第19話 なんでも知っている馬
数日後。
夕方、みすぼらしい馬番の上着とズボンのエヴァは、だれもいない乗馬場まで来た。エイベルも一緒だ。
手のひらほどのコンパクトのような紺青のペンダントから、深緑の円盤のチップを取りだした。表面に彫られた文字を、足先で地面に書く。アルファベットのBの丸みを尖らせたような文字。
終わると、チップをペンダントに収納した。
指でペンダントの表面に、同じ文字を書く。
「変身!」
紺青のペンダントが、にわかに深緑色に変わる。メキメキと木の塊のように膨らみ、みるみる体に絡みついた。
エヴァは、見守っているエイベルをふりかえる。彼は足を折り曲げて座り、退屈そうにハムハムと草をはんでいた。
「ねえ見て。表面に文字を書けば変身できるみたい。いちいちチップを出し入れして重ねる手間がはぶけるわ」
「そうか」
木の塊は膨張を続け、体を完全に包んだ。2、3mほどの高さの塊になる。
しばらくすると、塊がメリメリ割れた。割れ目からエヴァは這い出る。薄緑のキトンに、深緑色の髪。首には深緑色のペンダント。
「このチップだと変身に必ずタイムラグがあるの。でも能力はすごいのよね」
片手の指先を地面にちょんっとつけてみた。指が木の根のように変質し、勝手に土中にずずっと入っていく。
「こうしていると元気になれるの。植物になった気分」
ブンっと、乗馬場の映像が頭の中に流れこんできた。
危なくなる前に、すぐさま指をひっこぬく。木になった指は、即座にもとにもどった。
「深入りしなければ大丈夫みたい。はあ、でもくらくらする」
「元気になれるのでは?」
「元気になれるけど疲れるの。変身解除」
深緑色のペンダントをぱかっと開く。服がポロポロと木屑になって落ち、馬番の姿にもどった。髪の色も、ペンダントの色も、もとにもどる。
開いたペンダントの中には、深緑のチップが勝手に収納されている。
深緑のチップの下には、透明なクリスタルのようなチップがある。なにも文字は刻まれていない。
取り出して、透明なチップをペンダントの上に重ねた。
「こっちのチップは疲れないし便利よ。重ねないと使えないけどね。たとえば早く走りたいときなんかは……」
前世で気に入っていた、ローラースケートを思い浮かべる。
チップからスルスルと、蜘蛛の糸の塊のようなものが出てきた。足元にまとわりつき、ローラースケートになる。
エヴァはそのあたりをすいすい滑ってみた。
「たーのしー」
エイベルはふわぁっと大あくびをする。
「まだやるのか? 見張るのも飽きてきた」
「エイベルさんは馬小屋に戻って。わたしはもう少し続けるわ。暗くなれば人目にもつきにくいでしょうし」
(先生やラパたちには口どめしたけど、公然と知られたら魔女だとかなんだとか言われそう。めんどうよね)
「辺境も落ち着いてしばらく戦もないだろうに、なにをそんなにがんばる」
「このペンダントとチップを使いこなして、一日でもはやく夢をかなえるの。今度はこれも使ってみるわ」
エヴァはペンダントの中から、黒いダイヤモンドのような、円盤のチップを取り出した。表面に白い
これはベオークの森でエヴァを攫おうとした、謎の金髪の男が持っていたチップ。
ペンダントの上に重ねようとすると、やれやれと立ちあがったエイベルに、手をガブっと甘噛みされた。
「ちょっと」
「悪いことは言わん。このチップは絶対に使うな」
いつになく真剣な口調に、エヴァもまじめにならざるを得なかった。
「お前さんは夢を叶えたいのではなく、いらだっているように思える」
図星をつかれ、顔を歪めた。
そうだ。ロンとダンスした、あの気色悪い記憶をごまかしたいのだ。
(思い出しただけでも気持ち悪い)
あのときロンに握られた右手を見下ろし、ぞっとみぶるいした。
(……でもダンスは悪くなかったわ。正直顔も。無理だけど。生理的に)
そして、いらだたしいことがもうひとつ。
エヴァをさかんに持ちあげてきた、あの男たち。彼らの正体くらい、エヴァにだってわかる。
エイベルは鼻をふんっとならした。
「ペンダントとチップのことがわかれば帰るのだな」
「ええ。だいたいあの金髪の男の人が言っていたコスミスってなんなの? わからないことだらけ」
「コスミスとはマナズ、つまり人間を、宇宙や自然に繋げる魔術兵器。チップはウィルの魂の塊。マナズと宇宙の媒介となる」
「……え?」
びっくりして、エイベルの顔を見た。彼は黒曜石のような目で、エヴァの首のペンダントを見下ろしながら、淡々と続ける。
「透明の円盤はウィルドのチップ。最下級のチップで、思念した姿になれるがそれ以上の力はない」
「ちょっとちょっと」
「緑の円盤はベオークのチップ。ウィルドより格上の上級チップ。ベオーク語の話者が使えば、かの森のウィルと会話ができる。そしてベオークのウィルと同化し、体質や身体能力が変わる」
「おーい」
軽く手をふってみても、相手にされない。
「もっともマナズの誰もが変身できるわけではない。できるのは選ばれた巫女だけ。その者は必ず女で、オードの巫女と呼ばれる。スカしたヤツはオードの姫とか呼ぶ」
「あのー」
「上級チップは身体的負担が大きいゆえ、あまり使うな。さあ、わかっただろう。帰ろう」
「エイベルさん、これがなんなのか知ってたの?」
「わしゃなーんにも知らん」
「なんでよ! 教えてよ! いったい……」
パカラッ、パカラッ、と馬の足音がした。夕闇から真っ黒な馬が、真っ黒なマントの男を乗せ、こちらに向かってきている。男は黒い頭巾をかぶり、顔は見えない。
エイベルがエヴァを庇うように、前に立った。
「だれ?」
男は馬を止めた。
エヴァはすばやくエイベルの背に乗った。透明なチップを、首のペンダントに重ねた。
「変身」
チップから蜘蛛の糸の塊のようなものが出て、エヴァの体に絡みつく。姿が、婦人用の
「やつが動けばわしも動くぞ」
「ええ。お願い」
エヴァと男は、互いのロングソードを見せつけながら向かい合う。息がつまるような緊張感に包まれた。
(だれ? まさかこの前の……)
長い金髪をうねらせ、エヴァを狙ったあの金髪の男なのか?
あのときは、銀髪の屈強な大男が助けてくれた。
「そういえば、あの人だれだったんだろう」
「ん?」
「ベオークで銀髪の男の人が助けてくれたの」
「ほほう」
「なんだか知り合いのような気もするんだけど」
「ヒーローは正体を隠すものなのだろう」
「え?」
パッと男の馬が走りだしたので、エイベルも突進した。
エヴァと男がロングソードをつき合わせる。
頭巾の下で、男はにっと笑った。
「上達したな。実戦を積んだからか」
声を聞いて、エヴァもエイベルもおどろいた。
「まさか……」
男は頭巾をはぎとった。
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