水の流れる音が木霊する。

　規則正しく配置された燭台の灯が空間全体を照らし出すと、地面には溝渠が掘られた石材の床が敷き詰められていた。その溝を持て余して流れる細い水流が、かつて、この場所が水路として利用されていた面影を見せている。

「寒っ！ ていうか、下水路の一番奥ってこんなに明るかったんだ」

「正確には、まだ最奥ではないがの」

「？」

「あれを見てみぃ」

　指先で促されると、マキナはそれが指し示す方向を見る。

　すると、そこには空間を形成する壁とは明らかに材質の異なる壁が、一面だけ存在していた。

「あそこだけ別の壁みたい……」

「そのとおり。あれは『退魔石（たいませき）』と言うての、高密度の構造体から成る鉱物じゃ。その硬度から、細かい加工は困難を極める。一方で、強度は抜群、魔力への耐性も高い。ゆえに、退魔石と名付けられた」

「それがこの先を塞いでいると」

「うむ。帝国はわしらをなべ底へと閉じ込める際、逃げ道となる箇所はすべて封鎖しおった。他の下水路も、同様に退魔石の壁で塞がれておる」

「頑張って壊せたりできないの？」

「不可能ではないが、ちまちまと削れるような代物でもない。削岩の衝撃や音で、まず間違いなく帝国兵に気取られるじゃろうな」

「だよね。それができるなら、今ごろあたしたちは外の世界だろうし」

　マキナはうな垂れて溜息を漏らす。

　予想通りの返答ではあったが、それでも落胆せずにはいられなかった。

　気を取り直して、ここへ訪れた当初の目的へと立ち返る。

「それで？ ここでする仕事って？」

「それはの…………」

「……なに？」

　やけに勿体ぶるオビクに、マキナは怪訝な面持ちで眉間に皺を寄せる。

　次にオビクの口元が動き出した時、すでに嫌な予感が頭を過っていた。

「ずばり、魔獣退治じゃ！」

「……」

「魔獣退治じゃ！！」

「聞こえてるって！」

「では、なぜ反応を渋った？」

「渋ってんの分かってんじゃん！ やだよ、あたし魔獣退治なんてやらないから」

「お主が求めていた仕事じゃぞ。何を断る理由がある？」

「あるに決まってんじゃん！」

　マキナは顔を真っ青にして早口で答える。

「魔獣だよ！？ ま・じゅ・うっ！！ おっきな鳥だったり、強そうな狼だったり、気持ち悪い蠍（さそり）だったり！ あたし、全部見たことあるんだから！！」

「どこで？」

「本で！！」

「それは挿絵じゃろうて」

「ぬぐっ！？ ……そうだけど、でも──」

　マキナは続けて反論しようとするも、目の前にオビクの人差し指が立てられると、反射的に口を噤（つぐ）んでしまう。

「お主の恐怖は分かる。なに、心配せんでもよい。退治するのは原種──すなわち、ほとんど魔力を持たぬ魔獣じゃ。お主が図鑑で見たような、恐ろしい魔獣はこの楽園層には存在せん」

「口から火とか吐かない？」

「吐かん」

「おっきな岩を粉々にしたり？」

「せん」

「鋭い爪で体をグサーってのは？」

「あり得──いや、それはあるやもしれんな」

「ほらぁ！！」

　マキナは自分が魔獣に引き裂かれる姿を勝手に想像すると、慌てて空間の入口付近へと後退する。

「呆れた子じゃの～。帝国兵に楯突ける娘が、今さら怖気づくような相手でもあるまいに」

「それとこれとは別っ！」

　そう言い捨てると、踵を返して退却を図る。

　しかし、間髪入れずに枯れ枝のような細腕が伸びてくると、シャツの襟首を掴まれて引き留められてしまう。

「ぐえっ！？」

「まあ待つんじゃ」

「も、もう騙されないんだから！」

「人聞きの悪い。別に、わしは騙して連れてきたつもりはない。それに、この仕事を紹介したのにも、きちんとした理由があっての事じゃ」

「ホントにぃ～？」

　マキナは疑心暗鬼に陥ると、彼のすべての言動を疑ってしまう。

　だが、こちらを見つめる真剣な眼差しに、不信感に波打っていた感情が一瞬にして凪いだ。

　少したじろいで、オビクと対面する。

「お主、今朝の一件をどう受け止めておる？」

「今朝って、帝国兵との事？ どうって言われても……あの女性（ひと）が助かって良かったなぁって。あとは、帝国の奴らがコテンパンにされてスッキリした」

「呑気な感想じゃの。お主は殺されるところだった、その事をしっかりと理解しておるのか？」

「それは……」

　オビクの静かな迫力に気圧されると、マキナは言葉に詰まってしまう。

　それでも、一滴、唾を飲み込んで声を絞り出す。

「も、もし殺されてたとしても、あたしに後悔なんてなかったよ。あたしは自分がやりたい事をやったんだから。また同じような事になっても、あたしは助けに入る。絶対に！」

「その結果、今度こそ命を落とすことになってもか？」

「もちろん。『英雄物語』に書かれてる『英雄』なんていない。だから、あたしが困ってる人を助ける……誰かの英雄になるの！」

　言葉を紡いでいるうちに、その声音は力強くなっていく。

　しかし、オビクは深いため息を返した。

「信念というやつか……いや、ただの子どもの強がりじゃな」

「なっ！？ 強がりなんかじゃ──」

「では問うが、お主、死を目前にして何も思わんかったのか？」

「それは……一瞬だったから憶えてない……」

「では、命が助かり、安堵することは？」

「……あったかも」

「ほれ見ぃ。その安堵こそ、お主が死への恐怖を抱いている何よりの証拠じゃ」

「そんなの当たり前じゃん！ 誰だって死ぬのは怖いに決まってる！」

「だが、お主は誰かの英雄になるためであれば、『最悪、自分は死んでもいい』と考えておるんじゃろう？」

「そ、そうだよ！」

「ならば、あらためて問おう。今度似たような状況に陥ったとして、お主は自らの信念を貫くために、再び命を懸けることはできるか？」

「……いじわる」

　オビクの問いに、マキナはボソッと悪態を吐き捨てることしかできなかった。

　困っている誰かを助けたいという想いは嘘ではない。王都襲撃の日から、心の底から湧き起こる強い想いだった。そして、実際に行動に移して、それを証明して今日まで生きてきた自負もあった。

　だが、その信念を抱いて以来、初めての死を目前にして、オビクの問いに対して即答することができなくなってしまう。

　拳を握り締め、悔しさに俯いていると、オビクの諭すような声が聞こえてくる。

「よいか、マキナよ。確かに己の命を投げ打ってでも、成すべき事はあるやもしれん。しかし、それは命以外のすべてを懸け終えてからの話じゃ。今のお主は、すべてを懸ける前に、率先して自らの命を差し出しておる。それでは自殺志願者と何ら変わらん」

「あたしだって死にたくないよ！ ……だけど、あたしはそれ以外に何も持ってないんだもん」

「そう、お主は何も持っておらん無力な子どもじゃ。だからこそ、お主が成長するきっかけとして、この仕事（魔獣退治）を宛がった」

「？」

　マキナが面を上げると、視線の先で優し気な笑みを湛えるオビクが立っていた。

「マキナよ、お主は術（すべ）を持たねばならん。多くの場合に際して、生きて、命を懸けんでもいいようにするための術（じゅつ）を」

「術（じゅつ）？」

「うむ。剣でも槍でもない、武器など使わず、己が身一つでなせる術（わざ）を」

「それって？」

「それは……」

　オビクは言葉を溜めると、空間に反響する程度の大声で言う。

「『魔術』じゃ！！」

「……は？」

　その言葉を聞き、マキナは目の端から零れそうになっていた涙が、急速に枯れていくのを感じた。