エピローグ

 学生たちが寝静まる真夜中。

 悠里は一人でベランダに出ていた。


 眼鏡を外していても人がいない今、光は月のそれだけだ。


 白い満月。


 自ら光ることはできなくても、それでも世界を照らそうと一身に光を受けて跳ね返す。

 なんて健気なのだろう。


「君の向こう側に光はないんだろうね」

 悠里は月を眺めながら小さくぽつりとこぼした。


 からりと後ろで窓の開く音がする。振り向くと少し不機嫌そうな棗がいた。


 ひどく眩しい光をまとっている。


 寝起きの悪い棗が夜中に起きてくるとは珍しい。それとも夜中の眠りが浅いから朝は起きられないのだろうか。


「起こしちゃったかい」

 悠里が小さく尋ねると棗は首を横に振る。そのまま外に出て窓を閉めた。


「眠れないのか」

 今度は棗が尋ねる。いいやと悠里が首を振った。

「綺麗な満月だからもったいなくてね」

 二人は黙って月を見上げる。


「今日の話」

 棗は唐突に言った。うん、と悠里は振り向く。


「お前が俺たちを信じていたから何も話さなかったって本当か」

 ああその話かと悠里は納得したように頷く。


「そうだね。僕は利用したんだ、君たちを」

 ひどい話だろうと言って笑う悠里を棗は黙って見つめる。

 その目は真剣だった。


 違う、と棗は思った。

 悠里は何かを隠していると。


 違う、と悠里も感じた。

 棗が聞きたいのはそんな話ではないと。視線を避けて悠里は再び月を見つめる。


 悠里は棗たちに感謝していた。悠里を信じてくれたこと。かばってくれたこと。


 でも信じてくれなくてもよかった。かばってくれなくてもよかったのだ。停学でも、たとえ退学になったとしても。


 この学校に長く通うつもりはなかったが、今となっては悠里はここを離れたいとは思わない。そして、だからこそ退学になるべきだと思ったのだ。そんな理由でもなければ離れられない気がした。


 二人の真ん中に沈黙が横たわる。どっしりと居座るそれはしばらくすると遠くで鳴く猫の声で破られた。


「悠里」

 棗は悠里の隣に並んで言う。

 なんだい、と悠里は月を見たまま返事をする。


「お前はどうしてここに来た」

 質問の意味を図りかねて悠里は棗に向き直る。どういう意味だと目で問いかけた。


「絵術師になりたいのか」

 棗には野生の本能でもあるのだろうか。ここに来る者の目標はほとんどが絵術師で、それになれない者は他を探す。


 しかし悠里は絵術師になりたいと思ったことは一度もなかった。それ以外に何かあるのかいと尋ねて悠里はまた目を逸らす。


「上辺だけの付き合いをやめたって言ったから俺はお前と友達になったんだけどな」

 厳しい声で言う棗にぴくりと悠里は肩を震わす。


 僕は別にと言いかけて振り向き棗の目を見て言葉を失くす。


 これだから困るのだと悠里は思った。


 厳しい声とは裏腹にその瞳はひどく優しい。鋭い目つきであるくせにその瞳はひどくあたたかい。


 それを見てしまうとなぜか嘘をつくことができなくなる。悠里は諦めに似たため息をこぼした。

 ベランダに腕を乗せて俯く。


「存在の証明のため」

 かな、と悠里は呟いた。

 どういう意味だと今度は棗が沈黙で問いかける。


「自分が本当にここに存在しているのか」

 みんなが探し求めていることさと悠里は顔を上げて何でもないように言った。

「僕もそれを探しに来た」


 そういえば、と棗は考える。危険な絵を描いてしまった学生会会長の快斗は自分の存在を否定していた。

 認めてほしくて受け入れてほしくて、しかしながらプレッシャーや劣等感に押し潰されそうになっていたのだろう。だからこそ自分自身を認めることができなかった。


 それはつまり存在の証明を必死に探していたのかもしれない。認めること、認められることこそが存在の証明なのだろう。


「それで見つかったのか」

 同じようにベランダに腕をかけると棗は聞いた。いや、と悠里は首を振る。

「世界にとって僕が偽りか真実かなんて分かるわけがない」

 吹っ切れたような晴れやかな表情で悠里は言った。


「だって僕は世界じゃない」

 言って笑いかける悠里はあまりにも美しくあまりにも儚い。この世のものではないようなそれに棗は言い知れぬ不安を覚えた。


 でもね、と悠里は続ける。

「少なくとも僕にとってこの世界は真実に思えるんだ」


 君たちに出会ってそう思えた、と。


 なるほどと棗は納得する。

 結局、人は人と関わることでしか自身の存在を信じることができないのかもしれない。だから人を求め人から求められたいと願う。


「どうして千景はここ最近女の子と遊ばないで僕たちといるのかな」

 ふいに尋ねる悠里に、こっちにいる方が楽しいからだろうと棗は言う。


「どうして志希は友達をたくさん作りたいって言っていたのにずっと僕たちといるのかな」

 他の人とよりここにいたいからだろうと棗は言う。


「どうして樹は勉強時間を削ってまで僕たちと一緒にいるのかな」

 あいつにとってはここにいる時間も大切なんだろうと棗は言う。


「どうして棗は一人の時間がなくても平気なのかな」

 確かにここ最近棗が一人でいる時間は少ない。そんなことにも気付かないくらい棗は悠里たちといることが当たり前になっていた。


「どうして君たちは僕を信じたのかな」

 棗が何も答えなくても悠里は一人で続ける。そもそも質問していたわけではないのだろう。


 からりと再び窓の開く音がする。

 千景と志希と樹がいた。


「どうしたの」

 みんな揃って、と悠里は目を丸くする。

「どうしたのはこっちのセリフだっつの」

  無実を証明できたこと、そしてそれが一丸となって協力した結果だということが彼らの気分を昂らせていた。


 悠里は棗と顔を見合わせると、ふは、と笑う。

「なんでもない」

 棗が言い、

「綺麗な満月だからもったいなくてね」

 悠里は棗に言ったことと同じことを言う。


 三人も釣られるように月を見上げた。その彼らを悠里は眼鏡をかけていない瞳で見つめる。


 ゆらり、ゆらゆら。

 水彩絵具で描く絵画のようにじわりと滲み、広がり、重なる。


 心の光が描く世界はどんな絵画よりも美しかった。


 白く輝く月が眩しい。

 それは彼らに限りある時間を思わせ、不安と、そして安心を与えていた。

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ゆらゆら、心模様。 美潮 若菜 @mishiowakana

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