無名配信者、過去にログインしました

ムギノシモベ

第1話

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでくる。


まぶたの裏が白くなって、ゆっくり意識が浮いてきた。


(あれ、寝てた? えっと……)


歩夢――如月きさらぎ歩夢あゆむは、天井を見ながら考える。


――漫才キングス決勝戦!


「やっっべえぇ!!」


布団を蹴っ飛ばして、ガバッと起き上がった。


(これ、寝落ち? いや待て、まさか結果見ずに意識飛んだとか……)


必死に記憶を引っ張り出す。


最後に残ってるのは、推しコンビの勝負ネタ。コメント欄がエグいくらい盛り上がってた場面……。


その先の記憶が、すっぽり抜けてる。


気づけば、喉がカラカラに渇いてた。


スマホを探して手を伸ばすけど、どこにもない。


(……あれ? ないのはスマホだけ?)


一気に、変な汗が出てきた。


――部屋の様子が、何か違う。


何がどうって言えない。でも、明らかに何かが足りない。


デスクに目をやる。


モニターがない。カメラも、マイクも、リングライトも。配信用の機材が、ぜんぶ消えてる。


(……いや、待った。なんで?)


昨日まで普通に使ってた。モニターはデュアルで、カメラはフルHD、リングライトは光量調整付き。


どれもこだわって選んだやつばっかだったのに……。


配信を始めてから、ずっとそこにあった。


それが、ごっそり、何も残ってない。


(……これって、どういうこと!? リセットボタンでも押した?)


とりあえず足元を探ってみる。でも、指先に触れたのは――ただの冷たい床。


(ちょ、ちょっと待ってよ……!)


喉が詰まる。胃がひっくり返りそうな感覚が、ゆっくり広がっていく。


撮影機材が、セット丸々消滅してる。どう考えても、おかしい。


叫んだところで、どうにもならんし。


深く息を吸おうとするけど、うまく吸えない。


(何かが、決定的にズレてる)


それだけは、はっきりわかった。




考えてる場合じゃなかった。


気づいたら、足が勝手に動いてた。


階段を駆け下りて、ほとんど転げ落ちる勢いでリビングのドアを開ける。


「かあさん! 僕の部屋に泥棒が――!」


……って言いかけたところで、視界に飛び込んできた。


キッチンに立つ、エプロン姿の女性――結衣ゆい


コンロの前で、フライパンを振っている。肩までの髪がふわりと揺れた。


拍子抜けする声が返ってきた。


「は? ……盗まれるもの、ないじゃん」


(え?)


思ってたリアクションと、違いすぎる。


心配どころか、なんならちょっと引いてない?


(いや、そうじゃなくて! ちょっとは焦ろうよ!)


なのに、それ以上、口が動かなかった。



歩夢は、結衣の顔を思わずじーっと見てしまった。


(かあさ……あれ?)


なんか、おかしい。


もう一度、しっかり見る。


(……若くない? ていうか、ちょっと若すぎない?)


ツヤツヤの髪。すっきりした輪郭。照れたような目元の笑いジワ。


(これ……かあさんの、若いとき!?)


脳みそ、一瞬バグった。


その横で、結衣はまるで何事もないように、フライパンを振っていた。




歩夢は、結衣の顔を思わずじーっと見てしまった。


(かあさ……あれ?)


なんか、おかしい。


もう一度、しっかり見る。


(……若くない? ていうか、ちょっと若すぎない?)


ツヤツヤの髪。すっきりした輪郭。照れたような目元の笑いジワ。


(これ……かあさんの、若いとき!?)


脳みそ、一瞬バグった。


その横で、結衣はまるで何事もないように、フライパンを振っていた。



若い母親が、目の前にいる。


あまりにも現実味がなくて、歩夢は思わず結衣を振り向かせようと手を伸ばした。

――そのとき、自分の手元が視界に入った。


「あれ?」


思わず目を凝らす。


(……パジャマ?)


しかも、この柄、ありえんくらい見覚えがある。


(いやいやいや、ウソでしょ)


袖をつまんで、何度も引っ張る。


(これ、昔お気に入りだったやつじゃん!

いや、なんで今これ着てんの? ……っていうか、なんでこれ……あるの?)


胸のあたりがムズムズする。落ち着こうとしても、嫌な予感だけがしつこく居座ってる。


(――鏡。確認しないとヤバい)


洗面所に駆け込む。息を整える間もなく、鏡をのぞき込んだ。




結衣が、不思議そうにこっちを見ている。


歩夢は眉をしかめたまま、口を半開きにして、ゆっくり首を横に振った。


信じたくない。でも、目の前の光景がそれを許してくれない。


(こんなこと、現実に起こるか?)


リビングを見渡す。ソファ、食卓、壁の時計――全部、見覚えがある。


むしろ、完璧すぎるくらいに馴染みのある空間だ。


でも、それが逆に怖い。


(……全部合ってるのに、何も合ってない)


空間だけが先行してて、自分の感覚がついてきてない。


ふわふわしてる。足元も、頭も。


視線が定まらないまま、震えた声が口からこぼれた。


「かあさん……今、何年?」


結衣は一瞬ぽかんとしたあと、くすっと笑った。


「なにそれ、クイズ? それとも、まだ夢の中?」


「……たぶん夢、だと思う。いや、夢って言うのも変か。うん、自分でもわかってるんだけどさ……」


(わかってるけど、言葉にすると全部おかしい)


なのに、口が止まらない。


「映画とかであるじゃん。起きたら世界が変わってて、自分だけ何も知らない……みたいな」


(いや、何言ってんだ僕は)


そうツッコみながらも、言葉が勝手に転がっていく。


「そういうのにハマってる感じっていうか……でも、全部リアルで……」


結衣の笑顔が、ふっと曇る。


「……え? ごめん、いつ見た映画?」


「あー、もう! 映画は置いといて!」


勢いのまま言ったあとで、ほんの少しだけ間を取る。


「……だから……今、西暦は何年? いや、無理か。えっと……そうか……」


呼吸する間もなく、言葉がどんどん口から出てくる。


「かあさん、僕は何年生なの?」


結衣が、首をかしげながら言った。


「えっと……あれ、高校2年、だよね?」


「こっ、マジか……!」


歩夢は両手で頭を抱えて、髪をごちゃごちゃにかきむしる。


頭ん中、爆発寸前。フリーズとパニックが同時に来てる。


「ちょっと待って……無理だよ、理解追いつかんから……!」


結衣は口をぽかんと開けたまま、まばたきもせず歩夢を見てる。


「……え? それ、どういう意味?」


さっきまでのほんわか空気は、きれいさっぱり消えた。


「歩夢……ほんとに、大丈夫?」


結衣がそっと肩に触れてくる。


「……いや、それ……ほんと違うから」


口が動いても、まともな言葉が出てこない。


肩に力入りすぎて、呼吸も浅くなるばっかり。


「逆に……焦るし……」


結衣の手をそっと押し返そうとしたけど、力がうまく入らない。


「マジで、ちょっとだけ……ほっといてよ……!」


「……」


結衣の喉が、ごくんと鳴った。


たぶん怒ってる。でも、それだけじゃない。


表情だけでわかる。怒りとか戸惑いとか――いろんな感情が、ぐちゃっと混ざってる。


(……なんだよ、あー、もう)


突き放すつもりなんてなかった。でも――たぶん、そう聞こえたんだと思う。


「だって……そんなの、歩夢じゃないでしょ!」


とまどい混じりの声だった。でも、それを言っても、結衣のモヤモヤは晴れてない。


「え、何それ……」


「さっきから何よ、その言い方! 絶対だめなんだから!」


勢いのまま、結衣が距離を詰めてきた。


「何なのもう……歩夢らしくないし、変なことばっか言ってるし……なんでそんな風になっちゃってんのよ!」


言い終わるなり、両ほっぺをガシッとつかまれた。


「もう……夢なら覚めなさいよ!」


容赦なく引っぱられて、顔がぐにゃっとゆがむ。


「って、イッタァ! 自分のほっぺツネれってば! そんなボケ、何十年前のテンプレだよ!」


どうにか結衣の手を振りほどいて、顔をそむける。


そのとき、視界の端に――後ろの柱にかけられたカレンダーが入った。


そこには、数年前にラジオで採用された記念ステッカーが、カレンダーの代わりに貼られていた……はずだった。


けれど、見当たらない。


歩夢はカレンダーの端を、確かめるようにめくってみた。


……何もない。


指先で柱をなぞってみても、ステッカーの跡すら残ってない。


(そんなバカな)


「……高2?」


かすれた声が漏れる。


「そうよ……確かね」


結衣は満足そうにうなずいた。


「目が覚めてくれた? ツネったのが良かった? なら、もう一回やっとこ?」


また結衣の手が伸びてきそうな気配に、歩夢はそっと身を引く。


「いや、それはもういいって」


ふとテーブルに目をやる。

……二度見して、思わず指をさした。


「さっき包丁トントンいってなかった!? なんで急にコーンフレーク!?」




結衣はキッチンで、途中になっていた夫・みやびの朝食づくりを再開していた。


歩夢はスプーンでフレークを軽くひと回ししてから、適当に口に運ぶ。

これ以上ツッコまれるのも面倒で、とりあえず手だけは動かしていた。


気づけばまた、頭の中で理由をこじつけてる。


(……若返り、パジャマ、ステッカー。そして……)


テレビのスイッチを入れる。


画面には、毎朝見ていたニュース番組のMCが映った。


(……やっぱ、西尾さんだ)


その瞬間、もう疑いようがなかった。

いや、ほんとはとっくに気づいてた。


「……タイムリープだこれ」


声に出してみたら、あまりにもバカバカしくて笑いそうになった。

でも、それ以外に説明のしようがない。


「昨日の夜、配信してたよな……? 途中で眠くなって、それで……」


思い出そうとしても、記憶は途中でぷつりと切れていた。


だとしたら――

寝落ちした瞬間に、こっちに来たってことか?


……いや、そんな理屈、知るか。

結局、考えたところで意味はない。


歩夢は深く息を吸って、ゆっくりと手を開いた。


(戻れる方法なんて、今考えてもわかんないし)


未来の自分に戻りたいかって言われたら――正直、微妙だった。


(……まあ、生活にはわりと困ってたしな。無名の配信者ってやつで)


毎日配信して、コメントにいちいち振り回されて、ネタ探して。

それなりに楽しかった。……楽しいだけじゃなかったけど。


(……それに、ずっと後悔とか、足りないことばっかだったし)


「……そっか」


その瞬間、歩夢の手が止まる。

頭の奥でスイッチが入ったみたいに、思考がひとつにまとまった。


「この時代から、やり直せってことか。……別に、構わないけどね」


納得したような、強がったような声。

でも、たしかに肩の力が少しだけ抜けた気がした。




コーンフレークの甘さに、そろそろ飽きてきたなって頃。


雅が鼻歌まじりでリビングのドアを開けた。


いつもの流れでチャンネルを勝手にMHKに合わせて、歩夢の向かいにどかっと腰を下ろす。


(あー、これこれ。毎朝このパターンだったよな。ていうか、とうさん、若っ)


新聞を広げた雅が、ちらっと歩夢を見てきた。

眼鏡を軽くずらして、ぽつりと口を開く。


「歩夢が食ってるそれ……なんかお菓子っぽいし、飯って感じしなくないか?」


「これは、朝から楽して栄養とらせたいっていう母の煩悩の塊だから。そういうのとは違うよ」


スプーンをくるくる回しながら、気の抜けた声で返すと、

雅は腕を組んで少し考え込み、ちらっと結衣を見る。


「そんなこと言われるとさ、ちょっと気になるじゃん。結衣ちゃん、俺もそれにしてよ」


「ええー! お魚焼いちゃったじゃない。……まあいいわ、ちょっと待っててね」


結衣が新しいシリアルボウルにコーンフレークをよそって、雅の前にそっと置く。


雅はスプーンを手に取り、牛乳をやや多めにかけてから一口。


「うわ、なんだこれ。思ってた何倍もお菓子だぞ、歩夢」


予想以上の甘さに眉を上げ、パッケージを手に取る。

裏返して栄養成分表をじっと見つめ、口の端をわずかに持ち上げた。


「でも見ろよ、これ。栄養スコア、なんか知らんけどすげえぞこれ!」


パッケージを指でトントン叩きながら、満足そうに目を細める。


「……その五角形、すごく言いにくいんだけど……牛乳込みの栄養グラフなんだよ」


雅の指がピタッと止まる。

スプーンを置き、もう一度じっくりパッケージを見直した。


そのまま腕を組んで、しばらく無言のまま鼻で笑う。


「……なんだよ、それ」


パッケージを横に乱暴に押しやりながら言った。


「後出しすんなよ!」


押しやったパッケージをにらみつけて、舌打ちひとつ。


朝のテレビが軽快な音楽を流し、部屋の空気をかき混ぜた。




「あれ? さっきは歩夢が変だったけど、今度はみやちゃん?!」


結衣がキッチンから顔をのぞかせて、ひと笑いしてからまたお弁当に向き直る。


雅はふてくされたまま、スプーンでコーンフレークをつついていた。


(まじで、とうさん……コーンフレークなんか食べなきゃよかったのに)


結衣は気にせずお弁当を詰め続ける。

さっきの焼き鮭が、きれいにラップされて弁当箱のすみに収まっていく。


「ねえ、歩夢、そろそろ準備しないと学校遅れちゃうよ?」


「……へ?!」


(……今日って、学校ある日?!)


スプーンの先からミルクが垂れるのを見ながら、間の抜けた声がもれた。


(うそでしょ……タイムリープしたばっかりなんだけど? 登校するの?)


テーブルの上のコーンフレークを、ぼんやり見つめるしかない。


「なにボーッとしてんだよ、遅刻すんぞ」


雅が新聞をバサッと広げる音が、無駄にデカく響いた。


(これ……ほんとに、行かなきゃ駄目なヤツなんだ……)




部屋に戻り、歩夢は改めて見渡す。


機材だけじゃない。

部屋の隅に積んでいたエッセイや漫才考察の本のタワー――夜通し読みふけってたはずなのに、それも影も形もなかった。


壁に貼っていた、大好きな芸人の東京ドームライブのポスターも消えている。

代わりに、白紙の紙が一枚だけ、ぽつんと貼られていた。


まるで、かつて存在していた未来を、誰かが跡形もなく塗りつぶそうとしてるみたいだった。


「かあさんの言ってた通り、高校生の僕の部屋、なんにもなかったんだな……これでよく生きてたな……」


立ち上がって、クローゼットを開ける。


スカスカの棚の奥に、懐かしい制服がかかっていた。

タグには、忘れようにも忘れられない高校名の刺繍。


戸惑いながら袖を通す。サイズはぴったりだった。


……のに、ジッパーを上げる直前、反射的に息を吸い込んでしまう。


「あ、いや、いらないじゃんこれ」


拍子抜けして、苦笑いしながら、そのままツマミを上げる。


制服の襟元を軽く引っ張る。違和感はあるけど、気にしてる場合じゃない。


鞄を肩に掛けて、玄関へ向かう。

廊下には、結衣が干した洗濯物の香りがうっすら漂っていた。


「ま、色々悩んでも……仕方ないか」


階段を降りると、雅が新聞を広げながら顔を上げる。


「……おっ、歩夢。勉強頑張れよ!」


「ありがとう。マジで今、悔いのない人生にしようって思ってたところだよ」


新聞の端を軽くめくりながら、雅が苦笑する。


「なんだよ、大袈裟に。人生とかじゃなくて、勉強な」


歩夢は靴を履きながら、ふっと息を吐いた。


(……こういう朝も、悪くないかもな)


玄関のドアを開けると、冷たい朝の空気が頬をかすめる。


「さて、行くか」

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