4 サトウィンダー旅行社
シーク教徒は男でも髪と髭を剃らない掟を持ち、彼らのシンボルでもあるターバンは全長七メートルもある。
「じつはな、私は十五本、持っている」
と、サトウィンダーは少し秘密っぽく言った。
毎朝このターバンを兄弟で毛糸巻きのように巻き合うのだが、僕がちょっとでも覗き込むと、日頃は優しい彼らも鶴の恩返しのワンシーンのように「見たな!」という目で背を向ける。
サトウィンダーのお父さんは髭を整えるために、アゴに布を巻いて頭上で結ぶので「朝メシが食べれんぞ」と嘆いていた。掟と威勢を守るのも大変なのである。
シーク教とは、まわりくどい説明を省くなら、ヒンドゥー教とイスラム教を硬派に合体させた宗教で、偶像崇拝はせず、禁酒禁煙、カーストも否定している。
シーク教徒はアーリア人の血が濃く肉食もするので体格が良い。インドの人口の二パーセントを占めるのみだが、職業の制約はなく経済力もあるせいか、世界中を飛び回る商人のイメージが定着した。
カーストを否定し絶対平等を唱えるシークだからこそ、サトウィンダーは僕に協力を申し出ることが可能だったといえる。
※ ※
僕がインドにきたのは三度目だった。後にも毎年のように訪れることになる。この頃から、北陸の田舎で育った僕が、どうしてインドに関わりを持つようになったか、よく考えていた。
そもそも人の興味はどうやって決まるのだろうか。ラフカディオ・ハーンが日本という国に強い関心を抱いたように、生きてきた環境とは縁もない趣味や仕事を取りつかれたのように始める者も多い。
僕は雪深い富山県のある町で生まれた。両親と姉と兄との五人暮らしで、経済的には不自由しなかったし、友人にも恵まれていた。新学期のたびクラス代表になり、将来に必要な経験を積んできた。両親は進路や生活に最大限の自由を与えてくれて、僕の未来は無邪気に輝いていたように見えた。
それでも、なにか奇妙な気持ち悪さを抱えながら過ごしていたように思う。僕は国立大学に入って、将来は順調にエリートになるはずだった。だが、高校に入ってしばらくして、パッタリ勉強をやめてしまう。
なんとか大学生になり、初めての海外旅行にインドを選んだ。友人とのお気楽旅行だったはずが、偶然踏み入ったスラムで女乞食に囲まれ、救いようのない貧困を目の当たりにしたとき、自分の中の何かが爆発した。
帰国してから、僕はだんだんと部屋にこもるようになる。大学もあっさり中退した。年に何度か、自分の命を試すようにアジアの辺境を旅して、あとの時間はアパートの六畳間で文章ばかり書いていた。
一九九六年、地方都市が主催する小さな文学賞を受賞する。そのときの賞金で今回の取材旅行に来た訳だが、受賞した小説のストーリーをふと思い出して、我ながら驚いてしまった。
それは、インドにやってきた日本の青年が、ベナレスの売春宿から少女を救い出し、故郷の村に送り届けるという話だ。こんな小説をどうして一生懸命に書いたのか、当時のことはよく覚えていない。僕がまたこうしてインドにやってきて、世界中に山ほどあるテーマの中から、インドの売春地帯で娼婦たちに関わろうとする行為は、たぶん僕を育てた親にも理解できないし、僕自身もわからない。だから、確かめたくてしょうがなかった。なぜ僕は、ここでこうしているのか。
本人が納得できる答えは、じつに見つかるのである。もちろん、他人に理解してもらえないレベルのものだが。
この旅の最中、漠然と思っていたことがある。
――僕の前世は、インド人じゃないだろうか。
というより、もっと具体的に思っていたことがある。
――前世で僕はやっぱりインド人で、少女を売り飛ばす売春宿のブローカーだったのではないか。
わからない。たとえば「私の前世は王様だった」とか「芸術家だった」などと幸せな前世を思うならまだ理解できる。それが、なぜ僕は売春宿のブローカーといった最低の過去を想定してしまうのか。
輪廻転生や前世(過去生)というものがあるのか、と問われたら、僕はあると答えるだろう。だからといって、それを声高に唱えるつもりもない。
※ ※
サトウィンダー宅でホームスティして四日が過ぎ、やっと話が始まった。
「ジャパン、中に入れ」
旅行社のオフィスにカシミール人の若者がいた。目付きの鋭い三角顔の男だった。
「彼は、私のボスだ」
サトウィンダーよりずいぶん若い男だが、たしかにボスに違いなかった。名前を聞いたら、この旅行社と同じだった。サトウィンダーのオフィスはデリー支社で、本店はインド最北のカシミール州にあるらしい。
彼が僕の計画を話す初めての人となった。
「ボスは良いコネクションを持っている。YOUのワークは今日からスタートだ」
二人は、英語でもヒンディー語でもない言葉で話し出した。
「ボスは売春業者とマダムを紹介してくれる。私は何度も足を運んで、まずマダムと仲良くなることから始める。YOUは直接動かない方が良い。ギリギリまで隠す。外国人となれば面倒が多い」
その後、ボスは僕に話しかけてきた。
「君の歳は?」
「二十三歳だけど」
「オッ!」
ボスは改めて握手を求めてきた。彼も二十三歳だという。二十七歳のサトウィンダーがこの若者の下で働いているわけだ。ちなみにヴァラーナスでは、グッドゥスンという二十五歳の男がマフィアのトップだという。この国では金と力があれば、年齢など関係ないらしい。
そしてサトウィンダーのボスは、とんでもない金持ちだった。アメリカ人の妻を持ち、タイとスウェーデンに愛人がいるという。後日それぞれの女性の写真を見せてくれたし、デリーに滞在中も、常に白人女性を連れていた。もちろん実力もある男だった。コンノートプレイスで客引きをさせたら、彼はあっさりと外国人を連れて戻った。
「ただし、覚悟しろ。このワークは時間も金もかかる。デリーは首都だ。なんでも高付く」
サトウィンダーはさらに詳しく説明した。
じつにGBロードは公娼街ではないという。インドでは売春自体は違法ではないが、公共の場の二百メートル以内で売春すること、売春宿に女性を斡旋したり拘禁することは禁じられている。つまりGBロードの売春業は膨大な賄賂によって成り立っており、定期的にポリスが集金にくるという。外国人が女を連れ出すとなると、いくらかかるのか見当がつかない訳もうなずける。
「私も経験がないことをする。だが、任せてくれ」
「わかった。僕の所持金はあと八五0ドルだ。このワークにすべて使ってもいい」
交渉は、すべてサトウィンダーに任せることになる。僕は金を出すだけだ。だから、全財産を注ぎ込むことに決めた。
ボスがオフィスにきた日は、サトウィンダーも街角で客引きに励む。
彼の旅行社は、円形の新市街コンノートプレイスにあった。円の中心から放射状に道路が伸び、どの方向に行くにも起点となる街である。札束を握った男が行き交う経済の中心地でもあるから、航空会社やホテル、レストラン、高級商店も多い。当然、外国人観光客も集まるので、コンノートの裏道には旅行代理店が並ぶストリートがあって、無数の客引きがたむろしていた。ぼんやり歩くと、力づくでオフィスに連れ込まれることもある。
インドを訪れる旅行者は、彼らの客引きを強引で下手クソだと思うだろうが、他に方法がないのだ。客引きの要領は、ナンパとまったく同じである。基本的にインドの物価を知らぬ気弱な外国人をひっかけるのだから、強引でしつこい方が良いのだ。
旅行社業は、事務所と電話が一本あれば開業できるので競争が激しく、中でもサトウィンダーのオフィスはビルの奥にあるから、お客は釣らない限り来ない。だから客引きの腕が頼りだった。
子分たちの縄張りは主にファーストフードの店で、外国人客の隣の席に座り込んで仲良くなり、パーティに誘ったりしていた。
オフィスが閉まった後も、よく外国人が連れてこられた。一緒に飲み食いして、親近感が沸いたところでビジネスを始める段取りらしい。
二日ほど前から、人柄の良さそうなフランス人男性がいた。
彼はアーグラで現金をなくし、最後のトラベラーズチェックもサインを書き間違えるというおろかなミスで一文無しになった。そこで帰国日まで寝床を提供してもらう代わりに、客引きを手伝っているが、彼は今日も、まさかインドまで来てこんなことをするとはという顔で手際悪くバックパッカーに声をかけていた。
彼は僕を見るなり、自分と似た境遇であると察したのか、握手と抱擁を求めてきた。加えて記念に僕を撮ってくれたが、夜七時にフラッシュのないカメラのシャッター音は空しい。たぶん真っ黒だ。まあ、こんな人だから一文無しになるのだと納得した。彼はリヨンで床屋をやっている三十二歳の中年である。
僕は旅行社のみんなから「ミスタージャパン」と呼ばれていた。「シゲキ」とは発音しにくいらしい。
僕もコンノートをうろうろして客引きの真似事をしていた。サトウィンダーに頼まれたわけではなく、自発的に始めたことだ。ただで彼の家に寝泊まりするのは気がひけるし、ギブ&テイクはあらゆる交渉の基本といえる。
慣れると早いもので、僕は二日目にはお客の相手をする傍らチャイを出すようになり、三日目にはコーヒーを買いに行かせられる身になった。
この旅行社には社員が五人、他にも完全歩合制の客引き、ツアーのガイドなどがいて、みんな二十代前半の若者だった。ヒンドゥー教徒、シーク教徒、イスラム教徒、さらにフランス人もいるから、僕も異邦人とは見られない。
コンノートを歩けば、彼らと何度もすれ違った。客引きの仕事は外国人をひっかけることがすべてで、要領はナンパそのものだが、僕の観察によると、彼らは間違いなくこの道のプロだった。なにしろ仕事後も、昼間さんざん出入りしたファーストフードの店に寄って女性にちょっかいをかけるのだ。
来客は一日に数組なのでたいして仕事もないのだが、それでもサトウィンダーの子分たちと一緒にいたら、首都ニューデリーで多くの競争相手とやりあう青春群像に混ぜてもらった気分になる。
僕は、彼らと一緒に帰る車の中が好きだった。
サトウィンダーの旅行社は軽四のワゴン車を一台所有しており、ツアーで出払っていないときは、通勤に使った。九人から十人が無理やり乗り込み、運転席のサトウィンダーが、
「Everbody comfortable?(みんな快適か)」
と聞くと、全員がウォーと叫んで出発となる。手も動かせないほど混んでいるのに、誰もがタバコを吸っていた(サトウィンダーだけがシーク教徒のため吸わない)。一人も客が釣れなかった日だろうが雰囲気は変わらず、狭い車内のあっちこっちで笑い声が飛ぶ。
免許を取ったばかりの者に運転の練習をさせることもあった。交通量の多い夕暮れ、慣れない運転手はみんなの指導を浴びながら定員オーバーの車を転がすのだが、交差点では「止まれ」と「進め」の声が同時に飛び、スリル満点のドライブとなる。タイヤの片輪が浮く程度ならもう慣れた。ともかくもこうして毎晩、激戦の旅行業界で生き抜く男たちのすがすがしさが帰りのワゴンに響くのだ。
みんなネイティブの外国人とやり合えるだけの英語力を持ち、こんな小さなオフィスで終わってたまるかという野心が漲っていた。一人残らず僕と仲良くなろうとし、簡単な日本語を教わっていく。翌日さっそくそれを日本人旅行者に試しては僕に再度確認を取って、正確なアクセントを覚える。
僕にとっても、彼らと仲良くなることは、サトウィンダーの信頼を得るためにも必要といえた。
そして日曜日には、サトウィンダー家の子どもたちと遊んで仲良くなる。
朝から近所の広場でクリケット(野球に似たスポーツ)をした。もちろん僕はルールを知らないが、たいした問題ではない。こっちは小学生の頃によく遊んだ草野球で対抗するのみだ。
晩御飯までヒンディー語の書き取りを手伝ってあげたりもした。みんな英語がうまく、六歳の子でも「オゥー、トゥーマッチ・ペイン!」とか言っている。
食事は子どもたちと一緒にとることが多い。僕にはまだお客さん扱いなので、マダムたちが入れ替わり「おいしいですか?」とレストランのように尋ねてくる。僕はまさか違う返事はできず、目を離した隙にカレーが山盛りとなる。
「おかわりはいかが?」
と食べ終えた後もまたサトウィンダーの兄たちに最低三回は尋ねられる。こちらの衣食住は、すべて六月の酷暑季をしのぐためにできているので、毎晩のカレーも必要以上に辛い。僕は涙をこらえながら食べ続けた。ああ、しびれ薬かこれは。
ちなみにこの家では、他のインドの家庭のように、家事は女性だけのものではなかった。僕は、家主であるサトウィンダーのお父さんに朝食を作ってもらったこともある。
今日はサトウィンダーの姪っ子と一日遊んだ。乱暴な子だが、髪をおだんごにしてかわいい。多少蹴られても許していたのだが、この子が下半身裸でトイレへ駆け込む姿を見たとき、初めて男の子だったと気付いた。シーク教徒は男も髪を伸ばすのだった。
サトウィンダーの子分たちは、近所のアパートで共同生活している。フランス人もそこに泊まっていた。
彼らはみな地方出身者で、故郷へ仕送りしているそうだが、金使いは荒いし、たいした理由もないのにパーティーを開いた。
その日の夜は、ボスの友人のカナダ人が来て歓迎パーティだった。
サトウィンダーとボスとカナダ人はビジネスの話で忙しいが、子分たちは遠慮なく騒いでいる。酒や肴が振る舞われ、イスラム教徒もウイスキーを飲み、インドテクノが流れるとみんな踊り出した。
フランス人も手を引かれてイヤイヤだがダンスしている。こうなれば僕も座っていられない。すぐさま日本風の踊りで参戦した。
彼らが陽気なのは、なにも大麻を吸っているせいだけではない。なんでも笑い飛ばすような生まれ付きの明るさが誰にもあった。
それに歳頃の男たちだから、会話に色恋は欠かせない。
今夜もまた「恋人はいるか」と尋ねられる。僕は外国へ来ても見栄を張る方だから、もちろん「イエス」と答えたのだが、返事をしたら終わりではない。彼らの好奇心はここから始まるのだ。
「ビューティーか? どこの国の女だ? 名前は?」
僕はとっさに母親の名前を言ってしまった。
「歳はいくつだ?」
まさか母親の年齢を言うこともできず、沈黙していると、今度は「いいからいいから、写真を見せろ」ときた。僕は会話のネタに家族の写真を持参していたが、ここは「持っていない」と言い張るしかない。そしたら似顔絵を描かされた。
「これが、YOUの女か……」
陽気な彼らが珍しく黙り込み、なんとも後味の悪い会話となった。
フランス人はさらにノリが悪い男で、静かに読書している。まだ何かが納得できないようだが、金を無くして客引きをさせられたとはいえ、こんな体験ができた旅もまた楽しかったのではないか。彼らの郷土料理を日替わりで食べ、インドの生活を踊って体験できたのだ。彼らの料理には、素材なのかたまたま入ったのかわからぬ異物が混じっていたりするが、たいてい美味しくて腹いっぱい食べられた。
「カムンだ、ジャパン!」
またテクノ音楽が流れ、ダンス大会となった。深夜一時だというのにボリューム最大だ。その夜、僕は調子に乗ってずっと踊っていたらしい。
翌朝、サトウィンダーは僕の踊りの感想を述べた。
「ジャパンのダンスは、まるで動物園だな」
昨夜、僕はどんな踊りをしたか記憶にない。
旅行社の休みは日曜日だけで、パーティーの翌日だろうが、丸一日客引きに明け暮れる。
仕事熱心な彼らだが、まっとうな人たちだと思ったことは一度もない。雑談に麻薬の単語が混じることはしょっちゅうだし、
「インドじゃ三千ルピーだけど、日本では一人いくらで殺せるの?」
と真面目に聞かれたこともある。
旅行社の稼ぎは知れているから、いかがわしいサイドビジネスで稼いでいるのは間違いなかった。それが何かはっきりしないのだが、おそらく金融関係だろう。会話にすごいケタ数の金額が入るのは常で、オフィスに怪しい男が出入りしていた。
このいかがわしさは、いま僕がサトウィンダーに頼んでいることには必要だったから、気にしないようにしていたが、いや、いかがわしいのはサイドビジネスだけではなかった。
やっぱりここは、ぼったくり旅行社だったのだ。
それを僕が認めるには、新興宗教から脱会するに似た努力を必要とした。彼らと一緒に働くうちに仲間意識が芽生え、初日に買ったパキスタン行きのチケットの値段をすっかり忘れていた。
だが、お客に秘密の電話は隣のオフィスでかけるし、そもそもオフィスに看板すらないのは怪しいではないか。
毎日オフィスに出入りするとイヤでもわかってしまったのだが、二日に一度はお客とのトラブルがあった。たまたま僕が留守番しているときに、白人男性が怒鳴り込んできて、僕に抗議してきたこともある。
もめ事のすべてはコミッション(手数料)に関することで、すんなり返金するケースもあったが、たいていは汚く言い逃れた。
それは、特別な訓練でもしたような見事なテクニックだった。口論になっても、彼らは決して感情を顔に出さない。お客には徹底して穏やかに接し、話し合いには何時間でも応じる。しぶとい客が相手でも結局は「わかった、わかった、今晩みんなでパーティーしよう」と誤魔化すのだが、そこまでもっていく手際の良さは、さすが厳しい業界で生きているだけのことはあった。
僕が出入りして七日目のことだ。
南アフリカ人女性三人が一週間のツアーを手配したが、あちこち巡っているうちにその料金が法外なものであることに気付き、すぐさまオフィスに乗り込んできた。
サトウィンダーら社員総出で応対するが、彼女たちもまったく屈しない。夜八時を過ぎ、ビルのシャッターが降りても決着がつかなかった。狭いオフィスの中で六時間も向かい合っているのに、サトウィンダーは「チャイのおかわりはいかが?」と言って長期戦の構えを崩さない。
僕は先に帰ったふりをしながら観察したのだが、突破口は彼女たちの予定を細かく洗い出したときに開いた。
三人組の一人がもうすぐ誕生日であることを知って、サトウィンダーは、
「そりゃ大変だ。すぐお祝いしなくては」
と子分に視線を送ると、さっそく一番若い男が、
「料理を作っておきますぜ」
とアパートへ帰った。五分後には、イスラム教徒の男が頼みもしないのにビールを箱ごと買ってきた。
結局、その夜は全員でパーティーとなり、サトウィンダーも家に帰ってこなかった。
昨夜あれだけやり合ったというのに、朝八時にみんな笑顔で出勤し、グッドモーニングと僕に握手を求めてくる。また今日も、英語とペテンだけを武器にしてナンパに励むのだ。
ちなみに、僕が日本人旅行者を連れてきたことは一度ある。試しにアーグラまでの切符を頼んでもらったのだが、二等列車で四百ルピー、ぼったくりギリギリのコミッションを乗せてきた。僕がいなかったらいくらになったことか。
サトウィンダーの家族は、ここがぼったくり旅行社だと知っているのだろうか。それともコンノートプレイスの旅行社はどこも似たようなものなのか。
今日もまた、運の悪い外国人がオフィスにやってくる。僕は彼らに真実を伝える術がなく、そっとチャイを出すのみだ。
サトウィンダーは夜もほとんど仕事で出かけるが、用件のあるときは僕の部屋にきた。
僕のワークの話は、少しずつ始まった。
「今日もマダムと会った。反応は悪くない。女を連れ出すのも可能だろう」
サトウィンダーは密談だと早口になる。
「じきに女も決められるはずだ。それで、どんな女を連れてくればいいのか?」
これは考えても答えが出ないと思ったので、僕は家族の写真を渡した。
「母か姉、どっちかに似ている女を」
そっくりとはいかないとしても、せめて面影だけあれば理由になると思った。
すでに十日経ったが、時間がかかるのは覚悟している。
とにかく待つことがインドの生活だ。
たとえば、昼御飯はコンノート裏通りの安食堂に行くのだが、ある日のこと、フライドライスを頼んだのに一時間待っても料理がこない。厨房まで抗議に行くと、
「安心しろ。いま炊いている」
料理人はタバコをくわえながら鍋を睨んでいた。そうして午後が過ぎていく。
といっても、僕のチケットの有効期限は年内なので、ずっと待っていられるわけではない。
まだ具体的な話はなかった。サトウィンダーに交渉の経過を尋ねると「明日だ、明日には決まる」といつも言った。これは彼ら特有の言い回しだろうか。シベリアの日本人捕虜収容所では脱走を防ぐために「来月、帰国できる」とのデマを流し続けたというが、サトウィンダーもこの腹なのか。
僕は彼らの言動を徹底的に疑うクセがついていた。
きっかけは半年前、行方不明者の消息をたどってサルナートにきたときだった。おかげで僕のインド人観がすっかり変わってしまった。
サルナートはヴァラーナスの十キロ北にあるのどかな仏教聖地で、僕はそこの日本寺に泊まっていた。夕食後どういう流れだか忘れたが、そこのインド人青年僧が話してきたことがある。
「インド人はウソがダイスキね。この前、大金をだまし取られたよ。村の男がね」
その男は「うちの父が病気で…」という古典的な手口にひっかかり、年収に相当する金額を友人に渡したという。借りた男の父親はもちろんピンピンしており、罪悪感などないままその金でバイクを買った。これは村のみんなが知っている話だという。
「その人は、警察や裁判所とかに訴えなかったの?」
「意味ナシね。証書はないし、インドは賄賂テンゴクよ」
騙されるのは、外国人旅行者だけではない。インド人もインド人を信用していないのだ。
「列車の寝台を取るのもワイロ、電気を引くのもワイロ。学校も同じよ。成績も卒業証書もすべてお金で買える。テストの一番も二番も三番も、金を積んだ家の子どもよ」
「そんな人たちが学校を出て、どうなるっていうの?」
「大学へ行って政府の役人になる。まともに読み書きもできない人がね」
だから僕も、サトウィンダーをどこまで信用するべきか悩んだ。家族と一緒に寝泊まりしているが、そんなことは関係ない。彼が心底善か悪か、もはや僕の力では判断できなかった。きっと最後の日までわからないのだろう。ここまできたら自分の運にかけるしかない。
じつは待つだけでも退屈なので、他でも情報を集めてコネクションを作っていた。
町のチンピラに聞き込みしたところ、「ウーマンマーケットで女をオールライフ(all life) 買うのは可能」だと誰もが言った。
「女を外国に連れて帰りたいなら、すぐにでも交渉してやる」
とまで言う男もいた。しかし経費ははっきりしないし、身の安全を考えると、サトウィンダーとの交渉が失敗してからでも遅くはない。
なにより僕が頼りにしたのは、彼の英語力だった。サトウィンダーの英語はクリアーで語彙も豊富だから、細かいニュアンスも伝えられた。
そもそも彼と出会ったのは、この英語がきっかけだった。僕はチケットくらい自力で取る主義だが、あのときは情報収集をかねて旅行社を探していた。道端でサトウィンダーに声をかけられたとき、シーク教徒の客引きが珍しかったのと、この英語なら確実に聞き取れると思ったからオフィスまで行ったのだ。
それが、いまは彼の家に寝泊まりし、すべてを預けている。
※ ※
「先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる。日の下には、新しいものは何もない」(伝道の書 第一章九節)
このように聖書にも輪廻転生の思想に値する言葉が多く収められている、と転生を信じる者たちは言う。
ちなみに生まれ変わりを信じるかという質問に対して、六割がイエス、四割がノーと答えた統計があるが、現在、精神医療の分野でも、はっきり転生を肯定する学者が増えている。
前世療法と呼ばれるものがある。一九八0年代になってアメリカを中心に普及しはじめた最新の心理療法だ。退行催眠をかけて被験者を過去に連れ出し、トラウマとなっている幼児体験を思い出させるのは催眠療法で、さらにさかのぼると前世の記憶が現れるという。
あるセラピーが暗示をかけるときに「この人生で」という言葉を抜かしてしまったところ、次の瞬間に患者は武装した古代ローマ時代の歩兵軍団の隊列がお互いに向かいあう戦場の光景を細かく語りだしたという。
『前世療法』という本を出した精神科医のブライアン・L・ワイスは、この本を出すのに五年悩んだと書いているが、いざ出版してみると、多くのセラピストが同じように催眠療法によって「前世からのもの」としか表しようのない発言を聞いたのに無視してきた、と話したという。ちなみにワイル博士の前世とは「前世があることを唱えたが異端として処刑された学者」だったという。
ともかくも、生前の思いや行いに応じて、それにふさわしい者として生まれるというのがインドでも一般な生まれ変わりの法則だ。では、その「ふさわしい」とはどんなものなのか、少しばかり専門書を漁ってみた。
――原因不明の肥満に悩む女性が前世を思い出したところ、病気のために働くこともできず飢え死にしたという記憶がでてきた。餓死したときの心の傷が、必要以上に現在の自分を守っていたことを知った(『前世療法2』PHP研究所より)。
――極度の閉所恐怖症に悩む男は、前世では政治犯として地下牢に幽閉されていた経験があった。
――前世では十字軍の兵士で、出征中に貞操帯によって妻を極度に拘束していた男がいた。彼は現世では性的不能者として生まれている。
もちろん、ネガティブな面だけに働く訳ではないらしい。
マニキュアやハンドローションの広告に引っ張りだこのハンドモデルが、前世ではイギリスの修道院で手仕事を献身的に奉仕していたという記述もある。
ただ、退行催眠によって思い出される前世のほとんどは、強烈なほどつらい記憶ばかりという。おそらくはこの一点に、前世療法が驚くほど成果を現実に挙げ、単なるオカルトと切り捨てられずに済んだ理由があるのではないか。
言うまでもなく、つらいことを思い出すのは、問題を根本から解決させようとする力の働きだ。深層意識からくる自然治癒力で、人は生きながらに、もう一度生まれ変わるというのか。
※ ※
僕はとにかく待って待って待ち続けた。
客引きの真似事をしながら毎日コンノートをぐるぐる回り、いつも見ている大道芸人の奇術のタネが読めてしまうほど待った末に、やっと具体的な話が出た。
「ジャパン、まだ寝るな」
サトウィンダーが帰宅したのは夜中だった。彼は僕のワークのために、経験のないことをやってくれていたのだ。
「今夜は、マダムと四時間も話した。明日の四時、女と会う段取りをつけた」
今日まで時間がかかったのは、交渉を始める前にまずマダムとフレンドリーになる必要があったからだと彼は言った。これがインドのビジネスのやり方だという。
その夜、僕らが話し合って決めたことがある。
まず第一段階として、マダムから娼婦一人の一週間を買い取ること。彼女に一週間の休暇を与え、よく話し合って、もし本人が望むならば、故郷に帰れるように力を尽くすこと。
ただ、サトウィンダーは明日会う少女の名前も歳も値段も知らなかった。日本人相手だと了承した代わりに、女を選ぶのはあくまでマダムだという。たぶん、向こう側が一番都合の良い従順な女を連れてくるのだろう。
最後に、サトウィンダーが改まって話したことがあった。
「私がYOUを信用することに決めた理由は、三つだ。ひとつは、YOUが八五0ドルと持ち金の額を言ったこと。二つは、旅行社で働いたこと。三つは、家に金を置いたことだ」
そういえば、いつだったかサトウィンダーの二歳の娘が僕の部屋に入って、リックの中のお札をばらまいたことがあった。
「私のワイフが拾い集めた金を、YOUはカウントしなかったな」
たしかにあの時、僕は札束をそのままリックに戻した。単に面倒だっただけだが、散らばった札を数えないことは、彼らにとって相当のことらしい。
しょせんは会ったばかりのサトウィンダーと僕である。彼もこの何日かで僕を見極めていたのだ。信用を得られるかは、歳とか英語ができるとかではない。とっさの反応で試され、相手にどれだけ尽くしたかで決まる。これもインド人ビジネスマンのやり方だろう。
その翌日、結局は失敗に終わるのだが、サトウィンダーの言った通り一人の売春婦と接触した。
待ち合わせ場所は、普通の住宅地だった。学校帰りの女学生たちがリキシャを呼んでいる。
「待ってろジャパン」
僕は車から降ろしてもらえなかった。
向こうのカフェに用心棒らしい男が二人いて、白髪のマダムが背中だけ見えた。
「いいか、そこからよく見ろ」
背の高い男たちに囲まれて女が歩いてくる。女というより少女だ。皮ジャンにジーンズ、髪は長い。もちろん微笑みもしない。
サトウィンダーが戻った。
「一週間の料金が、五万ルピーだといってきた」
五万ルピーといえば、十八万円ではないか。
この少女は、いわゆるコールガールだった。マダムは僕からとことん巻き上げるために高級売春婦を連れてきたようだ。彼女は英語ができること、マナーがあって上品で話もうまい、なにより十七歳を売り文句に一週間で五万ルピーだという。
高級売春婦の実態は、インド国内でベストセラーになり一時発禁処分にまでなった『インドのコールガール』(新宿書房)に詳しい。赤線地帯で働く女性とは違って、日頃は普通に生活し、電話で呼ばれてホテルやお客の家に行く。教養も身分もある女ということで、料金はケタが違う。こういうものの値段は、日本とそう変わらないはずだ。
少女はこちらに歩いてくると、車内の僕を一瞥した。彼女が本当に十七歳なのかは知らないが、頬や唇の張りはどう見てもティーンエイジだ。そして用心棒らしい男より、明かに僕の方に脅えている。敵意ともいえる眼だった。
「どうするジャパン?」
「もちろん帰る」
ともかくも値段を聞いて、僕らは遠慮なく帰ったのだが、向こうも値段をつけるのに困ったようだ。一万ルピーだと安いし、十万ルピーだと高いから五万ルピーなのだろう。これもインド式の勘定である。
「ジャパンよ、交渉はやり直しだ」
今日のことはサトウィンダーも計算外だったらしい。こんなに動揺した彼を初めて見た。後に聞いたのだが、サトウィンダーは美しく礼儀正しい少女を連れてこいと注文したのだという。
「ジャパンよ。まだ時間がかかる。いいか?」
「ああ。今日はひとつの経験だった。まだ待つさ」
「サンクス」
それでも、さっき人を買おうとしたのは、どう見ても僕の方だった。子どもの頃、カマキリを握り潰した時と同じ不快感が残る。
僕は、しぶとく耐える用意があった。いまここでやめてしまったらこの先、何年もかけて後悔する気がした。これはまだ、僕に妻子もおらず、まともな職もないうちにやってしまわねばならなかった。
初めてインドに来たときを思い出す。
僕はインディラ・ガンジー空港を一歩出た瞬間にはもう悪徳タクシーに乗っていて、偽政府観光局に連れ込まれた。無理やり旅の日程を決められたか思うとガイドを雇わされ、政府直営というエアコン付きホテルに泊まったら、部屋のエアコンは紙の模型だった。その後も、切符一つにぼったくられ、詐欺師の男に雑居ビルへ連れ込まれ、踏んだり蹴ったりの目に合って帰国した。
これは強烈な体験には違いなかったが、ただ、よく考えてみれば、踏んだり蹴ったりは日本での生活だって似たようなものだった。
大学を中退してから何年か、僕はほとんどをボロアパートの六畳間で過ごしていた。年に数回、外国でムチャをする以外は、外へ出なかった。うまく笑えない。友人と会っても何を話して良いのかわからない。どこかへ出かけてもすぐ部屋に帰ってテレビを見ている。ライターの仕事をやっていこうとしながら、人とも会えない羽目に陥っていた。
けれどいまは、この国で全財産をはたいて、家族にすら捨てられた少女と共通の逆転を経験したなら、この何年かが無にはならないような気がした。これが僕を動かしている。
オフィスに帰ったが、誰もいない。
今日はフランス人の最後の日で、空港まで見送りに行ったらしい。僕は別れの言葉を言えなかった。
翌朝、子分たちはいつも通り出勤してきたが、みんな髪形が変わっていた。
「ははっ、ギブ&テイクだぞ」
順番に自慢してくる。
フランス人に散髪してもらったのだ。
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