5 人買い

 十二月下旬の朝、ニューデリー一帯に霧がかかった。

 少し外を歩いたとき、大地にかかる一面の霧の中から、何者かわからない女たちの群れが現れた。頭巾のすき間から彫りの深い顔が見える。無言の列はゆっくりと北へ消えていった。

 サトウィンダーの家は中流階級の住宅地にあるが、年末セールなのか、家の通りが忽然とバザールになることがあった。数十件の露店が並び、サトウィンダー家の洗濯物に混じって、売り物の子ども服がドアにかかっている。

 コンノートプレイスも買い物客が増えた。円に沿って電飾がぶらさげられ、チンドン屋が歩き回り、特設ステージでは古典舞踊が催されている。

 一方、この年の瀬に僕は一人の娼婦を連れ出そうとしていた。

 毎晩、サトウィンダーと僕は眠るまでの時間を話し合いに割いた。彼は細かく経過を報告してくれる。お土産の酒を持参したとか、どれだけマダムと仲良くなったかという話がメインだった。

 僕はなにげない言葉も記憶しながら、昨日と同じ質問をして話に矛盾がないかチェックした。この作業もサトウィンダーから学びとった駆け引きのひとつだった。もちろん彼も僕に対して同じように接する。よく「今日どこへ行った?」なんて質問をされたが、ただのコミュニケーションではなかったのだ。

 僕の見極め期間はまだ続いたわけだが、サトウィンダーもデティールを提供することで僕の信頼を得ようとしたし、ここ数日で話がぐっと具体的になったことで、彼が本気だと信じられた。ただ具体的である分だけ、僕には厳しい内容だった。

「私が知ったことがある。故郷に戻りたがらない女が多いことだ」

「というと?」

「YOUと結婚するわけではないのだ。女は故郷に戻ったとしても、たった一人で偏見と闘い続けることになる」

「すべての女がそうなるのか?」

「そうだ。YOUはまだこの国を知らない。一度売春の世界に入ったら、一生抜け出せない。YOUが助け出しても、結局は娼婦に戻るしかない。ソーシャルワークが必要だ」

「わかっている。一人の女の一生を取り替えるワークだ。僕は何年もケアと送金を続ける用意がある」

「よし」

 そして翌日だった。

「交渉は終わった。女も決まった。料金もうまくおさまった。だが、こちらから女を選べなかった。その女はデリー郊外の農村出身だと聞いた」

 ともかくもサトウィンダーと友人が保証人となり、彼女の一週間を買い取る段取りはまとまったのだが、休暇といってもデリーに居場所はないから、旅行へ出るしかない。列車やバスを利用するのは危険だというので、車と運転手をハイヤーさせられた。むろん運転手が監視役も兼ねる。

「それで、どこへ行くかだが…」

 サトウィンダーは候補地として、ジャイプル、シムラー、ムスーリーを並べた。アーグラは除外している。このタージマハルで有名な観光地も、旅行社の経営者が問題外とする町なのである。理由は単純だ。外国人を狙う輩の数が半端ではない。

「OK、準備はすべて終わった。明日は出発だ」

 と最後にサトウィンダーは言ってからさらに二日遅れ、とうとうその日がきた。


 午後一時、サトウィンダーに教えられた安全な銀行に行って、すべての金をインドルピーに両替した。インド札独特の匂いが漂うほどの分厚さになり、僕もコンノートのビジネスマンのように札束を握って通りを歩く。

 オフィスに戻ると、机に札束を積み上げ、サトウィンダーと二人で丹念に数えた。

「トラベラーズチェックの領収書はとっておけ。これはいらない」

 サトウィンダーは現金の両替レシートを破り捨てた。

 最終的な料金は、女と車と運転手を一週間の貸し切りで二万二千ルピー(約七万八千円)だった。おそらくハイヤー代の方が高いのだろう。

 僕の手もとには八千ルピー(約二万八千円)が残った。これが一週間のホテル代と食事代になる。

「じきにドライバーと女がやってくる。私は、YOUにこれを貸す」

 サトウィンダーは百ドル札を僕の手に置いた。続けて、昨日話し合ったことをもう一度、確認した。

「よく聞け。ホテルは中級以上に泊まること、食事はすべてホテル内のレストランで済ませること。ホテルやレストランではチップを弾んでおけ」

「わかった」

「この女は誰だと聞かれたら、自分の妻だと言え。疑われても言い張れ」

「わかった」

「もしYOUが誘拐の容疑をかけられたら、金を惜しむな」

「わかった」

「ノープロブレムか?」

「ああ」

「いままで会ったこともない女を、今日から全力で守れよ」

「もちろんだ」

 ただ、どれだけ打ち合わせしても、少女と会うのは出発の直前だった。歳も名前も知らない。僕らが知っているのは、彼女がデリー郊外の農村出身だということ、それに娼婦だということ。

 あとは待つだけとなってから、僕はトイレを我慢しているみたいに緊張していた。脇から汗が垂れる。

 まだどこへ行くのか決めていないというのに、何も考える余裕がなかった。準備もないまま、いったいどこへ行けというのか。性格も趣味も知らない少女に有意義な休暇を提供できるのか。そもそも彼女には見知らぬ日本人と監視付きの旅が休暇になるのか。そして僕は、たった一週間で彼女の信頼を得て、彼女の一生を変える話をせねばならない。 

「Let's get marriageなんてノリでいったら良いんじゃないか、なあジャパンよ」

 サトウィンダーは僕の緊張をほぐそうと「エンジョイ、エンジョイ」と繰り返す。

「来たぞ」

 運転手がやってきた。彼の名前はゴプタ。目付きの悪い丸顔の男だった。独身の二十九歳、元レスリングの選手でジュウドーも得意だという。握手をしたが、指の太さは僕の二倍ほどあった。

 さらに二時間ほど経った頃、

「車だぞ」

 ゴプタは窓を見た。

 サトウィンダーが迎えに行った。そして、少女がくる前にこう言ってきた。

「彼女はとてもビューティフルだぞ」

 その直後、空色のサリーをまとった彼女が現れ、僕の隣に座った。

 確かにきれいだった。起伏のある顔立ち、形の良い耳、肩に届かないほどの髪を品良くそろえている。だが、僕の隣で縮こまり、生まれたての赤ん坊のような表情の無さで震える彼女のどこがビューティフルといえるのか。

 二十歳前だろう。頬にまだニキビの跡が残る。左腕にプラスチックの時計をはめていたが、男物でまったく似合っていなかった。彼女の荷物はビニール袋一つで、布切れのようなものしか入っていない。

 見ての通り、あの売春窟から無作為に一人連れてきたような、足の裏の汚い普通の女の子だった。彼女は自分がどうしてこんな場所にいるのか理解できないようで、ときたま隣のオフィスに目をやり、人が行き来するたびに反応してオドオドした。サトウィンダーがコーヒーを渡したが、まったく口を付けようとしない。

彼女は、無数の売春婦からここにやってきた一人である。だから、運命というか、デジャブのような懐かしさでも感じ合うのではないかと期待していた。

それが、いざ本人を目の前にしても、自分との縁など微塵も感じない。

当然のことじゃないか、といっても、その当然とはよくわからない。もし僕の前世が本当に売春宿のブローカーだったのなら、彼女のような女の子を顔も覚えないうちに売り飛ばしたのだろう、むしろそっちの方を考えていた。

 僕らはサトウィンダーの導きで、力のない握手をした。彼女は手を出しただけだった。まだ目を合わせていない。

 僕は言葉もなく固まっていたが、彼女は僕よりもっと混乱しているはずだ。そして僕を恐れている。まるまる一週間、彼女は買われたのだ。これから何をされるのかと全身で脅えている。

「今夜、これでパーティーしろ」

 サトウィンダーは酒瓶を渡してくれたが、彼女はアルコールが飲めないというので、ひっこめた。

 そして、逃げるように出発となる。

「彼女を守れよ」

 最後にサトウィンダーが言った。

 少し離れた駐車場にゴプタの車があった。車はインド国産のアンバサダーだった。

 僕が乗り込んでから五分後、彼女がやってきた。ゴプタはエンジンをかける。

「おいシゲキ、どこへ行くんだったか?」

「ジャイプルだ。ジャイプルへやってくれ」

 どこへ行くか彼女に聞いて決めようと思っていたが、何も話しかけらず、勝手に決めた。

 僕は観光は苦手だった。どこの国へ来ても、入場料を払って観光スポットに行ったりしない。だから彼女との旅も何か別の楽しみで過ごせないかと考えていた。

 出発間際になって、ジャイプルから西の砂漠へ向かう案が浮かんだ。

 三年前、僕はタクラマカン砂漠への旅で、西安から三泊四日の列車に乗ったことがある。何日たっても車窓の景色は火星のような赤茶けた荒野ばかりだったが、まったく不意に一面の菜の花畑に変わったり、砂と砂の合間に忽然と川が出現することがあった。これは、何度も往来しているだろう乗務員さえ見とれるほどの美しさだった。

 僕の彼女と共通の喜びがあるとしたら、あんなハッとする景色かもしれない。砂漠へ向かう道のりに、どれだけ見ても見飽きない景色があるかもしれない。さて、これが甘い考えかどうか、まだわからない。

 ゴプタは意外に協力的で話しやすかった。というか外国人に対して好奇心を隠せないようだ。

「おいシゲキ、インドは初めてか?」

「三度目だけど」

「タージマハルは美しかったか?」

 まだ見たことはないが、面倒だからイエスと答えた。

「よし、じゃあ日本に持って帰れ、はっは」

 彼のジョークに笑ってあげる余裕はまだなかった。

 ゴプタは、彼女に「シゲキ、シゲキ」と僕の名前を教え込んでいる。

「よし、これでノープロブレムだな」

 夫の名前しか知らない妻の出来上がりだった。

 車はハイウェイに入り、殺風景な直線道路を走る。

 この四十年間モデルチェンジしていないというアンバサダーは、サスペンションが弱くて揺れ放題で、あちこちからすきま風が入り込み、スピードを上げるたび車体がバラバラになりそうだった。

 信号も対向車もない。

 一面に広がる湿地帯に、鳥の群れが低空で飛んでゆく。

 会話のない車内で、彼女は外を見たり、何度か居眠りした。

 僕はまだ一言も話しかけられない。

 たしかに彼女は、僕が頭の中で思い浮かべていた通りの少女だった。だから僕たちは、いままで何の関係もなく生きてきた者同士で、いまこうして一緒にいるのは一つの偶然であり、やはりメチャクチャな理由に違いなかった。

 日暮れは近い。もうすぐ景色も見えなくなる。

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