡者に何が起こったのかを、誰も覚えていなかったのである。 

 

「記憶障害についての進歩は――」

「治療班、解析班共に、未だ目新しい発見は無いとの報告です」

「両チームに共通項はあるのか」


 それまで黙って話を聞いていた櫂が言った。

 音彦から端末を受け取り、画面に触れる。隊員データがシャッフルされるように動き、照合結果が表示された。


「喪亡月の狭間の調査兼、アクティブな月鬼の殲滅という任務内容。チームの人数……」


 音彦が呟く。


「あとは、荊棘と外部者の比率か」


 後に続いた櫂の視線は、未だ端末に注がれている。


「はい。これまでも同じ編成で行われていたので、私は特に気に掛かる項目ではないと考えています」

「だが、何かが起こってしまっている。狭間の中は変化の連続だ。気の澱みが歪みを生んでいるのかもしれない」


 艶やかな赤毛を後ろで纏めている。野生の獣のような鋭い瞳を持つ櫂は、柔らかな雰囲気を持つ音彦とは対照的だ。階級は音彦よりも上にあたり、特例の荊棘員でもあった。


 音彦と櫂、二人の出会いは一年余り前に遡る。

 縁の力に導かれ、櫂は沢木家の運命に介入し、白き水に沈もうとする音彦ら兄妹を掬い上げた。

 すでに荊棘に関わっていた櫂がきっかけとなり、彼に救われた音彦もまた、退魔師となる意思を固めた。

 時に交錯する道もある。二人は各々の覚悟と信念を胸に、咎の暗闇と対峙している。 


「私が現場に向かいます。これ以上、犠牲者を出すわけには――」


 重い沈黙に耐え兼ねた音彦は、ついに声を上げた。


「賛成しかねる」


 櫂は表情を消した顔で、音彦の端末を操作している。


「この一連の作戦は外部退魔師家系と関係を深める意味もあるんだったな?」

「はい。ですから早急な対応をしなければなりません」

「トラブルが起こっている事は外部にも勿論把握されているだろう。良かれとそれらすべてを荊棘が行ったとして、向こうが良い顔をすると思うか?」


 櫂は肩を竦めた。


「えっ?」

「あちらさんの顔も立てておかないと、機嫌を損ねるかもしれないぞ」

「どういう意味なのでしょうか?」


 ふっと表情を緩めた櫂を音彦は見上げた。

 眼鏡越しにでも判る、美しいラインを描くアーモンドアイをしばたたかせる。


「代々続く家系ってやつは、お前が思う以上に凝り固まった連中が多いんだ」


 櫂は引き続き画面をタップする。彼に促されるまま音彦は端末に視線を落とした。


「橘一樹、神崎友也は外部者だな。この二人の固有情報が極端に少ないのは何故だ」

「彼らは退魔師証をまだ取得していません。高校生でしたが、各々の家系からのたっての希望もあり今回の合同任務に参加を許可した、という経緯になります。しかし、やはり許可するべきではありませんでした」

「こちら側の層は厚くした上で行かせたのは懸命な判断だ。……気にするなとは言えないが、お前の立場も理解出来る」


 さりげない櫂の気遣いすらも、今の音彦には心苦しい。


「私の浅はかな考えが、取り返しのつかない事態を招いたのかもしれません……」

「まだそうと決まったわけじゃない。俺に一つ考えがある」


 櫂は何かを思いついたような顔をしていた。


 

 

 二人は未だ無音の世界にいる。

 一樹は足元に転がっている人間をじっと見つめていた。


「荊棘員か? それにしても、よく見つけたな」

「一応、まだ息はあるみたいだね」


 神崎が引きずってきたのは荊棘の黒いスーツを纏った男だった。

 同行していた荊棘員だろう。釈然とはしなかったものの、チームの人間とは今日顔を合わせたばかりだと一樹は思い直した。

 男の身体には月鬼から受けたであろう傷がいたる所にあり、今は気を失っているようだった。


ピピピピピッ


 一樹は石のように固まった。


 喪亡月の狭間。赤い月が支配し、人ならざるモノが闊歩する。

 何の力もない生者は成す術もなく命の灯を奪われ朽ち果てる。

 灰となり、舞う。


「……」


 無音の異空間に似つかわしくない電子音が鳴り響いたのだ。ぎょっとするのも致し方ない。

 しかし、『この場』をさして気にしていない男がいた。


「いやぁ、モテる男はつらいよね」


 ガンスピンよろしく華麗にスマートフォンを取り出した神崎はウィンク一つ。


「……出るなよ」


 喪亡月の狭間にスマートフォンを持ち込んでいたことは既知として、まさか出やがるとは思わなかった。というかココって電波が繋がるのか。神崎はともかく、通信会社のめざましい企業努力には素直な賛辞を贈った一樹だった。


「嫉妬心って醜いなー」

「イカれてんのか?」


 しかし神崎が眉を寄せたのは一樹のツッコミのせいではないようだった。

 一樹も耳をそばだてる。スピーカーから聞こえて来たのは、男の声だ。


「あれ、彼女の彼氏にバレちゃったのかな」


 神崎は呑気に首を傾げている。


『もしもし、聞えているのか? 神崎友也で間違いないか? こちらは荊棘だ』

「荊棘! もしもしっ!」


 うなだれていた一樹は、飛び上がらん勢いで神崎の腕ごとスマホを握り掴んだ。


 意志疎通の測りにくい相手と喪亡月の狭間にいる。オマケに怪我人まで抱えてしまった状態の中、何という絶好なタイミングなのだろう。一樹にとっては天から降ってわいた命綱かに思えた。


 通話先の男は荊棘の上官で、こちらの異常にすでに気付いていたらしく、どうにか連絡を取ろうとしていたらしい。


「まさか繋がるとは驚きだ」とは上官のもらした言葉だが、顔も知らぬ相手だというのに一樹は激しく同意し頷きを返していた。


『――現状は了解した。犠牲者の引き取りはこちらで急ぎ手配する。お前達は狭間からの脱出だけを考えてほしい。まず、荊棘チームの手首の確認を急げ。彼らは腕時計のような機器を身に付けている筈だ。それを操作すると、現世と狭間とを繋ぐゲートが開く』


 一樹ら一族は裂け目と呼んでいる。現世と喪亡月の狭間の境目の事だ。


 生者の負の感情によって開いてしまった綻び。それを修復したのが退魔師の始まりとも言われている。

 時代と共に生者の欲も強くなった。大きくなってしまった綻びからは魑魅魍魎や月鬼が顔を出し、表の世界を侵食しはじめた。

 古来より退魔師は裂け目を出入りし、両者間の補完に努めている。

 そこそこの力のある退魔師なら裂け目は見つけ出せるが、荊棘は科学の力でそれを成しえたのだろうか。


『ところで、生存者の話だが――』

「はい」


 横目に神崎を捉えつつ、一樹は応える。

 意外にも神崎は言われた通りに動いていた。物言わぬ亡骸から微妙に目を逸らす一樹と違い、何食わぬ表情で死体の中を行ったり来たりしている。


 一樹はスマホ番だ。


「まだ気を失ってます。怪我も酷くて、俺は治癒の力は持っていないんで……」


 などとしている内に神崎が戻って来た。道を開けるようにして一樹は神崎と距離を取る。

 彼の手には目的の腕時計のような物体が数本握られていた。


「あー荊棘さん? 残念なんだけどー、どれもぶっ壊れてるっぽい」

『四本全部か?』

「そう。面白いように腕千切れてたりだったから。まぁ、運が悪いと言うか、無いと言うか?」


 喪亡月の狭間は終始、赤い月の光で満ちている。ゆえに、存在するすべてが赤みがかってしまう。


 神崎の手にはべったりと黒い跡がついていた。

 月明りの下だと血は真っ黒に見えるんだよと、遠い昔に誰かが言っていた気がする。


「まだあるから大丈夫」

「えっ?」


 直面している状況も目の当たりにした死も、神崎にはまるで関係ないかのように思える。

 神崎は微笑んでいた。ほんとうに心からの笑顔に思えた。


『何を言っている? 四本すべて壊れているんだろう?』


 荊棘の上官が何かをしきり問っていた。だがこの時の一樹には不思議と遠い声に聞こえた。


「だからそんな顔しないでよ」

「!」


 しかし、邂逅もほんの一瞬のことだ。

 呆然と立ちすくんでいた一樹の目の前で、神崎は唯一の生存者からあっという間に腕時計を奪い取っていた。

 男は目覚めていた。

 距離を取り降り立ったその構えからは、隙が一切感じられない。

 膨らんだ殺気は、一樹の頬をヒリつかせる。


『おい、聞いているのか! 何があった? 応答しろ!』


 一樹の取り落としたスマートフォンを神崎は拾い上げ、通話を落とした。

 喪亡月の狭間は本来の静けさを取り戻したが、一樹の鼓動はよりいっそう激しくその胸を叩きはじめる。


「喪亡月の狭間に入ったのは俺達を入れて六人。数えた死体は四人分」

「じゃあ、こいつは一体誰だって言うんだよ!――」

「あまり俺の仕事を増やしてくれるんじゃないよ」


 神崎は目の前の男に冷ややかな視線を向けていた。

 奪った腕時計を操作し、裂け目を出現させる。


「なっ! おい、神崎!」

じゃあね拘束

 心に生まれた僅かな動揺は、術力の開きをより強くする。まともに見つめた神崎の瞳、その言霊に一樹の身は囚われ硬直した。



 一樹は空を見上げていた。

 無数の白き粒が瞬く漆黒の夜空。

 すると空は血を流したように塗り替わっていった。

 染まった空に点が浮かび上がっている。この空よりも赤い月。

 あれは喪亡の月だ。


 


「大丈夫ですか? しっかりして下さい!」


 肩を揺さぶられる感覚に息を詰める。ついで耳元で大きな声がしたので、一樹はぎょっとして目を開いた。 


「あ、えっと……?」

「気分は? 意識は混濁としていませんか?」


 すぐ側に見知らぬ青年が立っていた。黒いスーツは荊棘のものだ。


「あの、俺は――」

「橘一樹さん。私は今回の任務の責任者をしている沢木音彦と言います。貴方は数分前に喪亡月の狭間から現世へ戻ってきました」


 その表情は硬い。理知的なレンズの奥の瞳に責められているように感じて、一樹は眼を逸らした。 

 視界に入って来たのは見慣れない建物の壁面だった。見渡すと校舎の中庭のような造りをしていて、大きな吹き抜けが高く突き抜ける。天窓から降りる明るい光を見て、ようやく一樹は息をつくことが出来たのかもしれない。


「急かすような真似をして申し訳ありませんでした。話し掛けても、しばらく何の反応も返すことが無かったので焦ってしまって……」


 一樹は申し訳なさそうに肩を落としている音彦に視線を戻した。


「いえ、大丈夫です」

「狭間の影響は受けていないようだな」


 音彦の背後にもう一人青年が立っていた。声を聞いてすぐに、喪亡月の狭間の中で通話した相手だと判った。


 久野くの櫂と名乗った青年は現状と今後を端的に説明をし終えると、黙りこくってしまう。


「……っ」


 その理由が、判明した。

 突如として一樹らの前に、先ほど目にした裂け目が出現したのだ。

 一樹は右手で口を覆った。言葉を紡げなかった。

 目を開いた神崎は、呆然と立ち尽くす一樹に近寄り、ぽんと肩を叩いた。そのまま一樹の横を通り過ぎ、荊棘の青年二人の前に立つ。


「……生存者はどうした」


 櫂が言った。側では音彦が厳しい表情だ。神崎の反応を見ている。少なくとも一樹にはそう思えた。


「ざーんねん。死んじゃってたよ。だから俺だけ帰って来たの」


 神崎は笑った。

 それまで気圧されていた一樹は、全身に震えが走るのを感じた。怒りでも、恐怖でもない。溢れた感情は、くもっていた一樹の双眸に光を灯した。


「おいっ!」

「なに? 大きな声を出さないでよ。ここ、荊棘でしょ?」


 振り返った神崎の頬には、茶けた飛沫の跡があった。制服のブラウスの襟から胸元にかけ、広範囲にそれは飛び散っている。


「ああ、これそっちのだから返すね」


 もう必要ないという風に、神崎は例の腕時計を櫂に手渡す。その時に何かを小脇に抱え直したのを見て、一樹は顔をひきつらせた。

 櫂は神崎を見据えていたが、音彦も一樹と同様に制服のブレザーにくるまれたモノを凝視している。


「まぁ一応言っておくと、白狐うちのが喪亡月の狭間にのまれて悪さしたって所。そっちにも多少の迷惑は掛かったかもしれないけど、提携を結ぶってのはそういうことだと思うしね。でもちゃんとケツ拭きに来たんだから、それでいいんじゃん? これ以上の面倒はごめんなんだけど。ってことでー、帰っていい?」 

「結果が、それか?」


 先を促す櫂の眼差しに根負けしたのか、いやただ単に面倒くさくなったのだろう。  

 神崎は諦めたように溜息をついた。


「罪と罰の定義って、誰が決めるんだろうね。目には目を――これは白狐びゃっこの教訓みたいなものだから」 


 神崎の言葉に、櫂は僅かに顔をしかめた。


「だから証は持ち帰る。それに、喪亡月の狭間あそこにひとり置き去りはカワイソウでしょ」


 神崎は片手を上げて去った。一歩踏み出した音彦を、櫂が止める。

 首を振る櫂の眼差しは、未だ神崎の背を捉えていた。


「すべては狭間での出来事。よそ者は干渉出来ない、するなと奴は言いたいんだろう」

「しかし……」

「俺達が相手にするべきはあいつ個人じゃない。そのずっと先にある」


 音彦は口を噤んだ。

 稀に見る白狐の組織としての残酷な一面は、始まったばかりの荊棘と退魔家系の今後を憂うに十分だった。




 ひとりの男がふらついた足取りで、赤く染まる世界を歩いている。

 男の片腕は肘から下が無く、撃ち千切られた患所は今なお血の涙を流し続けている。

 落ちる雫は亡月の地に黒く跡を残し、においに誘われた小さな塵が蟻のように群がりはじめた。やがて塵は黒い塊となり男の足を這い上がっていく。


「ヒッ! 嫌だっ来るな! やめろ、やめろいぇめろおおおォォォォォッ!!」


 奈落より深い闇にのみ込まれる。

 なす術など、在りはしない。


 太陽は無く、赤い月が支配している。男を煌々と照らす血の色は、時折強烈な光を発し辺りを染め変える。それはまるで日が沈む直前の揺らぎに似ていた。

 常世へと誘う赤月夜しゃくづきよの世界。


 退魔師はそれを、喪亡月の狭間そうぼうげつのはざまと呼んだ。

 




 その日も一樹は荊棘けいきょくを訪れていた。

 初任務日は散々な目に遭ったが、へこたれるわけにはいかない。

 橘家の長男たるもの次々と任務をこなしてこそだ、などと恰好を付けてみたものの、実際の所は完了時に受け取れる報酬が目当てだった。

 今日は荊棘の専用ブラウザ上で予約した超簡単な依頼だ。喪亡月の狭間の中には入らない。

 気の淀みによって開いてしまった裂け目の修繕。等に赴く術者の護衛が、今日の一樹の仕事だ。

 超気楽だ。これで時給があんなに貰えるとか、荊棘は神か!

 一樹は上機嫌だった。

 その事実を知るまでは――。


「やっほ!」

「ぎゃーーー!」

「俺にかけるのは黄色い声だけにしてほしいんだけどな~」

「俺は女子じゃねーよ!」


 なんと待ち合わせ場所にいたのは神崎だった。

 護衛役がもう一人いるとは聞いていた。前日に確認した時には確かに荊棘の表示になっていた筈だ。


「どうせまたお前の仕業なんだろ」

「どうしてそこで「また」とかって言われるんですかね」

「なんだ違うのかよ」

「まぁそうなんだけど」


 一樹は頭が痛くなった。くるりと神崎に背を向けると受付のお姉さんの所へ急ぐ。


「ちょっと、どうしたのさ」

「キャンセルすんだよ、決まってんだろ」

「えー、いいじゃん。一緒にやろうよ」


 付いてくるなという意味を込めて睨みつけたが、神崎は相変わらずだった。さらに追いすがり、顔を覗き込まれたところで一樹は足を止めた。


「断る!」


 しかし神崎はにっこりとしている。嫌な予感がする。


「キャンセル料かかるの知ってるー? なんと報酬の倍です!」

「ぐっ」


 「くっそー」小さく呟いた一樹に神崎は爆笑しているようだ。というのは、一樹が見ていたのは電子マネー残高であり、確認後はうなだれていたからである。


「なんで俺なんだよ」

「なに急に」

「疑問に問い返してくんな」


 などとやりとりをしている間も、ちょいちょい神崎は髪をいじっている。

 色素の薄い髪と鳶色の瞳。喪亡月の狭間では気付かなかったが、左眼の下に小さな泣き黒子があった。一樹とは身長差があるので、近くにいるとちらりと見下ろされる形となり、流し目みたいに見えて変な色気がある。


 身長もあって顔もいい。退魔師としての能力も高い。

 身内の人間の犯した厄介事の処理を任されるくらいだ。組織の中でもそれなりに認められているのかもしれない。

 どうしてそんな人間が敢えて関わってこようとするのか。

 一樹は素直な疑問を口にしたのだ。


「んー、そうだなぁ」


 神崎は眼だけを上に向けた。それは一瞬で、あろうことかすぐにバチリと視線はかち合ってしまったが、一樹は負けじと見つめ返してやった。


「そういう所かな。それにキミって、なんだかんだ死ななそうだから」


 一樹は首を傾げる。褒められているのかそうでないのか微妙だと思う。


「だからこれからヨロシクね、一樹君」

「嘘くさい笑顔だな。こっち見んなムカツク」

「そこは笑って「ヨロシク」がセオリーでしょう。わかってないなー」



 かくして運命は動き出した。

 これより始まる四人の縁の交わりと、退魔師における十二月じゅうにつき

 四季を守護せし者達の物語は喪亡月の狭間から生まれ、閉じられる。



 《「月命の退魔師」前日譚、月鬼の子・完》

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月鬼の子 まきむら 唯人 @From_Horowza

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