千物語「夢」

千物語「夢」 

目次。

【クレッシェンド・ダ・ヴァーニーなる小説家について】

【裁縫の秘密】

【おねしょの跡と宝の地図】

【アイカがどう思おうとも】

【糾える鎖のごとく】

【愛は世界と結びつく】

【心の断面図はガラクタで】

【ナマズの姿が目に浮かぶ】

【魔王、去る】

【栞を宙に挿す】

【浮島のごとく静かに】

【寸借詐欺に遭った話】

【我が隣人にして敬愛なる】

【彷徨う者はなぜ】

【瞬久間弐徳の焦燥】

【塞ぐ者たち】

【麺と毛糸】

【仮想の現実へようこそ】

【ナットウマン】

【異端の名探偵】

【巨大な、亀と水溜まり】

【びびっとイートシステム】

【蘇る者たち】

【紛い物抹消装置】

【オーバーなほどにゲーム】

【腐れ縁のサファイヤ】

【父の波紋】

【トトトの帰還】

【雪男はなぜ山にでるのか】

【殻の中】

【卵からミニカー】

【天狗の鼻とボク】




【クレッシェンド・ダ・ヴァーニーなる小説家について】


 やあ、待たせたかね。

 道が混んでおったものでな。すまんすまん。

 おっとわしは珈琲を一つ。きみはもう頼んだのかね。そうか。

 お、ありがとう。

 どれ、クレッシェンド・ダ・ヴァーニーについて知りたいそうだが、まずはこれを質しておこう。誰からわしの話を聞いたのかね。

 ほうほう、そうか。

 ヴァーニーが日記を。

 よもやあやつがわしのことをじぶんの筆に載せるとは。

 絶対にありえんことだと思ってきたが、奇跡はどこにでもあるものだな。

 時間もない。

 さて。

 きみはヴァーニーの何が聞きたいのかね。

 ほうほう。

 創作の秘訣、か。

 なぜあやつがああも良質な小説をかくも多くつむげたのか。

 その秘密を暴きたいとそうおっしゃるか。

 若いな。

 たしかきみも小説家と言っていたな。

 ヴァーニーを主人公にした小説でも書きたいのかね。だとしたら協力はできんな。ヴァーニーは偏屈屋でね。せっかく虚構を描くのだから、せめて小説では極力現実にある要素を取り入れない方針を貫いていた。

 そのヴァーニーの意思に反したことを、当人の取材をもとに成されては、わしも目覚めがわるい。

 ほう、そうではないと。

 ではなにゆえおまえさんはヴァーニーを取材する。

 ほうほう。

 多作の秘訣を知れば、じぶんもヴァーニーのようになれるかもしれないと。それは無理でも、越えるためのヒントにはなるかもしれないとそういうことか。

 野心家だな。

 よかろう気に入った。

 ヴァーニーを越えるか。いいぞ。若者にのみ許された特権だ。大いに驕るがよい。

 そうさな。

 簡潔に述べてしまえばヴァーニーの多作の秘訣は、おそらく生活習慣にはない。あやつは引きこもりでな。滅多に人と関わろうとせんかった。

 他人に割く時間を創作に充てていた分は、たしかに多作に寄与していたとは思うが、それだけだったらばほかの専業作家とて条件は同じだろう。

 きみも知っているだろうが、ヴァーニーの特筆すべき点は、ただ作品を量産したことだけでなく、一つ一つの作品の色合いがバラバラで、色彩に富んでいたことが挙げられる。つまりが、作風の幅が異様に広いのだな。

 それからあれほどの作品群を手掛けておきながら、ヴァーニーは一つとしてシリーズ物を手掛けなかった。

 これはいわばヴァーニーの秘密のヒントと言ってもいいかもしれん。

 おやなんだね。

 じらさないで欲しい?

 結論を急ぐのが若者のわるい癖だ。小説とて同じだろう。結末よりもそれに至る過程が大事なのだ。人生と同じだよキミ。

 おっといけないな。先達面をしてしまった。上から目線で語れるほどにはわしも人生経験があるわけでもなし、それこそ小説を書いているだけ、きみのほうがヴァーニーについて語る資格があると言えようものだが、なんにせよ、わしはヴァーニーと付き合いのあった数少ない知人の一人であることはきみの調べたとおりだ。間違ってはいないよ。

 わしの知る偏屈な友人、クレッシェンド・ダ・ヴァーニーについて、いよいよ核心に迫ろうか。

 じつはな。

 あやつは若い頃より病を患っておってな。

 若年性というやつだ。

 そう、もうこの時点で気づいたかね。さすがは小説家だ。

 なぜ、ヴァーニーがああも多様な作品を手掛けられたのか。

 ふつうならば枯渇してしまいそうな物語の種を、なぜ一人であれほどまでに編みだせたのか。

 簡単なことだ。

 ヴァーニーは、つねに小説を書くことに苦心していた。

 小説を書くのはむつかしい、と会うたびに彼は呻吟しておった。

 いつ会っても同じように、頭を抱え、同じような愚痴を漏らしておったよ。

 しかしたとえば、そう、きみはじぶんの過去作を憶えているかね。まあ憶えているだろう。だがもしそれと同じ物語を何も見ずにもういちどイチからそらで書き直してみたとして、それは最初の作品とどれだけ似るだろうか。

 むしろ、まったく違う物語、読み味、話の展開になりはしないだろうか。

 うん。

 その通りだ。

 ヴァーニーはつねに、たった一つの物語に苦心していた。

 彼の認識のなかでは、じぶんは生涯で、一作しか書けないような才能のない作家だったのだ。

 だが彼の認識のそと、すなわち我々からすると、彼は毎日のごとく新しい物語を生みだし、そのどれもが新鮮だった。

 それはそうだろう。

 彼はつねに、たった一作のために、その瞬間瞬間、全力で、全人生を賭けて、書きつづけていたのだから。

 連続して日々を生きている我々には到達できない高みに、彼はつねに立ちつづけていた。

 否応なく、彼の病が、彼にそうした日々を強いていた。

 ヴァーニーは、いちどもじぶんが世間から文豪として崇められていることを知らなかった。知れなかったのだ。

 知ったところで、つぎの日には忘れている。

 もう分かっただろう。

 クレッシェンド・ダ・ヴァーニーなる人類史上稀に見る小説家が、なぜああも斬新な物語を誰より多く、生みだしつづけていられたのか。

 閃きというのは再現性がない。

 そのときどきで、掴み取らねば、また新たな閃きを待つしかないのだ。

 ヴァーニーはしかし、閃きを逃したことがない。

 否、閃きを逃した記憶を持てなかった。

 ゆえに、日々、目のまえに漂う一生にいちどのそれを全力で掴み、人生を賭して物語に膨らませ、つむぎ、錬成する。

 誰にも真似することなどできはしないさ。

 クレッシェンド・ダ・ヴァーニー、彼は死ぬまで、じぶんが小説家として活躍していた事実すら知ることがなかったのだから。

 きみやわしのような熱心な読者がいたことを、彼はそう、生涯知ることなく、孤独なままで、死んでいった。

 きみはそれでも、クレッシェンド・ダ・ヴァーニーのような作家になりたいのかね。

 悩む、か。

 そうだろう。いまはまだ、それでいい。

 大いに悩みたまえ。

 きみたちの仕事とはすなわち、悩みつづけることだと言ってしまってもいいのだからな。

 クレッシェンド・ダ・ヴァーニー、彼自身が、死ぬその瞬間まで、そうであったのと同じように。




【裁縫の秘密】


 アカネちゃんの祖母は魔女だそうだ。魔女の血を引くアカネちゃんもだからきっと魔法が使えるのだろう、と思ったけれど、どうもそうではないらしい。

「魔法使えないよ」

「そうなの?」

「習ってないから」

「ふうん。じゃあ何ができるの」

「何も」

「何も?」

「うん。ただおばぁちゃんが魔女だっただけの娘っこです」

 娘っこ、の言い方が飾り気がなく、寂しげにも聞こえ、だから私はそのときすくなくともアカネちゃんが嘘を言っているわけではないのだな、と見做した。彼女の祖母が真実に魔女だったのかどうかは定かではないし、確かめようもないのだけれど、すくなくともそれを本当のことだとアカネちゃんが信じていて、そしてそれをすこし後ろめたく思っていることは私には伝わった。

 アカネちゃんは何も、じぶんを大きく見せるために祖母が魔女である話をしたわけではないはずだ。

 話のきっかけはそもそも、彼女が祖母の葬式に行ってきたという話の流れからだった。

 このとき私たちは小学五年生で、互いに孤立していた。仲良しこよしを演じるにはお互いに精神的に背伸びをしていて、孤立していることすら望んでそのような境遇に身をやつしているのだ、と懸命に思いこもうとしていた。

 真実に、一人で過ごす時間がないとまいってしまうタイプの性格ではあった。かといって友人がいたらいたで楽しめるくらいには他者との繋がりに飢えていた。

 思春期まっただなかの少女など、傷心を負った狼くらいに繊細である。輪の中から弾きだされた狼ともなれば、それはもう獰猛に磨きをかけてツララのごとき透明さを宿した鋭利そのものと言えた。

 私とアカネちゃんは、放課後になるたびに河川敷の橋の下で、架空の猫を飼っているフリをしながら、陽が暮れるまで嘘か本当かも判別のつかない話を、バドミントンでもするかのように交互に投げかけ合っていた。

 彼女とは六年生になったのを機に疎遠になった。クラス替えがあったからだ。私のほうでは、そりの合わなかった子たちと教室が離れたこともあって、こんどはクラスに打ち解けた。

 いっぽうのアカネちゃんがどうだったのかはよく解らない。ただ、放課後の帰りに、橋の下で一人で土いじりをしている姿を目にしていたし、学校の休憩時間中はよく一人で廊下をどこへともなく歩いていた。

 話しかければよかったのに、当時の私にはそれができなかった。アカネちゃんをじぶんのクラスメイトたちに紹介するのが億劫だったし、きっとアカネちゃんにしてもそれはされたくないだろうな、と思ったからだ。それはつまり、それをすることで私のほうが施す側で、優越感を抱くような立場にあるとあからさまに示すように感じたからだ。

 対等でありたかった。きっとアカネちゃんのほうでもそのように望んでいると思った。

 また、私から彼女に話しかけに寄るのも違和感があった。単に、接点がなかったのだ。クラスが離れれば疎遠になる程度の縁しかなかった。

 特別な縁ではあった。しかし、がんじがらめに結ばれるような絆ではあり得ず、むしろ、何年経っても薄れることのない傷跡に似た縁に思えた。

 空白が開くのが当然で、それを無理に埋めようとするほうが間違っている。

 私はそのように感じていた。いまから振り返ればそう考えをまとめられるだけかもしれないが、けっきょく小学校を卒業するまでアカネちゃんとは話す機会はなかった。

 学区が違ったので、中学校は別々だった。

 中学校では私も社交性を身に着け、つつがなく学校生活を送った。

 高校生になるまでのあいだに小学校時代の記憶は薄れたが、案の定というべきか、アカネちゃんとの河川敷の橋の下で過ごした時間だけはいつまでも色褪せなかった。

 高校生になって、私はアカネちゃんと再会した。同じ学校だったのだ。クラスも同じだった。

 私のほうではすぐに気づいたけれど、アカネちゃんのほうでは一瞥もくれず、目も合わない。

 忘れちゃったのかな。

 それはそうか。

 寂しさが湧いたが、そちらのほうがしぜんに思えた。だいたいにおいて見た目がすでにだいぶ違う。小学校時代の私は髪の毛が短く、やんちゃで、兄のおさがりを着ていたのでほとんど少年のような見た目だった。ランドセルも兄のおさがりの黒色を背負っていたので、たまにスカートを穿いて歩いたときには、同級生のみならず、見ず知らずの下級生からもからかわれた。

 当時はなぜからかわれるのかもよく分かっていなかったが、いまなら理解できる。私の隠しきれぬ美貌にみな嫉妬していたのだ。きっとそう。

 休み時間に手鏡を覗きつつじぶんの顔にうっとりしているあいだに、クラス内にはいくつかの輪ができ、うっかり出遅れた私はぽつねんと余った。ありもしない抽選会で一人だけ漏れたような空虚さを覚える。やさぐれたくもなる。けっ、という気分であった。

 そうして孤立しつつあった私と同様に、アカネちゃんもどうやらみなの輪には加わっていないようだった。

 家は離れてはいれど、帰る方向は同じだ。学校から駅までの道中で私はアカネちゃんと一緒になった。彼女の背中を私が十メートル以上の距離を開けつつ追うような、私だけが一方的に気まずい思いを持て余す下校であった。

 プラットホームでもすこし離れた場所に立った。

 アカネちゃんから話しかけてくれないかな、とモタモタしているうちに電車が滑り込んできて、彼女はとなりの車両に乗り込んだ。あとはもう彼女の姿を目にすることはない。

 翌日も、その翌週も、私は彼女との接点を得るための契機を探った。棚から牡丹餅よろしくきっかけが落ちてこないかな、と思いながら、けっきょく一言も声をかけることができずにひと月が経過した。

 教室では小学校時代のように互いに孤立していた。しかしさすがに高校生ともなると、陰湿な仲間外れはナリを潜めた。いや、あるところにはやはりあるが、いまは舞台を現実からインターネット内へと移しているので、孤立している側からしてみると、何をどう噂されているのかは分からない。

 一人で過ごす時間は苦ではないが、他人から気を使われるのは気分が塞ぐ。意識しないように意識されることほど抵抗しようのない干渉はないのではないか。

 孤独な時間を過ごすのが同年代の女の子たちよりも多いせいか、私はちょぴっとだけだけれど理屈っぽい。じぶんとの対話を重ねると人はどうにも筋道の在り様を気にしだすようだ。

 その日は金曜日だった。

 高校にあがってから初めてのテストを終えた週末のことで、再開された部活動に精をだしている同級生たちを尻目に私は一人でぽにゅぽにゅと駅までの道を歩いていた。

 思えばテスト期間中は放課後に学校でテスト勉強をして帰っていたので、駅までの道中でアカネちゃんを見かけることはなかった。

 しかしきょうも見ないとは。

 そう思い、何気なく後ろを振り返ると、目が合った。

 アカネちゃんが数メートルうしろを歩いていた。

 ぎょっとして立ち止まったのはお互い様だった。

「あ、どうも」

 下手クソな挨拶に、アカネちゃんのほうでは会釈を一つくれた。

「小学校一緒だったよね」そうつぶやくと彼女は歩きだした。

 私の横を通り抜け、すこし行った先で歩く速度を落としたので、私はそれを何かしらの許しだと見做し、駆け足で彼女の横に並んだ。

 そこからは、まるでこれまでの期間がなかったかのように会話が弾んだ。これまでの期間というのはだから、高校にあがってからのことではなく、小学校五年生以降の、彼女との縁が遠のいた期間のことだ。

「いっつも帰るとき後ろから尾行されてる気分だった」

「あはは」

「声かけてくれればよかったのに」

「ですよねー」

「ま、それはあたしも同じか」

「そだよそだよ」

 探り合うような会話であったが、しかし元から私たちはこういう感じの会話しか交わしてこなかった。小学校五年生に戻ったかのような心地だ。それはまるで分厚い殻に覆われた卵を、玉ねぎを剥くようにして取りだすような感覚だった。

 力を籠めすぎて卵を割らないように。それでいて、この数年間で培った人格の脂肪を削ぎ落とすように。

 剝きだしの魂を晒しても、お互いに傷つけあわないギリギリの距離感を、私は彼女となら阿吽の呼吸で合わせられるのだ。

 そうと直感できるあたり、人の中身など早々に変わらないのだ、と知って哀しくなるような安心するような妙な気分に浸った。

 私たちはそうして学校帰りには一緒に地元の駅まで帰る仲となった。金曜日などはそのまま街まで出かけて映画を観たり喫茶店巡りをしたりした。夏場は公園のベンチでアイスクリームを舐めた。

 ただし、学校ではやはり互いに距離を置いた。なぜかは分からないが、私たちの縁を他人に知られたくなかった。それは傷を隠すような誤魔化しではなく、宝物を大事に仕舞っておくような秘密だった。

 休日とて私たちはとくに連絡を取りあうことはなく、遊びに出かけることもなかった。

 学校帰りのあの時間だけが私たちの秘密の花園だったのだ。

 夏休みはけっきょく一度もアカネちゃんとは会わなかった。私は父の誘いで海外旅行についていき、暑さとは無縁の地にて高山病にかかったりした。風評被害を考慮してここに国名は記さぬが、日本の水道水と便器をあれほど恋しく思ったことはない。

 秋の暮れ、私とアカネちゃんはいよいよ学校帰り以外でも遊ぶ約束をとりつけた。というのも、

「夏休みちょっと寂しかった」とアカネちゃんが言いだしたのだ。

 驚天動地である。

 何気ない告白ではあったが、そこには明白に彼女の恥辱の念がもじもじと滲んでいた。

 私は呆気にとられた。それから、空いた沈黙を急いで埋めるようにブンブンと首を縦に振った。「私も私も」

 なんだじゃあ、誘えばよかったね。そうだね。じゃああした遊ぼっか。

 そうして淡々と休日にも会う約束を交わした。

 互いに遠慮し合っていたのだ。

 本当は休日も会いたかったのだけれども、それを言ったらいまの関係が崩れそうで、下校中の時間が秘密の花園ではなくなってしまいそうで、それを怖れるがあまり、言いだせなかった。

 とりもなおさずそれは、アカネちゃんが私との時間を宝物のように思ってくれていたことの裏返しで、それはそのまま私にも当てはまる図星であった。

 私たちはさっそく翌日から遊ぶようになった。以降、学校帰り以外でも、時間さえあれば二人きりで会うようになった。

 それをなぜ、遊ぶようになった、と表現しないのかについてここでは詳しく述べないが、端的に形容するならば、ただ同じ時間を共有できればそれでよかったから、と言い表せる。

 ただ同じ時間を共有できればそれでよかったから。

 そうと口ずさみ、私はうっとりする。

 私、詩人じゃん。

 冬休みに入り、クリスマスイブを目前に控えた十二月二十日のことである。

 どの道、互いに恋人はいないのだし、どうせ当日も暇だろうから、二人でぱーちーしようぜ、と提案した。

「いいね。じゃああたしケーキ買ってくね。飲み物よろしく」

「え、待って待って。なんでウチでやるみたいになってるの」私は抗議した。「そこはジャンケンでしょうよ。というかいつも遊ぶときウチじゃない?」

 このときのアカネちゃんの、しまった、という顔はディズニーアニメにそのまま模写してもらってもいいくらいの、しまった具合であった。

「フライドチキン持ってったげるから、イブはアカネちゃん家ね。ムリならクリスマスでもいいし、なんだったら空いてる日でもいいし」

「や。ちょっとウチはね」

「なに? じゃあまたウチで、お母さんのしゃべり相手になる? 私はべつにそれでもいいけど」

 アカネちゃんの頭脳が素早く何万回転もしたのが判った。というのも私の母が彼女を気に入ってしまい、私をそっちのけで、アカネちゃんを猫かわいがりするのだが、それはむろんアカネちゃんが客人としての立場を弁えて、我が母の駄弁りにおとなしく相槌のみを打ってくれるからだが、それを我が母は、己の駄弁りが面白いゆえだと勘違いして、余計にアカネちゃんをお気に入り登録するのであった。

 しかしあれは苦行だぞぅ。

 我が母の口からポポポポンっとピンポン玉が連射され、それがアカネちゃんのオデコに当たる様を想像する。現実との相違を見繕うのに苦労する。

「いいの?」と私は迫った。「またおでこにピンポン玉がポポポポンだよ」

「ねーそれずるくない? ずるいって。ずるいずるい」

「毎回ウチにきたがる娘っこほどではないですけどね」

「くくっ。なにその娘っこって言い方。可愛いんだけど」

 遥かむかし、私たちがまだ小学五年生だったころに、あなたが口にした物言いでしょうに、と思ったけれども私は、可愛いっしょ、と口元をトウモロコシみたいに横に開いて、ニッ、とする。

 根負けしたようにアカネちゃんは道路の小石を蹴った。カフェ巡りの帰りだった。夕暮れまでは時間があり、風の冷たさの割に日差しがぽかぽかと心地よい。

「別に来てもいいんだけどね」

「じゃあ行く」

「うーん。気持ちわるがられたら嫌だなって」

「気持ちわるがられ?」

「まあ、でも、いいや。遅かれ早かれだしね」

「遅かれ早かれ? 何が?」

「いいよ。ウチでパーティしよ。二人で」

「やりぃ」ひとまず私は浮かれた。

 じぶんの家へ友人を招くことへの抵抗感は私も拭いがたくあった。アカネちゃんの駄々こね虫もそれだと思ったのだ。

 なんだかんだとクリスマスイブ当日になり、私は前日に準備しておいた飲み物とお菓子の詰め合わせのパンパンに詰まったリュックサックを背負い、着替えの入った手提げをぶら下げた。

 アカネちゃんの家までは前以って地図で教えてもらっている。

 中学校では学区が違ったが、隣の駅だ。徒歩でも辿り着ける距離にある。

 とはいえ、荷物が荷物なので、電車に乗った。

 駅を下りると、アカネちゃんが自転車に乗って迎えにきてくれていた。

「持つよ」アカネちゃんがリュックサックを背負ってくれる。「ねーってば、なにコレ重くない?」

「重いよ」

「飲み物入れすぎ」

「いっぱい喉乾いちゃうんだ私」

「紅茶くらいウチで淹れるよ」

 そこから彼女の家まで、ほとんど道を見ていなかった。きっと帰りは一人で駅まで辿り着けないだろう。見送りに付いてきてもらおうと、私はもはや運命ごとアカネちゃんに委ねていた。

 アカネちゃんの家は、どこにでもある一軒家だった。ウチとほぼほぼ同じくらいの広さだ。自動車が二台停まっていた。

「アカネママとパパいるの」私は訊いた。

「いるけど、挨拶だけしたらあとは構わないでって言ってあるから」

「ひょっとして迎えに車出そうかって言われて断ったりした?」

「あーうん。したかも」

「車でラクしたかったぜ」

「ふふっ」

 子アザラシみたいな笑みで誤魔化されたら、許すしかあんめい。

 玄関を開けると、アカネちゃんのママさんが立っていた。奥からパパさんが顔を覗かせる。アカネちゃんはパパ似なのだな、と驚いた。ママさんはコロコロとしあわせが詰まったコッペパンのような見た目で美味しそうだ。パパさんはまるでアルプスの少女のおじぃさんといった貫禄ある静謐な印象の素朴人だった。

 簡単な挨拶を交わして、母から持たされたお菓子を渡す。

 あらあらそんなありがとう、と謙遜でなくうれしそうにしてママさんは受け取り、パパさんはにこやかに会釈をするとすぐに奥に引っ込んだ。静かなる守護霊といった厳かさがある。

 さっそくアカネちゃんの部屋へと案内され、私はそこで一日のほとんどを過ごした。クリスマスイブである。

 夕食はさすがに居間に下りて、ママさんとパパさんと一緒に食べた。食べた、というかご馳走になったわけだが、私は生まれてはじめて生ハム原木を見たし、丸々一羽のローストチキンを見た。

 ケーキは、どこの食べ放題バイキングですか、といった調子で、明らかにきょう食べきれる量と種類ではなかったが、どうせ明日も食べるんだし、とママさんは、おほほほ、と上品に笑った。

 どうやら私がくるからと、クリスマスディナーを二日分支度していたらしい。

「なんかすみません。ありがとうございます。こんなご馳走、初めて食べました」

「わたしたちも。奮発しちゃった」

「構わなくていいって言ったんだけどさ」アカネちゃんは恥ずかしそうにした。

「こんなときじゃなきゃだって贅沢できないんだもの」

 ママさんがしきりに料理をお皿に寄り分けてくれる。パパさんはそこだけ次元が違うかのように物静かにしていた。間接照明のような人だな、と私はアカネちゃんのパパさんを快く思った。

 食事の後片付けを申しでたが、ママさんに断られた。お風呂に先に入っちゃって、とのお言葉に甘えて、私たちは順番にお湯に浸かった。アカネちゃんが先に入った。髪の毛をタオルで拭きながら部屋に戻ってきた彼女と入れ替わりに、私が洗面所に入った。

 その後は、またアカネちゃんの部屋にて私たちはおしゃべりに夢中になった。

 アルバムを見たり、むかしの思い出話に花を咲かせた。

 正直に言うと、ここまでが長い長い前置きであって、この物語は、このあとが本筋となる。冒頭で私が、アカネちゃんの祖母が魔女だった話をしたのを憶えておられるだろうか。じつはあのエピソードはこの先に繋がる。

 アカネちゃんの部屋は長方形の八畳一間だ。小型の冷蔵庫があり、薄型ディスプレイが壁にかかっている。ふだんはそこに海外の風景やクラゲや淡水魚の映像を流しているそうだ。必要なら、インターネットにも繋げるし、絵を描いたり、テキストを打ったりもできるそうだけれど、滅多に使っていないそうだ。

「かってにロッカーの中とか見ないでね」

 部屋をでていくとき、アカネちゃんは口癖のように言った。あまりに毎回のように言われるので、本当は見て欲しいのかな、と疑ったものの、彼女の口ぶりは真剣そのものであるので、どうやら本心から漁って欲しくはないようだと判った。

 私は彼女が席を外しているあいだ、言いつけ通りに、漫画本を読んだりしてじっとしていた。箪笥を漁って下着の趣味をじぶんと比べるなんてはしたない真似もしない。

 ただし、気がかりが一つあった。

「ごめんね。お母さんがケーキ持ってけってうるさくて。もう歯磨きしちゃったのにね」

「え、うれしい。やった。食べていいの?」

「あ、よろこぶ系?」

 どの道この日は夜更かしをするつもりだったのだ。眠気もなく、アカネちゃんのほうでも話し足りないようだった。

 彼女は珈琲を淹れてくれた。

 思えばこうして友人宅に泊まる経験はからっきしの人生だった。それはアカネちゃんとて同じなはずだ。

 ケーキを一つ食べてから私は訊いた。

「クローゼットの中、見てもいい」

「ダメ」

 思ったよりもずっと強い語気で否定され、私はいよいよ確信した。

「言おうか言わまいか迷ってたんだけどさ」

「じゃあ言わないどこ?」

「なんかいるでしょ。ペット? 亀とか飼ってんの?」

 物音がするのである。

 カサコソと。

 ゴソゴトと。

 アカネちゃんとしゃべっているあいだにも聞こえることがあり、彼女が部屋を出ていくと余計に物音は静寂のなかで存在を主張した。

 私が物音に耳を澄ますように意識をそちらへとズラすと、すかさずアカネちゃんがつぎの話題を振ってくるので気が逸れるが、それも何度もつづくとアカネちゃんの不自然さが際立った。

 いまだってそうだ。

 クローゼットの中から、ガサゴソと音がする。

 何かが動いている。

「ネズミかも」アカネちゃんが精一杯の笑みを浮かべる。それが誤魔化しの笑みであることくらい私にも判った。 

 クローゼットの溝にゆびを添える。

「開けちゃうね」

「待って」

 アカネちゃんが飛びかかってきたので、私は華麗な半回転を披露しながら横に避けた。

 アカネちゃんは勢い余ってクローゼットにぶつかり、けっきょくクローゼットは口を開けた。

 なだれ落ちてきたのは大量のぬいぐるみだった。

「わ、すご」

「だから開けちゃダメって言ったのに」

 パンパンに詰まっていたらしい。

 しかし。

「なんで全部壊れてるの?」

 ぬいぐるみは総じてお腹やら、頭部やらが破けていた。目に入る範囲でそうなのだ。奥に詰まっているものとて、大部分が破損したぬいぐるみだと思えた。

 本来であれば縫われていて然るべき箇所がほつれ、綿が飛びだしている。

「イライラして八つ当たりしちゃった?」

 私は想像する。

 カチンとくるたびにアカネちゃんがぬいぐるみにひどいことをするのだ。ねじったり、殴ったり、引きちぎったり。そのたびにぬいぐるみは綿を血のように溢れさせる。

「それにしても壊しすぎじゃない?」

「違う違うよ」アカネちゃんはわたわたする。

「まあ、うん。いいんじゃないかな。人を傷つける代わりにぬいぐるみに当たり散らすの、それは偉いことだと私は思うよ」

「だからそういうんじゃないんだってヴぁ」

 アカネちゃんの、ヴぁ、が可愛くて私は笑った。ぬいぐるみを拾いあげ、「じゃあなんでこのコたちこんなになっちゃってんの」とはみだした綿をゆびで押し込む。「痛々しいな、やっぱし」

「ううぅ。だから押し込めてたのに」

 どうやら相当に見られたくなかったようだ。それにしては、すべて捨てずにとっておいている辺り、ぞんざいに扱っているわけではなさそうだ。

 ぬいぐるみたちをふたたびクローゼットのなかに押しやるアカネちゃんに倣って、私も片づけを手伝う。

 足元のウサギのぬいぐるみを拾いあげようとしたそのときだ。

 ぴぴぴ。

 と動いた。

 ウサギのお耳が、小刻みに動いた。

 ように見えた。

 錯覚だろうか。

 止めていた息を吐きながら私は、もういちどじっくりとウサギのぬいぐるみを観察する。

「わ、ダメ」

 手からウサギのぬいぐるみが消えた。奪われたのだ。

 アカネちゃんが乱暴にクローゼットのなかにウサギのぬいぐるみを放り入れる。これまでにない反応だった。

「投げたら可哀そうだよ」私は言った。物をたいせつにしない人は好きじゃない。でもアカネちゃんはそういう粗暴な人物ではなかったはずだ。

「ごめんごめん」

「何か取り繕ってる感じする」私はもう一つぬいぐるみを拾いあげる。これはクマちゃんだ。やはり背中のところが縫い合わされておらず、綿が見える。「どうしてどのコも破れてるの? これ手作りだよね」

「うん」アカネちゃんはまたしても私の手からぬいぐるみを奪った。「いつも途中で飽きちゃうんだよね。でも作るのは好きだからまた作りはじめちゃって」

「上手なのにもったいなくない?」どうして最後までつくらないのか、と私は問うた。「もしもらっていいなら欲しいんだけどな。てか作ってよ。作り方教えて欲しいかも」

 これとかもうあとここ縫うだけじゃん。

 そう言って拾いあげたラッコのぬいぐるみの背中をゆびでなぞる。

 するとどうしたことか、ぬいぐるみを落としてしまった。

 否、違う。

 ぬいぐるみが自ずから身をくねらせ、私の手から逃れたのだ。

 ぎょっとした。

 なにせぬいぐるみが動いたのだ。以前、従妹の家で抱かせてもらった子猫を思いだす。手の内で身じろぐ子猫は、実際の重さよりもずっと重く感じられた。

 動くからだ。

 振動がある。

 それを押さえつけるためにもっとぎゅっと握ろうと力がこもるから、実物よりも余計に重く感じるのだ。魚釣りの経験はないものの、釣った魚を連想した。

 足元に転げ落ちたそれをすかさずアカネちゃんが両手でパチンと捕まえようとした。子どもが地面を這う虫を捕まえるときのような動きだった。

 おかしなことに、アカネちゃんが手をとどけても、床にはラッコのぬいぐるみが転がったままだ。掴み損なったのだ。

 目測を誤ったのか?

 いや、違う。

 逃げたのだ。

 ラッコのぬいぐるみが。

 ころん、と一回転して、よこに逃げた。

 私はその瞬間を目にしていたし、こうして内心でナレーションしているあいだにも、床のうえではラッコが胸の貝殻のアクセサリーを、カンカンカンと叩いている。

 ラッコが腕を動かすたびに、バランスを崩して横倒しになるため、背中からハミでた綿が白く波のように揺れて見えた。

「動くんだね。すご」私は目を剥いた。驚きながらも、冷静ではあった。当然これはそういったカラクリの仕込まれたぬいぐるみなのだと思った。

「そ、そうなの。あはは」アカネちゃんの頬に笑窪があく。

 私は目敏くそれを目にし、笑窪が片側にしかあかないときは彼女が嘘を吐いているときだぞ、と経験則を引っ張りだしてきて、彼女が何かを取り繕おうとしている事実を察知したが、しかしいったい何を誤魔化そうとしているのか。

 皆目わからん。

「さっきの音、これだったんだねぇ」私はアカネちゃんに代わって床からラッコのぬいぐるみを抱きあげた。

 ラッコはぴたりと動きを止め、すると首をくいっと持ち上げた。抱っこされた赤ちゃんが胸元で母親を見あげるような素朴な所作だった。

 しかし私は驚いた。

 なにせその所作があまりに生々しく、生き物のそれであったので、ぎゃっ、と声をだして放り投げてしまった。

 アカネちゃんがすかさずそれをキャッチした。

「なにそれ」じぶんの出した声の大きさに驚く。

「ぬいぐるみだけど」ラッコのぬいぐるみが流れ作業で押し入れに消えていく。

「待って待って。いまのもっかい見して。なんかめっちゃ動いたんだけど。目とか合ったんだけど」

「もうどっか行っちゃった。もうわかんない。いっぱいあるから」

「いやいやいや、いまわざと奥のほうに突っこんだよね。見てたし私」

「んー。でもほら、これも同じやつだし」

 そう言ってアカネちゃんは足元に転げたもう一体のぬいぐるみを私に押しつけた。

 虎のぬいぐるみだ。縞模様に牙がなければ、子猫に見えてしまうくらいに可愛らしいが。

「動かなきゃ意味ないじゃん」

「やだな。動かないよ。ぬいぐるみだもん」

「そうじゃなくって、さっきのやつ」

 渡された虎さんは動かない。綿が詰まっているだけなのだからあたりまえだ。

「さっきのはもう仕舞っちゃったのでないです」

「ないですじゃないよ。見せてよ。いいよじぶんで掘りだすから」

「ダメだよ。散らかっちゃう」

「もうとっくにでしょ。押し込めただけだとまた扉開いたらドバーだよ」

「ドバーかな」

「ドバーだね」

 沈黙があくが、べつに何も誤魔化されていやしない。

 アカネちゃんがいそいそと床のぬいぐるみを拾いだす。はい、と無造作にぬいぐるみを二つ手渡され、あげるよ、と言われてしまうと、えっいいの、とよろこんでしまいそうになるが、待て待てじぶん。

 私はじぶんのポニーテールのまさしく尾の部分をぶんぶん振った。

 惑わされてなるものか。

 いまアカネちゃんは貢物を渡してお茶を濁そうとした。口止め料だ。

 ふじゃけんな。

 思うけれども、まあもらえるもんはもらっとくか、とぬいぐるみを一つだけ抱えて、もう一つをクローゼットの中に突っこむ。

「やっぱり整理整頓はしたほうがよいと思うよ」私は助言する。

「うん。でも、ほら。アイディアって雑然としたほうが浮かびやすいって言うし。空気だってちょっと濁ってたほうが光をよく反射するでしょ。ガラスに映画は映らないし。閃きも同じだと思うな」

「へぇ」

 沈黙が漂うが、いやいや待て待て。

「クローゼットの中じゃ意味なくない? 見えないし、ぬいぐるみしかないし、アイディア関係ある?」

「よしできた」アカネちゃんはクローゼットの戸を閉めた。

 私は彼女をじっと見詰める。「いやね」もらったばかりの牛さんのぬいぐるみを胸に抱く。「アカネちゃんが言いたくないのなら無理してまで聞きませんけれども、やっぱりちょっと寂しいよ。悲しいし」

「あー、うん」アカネちゃんはしょげた。

 嘘が吐けない性分なのだ。いや、隠すのが下手なのである。

「質問してもいい?」私は許可を仰いだ。ちゃぶ台のところまで移動し、ベッドのヘリに背中を預ける。アカネちゃんもちゃぶ台のまえに座った。そちら側には背もたれ付きの座椅子がある。

 アカネちゃんがクッキーを齧りはじめたので、私も手を伸ばす。ひと齧りした。

 それからいましがたもらったばかりの牛さんのぬいぐるみをちゃぶ台の上に置いた。

「この牛さんはアカネちゃんが作ったんだよね」

「まあ、そうですね」

「上手だね」

「ありがとうございます」

 髪の毛をいじりながら敬語でしゃべる姿はもはや事情聴取中の容疑者であった。心ここにあらず。早く時間経たないかなぁ、の意思表示の結晶と化している。

「どうして最後まで縫ってあげないの。これとか足がついてないけど」

「あーうんとね。飽きたから?」

「でもまた作りたくなっちゃうの?」

「そうです」

「じゃあまあ、ひとまずそういうことにしておくとして」

「ほっ」

 私は仰天した。ここまで内面を隠さずに、ほっとできる人間がほかにいるだろうか。いや、いない。

「いまここで牛さん完成させたいな」私はおねだりした。「足とか、別にほかの動物の足でもいいし。どうせ余ってるのあるんでしょ。作りかけのが大量に。だったらある分でいいからくっつけてあげたいな」

「たいな、って言われても」

「ほかのぬいぐるみで片足もげちゃってるやつ、余ったほうをちょうだいよ。くっついてるほうでもいいけど」私は紅茶ポットにお湯を淹れた。アカネちゃんの分まで淹れる。

「残酷なことをよくもまあ真顔で」

「残酷かなぁ」

「残酷だよ」

「でもぬいぐるみだよ。生きてないし」

「痛いものは痛いと思うよ。ひょっとしたら生きてるのかもしれないし」

「ぬいぐるみがぁ?」

「うん。ぬいぐるみが」

 アカネちゃんはそこだけちょっとムキになった。目つきが、きゅっとなったし、唇がむにゅっと尖った。指でつまみたくなるほど愛らしい。唇って皺くちゃなのになんでこんなに可愛いのだろう。アカネちゃんのだからかな。

 私はじぶんの唇をいじくりながら、

「じゃあ」と言った。「さっきの動いたぬいぐるみも、生きてるから動いたのかもね」

 何の気ない言葉のはずだったが、豆鉄砲など飛んでくるはずもないと高をくくっていたハトが火縄銃で撃たれたかのような、そんなことってある!?の驚きの表情で、アカネちゃんは、「チガウヨ!」とちゃぶ台に手をついた。

 勢い余ってティポットが飛び跳ねた。紅茶がこぼれかける。カップは手に持っていたので無事だった。アカネちゃんのほうでも飲み干していたので、空のカップが倒れただけで大惨事にはならなかった。

「え、生きてるの? 本当に?」

「だから違うって言った」

「そんなムキにならんでも」

「なってないよぉ」

 その言い方があまりにもいじけて聞こえたので、私は一度は否定しかけたじぶんの妄想を、ひとまず前提してみることにした。

「あー、つまり。痛がっちゃうってことだ」

「なんで?」アカネちゃんの瞳が揺れている。もはやじぶんの返事が事実認定したようなものだということに考えが回らないほどに動揺しているのだ。

「私、分かっちゃったかも。ぬいぐるみを縫ってくと、だんだん命が宿ってきちゃうんでしょ。で、痛い痛いって暴れちゃうから最後まで完成させられないんだ。で、完成しないから段々と元のぬいぐるみに戻っていっちゃう」

 アカネちゃんは笑ったが、目が渦を巻いている。高速で言い逃れの言葉を考えているのだ。

「ひょっとしてさっき動いたラッコちゃん、さいきん作ったやつじゃないの」

 だからまだ命が抜けきれていないのではないか。

 なんの根拠もないけれど、私は私の脳裏に溶けずに残った思考のダマを、それが一番しっくりくるしなぁ、の気持ちで言葉にした。現実的ではないかもしれないけれども、根元を穿り返してもみれば、私は現実なんてものを知ったことはないのだ。

 現実ってなんですか?

 そんな気分だ。

 アカネちゃんがだんまりを決め込んだので、私は調子を敢えて崩して、ゆっくりしゃべった。

「嫌いにならないよ。アカネちゃんが私に嘘吐いても、ヘンテコリンな特技があっても、本当は狼男で、夜中になると私みたいな麗しい乙女を襲ってしまうバケモノだったとしても。私、アカネちゃんのことは嫌いにならないよ」

 じっと彼女の伏した顔を見詰める。前髪が御簾のように垂れており彼女の顔を隠している。おでこが薄っすらと汗ばんでいるのが見えた。

 面をあげたアカネちゃんと目が合う。

「や、狼男だったらやっぱりちょっと、というか、うんと警戒はしますけれども」

 警戒はする。けれども、嫌いにはならない。

 好きでいたいからだ。

 私が。

 あなたのことを。

 窓の外で、聞き慣れない鳥が鳴いている。ピピピピピ、と息の続くかぎり鳴きつづけると、ぴたりと止んだ。

 静寂がくっきりと浮きあがる。

「おばぁちゃんがね」アカネちゃんがベッドの下から箱を引きずりだす。蓋を開けると、そこには裁縫道具が詰まっていた。

 手を差し伸べられたので、私は膝の上に置いていた牛さんぬいぐるみを彼女に手渡す。

「あたしのおばぁちゃんが魔女だって話、むかししたの憶えてるかな」

 絵描き歌でも歌うようにアカネちゃんはつぶやく。誰に向けての言葉ともつかぬ、抑揚のない、けれど訥々とした耳触りのよい声音だ。

「おばぁちゃんは、魔女のなかでも特別な魔女のもとで修行を積んだらしくて、それはそれはすごかったって、あたしはほかの親戚のおばちゃんたち――あたしからしたらみんなおばぁちゃんなんだけど、たぶんその人たちも魔女だったんだろうね、あたしのおばぁちゃんをみんな尊敬してて。でも、おばぁちゃんはあたしのまえでは魔法を使ってくれたことなんてなくって、いつも話し相手になってくれて、話を聞いてくれて、あたしにとっては単に大好きなおばぁちゃんでしかなくってね」

「でもみんなは魔女としてのおばぁちゃんしか見てなかったんだね」

 私は先読みして相槌を打った。家ではこういう物言いを注意される。相手の話を遮るな、最後まで聞いてから質問なり話題を変えるなりしなさい、と釘を打たれる。そんなだからあんたは友達ができないんだ、と母とやいのやいの言い合うこともあるけれど、でもいまは水溜まりに石を放って、足場をつくってあげる場面に思えた。

「うん。おばぁちゃんをおばぁちゃんとして見てる人が、孫のあたしの目からするといなかったのかも。みんなすごい魔女だってしかおばぁちゃんのことを見てなかった。あたしにしたところで、おばぁちゃんはおばぁちゃんでしかなかったから、きっと違和感をグツグツ煮込んでたままなんだろうね。でもさ、おばぁちゃんが魔女だって話だけは、信じてたんだ。そうだったらいいなとか、おばぁちゃんが言っていたからとかじゃなくて、そうなんだろうな、ってしぜんと染みこんでた。疑えなかった。でも、おばぁちゃんが魔女だってことをほかの人たちに言うことがおかしなことだってことも分かってたから、誰にも言えなかった」

「私はでも訊いたよ」

「うん」

 このときに見たはにかみを、私はきっと一生忘れないだろう。

 アカネちゃんは私の名を呼んだ。

「――と、小学生のとき遊んでたよね。あのあと、なんでかしゃべらなくなっちゃったじゃん。たぶん、あたし、寂しかったんだと思う。いまから思うとって感じなので、当時はそんなこと思ってなかったんだけど、でもその寂しさを埋めようとしてきっと作りだしちゃったんだと思うのね」

「ぬぐるみを?」

「そ。でさ、初めて作ったのはだいじょうぶだったのね。下手だったからかな。歪なクマのぬいぐるみができました。次もたぶんだいじょうぶだった気がする。その次くらいかな、夜中にね、急に動きだしてね。びっくりしたよぉあれは。だって物音がしたと思ったら暗がりのなかで、床を何かが這ってるんだもん。ベッドのなかで動けなくなったよねあたし。でもね、よく見たらそれがぬいぐるみだって判って、明かりを点けてもまだ動いてて。それからはもう、研究の日々だったよね」

「それってやっぱりアカネちゃんが魔女さんの孫だから?」

「だとあたしは思ってるけど、本当がどうなのかは分からない。ママとパパにも言ったんだけど、信じてくれなかった。ぬいぐるみも、なんでか動かなくなっちゃうの。ママとパパのまえでは。ううん、ほかの人たちのまえでは」

「でもわたし、ちゃんと見たよ。動いてるの」

「そ。だからびっくりしちゃったし、うれしかった。でも、言えないよ。だって、あのコたちが痛がるって分かっててあたし、それでも何度も作ろうとしちゃったんだもの」

「命が宿りはじめると痛がるんだね。針を通すの」

「そう」

「だからいつも途中で手が止まって、未完成のぬいぐるみが増えていっちゃう」

「うん」

「未完成だからそのうち命も抜けていっちゃう?」

「たぶん」

「完成したのはじゃあ、ずっと動きつづけるの?」

「そうでもないみたい。あたしの魔力っていうのかな、そういうのの限界みたいなのがあるみたいで、分散しちゃうみたい。いっぱい作ると」

「薄れちゃうんだ」

「うん。たぶんだけど」

 一体だけならば、いちど完成させてしまえばぬいぐるみはずっと動きつづける。けれども、たとえ未完成であろうとたくさん作れば、そこにアカネちゃんの魔力が分散されてしまい、ぬいぐるみの動力源たる魂のようなものも分散する。

「いまもまだ作りたいと思うんだ」

「どうだろ。高校にあがってから作ったのがさっきのラッコちゃん。あれ以外はまだ作ってないよ」

 もじもじと白状するアカネちゃんだけれども、笑窪が片っぽにしか空いていない。きっと嘘を吐いている。それはそうだ。うさぎのぬいぐるみだって動いたのだ。供述と矛盾する。けれどもその嘘が、けして私を貶めようとする類の虚言でも、じぶんを大きく見せるための虚栄でもないと判るので、私は、そっか、と彼女の言葉を受け入れた。

「あのね、思うんだけれども」私は牛さんの足を縫いはじめたアカネちゃんに手を差し伸べる。ちょいちょいと指を動かすと、アカネちゃんはきょとんとした。「その牛さん、私が縫えばよくないかな。そしたらきっと動きだしたりしないと思うよ。痛い思いもせずに、ちゃんと足もくっつくと思う。アカネちゃんさえよければだけれども」

 私は手を伸ばしたまま、じっと見詰める。

 アカネちゃんはややあってから、牛さんのぬいぐるみを私に手渡した。ついでのように、裁縫セットをちゃぶ台の上に載せ、ずいとこちらに押しやる。

「指を刺さないように注意してね」

「そんなに不器用ちゃうよ」

 言いながらも、針を構える私の指は震えている。裁縫なんて小学校の生活の時間以来だ。先端恐怖症ではないはずだが、針って案外怖いよね。

 目敏く私の胸中を見抜いたのか、アカネちゃんは布を一枚取りだした。

「まずは縫い方から練習しよっか」

「手取り足取り教えてね」

「おっきな赤ちゃん」

「ばぶー」

「厳しくいきます」

 両の頬に笑窪をあけるとアカネちゃんはまずはお手本とばかりに、チクチクするる、と布に針と糸を通していく。

 魔法の手だね。

 魔法みたいだね。

 私は滾々と湧く胸のくすぐったさを喉元まで競りあがらせながらも、彼女の魔法の邪魔をしたくなくて、そのままぐっと吞み込んだ。

 いつの日にか私のなかに結晶するそれは、いっとう澄んで透明な、命で魔法でくすぐったいの塊だ。

「なんで笑ってるの」アカネちゃんが手を止めて私を見た。

「ううん。楽しいなって思ったから」

「変なの」

 ちゃんと見ててね。

 アカネちゃんは真剣な眼差しで、チクチクするる、と紡いでいく。

 私との、縁と未来を結んでく。






【おねしょの跡と宝の地図】

(未推敲)


 妹のおねしょが治らない。

 妹はもうすぐ中学二年生になるのだが、毎朝のようにおねしょをする。

 当人は反抗期真っ盛りで、何かと兄である俺を虚仮にするのだが、毎朝のようにアンモニア臭を漂わせて、小便まみれになったパジャマやら下着やらを揉み洗いしつつシャワーを浴びる姿からは、それがたとえ擦りガラス越しの姿にせよ、惨めに思える。

 幼少のころよりつづく由緒正しき毎朝の恒例行事であるがゆえに、妹の布団は、おびただしい数のシミによって黄ばんでいる。

 ハッキリ言ってそのうえで寝たくはない。

 おねしょシーツを敷いてはいるが、それでも滲むのだ。

 お日さまの出ている日は、妹がシャワーを浴びているあいだに兄たる俺が妹のおねしょまみれの布団を干すのが日課となっていた。

「恥ずかしいから触らないで」シャワーから上がってきた妹が俺を睨む。

「んじゃじぶんでやれ」

「やだよ。もうシャワー浴びちゃったもん。汚いし、身体に臭いついちゃう」

「あのなぁ」

 俺だってこれから学校なのだ。シャワーだって浴びたりしない。ひょっとして妹の小便の臭いがこびりついているのだろうか。じぶんの体臭はじぶんでは気づけないというし、小便が結晶化したような布団をじかに全身で抱え、鼻をツンと刺す匂い粒子に包まれれば、さすがに無傷ではいられまい。

 まぁいいや。

 干しちまお。

 ベランダにでて、物干し竿に布団をかける。

「おいしょっと。毎回思うけど、よかったな。うちの裏がただの林で。隣家とかだったら、毎日おまえの裏事情が筒抜けだったわけだ。危機一髪」

「うるさい。やめてそういうこと言うの」

「遅刻するぞ。さっさと飯食ってこい」俺はすでに食べ終えている。

 妹はどたどたとわざとらしく足を踏み鳴らして階段を下り、リビングに入った。

 強気ではあるが、内心では寝小便が治らないのを悩んでいる。理想のじぶんとはかけ離れた、あってはならない弱みゆえに、じぶんの粗相でありながらじぶんの問題ではないように振る舞う。

 そうするほかに現実逃避する術が思いつかないのだろう。

 やれやれ、と腰に手を当てる。

 ベランダに干した小憎たらしい妹の布団を眺めていると、おねしょの跡に目が留まった。

 あれ、と思う。 

 なんだかこれは地図に見えるな。

 ちょうどこの街を俯瞰したような輪郭線を描いている。

 このあいだの高校の授業で、地元の風土について調べたばかりだから、地図との共通点を見抜けた。

 しかし面白いな。

 ここは学校だし、こっちはスーパーで、ここが貯水池で、ここが消防署。

 バッテン印のごとく一か所だけとくに色濃くなっている場所があり、たしかここは神社だったな。

 愉快な奇跡ゆえ、メディア端末で画像に収めた。

 しかし残念だ。

 もしこのおねしょの地図がもっと克明だったら、じっさいにバッテン印の場所に出向いて、穴でも掘ってやったのに。

 イタズラ心を持て余しがてら、内心でぼやいた翌日のことである。

 この日も妹は朝からシャワーを浴びていた。

 寝る前にコーラをがぶ飲みしていたからか、今朝はこれまでにないほどの大洪水っぷりである。

 布団には年輪のごとく染みがうねうねと波打ち、明瞭な図柄を浮かび上がらせている。この輪郭には見覚えがあった。 

 神社の敷地とそっくりなのだ。

 輪郭だけではない。

「ここが神木で、こっちは拝殿っしょ。ここが鳥居で、ここがてみずや」

 学校の授業で書いたノートを取りだし、妹のおねしょ図面と見比べる。

「まんまじゃん」

 合致も合致、ノートで書いたものより正確に神社の地図がそこにはあった。

 こんな奇跡があるだろうか。

 妹の寝しょんべんである。

 なにゆえ街の神社の地図を真似ようか。

 布団に描かれた地図には、昨日と同じくバッテン印が窺える。

 よもや妹が意図してそれを描いたわけではあるまい。であればこれは偶然にこのカタチに滲んだと考えるよりないが、だとすれば余計に妙だ。

 猿がタイプライターを叩いて偶然に、駄文作家こと「郁菱万」の小説と同じ文字の羅列を並べるのと同じくらいの確率の低さに思える。なぜここでシェイクスピアの名ではなく、郁菱万の名をだしたのかについては多くを語るまい。 

 ひょっとしたらひょっとするかもしれんぞ。

 俺は好奇心を刺激され、妹のおねしょ跡を画像に収めると、ひとまず通学の支度を済まし、家をでた。

 妹は暢気に朝食をついばんでおり、いかにもじぶんは世界で一番かわいいのだ、と誇示するでもなく誇示する仕草からは、とてもではないが毎朝おねしょをしている中学二年生の姿を連想することはできないのだ。

 妹からの理不尽な暴言を向けられるたびに、妹の学友に言いふらしたろか、と思うが、それを実行に移すことなく、またそのように脅さない我が身の慎ましさには我がことながら誇りに思う。

 俺、偉くね?

「いや別に偉くないからな」学校帰りに、友人にそれとなく今朝あった出来事を語ると、「いまふつうに言いふらしてんじゃん」と鋭い指摘をいただいた。

「別に言いふらしてないし、おまえはうちの妹の学友ではないだろ」

「でも顔見知りだろ」

「そうだけど、おまえも結構ノリノリで聞いてんじゃん」

「そりゃおまえの妹ちゃんは可愛いからな。未だにおねしょしてるとか、そういうのを恥じてるところもかわいく聞こえてしまうだろ。ただやっぱり妹ちゃんからしたら嫌なことだろそれは」

「そうだけど。じゃあ写真は見なくていいのか。妹のおねしょの画像」

「いや見る」

「即答じゃねぇか」

「違うって、そういうんじゃなくて。だって地図みたいに見えるんだろ。で、これからそこに行くわけだ。付いてこいとか言っといて、肝心の地図も見ないでは付き合えないだろふつう」

「まあ、そうだが」

「それはそれとして、ちょっといやらしい気持ちにはなるが」

「なってんじゃねぇか変態」

「否定はしないよ」

 これで顔面が整っているからと、同学年ではクールでかっこいいと評判の栗原だが、俺と精神の波長が合う時点で本性が知れたものだ。

「おまえ、絶対うちの妹と二人きりで会うなよ。見掛けても声かけんな」

「なんやかんや言ってきみは妹想いだよね」

「シスコンって言いたいのか」

「違うのかい」

 やれやれ、と首を振ってやる。「これは俺の持論だが、身内に妹がいるやつは妹萌えにはならねぇ。むろん特殊な例外を抜きにすればの話だが、しかし俺はその特殊な例外ではない」

「なるほど。母親には劣情を催さないのと同じ理屈なわけだ」

「その通りだ」

「じゃあその理屈から言えば、僕がきみの妹ちゃんに欲情しても差し障りはないね」

「ありまくりだろ。近づくなよ」

「分かったよ。でも地図は見せてよ。これに送って」

 メディア端末を差しだされるが、画像はやらねぇよ、と言って自前の端末に表示する。

「減るもんじゃなしにいいだろ」

「何に使われるかわからんし、さすがに妹が可哀そうだろ」

「きみは倫理観があるんだかないんだか分からんな」

「絶対に譲れない境界線がどこかを知ってんだよ。本当にたいせつなモノが何かを見抜く天才と言ってくれ」

「妹のおねしょ画像を他人に見せびらかせることがきみにとって大した罪でないらしいことは理解した」

「言っとくけどこれに妹は映ってねぇぞ」

 布団に染みたおねしょ跡の画像である。

 栗原は、これはまた、とまじまじと見入り、たしかに地図っぽいね、と言った。

 帰宅せずに学校から直接に神社へと向かった。

 境内までは三百段ちかく階段がある。左右には神木さながらの幹の太い針葉樹が乱立している。

 息を荒らげながら、途中でジャンケンをしてグリコをしつつ、最後のほうは飽きて、荷物を互いに押し付け合い、無駄に疲れながら登りきった。

 砂利を踏みしめる。

「さぁて。地図のバッテンはどこかな」

「あそこで見比べて見たら?」

 境内に備え付けられている本物の地図を参照すべし、との栗原の提案にしたがい、さっそく地図とおねしょ跡を比べた。 

「びっくりするほどそっくりだな。いまさらだけど妹のイタズラな気がしてきた。騙されてんじゃないかな俺」

「器用におねしょで地図を書いたとでも?」

「小便じゃなくありゃ絵の具だったのかも」

「帰ったら訊いてみたら。それよりもまずはバッテン印の場所を探ってみよう」

 もはや栗原のほうが率先して宝探しをはじめた。

 別にバッテン印の下に宝があるとは言っていないし、そんな期待は露ほども抱いていないのだが、栗原ほどの男が活き活きとしていると、なんだか本当に奇跡が起こりそうな気にもなってくる。

 栗原のあとについていくと、間もなく、古い井戸のまえにきた。

 すでに使われておらず、封がされている。そばには説明書きが立てられており、ずいぶん古い物だと記されている。

「ここか?」

「いや、もうすこしズレてるな」

 本物の地図を画像に撮っていたようだ。

 栗原は俺に、おねしょの地図を見せるようにせがみ、俺ははいよと見せた。

「ああやっぱりだ。井戸はここで、バッテンはすこしズレたここになる」

 そう言って歩を止めた栗原の立つ地点には、灯篭が立っていた。

 境内に点々と置かれたそれは、狛犬の台座のごとく立派な石でできていた。

 灯篭を撫でまわすが、これといって仕掛けはない。

「これ柱みたく地面に埋まってんのかな。どかしたら怒られっかな」

「どうだろうね」

「掘ってみっか」

「やめといたほうがいいんじゃないか」言う割に、栗原に俺を止める様子はない。

「つってもこのまま帰るのも癪だしな」

 俺は周囲を見渡し、ひと目がないのを確認してから、しゃがみこんだ。頼む前から栗原はじぶんの身体で、目隠しの役割を買ってでてくれる。

 鞄からカラの弁当箱を取りだし、その蓋をシャベル代わりにした。スチール製だからずんずん掘れる。

 どれくらい掘っただろうか。

 灯篭が三十センチくらい地中に埋まっており、その下に基盤となる石が敷かれていた。

 もうこのくらいでいいか、と諦めようとしたところで、石の下に何かがあるのを発見する。

「なんかあるぞ」

「本当に?」

「おい、あんま引っつくなよ。暑苦しい、掘れない、邪魔」

「ごめんごめん」

 栗原は、メディア端末のライトでこちらの手元を照らした。

「壺かな?」

「っぽいな」

 石の大きさに比して、壺は小さかった。

 雪に穴を開けカマクラを作る具合に、石の真下だけを掘り進める。これなら灯篭を倒さずに、壺だけを掘りだせる。

 壺がぐらつくくらいに土を掻きだしたら、あとは力任せに引っ張った。去年に抜いた虫歯を思いだすようだ。

「本当にあった」

「中身なにかな」

「わからん。お宝かも」

 開けていいと思うか、と栗原に許可を仰ぐも、僕に訊かれてもね、と正論で返され、閉口する。

 壺の口には皮のようなもので封がされている。振ってみると何かがぎっしりと詰まったような重さが感じられた。

「梅干しかな。水っぽくはないけど。なんかあれだ。囲碁の石が詰まってみたいな音がする」

「どれどれ」

 栗原が耳を寄せてくるので、壺を振って聞かせてやる。

「本当だ。むかしのお金かもね」

「小判?」

「だったらすごいけど。一問銭とかそういうのじゃないかな」

「穴が開いてて、縄に数珠つなぎになってるやつだ」

 時代劇で目にする小銭を思いだす。

「いちおう、神主さんに言ったほうがいい気がするけど」

「怒られねぇかな」

「どうだろね。中身によるかも」 

 感謝されるくらいの宝だったら褒められるが、そうでなければ叱られる。器物破損で警察を呼ばれてもおかしくない。

「このまま持って帰ったらダメかな」

「ダメだろうね」

「俺らが掘りださなきゃこのまま見つからなかったわけだろ? 土を元に戻しとけばバレなくないか?」

「だとして、仮に壺の中身がとんでもないお宝だったとして、それでどうするの? 事情を説明できなきゃ換金もできないんじゃないかな」

「おおう。そうだ」

「正直に話して、もし価値のあるものだったら、すこしはおこぼれをもらえるかも。発見者として名前だって記録に残るだろうし」

「じゃあさっさと神主探してこれ渡しちまおう」

「きみが単純なやつで僕は助かるよ」

「そんかし分け前は俺とおまえで半々だからな」

 栗原がびっくりしたような顔をしたので、

「当たり前だろこれは俺が見つけたようなもんだかんな」と言い張る。

「いや、驚いた理由はそうじゃなく、僕に半分も分け前をくれるのかと思って」

「そりゃ全部寄越せとか言い張られたら困るだろ」

「言わないよ。いいよ。どの道、元を辿ればきみの妹の手柄だろ。僕の分は、妹ちゃんにあげてくれ」

「いいのかよ」

「そんかし、こんど二人きりで遊ばせてくれないかな。デートさせてよ」

「えー」

 しばし天秤に載せる。

 それくらいならいいか、と思うじぶんがおり、いいのかコイツだぞ、と栗原の本性を推察する。女癖がわるいとは聞いたことはなく、いつでも校内ではいい評判しか聞かないが、それゆえに、我が妹ならずとも、二人きりで遊べば十中八九、胸を射抜かれるに決まっている。

 いいのか、俺。

 コイツに妹の貞操が危ぶめられても。

 とはいえ、兄たる俺にはこれといって、妹の恋愛事情に口をだす権利はないのだが、それはそれとしてなんか嫌だ。

「ダメだ。妹を売ったりはしない。手をだすなとは言わんけど、俺といちいち交渉するな。妹が嫌がらないなら好きにしていいから」

「いいのかい」

「そんかしちゃんと節度持って付き合えよ。それとなく報告もしてくれ」

「付き合うかどうかはまだ決めていないんだけどな」

「付き合う気がないなら手ぇだすな」

 分け前はひとまず半々で、とこの場では話がまとまった。

 ではさっそくとばかりに、本殿のほうに出向き、神社の掃除をしているおじさんに声をかけた。

 壺のことを話すと、どこでそれを、と目の色を変えられ、場所を告げると、きみたちが見つけたのか、とわなわなと震えだすので、怒られるかと思い、ひやりとした。

「こりゃたいへんなこった」

 おじさんは俺たちに付いてくるように言って、本殿のなかに入った。裏手に事務所があり、そこでは神主だと名乗る禿頭のおじぃさんがいた。袴を羽織っておらず、事務の職員といった風体で、最初に俺らが声をかけたのは神主の息子だった。

 二人は壺を見遣って何やら意見を交わしあっている。

 なぜか封を開けないので、

「開けてみないんですか」と疑問を呈するも、

「まだかってに開けないほうがいいと思ってね」と顰め面を向けられる。

 息子のほうが部屋を出ていき、間もなく戻ってくる。

「灯篭の場所だった。やっぱりそうとしか」

「あの、すみませんでした」俺はいたたまれなくなり謝罪した。「かってに掘りだしちゃったりして」

「どうしてきみたちはあそこにこれが埋まっていると知っていたのかな」

「それは」

 どこまで話してよいものか迷った。

 正直に話して通じるものだろうか。 

 妹のおねしょの跡が地図みたいで、それにしたがって掘ってみたんです。

 脳内で唱えてみると、そのあまりの現実味のなさに、口にするのもはばかれた。

 俺が二の句を継げないでいると、

「じつはこのあいだ学校で地区のことを調べる授業がありまして」栗原が代わりに答えた。「そのときに、この神社のことを調べていたら、知らないおじぃさんから、あそこの灯篭の下を掘ってみるといい、と言われて、それで気になって」

 口から出まかせがようでるわ。

 呆れ半分に感心した。

 知らないおじさんから聞いたのだから、その真偽を確かめることはできない。しかし現に、灯篭の下からは壺がでてきたのだ。すべてがすべて嘘ではないと見做すよりない。

 なにより、神主たちの反応を鑑みるに、どうやら壺は、境内から掘りだされてもふしぎではない代物で、神主たちはその存在を知っていたようだと察せられた。

 しかしどこにあるのかまでは知らなかったために、こうしてでてきた壺をまえに戸惑っている。

「貴重なものなんですか」栗原が言った。

「はい。おそらくは」神主の息子が応じる。その傍らで、神主はどこぞへと連絡をとっていた。

 暗くなってきたこともあり、ひとまず俺と栗原は帰された。住所と連絡先を教えほしいと乞われたので、正直に紙に書いて渡した。

「何か分かったらご連絡さしあげますね。持ってきてくれてありがとう。きっとよいことをしたと思います。神さまもお喜びになられる」

「お邪魔しました」

 思いがけず感謝されたが、しかし壺の正体は不明のままだ。

 もやもやした胸中のまま、栗原と三百段の階段をまえに立つ。いまからこれ下りるのか、と思うと、うへえ、と声が漏れる。どちらともなく荷物を押しつけ合った。

 コンビニに寄り、ジュースを買った。

 飲みながら、道の途中で栗原とは別れ、ようやく家に到着する。

「おそかったね。何してきたの」母がソファでアイスを食べていた。

「ちょっとね。アイツは?」妹はどこだ、と問うと、母は、うふぇ、と天井を見あげる。

 自室にいるらしい。

 家の階段は短くていいな、と思いながら、鉛のような足を引きずるようにしてのぼると、ちょうど部屋から妹がでてくるところだった。

 手に漫画を持っている。

「あ、おまえまた俺の部屋に入ったな、かってに」

「だってつづき気になるんだもん」

「おまえさ、布団に地図書いたりした?」

「はぁ?」

「いや、おねしょの図柄がさ」

「ちょっと大きな声ださないでよ。そんな話聞きたくない。つうか名前で呼べ。おまえって言うな」

 肩で押しのけるようにして妹は俺の脇を通り抜け、部屋の扉を勢いよく閉めて、あとはシンと音沙汰ないときたものだ。

 我が妹ながら性根の曲がり具合がとんでもない。

 いや、我が妹ゆえに、か。

 無駄に納得を深め、俺も俺で自室に入った。

 ベッドに荷物を投げだし、着替えを済ます。

 一階に下り、用意してあった夕食を温め直し、一人で食べる。母と妹はすでに食べ終わっていたようだ。父はまた残業で遅いようである。

 おとなはたいへんだなぁ。

 父を労いつつ、母に感謝をし、すきっ腹にカレーを掻きこみながら、メディア端末で例の神社の名前を検索する。

 壺や宝と関連付けながら、伝承がないかを探っていくと、むかし源義経が逃げおおせてきた折に、身を隠した拠点の一つだとする説があった。

 神社ができたのはそのあとのことだ。

 むしろ義経由来ゆえに神社になったと考えたほうが正確かもしれない。

 飽くまでネットの情報ゆえ、信憑性が測れぬが、なにやら匿った土地の者たちへ、義経はお返しをしたらしい。それが神社には祀られていたらしいが、あるときを境に紛失した、と記事には書かれている。

 源義経にまつわる何かがあり、それがいまは行方知らずだったという。

 ひょっとして、では、あれがそうなのか。

 重ねてきた年月を思わせる壺であった。すくなくとも骨董品としては破格に思える。

 あれがもし、義経由来の品だったらと思うと、国宝級ではないか、と目が冴えるようだった。

 かといってそんな絵空事のようなことがぽんぽんと訪れるとは思えないし、そもそもを言えば、妹のねしょんべんが元なのだ。いくらなんでも宝なわけがない。

 しかし、理性では解ってはいるが、否応なく、もしも、を想像しては、無駄にウキウキした。

 その日はなかなか寝付けなかった。

 ついでに全世界の伝承を虱潰しに検索し、世の中にはこんなにたくさんの宝が未だに眠っているのかぁ、と夢心地に浸り、眠りに落ちた。

 翌朝、妹の怒鳴り声で目覚めた。

「なんで手伝ってくれないの。学校遅れちゃう」

「んだよ、まだ時間あんだろ」

「お兄が手伝ってくれなかったから、ウチ、またシャワー浴び直さなきゃなの」

 ドタドタと部屋をでていくと、妹は一階の洗面所へと入っていった。扉がピシャリと閉まる音が届く。

 どうやらいつもは干してある布団がそのままなので、じぶんでベランダに運んだようだ。

 妹の部屋に入り、ベランダを覗く。

 するとそこには、いつになく大きな染みの浮かんだ布団が干されていた。ふしぎとその輪郭は、世界地図のごとく様相を呈している。

 その表面にはバッテン印が、色濃く、まだらに点在する。手のゆびでは足りないくらいの数がある。

 仮に妹のねしょんべん跡が、見たままに世界地図だとするならば、バッテン印の浮かぶいくつかの場所は、偶然にも昨晩検索した多くの土地と合致する。

 そのどれもが、財宝伝説の言い伝えられている有名な土地である。

 俺は妹の布団を画像に収めながら、あすこそが重要だぞ、とじぶんに言い聞かせる。

 妹がシャワーから上がってきたようだ。

 タオルで頭を拭きながら部屋に入ってくるなり、

「お兄、なに撮ってんの」と声を荒らげる。

「見事なおねしょだなと思ってな」俺は安心させるべく、菩薩のごとき笑みをつくる。「あすこそは兄ちゃん、おまえの布団をちゃんと干すぞ」

「いや、いいです」

 妹はぞっとしたように両手でじぶんの肩を抱く。




【アイカがどう思おうとも】


 戦争をはじめた。

 隣国同士が、である。停戦条約を反故にして、小国に大国が攻めこんだのだ。

 停戦条約が締結されたのはアイカの産まれる前の出来事だ。戦争は遠い昔の出来事であり、歴史の教科書にでてくることのように思っていた。

 しかし、実際に隣の国で戦争がはじまった。

 アイカには何もできなかった。

 アイカは中学二年生だ。戦争の歴史を習ったばかりだった。

 過去にもアイカは何度か、似たようなニュースを目にしてきた。何か険悪な雰囲気だな、と国同士の仲をニュース越しに眺めていた。これまでにもこうしたニュースは頻繁に流れていたのだ。ああまたか、と何がどう緊急事態なのかも分からず、どうせまた何も知らないところで何かが変わって、その影響すらろくすっぽ解らぬままに、うやむやになるのだろうと思っていた。

 しかしそうはならなかった。

 戦争は、アイカが思うよりもあっさりと、まるで積乱雲が遠くに見えて、あれよあれよと頭上を覆い、雷雨が降るみたいに、淡々とはじまった。

 アイカの住まう国には直接に砲弾が降ってくることはない。ミサイルも、戦車も、兵隊も、いまのところはアイカの見える範囲にやってくる気配はなかった。

 しかしニュースでは、隣国での戦闘が日増しに激化する。被害の規模が拡大していく一方で、死者数はそれに比例して、時間差で、増えていく。

 惨状だ。

 これが惨状か。

 アイカはニュースを見ないようにした。TVを点けないようにしたし、インターネットでもその手の情報を目にしないようにした。

 怖いのだ。

 戦争は嫌だ。

 乱暴は嫌だ。

 争いごとは見たくない。

 そういうことを、学校の作文で書いた。小論文のテストだ。高校受験で推薦をとるには必須の課題でもあるから、アイカは目下の心配事を熱心に書いた。何が問題で、なぜ不安になり、どうすればそれを払拭できるのか。

 原稿用紙二枚にまとめあげなければならず、苦心を割いた。どこまでも長々と文字を連ねるだけならば簡単に思えた。それを、ここからここまで、と区切られて、枠の中に納めなければならない。

 そんな枠にはまるような心配事ちゃうよ、と思うけれども、アイカには戦争どころかこうしたテストの決まり事一つどうにもできないのだ。

 小論文は宿題でもあったので、時間はたっぷりとれた。家でも何度か書き直した。先生に提出すると、添削されて返されたあと、最後にもう一度直して再提出した。

 アイカはけっきょく小論文内で結論をだせなかった。

 どうしたら戦争を失くせるのか。平和になるのか。人々が争わずに済むのか。

 そんなことを中学二年生のじぶんのような小娘が考えたって答えがでるわけがないのだ。もし出るのなら、とっくに世の中は平和になっている。

 平和がつづいている。

 崩れるはずもない。

 でも現実では、アイカが小論文に四苦八苦しているあいだにも戦争がつづいていて、人々が殺し合い、味方の死体をゴミでも放るみたいに穴のなかにほかの遺体と一緒くたにして投げ込んでいる。

 捨てているのだ死体を。

 一体一体を火葬している暇がないから。

 腐ってしまうからだ。

 そうせざるを得ない惨状が、アイカが塞ぎこみながらも温かい布団でスヤスヤと眠っているあいだ、それともお腹が減ってホットケーキを焼いて食べているあいだに起こっている。

 ずっとつづいている。

 アイカは好きな漫画や映画を観る気にもなれなかった。試しに開いてはみるものの、以前のようには楽しめない。楽しんではいけないのではないか、とそんなふうに思ってしまう。

 兄にそのことを言うと、

「そりゃ呪いだな」兄は腕立て伏せを一時停止した。野球部の補欠のくせして努力だけは人一倍の兄そうした姿は汗臭いが嫌いではなかった。

「呪いって?」アイカは訊き返した。

「呪いは呪いだ。遠い国の戦争ごときで日々の楽しさを損なわれるなんて、そんなのは呪いにすぎんよ。修業が足りん」

「そんなぁ」

 ひどい言い草に聞こえた。「遠い国の出来事じゃないよ。おとなりさんだよ」

「だとしてもだ。戦争に負けんな。おまえは前みたいにこれからも、ニコニコアホ面下げて日々を楽しめばいいんだ」

「いいのかなぁ」

「いいんだ。オレが許す」

 兄はふたたび腕立て伏せをはじめた。

 ふっふっ、と荒い息遣いがすこしばかし煩わしいが、アイカは敢えて何も言わずに居間からじぶんの部屋へと移動した。

 日々は坦々と過ぎていく。

 戦争は未だに終わりが見えない。どちらの国がわるいのか、アイカには判断つかなかった。しかし、みなが言うには、どうやら一方の大国が一方の小国をいじめるようにして侵攻したらしい。

 侵略だ、とほかの国々はこぞって非難している。

 ニュースを見ていなくとも学校にいれば否応なく耳に入った。

 侵略した国をみんなで仲間外れにして頭を冷やさせる作戦が進行中らしいよ、と昼食の時間にクラスメイトの男の子が教えてくれた。アイカたちが、戦争怖い、とささやき合っていたからだろう。

「それって効果あるの?」アイカの友達が言った。彼女はお弁当のウィンナーを、ぷちん、と噛み切る。

「経済制裁だって。あると思う。だって材料が入ってこないから工場だって動かないし、機械が壊れても、やっぱり部品がないから直せない。もうやってけないよね」

「最大級のいじめじゃん」

「それくらいのことをやってるってことだよ。武力で滅多打ちされないだけマシだと思ってほしいよね」

 そうだねぇ、と友達はお弁当をついばみながら相槌を打つが、アイカは何も言えなかった。どうすればよいのか、解らないのだ。悩んでいるのだ。そんなにサクっとだせるような答えなのだろうか、と不安がまた湯水みたいに滾々と沸々と込み上げる。

 国語の授業のあと、先生から呼びだされた。

 なんだろうと思うと、じつはね、と先生は頬をほころばせた。眼鏡も髪型も四角い先生だ。性格はそれとさかさまで、角のないつるつるした穏やかなしゃべり方をし、アイカは嫌いではなかった。男の先生なのに緊張しないのがとくによいと仲間内でも評判だ。

「アイカさんの小論文、とても出来がよかったので、学校の代表として県の賞にだしたいなって先生思うんだけど、いいですか」

「賞、ですか?」じぶんの小論文なんかでよいのだろうか、と恐縮する。

「うん。お願いできますか」

「あーはい。じゃあ、いいですけど」

 聞けばアイカはとくにすることなく、小論文もとくに直すところもないらしい。そのままでいいそうだ。結果はいつ出るのか、と問うと、一月後ですかね、と先生は言った。

 アイカはなぜか先生とこうしてしゃべっているいまなら投げかけられる気がした。ずっと誰かに確かめたかったのに、答えを聞くのが億劫で避けつづけてきた質問だ。

「それまでに戦争は終わりますか」

「どうでしょうね」

「いつ終わりますか」と言い換える。

「長続きはして欲しくはありませんよね」先生自身が心底困っているふうに眉根を寄せた。それから、点けるべき明かりを点けていなかったと気づいたように、「不安ですよね」とアイカを気遣った。「もし気分が優れなかったりしたらすぐに教えてくださいね。相談でもいいですし、ほら、こうしてすこし話すだけでもちょっとだけ気分が楽になりませんか」

「はい」

 頷き、礼を述べ、アイカは立ち去った。

 本当は気分が楽になってなどいなかった。むしろ、先生ですら答えを知らないことなのだ、と思い、余計に身体の中のモヤが濃くなった。重みすら増したようだった。

 未来がどうなるのかは誰にもわからないのだ。

 アイカのそうした心中をよそに、日々はやはり何もせずとも過ぎていく。まるで巨人がめくる紙芝居の中にいるようだ、とアイカはふとした拍子に空想するようになった。

 先生へと不安を吐露した日から一月後、もうほとんどアイカは小説論文のことなど忘れていた。それどころではなかったのだ。

 隣国の戦争は泥沼化した。すぐに鎮静化すると自信満々に言い放っていた専門家たちまで、この先どうなるか分からない、と青ざめた様子で語りだした。

 アイカはもはや、増える一方の死者に動揺しなくなっているじぶんに気づき、傷ついた。アイカよりも幼い子どもたちが犠牲になっている。それなのに、そうした話を聞いても、もう以前のようには悲しく思えないのだ。

 有り触れた日常になってしまった。

 戦争のある世界が、日常になってしまったのだ。

 学校に行くと、朝の会の前に先生にちょいちょいと手招きされた。

 席を立ち、廊下にでる。「はい」

「このあいだの小論文コンクールのやつ。結果出たのでお知らせです」

「はあ」すっかり忘れていた、とは言わない。

「受賞おめでとうございます。銀賞ですって。さすがですね。とてもよい文章だと先生も思っていたので、じぶんのことではないのにじぶんのことのようにうれしいです」

「銀賞ですか?」

 あれで、と疑問に思ったが、ぐっと飲みこんだ。こんなにうれしそうな先生を見るのも珍しかったので、その邪魔をしたくなかった。

 四角い眼鏡をゆびで押しあげ、先生はもう一つ質した。「みなさんのまえで発表ししようと思うのですが、そのときに先生、読みあげてもいいですか」

「読むんですか? みんなのまえで?」

「嫌でなければ、ですが」

「先生は読みたいんですか」

「それはもう。ファンですから」

「ファン……」

 正直、アイカはどうでもよいと思った。もはやこんなことで気分を損ねるだのと言っていられるような世の中ではないはずだ。しかしだからこそ、このような暗い時世のなかにあって、先生がよろこんでくれていることに救われた心地がするのも誤魔化しようのない正直な気持ちだった。

「わたしはどっちでもいいです」

「ありがとう。じゃあ、また授業のときにね」

 彼は担任ではない。ほかのクラスの先生なのだ。国語の授業のときにしか顔を合わせない。彼は階段を下りていく。

 廊下の向こうから担任がやってきて、アイカの顔を見るなり、聞いたかぁ、と甲高い声をだす。「小論で賞とったらしいぞぉ」

「いま聞きました」お辞儀をしてアイカは教室に逃げこんだ。

 学校から帰ると、家には兄が一人だった。帰っているなんて珍しい。ふだんは部活をしてくるのでもっと帰宅は遅いはずだ。

「ただいま。早いね」

「おかえり。部活ないんだ」

「へえ」

「なんでだと思う?」

「さあ」冷蔵庫を開けて牛乳をカップに注ぎ、飲む。そのまま居間を出てじぶんの部屋へ行こうとすると、「戦争のせいでさぁ」と兄の声が届いた。ひっくり返っているのか、響き方が変だ。

 アイカは扉を支えながら振り返る。兄はバランスボールに背中で乗り掛かっている。

「戦争のせいで、物価あがったろ。必要な部品も足りないってんで、新しい道具が入ってこねぇ」

「ボールとか?」兄は野球を愛好している。

「そ。ボールとか。あとはバットもだし、ミットもだし、靴もだし、ユニフォームも。砂もだし、石灰もだし、メットもだし。ボールっつっても練習中は軟球だろ。試合近くなったら硬球使うけどさ」

「ふうん」

「戦争のせいでさぁ」兄はただぼやきたいだけだったようだ。それきりバランスボールに背中を預けながら、器用に両足を浮かして腹筋をはじめた。

 アイカは部屋に行き、着替えた。

 すこし迷ってから、一階に下り、居間で腹筋を継続中の兄に言った。

「きょうね。みんなのまえで小論文読まれて、あ、銀賞なんだって。県のコンテストの」

「へえすごいじゃん」兄はバランスボールの上にひっくり返ったまま動きを止めた。

「でね、みんなのまえでそれを読まれて、そしたらあとですこしからかわれて」

「からかわれたって、そもそもどんな内容なん」

「戦争嫌だなって話。なんで平和を目指さないんだろうって、そういうことを書いたんだけど」

「まっじめー」茶化してから兄はすぐに、「いや、偉いな。うん偉い」と訂正した。

「授業が終わったあとで、クラスの女の子が――あ、このコはふだんはすごくいいコで、仲もいいんだけど、でもわたしの小論文がすこし気に入らなかったみたいで」

「何か言われた?」

「うん」

「なんて?」

「えっとね」アイカはソファにお尻から着地する。クッションが落ちそうになって、慌ててキャッチする。「なんかね、戦争なんていまにはじまったことじゃないんだからって。気にしすぎだよって。そう言われちゃった」

「それだけ?」

「むっ」

「いやだって、事実じゃんそれ」

「そうだけどそうじゃなくって」

「たしかにいまやってる隣の国のアレは嫌だけどさ。それが始まる前から、戦争なんてそれこそ南のほうじゃずっと続いてんだよな。あまりに当たり前すぎてなのか、もはや関心がないからなのか、ニュースにならないだけで。紛争なんか四六時中どっかの国で起きてるだろうし」

 アイカは目を丸くする。「同じこと言われた」

「だろぉ?」兄は得意げだ。「アイはちょっち優しいからな。繊細な心持ちの妹を持ててオレはうれしいよ」

「それも言われた。だからわたし、カチンときたんだよ。前半はいいけど、後半のそれはわたしのことバカにしてるなって判るから」

「バカにはしてねぇよ」

「してるよ」クッションを抱きしめてからアイカは深呼吸をする。「わかったいいよ。わたしが何に怒っているかって、いま説明するね」

「怒ってたのか。わるかったって」

「うん。それはもうだいじょうぶ。ありがとう」

 柔和な声音を意識した。表情はうまく弛緩できないが、兄はこちらを見ていない。礼を述べただけでもすでに、緊張を解いたようだ。扱いやすい兄である。

「たとえばお兄ちゃんは、わたしが繊細だから過剰に気持ちが沈んでいるだけだって言うけど、でもじっさいに隣の国でいっぱい人が死んでるんだよ」

「そんなこと言ったらこの瞬間にだって世界のどこかでは誰かが死んでるよ」

「そう、それ。まさにそこ。わたしとお兄ちゃんたちとの違い」

「まさかおまえ、つねに悲しいなんて言うなよ」

「つねに悲しいよ。でもそれとはまた別なの。だってお兄ちゃん、人間なんていつでもどこかでは死んでいるって言いながら、でもわたしとかお母さんが死んだら悲しいでしょ」

「うっ」

「お父さんがもしきょう帰ってこなくて、事故で死んじゃってたらどうする? わたしがあした、どこかの知らない男の人に殺されたらどう思う?」

「そりゃあ、おまえ」

「悲しいでしょ? 気分塞いじゃうでしょ」

「まあ、こんなことはしてらんないな」兄はバランスボールから下りた。その場で正座の体勢に直る。「でも、戦争と家族の死はちょっと違うべ」

「違くないよ。世界のどこかで戦争がつねに起きてたって、隣の国で起きたことはやっぱりちょっと特別だよ」

「距離の問題じゃないと思うけどな」

「それはそうだよ。わたしだってそう思うよ。でもそう言うと、お兄ちゃんたちは、世界中のどこかではいつだって誰かが死んでいるとか、そういうことを言うでしょ。でも身内の死は悲しむんでしょ。そっちのほうがよっぽど距離を問題にしてるのに、どうしてわたしのほうがトンチンカンなこと言ってら、みたいに言われなくちゃならないの」

「怒んなよ」

「怒ってないよ。ううん、やっぱり怒ってるのかも。みんな冷酷だよ。隣の国だよ。すぐそこだよ。怖いことしないでって思うよ。人傷つけないでって思うよ。誰の苦しむ顔なんて見たくないよ。距離の問題じゃないよ。それはそうだよ。でも、でもさ」

「分かった、分かったってば。兄ちゃんがわるかった。もう言わない」

「分かってないよ。分かってないからそうやってすぐにさ」

 撤回できるんだ、と言いたかったけれど、言葉にならなかった。

 アイカは大粒の涙を膝の上に零した。染みとなったそれを拳で拭って、ぐすん、としゃっくりを堪える。

「たぶんだけどさ」しばらく経ってから兄が口を開いた。「アイカは強いんだ。ちゃんと現実に起きていることを受け止めようとしてる。でも、オレなんかさ。ダメなんだ。いつでもどこかで誰かが苦しんでいるなんてこと考えちゃったらさ、もうなんもできん。野球なんかやってられるか、ってなるじゃん。でもじゃあ野球しないで何すんのっつうと、なんもできんのだな、これが。役立たずだ」

 ぐすん。

 アイカは鼻を啜る。

「耐えられんのよ。常に悲しいのも。常に役立たずなことにも」

 ぐすん。

「でも、アイはちゃんと受け止めてんだな。偉いよ。なかなかできることじゃねぇと思うよ。それをしかも言葉にできるわけだろ。小論文然り、いまの激怒然り」

「激怒ってなに……」

「噴火してたぞ。頭のてっぺんから」

「そういうのがさぁ」

 からかわれているというのだ。

 怒りが再燃しかけたけれど、ここで怒ったら負けな気がした。かといって引き下がったら兄の手のひらのうえでいいように転がされたようで面白くない。

「ああ、ムシャクシャする」

 クッションを掴むと、兄へと投げつける。

「おいおい」兄は難なく受け止めた。赤ちゃんをあやすようにクッションを撫でつけ、兄はたっぷりの間を空けたのち唇を尖らせる。「戦争反対」

 どの口が言うのだ。

 アイカは思うが、怒りのぶつけるべき矛先は定まらぬままだ。グツグツと煮るしかいまのところは術がない。

 ただ、すこしだけ。

 アイカは鼻水を、ずず、と啜る。

 いつもとは違ったじぶんに触れた気がした。

 身体の内側に渦巻く分厚いモヤに光が差しこみ、風が吹きこむ様子を想像する。

 しかし、アイカがどう思おうとも、現実ではなおも、大勢の人たちが隣の国で殺し合っている。




【糾える鎖のごとく】

(未推敲)


 悪霊だ、とまずは思った。

 霊級で言えば討伐指定級だろう。なぜそんなバケモノを連れているのか、と驚愕すると共に、引き連れている側がとり憑かれている事実を認識していたことに加えて驚く。

「知ってて放置してんの」

「ああ。だいじょうぶなんだ。彼女、可哀そうなコでね。ほかに僕みたいな霊に憑かれやすい体質の人たちから悪霊を追っ払ってくれてたのに、彼女ほら、それができるくらいに強いから、君みたいな祓い屋稼業の人たちに追われて傷ついてたんだ」

「いやいや、だからって」

「心配してくれてありがとう。でも本当に彼女はだいじょうぶなんだ。現に僕に憑いていた悪霊を追っ払ってくれて。代わりにいまもこうして守ってくれてる」

 街中で偶然に見かけた高校時代の同級生の男の子が、凄まじい悪霊を引き連れていたので、慌てて電波越しに連絡を取ったのだ。まずは事情を訊いておこうと思った。

 しかし何を言っても、だいじょうぶなんだ、の一点張りなので、なら好きにすればいいけれど、と引き下がった。

 というのも、電波越しでありながらすでに私は、彼のそばにいるだろう悪霊の放つ禍々しい呪素を感じ取っていた。これ以上刺激すれば排除対象と見做されかねなかったので、きみの言葉を信じよう、と言って電波通信を切った。

 私は正規の祓い屋ではない。境会に属してはいないし、呪具の類もふだんは持ち歩かない。

 旧知の学友がとんでもない目に遭っているのではないか、と老婆心を働かせただけのことであり、彼が心配いらない、と言うのならそれを無視してまでどうこう手を打とうとは思わない。

 無駄に藪を突ついて蛇やら鬼やらをだすこともない。

 討伐指定級の悪霊ともなれば、実体化して人間を物理的に襲う真似だってできる。呪い殺すまでもなく、惨殺することもできるのだ。

 昨今、通り魔が多いが、その少なからずも悪霊によるものだろうと私は見立てている。

 しかし、彼の言葉を信じるのならば、あの悪霊はほかの悪霊を退治しているようだし、そのときに霊素や呪素を補給してもいるのだろう。わざわざ人間を殺傷して、宿木たる彼の害となるような真似はしないはずだ。

 そうだ、そうだ。

 きっとそうだ。

 楽観的に構えながら、でもできるだけ彼とは会わないようにしようと、彼を見掛けた区域には近寄らないように意識した。

 しかし却ってこれがよくなかったようだ。

 相手のほうでも同じことを考えていたようで、ばったりとその数週間後に鉢合わせした。

 お食事中であった。

 私の旧友が、ではない。

 彼にとり憑いた超規格外な悪霊が、である。

 午後十三時のお昼時に、閑静な住宅街の道路のど真ん中で、買い物帰りの主婦らしき死体からむしゃむしゃと腸を貪り食らっていた。

 私は固まった。

 ぴたり、と悪霊が動きを止める。

 私はそこに至ってようやく、じぶんが認識阻害の結界内に踏み入っていたことを知った。

 コイツ、もしや名のある術師の霊ではないのか、とこのときに察した。

 長髪が滝のように垂れ、悪霊の素顔を隠している。否、素顔などあるのだろうか。髪は地面まで垂れ、死体を半分ほど覆い隠している。衣服は袴のようでもあり、コートのようでもあるが、判然としない。色とて、赤のようでいて紺でもあり、白にも見えたかと思うと黒にも見える。

 印象が変わるのに、切り替わっているようには見えない。存在を処理しきれないがゆえに、認識が定まらないのだ。

 地面には死体の持ち物だろう、買い物袋が落ちており、牛乳やらニンジンやら豚肉やらと、食材が散乱している。

 さては今晩のこんだてはカレーだな。

 極限の緊張感のなか、余計な思考が脳裏を掠めた。

 そんなことを考えている場合ではない、といちど思ってしまうと、そう思ってしまうことそれ自体が、無駄な思考であり、さらにそう思うこと自体が、と雪だるま式に否定の否定が起きて、いっしゅん、思考が混線した。

 瞬きをする。

 ふっ、と視界が明るくなった。目のまえから悪霊の姿が消えていると気づくのに、数秒かかる。

 あれ、と思った矢先に、顔のすぐ横、耳元に何かがあるのが判った。

 そこだけ空気の流れがなくなり、音がくぐもり、ヒリヒリと熱のようなものを感じた。

 霊感のない者たちはよく、霊を冷たいと勘違いしているが、エネルギィ体である霊は、おおよそ熱いのだ。悪霊ともなれば、触れれば痛いと感じるくらいに肌にひりつく熱を帯びる。

 害意のない相手には体のよい暖房代わりになるが、敵意を露わにした相手には火のごとく熱を発する。

 ゆえに、その熱がどの程度かによって、いかに敵視されているのかが判る。

 私の顔の横にはいま、悪霊がいる。それは理解できた。

 熱した半田ゴテを耳元に持っていけば似たような熱を感じたはずだ。触れてはいない。だが、徐々にその熱は下がって感じられた。距離はそのままだ。動いていない。

 どうやら私が、彼女の宿木たる男の旧友であることを察したらしい。ここで私を殺めれば、彼が苦しむ。

 怯む理由はそれしか考えつかない。

 ゆえに私は口にした。

「言わないから。絶対」

 悪霊にも契約は通じるのだろうか。

 疑問しながら、念を捺すように、言いませんので絶対、と繰り返す。

 魔族に対して契約は絶対だ。しかし悪霊はどうだろう。

 緊張の間が数秒開いたが、スッと身体が楽になった。

 すかさず数歩駆けて、振り返る。

 そこにはもう何もいなかった。私の足元には腹を破られた主婦が倒れており、念のため脈をとるが、やはり生きてはいなかった。

 それからは怒涛の時間だった。救急車を呼ぶと、事情を知ったオペレーターが加えて呼んだのだろう、警察も現場に到着した。その場で事情聴取が開始され、パトカーに乗って署まで任意同行した。同じ話を別の人間に繰り返し話し、ようやく解放されたのが夜中の二十二時だった。

 ご協力ありがとうございました、の一言でにこやかに送りだされたが、カツ丼の一つでも出してほしかったな、とぐったりする。

 せめてパトカーで家まで送り届けるとかして欲しかった。

 いちおううら若き乙女と言っても過言ではない年頃の女であるのに、この仕打ちはいかがなものか。霊感があるからよいものを、そうでなかったら凄惨な事件現場に居合わせた小娘を一人で夜道に送りだすなんて所業は、端的に言ってイジメである。虐待と言っていい。

 とはいえ、こうも事情聴取が長引いたのも、夜道に放りだされたのも、おそらくは私に怖がっている様子がなかったからだろう。恐怖耐性がついている。なまなかな刺激では鳥肌一つ立たない。

 釈放されたものの、当分は容疑者扱いされるだろう。

 悪霊が犯人です、とは口が裂けても言えない。言えば薬物乱用の疑いをもたれるだけでなく、当の悪霊からも不評を買う。

 そうだとも。

 考えるべきは、悪霊への対処の是非についてだ。

 旧友の男の子にどうにかこうにか事情を伝えたいのが本音だ。そうでなくとも、祓い屋に連絡し、処遇を委ねる手もある。

 けれど問題は、対象の悪霊が超規格外である点だ。明らかに異質なのだ。

 生きた人間に物理的に干渉するだけに留まらず、ああして食らっていたなどと。

 何にも増して、認識阻害の結界を張っていた点が異常すぎる。単なる悪霊ではない。でなければ、とっくに境会が勘付いて手を打っているはずだ。

 人間にとり憑き、あまつさえ宿主の人心を掌握し、ああして陰で人を食らっている。

 ちょっとでも危害を加えようと行動すれば即座に気取られ、手ひどいしっぺ返しを受けるだろう。

 私にはあの悪霊をどうにかする術はない。手の施しようがないのだ。

 さいわいにも、宿主たる旧友の男の子に、損なわれている素振りはない。悪霊はどうにも彼に好意を寄せているようである。

 最初に目撃したときに、すくなくとも私はあの悪霊を、そこまで危険な存在だと見做さなかった。強大な霊素の塊ではあるにせよ、そこまで呪素を帯びてはいなかったからだ。悪霊ではあるだろう。しかし、旧友たる男の子を呪い殺そうとしているわけではないと一目して分かった。

 ならばひとまず様子を見たほうがよい。

 私はかようにじぶんに言い聞かせて、本来は看過してはならぬ問題の種を見過ごすことにした。

 見て見ぬふりをしていたかった。

 関わりたくなかったのだ。

 だが、旧友たる男の子を見捨てるわけにもいかず、どうしたらよいのだろう、と悩んでいるうちに、半年が経った。

 人間、日々を生き抜くだけでも手一杯だ。気にかけつづけていただけ、じぶんに拍手を送りたい。薄情ではあるけれど、ほかにどうしようもないのだ。

 なにせ悪霊は宿主たる男の子には何もしないのだ。彼が口にした、じぶんを守ってくれている、との主張は、ある一面では正しいのだろう。悪霊は彼のことを守っている。

 それを、束縛している、と言い換えても成立してしまえる事実がおそろしいが、とり憑かれている当の本人はのほほんとしたもので、これといって嫌がっている様子がない。ならば放っておくのが筋である。

 犯人の手掛かりのない不審な死者が続出すれば、境会のほうでも調査に乗りだすだろう。運のわるい被害者たちには申し訳ないけれど、いつかやってくる終結の日まで、知らぬ存ぜぬを通させてもらおう。

 私はそうして、強大な悪霊の存在を知りながら、その悪霊が裏で何をしているのかを知っていながら、触らぬ神に祟りなしを地で描く生活を送った。

 時間は淡々と、何もせずとも流れていく。

 ある日、私は偶然に街中で例の旧友を見かけた。

 彼は依然として悪霊を引き連れていた。

 妙なのは、彼がどう見てもみすぼらしくなっていたからだ。服は色褪せ、髪の毛もぼさぼさで、背を丸めていまにも眠りこけてしまいそうな悲壮感を漂わせている。

 さすがに心配になった。

 電波越しならばだいじょうだろう、とテキストメッセージを送った。

 返信は三日後にあった。

 長々と近況の書かれた返信には、親族が相次いで亡くなり、恋人も突然音信不通になり、会社では上司が立てつづけにうつ病にかかって休職し、その仕事を押しつけられてまいっているとの話だった。

 そのうえ会社の社長まで体調を崩しているらしく、そろそろ潰れるかもしれない、と冗談めかし綴られていた。

 不運が重なりつらかったね、と私は返信した。例の悪霊について触れようかと思ったが、悪霊に覗かれでもしたら敵認定される。迂闊に話題にはだせなかった。

 こんどの返事は早かった。

 人生に疲れたけれど、僕には彼女がいるから。

 打って変わったような前向きな文章だ。どれだけ現状がしあわせで、じぶんが救われているのか。まるで人格が変わったかのように溌剌とした文体でそれらは綴られていた。

 麻薬中毒者が禁断症状がではじめたところで麻薬を接種したかのような、不自然なキラキラを幻視した。

 私はふと見られている気がした。

 どこからというわけでもないにしろ、彼のそばにいるだろう悪霊が、じろりと睨みを利かせている様を予感した。

 深入りしすぎたかもしれない。私はひとまず、よかったね、と送った。救いがあるのはよいことだ、大事にしなね、と彼に悪霊を労うような言葉をかけ、何かあったら相談してね、と心にもない言葉を付け足した。

 彼からは、ありがとう優しいね、とだけ返ってきたので、私は慌てて、彼女さんほどでもないよ、と投げ返したが、あとはもうどれだけ待っても彼からの返事はなかった。

 正直、ほっとした。

 思っていた以上に事態は悪化していた。十中八九、彼の身の回りに訪れた奇禍の数々は彼のそばにいる悪霊のせいだ。

 悪霊としては、彼のためにしたことなのだろう。

 いわば嫉妬だ。

 或いは単純に善意からかもしれないが、いずれにせよ、彼は、自身のそばにいることを許した悪霊のせいで、どんどん社会から居場所を失くし、孤立していっている。

 孤立すればするほどに、彼はますます悪霊に依存する。

 心の拠り所として。

 絶対に裏切らない聖母のごとく安全地帯として。

 もはや完結してしまっている。

 彼はこれからますます悪霊の手により、あらゆる関係を断ち切られ、損なわれ、奪われるが、それすら互いの絆を深める契機としてよろこび勇んで受け入れるのだろう。

 ひょっとしたら究極の至福とは、そうした自己完結した幻想のなかにしか生まれないのかもしれない。当人たちにしか視ることも触れることもできない夢まぼろしそのものだ。ともすれば、絶望や地獄がそうであるのと同じように。

 いずれにせよ、外野が茶々を入れるのは野暮だろう。

 いったいいつまでつづくだろう。

 超規格外の悪霊を野放しにしておくのは恐ろしいが、それよりも恐ろしいのは、私が目をつけられ、旧友と悪霊との縁結びの材料にされることだ。旧友の至福のために死ぬ覚悟はさすがにない。旧友の至福がどうあっても現状、私の目からすれば不幸にしか見えないのでは、仮に彼のために死ねたとしても、死んでも死にきれない。

 この世には、どうしようもないこともある。

 諦めなければいいと言われれば、その通りだが、その主張はしかし、命の危機を感じずに済む場所から椅子にふんぞり返って唱える外野の言葉だ。

 諦めなければやっていけないこともある。

 私はその日のうちにメディア端末を新規に買い換え、メモリの中から旧友の男の子の連絡先を消した。

 縁を切るのではない。

 こうすることで私は、彼の身の安全をいつまでも心配しつづけるはめになる。

 むろん私自身の保身のためでもある。

 これはただ、超規格外の奇禍の種と距離を置き、互いに干渉せずにいるための策でしかない。

 しようがないのだ。

 約束をしてしまったのだから。

 約束は大事だ。

 相手が誰であろうと、よしんば相手が悪霊であろうとも。

 いちど交わした約束は守ったほうがいい。






【愛は世界と結びつく】

(未推敲)


 好きな人といっしょになりたくて、細胞単位で溶け合いたくて、ある晩に激しく愛し合ったのち、ぐったりとした彼女の首を絞めて殺した。

 ノコギリと調理鋏で、細かく切断し、様々な料理に加工して毎日食べた。

 シチュー、焼肉、ハンバーグ。

 保存が効くので、タレに浸けてボンレスハムにしたが、これがいちばん美味しかった。

 内臓はさすがにトイレに流して棄てたが、子宮や性器はすこし齧った。

 眼球はきれいだったので、百円均一から小瓶を購入し、水に満たしたそれに沈めて観賞用とした。

 一週間ほどで茶色く濁ったので、それもトイレに棄てた。

 だいたい三か月ですっかり食べ終えた。

 食べきれなかった部位は、骨や皮といっしょくたにして生ごみにした。ゴミ収集車は何事もなくそれらを持ち去り、処理してくれた。

 人間の身体はおおよそ三年もあればすっかり入れ替わる。細胞だけなら半年あればおおむね新しくなるし、皮膚ならば一か月あれば充分だ。

 私の身体はいま、愛しい人の血肉によってカタチを保っていると言ってよかった。

 しばし恍惚とした。

 至福に包まれ日々を過ごしたが、同じく半年からひと月も経てば、私の肉体はまた何の変哲もない雑多な食材からなる細胞と入れ替わる。

 私は鬱屈とした時間を過ごしたが、そうした私を照らしてくれる愛しい人と運よく出会うことができた。

 私は彼女と毎日のように愛し合い、そしてこれ以上ない至福の絶頂を感じた矢先に、彼女の首を絞め、殺した。

 いちど体験してしまえば、つぎからは効率よく作業ができる。

 解体から加工、破棄から食事と、私は滞りなくそれらを済ませた。

 幸福な食事を摂れる日々のなんと煌びやかなことか。宙に舞う埃すら天使のごとく神々しい輝きを放って映る。

 私の細胞はそうしてまた愛しい人の血肉を取り込み、細胞膜内を至福でパンパンに詰まらせる。

 私はかたときも至福を手放したくなかった。

 それゆえ、空虚な細胞へと身体が回帰していく間を空けることなく、つねに愛に溢れた日々を送った。

 誰に対しても愛をそそぎ、愛を以って触れ合い、格別に愛おしい者とは夜な夜な明け方まで全身全霊で愛し合った。

 その後、至福の極みに達するたびに、か細い首に指を回し、締め、苦しそうに歪む愛しい人の壮絶な最期を目に焼きつけながら、さてこんどはどんな料理に挑戦しようか、とご馳走にありつける潤沢な時間に思いを馳せた。

 しかしそれも、やがては飽いてしまった。

 どのような娯楽も愉悦でさえ、それが日常と化せば、麻痺してしまうのが人間だ。

 変化が欲しくなった。 

 もっと色濃い、凝縮した愛を、至福を、私は味わいたくなったのだ。

 どうすればぎゅぎゅっと、コーヒーを濾して飲むように、愛を、至福を、取り込めるだろう。同化できるだろう。

 よりいっそう、より色濃く。

 そうだ、と閃いたとき、私の料理の腕前はずいぶんと磨かれていた。人間の死体とて、レストランに並ぶご馳走と寸分たがわぬ美味を宿す。

 そこにきて、私は縁を結んだばかりの愛しい人に、私の手料理を振舞った。言わずもがな、素材は、それ以前に結びつき殺した過去の愛しい人である。否、細切れの肉になっても私は彼女たちを総じて愛している。

 愛しい人の肉を、愛しい人に食べさせる。

 愛しい人の細胞が、愛しい人の血肉で充満する。

 それを私が最後に食せば、これはもう、これまでにないほどに愛を感じ、味わい、溶け合うことと同義だろう。

 私はそれをした。

 思いついたら放っておけない。やれるといちどでも思ってしまったら、それをせずにはいられないのだ。

 愛しい人は半年後には、私の殺めた恋人たちの血肉で全身を潤わせた。愛の濃縮された彼女を、私はたっぷり半日をかけて愛し尽くしてから、青色吐息、快楽の坩堝にて恍惚と脱力した彼女の首を絞め、やはり殺した。

 殺すとき、私はいつもじぶんが現実と夢の狭間に揺蕩うモヤに包まれる心地がした。

 目のまえの人型を模したそれが、人間ではなく、食材であり、或いは人間であり食材であるかのような、どっちつかずの違和感に満ちた海にゆらゆらと揺蕩った。

 しかし人間であれ食材であれ、私の目のまえに横たわり、私の手により細切れになっていく彼女たちは紛れもなく私にとっての愛の結晶であった。

 ときには男性の恋人もつくったが、肉が硬くて、つぎからは倦厭するようになった。

 愛の収斂した死体を私は食べた。

 私の全身の細胞たちが歓喜に打ち震えるのが判った。たとえ錯覚だとしても、かように錯覚できることがすでに奇跡であり、愛のなせる業である。

 私は繰り返し、繰り返し、手間暇をかけて、愛しい人を殺して手に入れた愛の結晶をさらに食わせた愛しい人を殺し、そうして多重に結晶させた愛の珠玉を最後にじぶんが食らうことで、私の存在そのものを愛なる至極へと昇華せしめた。

 私こそが愛である。

 しかしそれでも、そこまでしてなお、私は己が渇きに抗えなかった。

 飽きるのだ。

 これほどまでの愛に満たされたところで、やはりこれが日常であり、日々の際限なく繰り返される習慣になってしまえば、それはもはや有り触れた愛ではない何かに成り下がる。

 そう錯覚してしまうだけのことかもしれないが、錯覚できてしまえる時点でその程度の代物であると言えた。

 私はさらなる高みへと昇りつめたかった。

 究極の、これ以上ない、愛そのものを我が身に。

 十年を共に暮らし、共に数多の恋人たちを食らってきた私の分身のような相方の肉を食らいながら私は、ぷくぷくと愛で肥えた我が手の甲を見詰める。

 ナイフを握り、愛の結晶たる愛しい者のステーキを頬張りながら、私は、なぜか調理済みの肉よりも、我が手に浮かぶ瑞々しい血管を凝視する。

 ごくり、と喉が鳴る。

 腹は満ちているはずだった。

 しかし極上のデザートをまえにした幼子のごとく私は、ナイフで以って己が指先を切断する。

 ごりごり、と腕に骨を裁断する振動が伝わる。

 皿のうえに血が溜まるが、意に介さない。

 私は切断したじぶんの指を、フォークで差し、ステーキ皿たる鉄板に押しつけた。鉄板は熱せられており、押しつけた矢先から、指先はジュージューと香ばしい音色をあげた。

 玉ねぎのおろしダレに浸け、骨ごと頬張る。

 なかなか噛み切れないが、私はふしぎと涙していた。

 それからはもうナイフで片手から指がなくなるまで、食事は止まらなかった。

 台所へと移動し、切り落とした手首をさらに調理する。

 包丁で以って細切れにし、フライパンで炙って、香辛料を振りかける。

 ステーキがやはり一番素材の味を楽しめる。

 手首の傷口は、高温のフライパンに押しつけて塞ぐ。

 切って、焼いて、傷口を塞ぎつつ、調理した珠玉の愛を味わった。

 究極の愛の味がした。

 我が細胞の一粒一粒が、まるで荘厳なピアノの演奏のごとく、感動の玉を奏でる。雨のように踊り、滝のように止めどない。

 滂沱たる幸甚の念が押し寄せる。

 満腹になるのも煩わしい。

 腹を裂き、腸を引っ張りだすと、私はそこに流れ込んでくる咀嚼したばかりの己が肉をもういちど啜った。

 永久にこの至福を我が物とする。

 私はいよいよ究極へと達した。

 私こそ愛だ。

 愛とは私である。

 己が糞に塗れながら、大量の体液を零しながら、私は、私が私でありつづける限り、この輪郭が崩れ去るまで、愛そのものを食らい、破り、なお食らった。

 内と外が繋がり、

 私は世界と結びつく。




【心の断面図はガラクタで】


 暇だったのでアヤトリをして時間を潰した。絵の具が渇くまでのあいだだけの手短な遊びだ。

 アトリエとは名ばかりの四畳一間の狭い部屋で寝泊まりしている。

 画材道具を仕入れるのに金がかかるので、どうしても生活が質素にならざるを得ない。銭湯にコンビニ食と、貧乏ゆえの無駄遣いが嵩む日々だ。

 それゆえ暇の潰し方もデジタル機器とはいかず、古風にならざるを得えない。けん玉に積み木遊びときて、いまはアヤトリにハマっていた。

 アヤトリはいい。

 魔法陣を描くように好きに毛糸を絡ませる。

 するときょうは偶然にか、妙な紋様を編みだしてしまった。うっひょひょー、と悦に浸っていたら、ブーン、と重低音が鳴り響き、気づくと目のまえに真っ黒な球体が浮かんだ。

「なんじゃこりゃ」

 たまげると、球体からも、

「なんだこりゃ」

 と声が聞こえた。

 顔を近づける。

 球体が物体ではなく、穴であることに気づいた。

 宙に穴が開いている。

 これは妙なことになったぞ。

 不安と昂揚を半分ずつ胸に、試しに筆を穴に差し込んだ。

 すると、筆の先っぽが穴に入ったところで、コツンと抵抗が加わった。

 ずいぶん浅いな。

 思ったが、横にズラすと、こんどはするすると筆が奥に沈んでいく。

 するとなぜか、穴から筆の先端がこちらに向かって突き出してきた。

 まるでこちらとあちらが真逆に繋がっているみたいだ。

 妙だな、と思い、筆を引き抜こうとすると、こちらに突き出ていた筆の先端がさきに引っ込んだ。

 連動しているわけではなさそうだ。

 ということは向こう側に、筆を差しこんだ何者かがいるということになるのではないか。

 こちらも筆を引っ込め、筆の無事を確かめる。

 しばし迷った挙句、つぎは手を差しこもうと決意したところで、穴の向こう側から手がにゅっと突き出てきた。

「ぎゃ」

 声を上げると、手が引っ込む。

 穴の向こう側に誰かがいるのだ。

 危険人物だったらどうしよう。 

 悩むが、好奇心のほうが勝った。こちらの叫び声に臆して引っ込むくらいなのだから、向こうの人物とて繊細な心の持ち主だろうとの希望的観測も手伝って、穴の向こう側に手を突っ込もうとしたところで、ぎょっとした。

 穴からは、ぬっと顔が突き出てきたのだ。

 穴を潜って現れたのは、じぶんの顔だ。

 瓜二つだ。

 いや、ほうれい線が目立つし、顔の染みも増えている。白髪も多いし、別人に見えなくもない。

 相手は相手でこちらの顔を見てびっくりしている様子だ。

 それから部屋を見渡し、

「あ!」と言った。「それまだ壊れてないんだな」

「ど、どれ」

「それだよ、その時計」

 母の形見だった。どっしりとした木製の土台に、円形の針時計が乗っている。重量感があり、アンティークとしても大事にしていた。

「地震があってさ。壊れたんだ」

「地震……」

「いま何歳?」

「え、僕?」

 穴から突き出た首はうなづく。ほかに誰がいんだよ、と言いたげだ。

 年齢を口にすると、十年前かぁ、ともう一人の僕らしき人物はまなじりを下げた。「てことはいまは例の個展に向けての作品を描いてるって感じかな」

「そうです」

「でもあれはなぁ」

 十年後の僕らしい人物は苦笑を浮かべたので、すかさず僕は、言わなくていいです、と遮った。「未来のことはまだ知りたくないですし、そもそも僕たちが同一人物かもまだ分からないじゃないですか」

「分かるだろ。決定だよ。だってきみ、まだ童貞だろ」

「そ、そんなのは結構な割合で、言えば当たりますよ。いまどき珍しいことはないですし」

「じゃああれだ。初めて告白したのは中二のときで、一個上の先輩に告白して振られた」

「それもだいたいみんなそんな過去があるんじゃないんですか」

「しかし私らは違うだろ。中田先輩は男だったし、振られたけれど、そのあとで何の因果か、キスをしたりするような仲にはなった」

「もういいです。わかりました。あなたは未来の僕でした」

「くっくっく。しかしそうなるとこれまた妙なことだな。なにせ私にはきみのころに、未来のじぶんに会ったなんて記憶はないんだなこれが。タイムパラドクスだね。きみはどう考える?」

「それはおそらくは」

 僕には当て推量がついていた。

 まずは確認しておきたくて、質問する。

「いまって何していましたか」

「私かい? 私はちょっと暇になったんでアヤトリをね」

「それって十年前にもやってましたか?」

「いや。さいきんハマっててね。むかしはけん玉に夢中だったけど」

 やっぱりだ、と思う。

 彼は未来の僕なのだろう。そこは確かだと思われる。

 しかしまったく同じではない。

 微妙に過去が違うのだ。

 そして、偶然、アヤトリというアイテムで繋がってしまった。

「ひょっとしていま、じぶんだけの技っていうか、アヤトリで紋様を編みだしたりしませんでしたか」

「おー、したした。あ、それで?」

「たぶんですけど」

 魔法陣のような、というよりもまさしく魔法陣として機能してしまったのではないか。ひとまずそういうことにした。正しい解釈かはおいといて、理由があったからこうなったのだ、と思いこめれば、ひとまず安心できる。

「いまの私と過去のきみが微妙に違うということはじゃあ、きみが私と同じ未来を辿るとは限らないわけだね」

「そういうことになりますね。きっとそうです」そうであってほしいのでそう太鼓判を捺した。「だって仮にここで僕があなたから、これからじぶんに起こる未来を聞いてしまえば、すくなくともまったく同じ未来を辿ることはなくなるわけですよね」

「そうだね。もうすでにだってねぇ」

「はい」

 彼にはないだ。僕の年齢のときに未来のじぶんに会ったなんて過去が。

「じゃあ、すこし先輩の私がきみにしてあげられることは何もないってわけだ」

「そう、ですね」僕は意味もなく部屋を見渡し、ないですね、と言ってから、「ああいや、そうだ」とうしろにどかしていたキャンバスを引っ張り寄せる。「この絵、どう思いますか。いえ、もちろん同じような絵を描いたことはあるんでしょうけど」

「おー、あるある。すごいな、絵に関しては同じだね。私もそれ描いたよ」

 個展にだすのとはべつの絵だ。

 大作をこさえる前に僕はこうして小さな作品で実験をするのが習慣になっていた。

「この絵、やっぱり未来の僕からしても駄作に見えてしまうんでしょうか。他人に見せるつもりで描いていないので、誰からも意見をもらっていなくて、でもじぶんだけで評価しようとするといつも駄作に見えてしまうので」

「うん、わかる」

「あ、もうこういう葛藤からは脱却した感じですか」

 克服したのか、と問うと、いや、と返事がある。

「いまもしょっちゅう思うよ。描くたびに思う」

「ですよね」

「でも、その絵はきみが思うよりかはわるくない」

 意外な所感を吐かれて、言葉に詰まる。

「うん。きみがその絵を駄作に感じるのはわかる。私がきみのころにも同じようにその絵は未熟の塊に見えた。でもね、それはいまのきみが本気でその絵と向き合っているからだ。たとえば人間の顔を本気で観察すれば、どんなに美人の顔だって毛穴だのムダ毛だの、皮脂だの、ダニだの、ふだんは見逃している汚く思えるような装飾品でいっぱいだ」

「それはそうかもしれないですけど」

「いまの私からするとその絵は、いまの私には描けない魅力に溢れている見える。もちろん欠点がないわけじゃない。だが魅力がないわけでもない。きみが思うよりも、それは輝いているよ。すくなくとも私の目にはそう映る」

「それは時間が経過したからなんですかね。僕も十年経てばそう思えるようになるんでしょうか」

「と、いうよりも、だ。いまのきみとて、十年前の作品を見てみればいい。そのときには見えなかった長所にしろ短所にしろ見えるはずだよ。とはいえきみからしたら十年前はほとんど子どもで、まだ絵を誰からも習ってもいないし、学んでもいない、まさしくラクガキを楽しんでいたころだろうけれど」

「ええ、それはそうですよ。そんなのは見なくとも判ります。ああ、なんてヘタなんだ、でも十年でこれだけ上達したなんてなかなかやるなぁ、と思うんです。それでいて同時に、十年経ってもこの程度なのか、と失望もするんです」

「んー。それを言ったら私だって変わらないよ。きみのころから十年経ってこの程度なのか、と日々工夫の余地を探っている」

「あの、どんな絵を描かれているんですか」

「お、見たいのかい」

「見たいです。けど。でもどうなんでしょうね。これもだって言ったら未来のじぶんの運命を知るようなもので、あまりよくない気がするんですけど」

「どうかな。もはやこうして言葉を交わしている時点で、未来はすでに動いているよ。私と出会わないままだったきみの未来とは違う未来をすでにきみは辿っている。未来はもうズレているんだから、いまさらの悩みだね」

「そうなんでしょうか」

「しかも私のほうではやはりきみのころに未来のじぶんに会った記憶はないからね。つまりもはや私の辿る未来ときみの辿る未来は別と結論づけてもいいなじゃないのかい」

「だといいのですけど」

 口にしてから、しまった、と思う。

「お、なんだい。そんなに私のようになりたくはなかったかな」

 未来の僕らしき人物は、破顔した。くしゃりと皺が寄り、重ねた齢が余計に際立った。

 十年後の姿にしては更けている。一見して疲れていると判る。

 苦労したのだ。

 絵をまだ描きつづけているらしいことだけがさいわいだ。

 いや、どうなのだろう。

 いまより生活が楽になったとはとうてい思えない。

 ならば僕はいまの極貧の生活をあと十年以上もつづけていかねばならないのだろうか。

 確かめたくもあり、恐ろしくもあった。

 十年後の僕らしき人物は、球体に似た暗闇――突如出現した穴から頭部だけ突き出して、あたかもカーテン越しにルームメイトとしゃべる学生のように、「紙とペンはあるかな」と身をよじって腕を引き抜いた。

 僕は言われるがままに、紙と筆を手渡す。

「描くんですか」

「見たくないなら言いなね。そんときはそのまま丸めて私の部屋に持ち帰ろう」

 目のまえの彼は未来の僕だ。

 これから十年の研鑽を積んだ僕なのだ。

 彼の絵を見たくないと言えば嘘になる。

 同時にそれは、じぶんのこれからの限界を知ることにもなり得る。

 もちろん彼は僕とまったく同じではない。すでに別の未来を歩みつつあるとする彼の意見は荒唐無稽と否定するよりも妥当と見做したほうが筋が通っている。

 けれどそれはすなわち、僕がこのままきょうこのときを以ってじぶんの限界を知り、筆を折ってもおかしくない可能性を示唆してもいる。

 僕は果たして彼の絵を見たうえで、さらに十年の月日を絵の創作に注げるだろうか。表現活動をしつづけていけるのだろうか。

 ハッキリ言ってしまえば自信がなかった。

 だから臆した。

 僕の開けた沈黙を異議なしと判断したようだ。十年後の僕らしき人物は、黒い穴から上半身を生やしたまま、紙に絵を描いた。

 ちょうど目のまえには僕が使っていた机があったので、それをキャンバス代わりにしている。

 三十分もかからなかっただろう。

「こんなもんかな」

「いいんですか、絵具も何も使わなくて」

「鉛筆一本あれば充分だろ。何せラクガキだからね」  

「消しゴムも使いませんでしたね」

「ラクガキだからね。ま、いつものようにまた駄作を生みだしてしまったね。きみじゃないが、どう見ても未熟の塊だ。渾身の駄作と言ってよい」

 そう言うわりに、声には卑屈な響きはない。表情だってさっぱりしたものだ。

「どうするね。このまま見せずに持ち帰ろうか」

「いえ」僕は腹をくくった。「見せてください」

 はいよ、と手渡された紙を掴み、僕は躊躇なく、というよりも逡巡すれば心変わりをしそうで、そうした隙をじぶんに与えぬように、紙の表に目を落とした。

 球体から半身を覗かせた男と、一匹の羊が描かれている。

 否、羊からはなぜか狼の尾が生えていた。

「これは」

「漫画チックすぎたかな」

「いえ」

 僕は目を疑っていた。

 じぶんの絵柄ではない。

 いや、筆のタッチ、線、陰影のつけ方、それは紛れもなく僕の求め、目指している技術が使われている。僕の癖が滲んでいながらにして、しかしこの絵は明らかに僕の理想とする未来に現れるはずもない絵柄だった。

 十年やそこらで身につくような絵柄ではない。ラクガキなんてとんでもない。

 これは紛れもなく、それ以上の研鑽を毎日のように積んだ者の絵だ。

「初めからこういう絵柄なんですよね」

 そうとしか考えられなかった。

 彼は僕の部屋を見て、先に見抜いていたのではないか。僕の目指す絵と、じぶんの絵が大きく異なる理想を追い求めていたのだと。

 だからこうして太平楽に構えていられたのではないか。

「違うね。きみはこれから絵の勉強を今以上にするようになる。その絵は僕が最も苦手としている絵柄で描いたものだ。きみに限界を植えつけないようとの私なりの配慮だね」

「これが一番苦手?」

「もちろんいまの私がそう思うというだけのことで、すべての画風を並べて見せたときに果たしてきみが私と同じように評価するとは限らないよ。それこそいまの私からしたらきみの言うところの駄作が、私にとっては琥珀のように輝いて見える」

「感性がそのうち変わるってことでしょうか」

「どうだろうね。ただ、きみはあるとき気づく。絵の魅力というものに絶対なんてものがないのだと。不定であり、不安定であり、流動的であり、ときに飛び飛びに連続している。或いはまったく破綻していて、断絶していることもある」

「意味がちょっと僕にはまだ」

「うん。私も完全には解かっていないし、じぶんで言っていても何言っているんだかと思うよ。でもね。きみが私のその絵を――ラクガキを――渾身の駄作を見て、何かしらじぶんの絵を見たとき以上の魅力を感じたというのなら」

「はい」

「同じ魅力を私もいまのきみの絵に感じているということを知っておいてほしい」

「それは、いくらなんでも無理筋ですよ。オタマジャクシに、カエルと同じ魅力があると言っているようなものじゃないですか」

「うん。それの何がおかしいのかな。オタマジャクシにはオタマジャクシのよさがある。魅力がある。カエルにはカエルのよさがあるし、もちろんオタマジャクシ同様に欠点もある。もっと言えばその魅力だの、欠点だのなんてものは、オタマジャクシにもカエルにも無縁だ。それを見た者の感想でしかないからね。印象でしかないわけだ」

「そうかもしれないですけど」

「きみは私になるわけじゃない。きみはきみでいまこの瞬間の体験を踏まえた絵を描いていけばいいし、もちろんこんな私との会話なんて忘れて、まったく独自の世界を表現しつづけてもいい。何にしろ、きみがきみの絵を、表現を、どのように駄作と見做し、低く評価しようが、そんなのはきみが一度生みだしてしまった絵には何の関係もないんだね。無縁だよ」

「そんな無責任な」

「そうさ。責任なんてない。もちろん作者たる私と私の表現を結びつけて考え、そこに責任を求める者たちはいるし、それを拒めるほどのチカラも地位も私にはない。きみにもないだろう。だが本来表現というのは無責任なものなんだ。元を辿ればそれは心の表出にほかならないのだから。心に責任があるのか。ただそこにあるがままに存在するだけではないのか。それを自分自身の五感で、知覚でたしかめられるように、いつでも振り返られるように記録する、結晶化する、切り取り、ときに造形する。その行為をひとは表現と呼ぶが、表現そのものはむしろ心のように無責任なもののはずだ。心はいつでも揺らいでいる。一瞬たりとも同じでなんかいられない。だがそれでもその一瞬でも同じではいられない変遷の軌跡そのものが、私を私として保存する。きみをきみとして形作る。いちいちそれら変遷の断面図を差して、上とか下とか、上手いとか下手とか、そんなことを言い合ったって、心そのものの何を言い表したことにもならない。表現を言い表したことにはならない。いや、その評価そのものがその発言者の表現だというのならむしろ、その評価によって定まるのは評価者の心のほうだ。ならばどんな低評価だろうと、私にはなんの関係もない。あなたの心はあなたのものだ。私の表現は、心は、私のものだ。何も変わらない。変わらずに揺らぎつづける。もちろん、そうした他者の言動に、表現に、心に触れあうことで、そこでもまた変化しつづけていくのだけれどね。だからまあ、まったくの無縁とも言い切れないのかもしれないがそれは、誰かの評価によって私の心が決定づけられるわけではないという意味では、無縁なのだね。誰に何を言われようと私は私さ。変わらずに揺らぎつづける。その変遷の軌跡を切り取り、断面をこの身体で確認できるように絵にしているだけのことさ」

 もう一人の僕だという人物は滔々と息継ぎの節目もなめらかに言い切った。

 それから、そろそろこの体勢もつらくなってきたな、と言ってそろそろ帰ることにしよう、と肩をすぼめて穴に引っ込もうとする。

「あの」僕は呼び止めた。

「うん」

「表現活動、楽しいですか」

 彼はふたたび紙を丸めたみたいにくしゃりと破顔し、きみはどうなんだい、と反問して、じゃあまたいつか、と言い捨て、穴の奥に引っ込んだ。

 僕はまだ訊きたいことが山ほどあった。

 いや、訊きたいことなどなかったはずなのに、彼の絵を見て、彼の言葉を訊いて、もっともっとと縋りたくなってしまった。

 しかし宙に浮いていた球体は、途端に萎んで、刹那に消えてなくなった。

 空調の音がブーンと部屋に静寂を奏でている。

 足元には、ヘビの赤ちゃんのようによじれた毛糸が一輪、落ちていた。

 拾いあげ、僕はもういちど自作の紋様をアヤトリで描くが、どのような紋様をつくってももう、例の黒い球体は現れなかった。

 僕は僕の駄作を、次回作の試作品として描いたラクガキを見詰める。

 欠点が寄り集まってできたガラクタのような絵にしか感じられない。

 僕の心の断面図はどこを切り取ってもガラクタだ。

 けれどふしぎと、ガラクタの連鎖で繋がる一連の僕の心は、どうやら、断面図ほどにはガラクタではないのかもしれないと、僕はアトリエとは名ばかりの四畳一間の室内を見渡し、壁際にぎっしりと積みあげられた過去作を、一枚一枚、丹念に見直していくことで、その真偽のところを確かめていく。




【ナマズの姿が目に浮かぶ】


 道路が冠水しており、道を迂回しているうちに遅刻した。

 バイトの初日から運がわるい。

 繁華街の一角に聳えるビルが今回の職場だった。

 ビルの地下が丸々工場になっており、きょうからここで契約満期になるまで働くことになる。

 遅刻の連絡を入れると、焦らなくていいよ、とゆっくりくるように指示された。

 ビルの地下には三十分遅れで到着した。

 担当者だろう、眼鏡をかけた全体的に身体のまるっこい男性に職場を案内される。

 まずは遅刻したことを謝罪し、事情を説明すると、

「冠水じゃしょうがないね」と同情してもらえた。「ここさいきん多いよね。あれね、ここの仕事とも関係していてね」

「そうなんですか」

 水道管の部品でも作っているのだろうか。

「あそこ、見えるかな。ベルトコンベアで品物が流れてくるから、それの中に欠陥品がないかを目視で確認して、妙だな、と思うものがあったら取り除いて。簡単な仕事だからすぐに慣れると思うよ」

「妙なものというのは、その」

「配置場所によって流れてくる品物は変わるから、それは現場の上司から聞いてね」

 間もなく配置場所に連れていかれ、上司らしき女性に引き継がれた。

「ではよろしく」

 丸っこい眼鏡の男性が去っていく。

「さっそく仕事してもらうね」女性が言った。帽子に眼鏡をかけている。遅まきながら眼鏡が防護用の眼鏡だと気づく。「簡単な仕事だからすぐ慣れるよ」そそくさと歩き出すので、僕は女性のあとにつづいた。女性は途中で防護眼鏡を手に取ると僕に手渡した。軍手、帽子、とつぎつぎと渡され、順次その場で装着する。「分からないことがあったらそばにいる人に訊いて。でも基本、異物の識別に悩むくらいしか訊くことないだろうし、悩んだらひとまず拾っちゃえばいいから」

「はぁ」

「トイレは休憩中に済ましてほしいけど、どうしても我慢できなかったらそれもそばにいるひとに一言声かけて。無理そうならベル鳴らしていいから」

「ベルですか」

「作業場にあるから」

「はぁ」

 どうも要領を得ない。簡単な仕事だ、と言うばかりで、そんなに念を押されたら逆に重圧がかかる。ちょっとまごついただけで、こんな簡単なこともできないのか、と叱られるのではないか。失望されるのではないか。

 気軽なバイトだと思っていたが、いまさらのように緊張してきた。

 配置場所に連れていかれると、五メートル間隔で人が並んでいた。

 空いている場所に立つように言われ、まずは見てて、と言って手本を示された。

 ベルトコンベアには大きめの魚が流れている。だいたい三十から五十センチくらいで、猫の尻尾くらいの長さがある。

 魚に鱗はなく、ツルンとした皮膚はイルカを思わせた。

 というかこれはイルカではないのか。

「あの、この魚」

「いいから見てて。お、これはダメだね」女性はほかの個体よりも細身の魚を掴み取ると、脇にある生け簀に放りこんだ。「あ、入れちゃった」こんどは生け簀から直接魚を取りだし、「ときどきこういうのが混じってるから、それを取り除いてほしいの。わかった?」

 魚をずいと手渡されたので、おっかなびっくり掴み取る。軍手越しだ。

 女性はベルトコンベアに流れている魚をもう一尾取り、手で吊るす。

「こっちが流していいやつ。全体的に丸っこいでしょ。で、そっちのは細っこい」

「そっちのはなんだかクジラっぽいですね。こっちのはイルカというか、小さい気がします」

「そ。みすぼらしいほうを取り除けばいい。簡単でしょ。じゃ、あとはよろしく。わからないことあったら阿部さんに訊いて」

 女性が指さす方向、五メートル先では同じ作業を任されているのか、老齢の男性が立っていた。

 女性はツカツカといまきた道を戻っていく。

 しばらく言われた通りに作業をする。だいたい三十匹に一匹の割合で、細身の魚が交じる。ベルトコンベアの流れは速く、取り逃さないためには集中力を要する。

 それでもすべてを捌ききれるわけではない。

 いちどきに何匹か連続して紛い物が流れてくるとすべてを掴み取れないし、目が疲れてくればやはり見逃してしまう。

 同系色で同形状なのがまた見逃す頻度を高めるため、同じ作業員たちをこれほど費やしてようやく紛い物を除去しきれるのだろう。同時にそうした安心感、つぎがいるから取り漏らしてもだいじょうぶだろう、との心理から余計に見逃しが増えるのかもしれない。

 左右を見遣ると、ざっと同じ作業に三十人ばかりが従事していた。

 それにしても、と徐々に慣れていくなかで、これはいったいなんの魚だ、と疑問する。

 魚だとじぶんは見做しているが、どちらかと言えば小型のクジラだろう。クジラは哺乳類だ。魚類ではない。

 しかしこれほど大漁に獲れば、生き物保護団体から苦情がきそうなものだ。

 肉に加工して食品として出荷しているのだろうか。

 しかしどうにもこのベルトコンベア、その後に加工場に繋がっている様子がない。というよりも、この工場の敷地面積からすると、そもここにはそういった加工場はないのだ。

 よその工場に出荷するために、箱詰めする作業を任されているのだろうか。

 さもありなんだが、しかしやはり問題は、このような小型のクジラじみた魚を使った食べ物を寡聞に知らない点である。不可解だ。

 あれこれと考えを巡らせながら作業をしていると、間もなく休憩時間になる。

 ベルトコンベアが停止し、ずらずらと作業員たちが後方に建つプレハブ小屋に吸い込まれていく。

 新人なので入っていいのか悩むが、阿部さんがこちらに気づき手招きした。

 口数がすくなそうだがいいひとそうでよかった。

 空いている椅子に座ると、阿部さんが紙コップにお茶を淹れて持ってきてくれた。

「ありがとうございます」受け取り、口につける。美味しい。

「もう慣れましたか」

「はい。あ、でも、けっこう取り逃しちゃってるかもしれません」

「いいよもっと気楽で。こっちの取り分も残してもらわないと眠くなって仕方ない」

 そういうものか、と笑う。もちろん半分はこちらを慮っての発言だろう。

 そうだ、と思い、

「訊いていいですか」と質問する。「あのクジラみたいなのって何なんですか。魚なんですかね。何に使うです?」

「ナマズの一種だと聞いているね。詳しい話は正社員じゃないと教えてもらえないらしい。食材ではないのは確かだね」

「そう、なんですか」

 ナマズか。

 そうはとても見えないが。

 休憩が終わり、またベルトコンベアと小型のクジラが視界を支配する時間に身を浸す。

 作業だけでなく、徐々に目まで慣れてくる。

 ほとんど同じ形状に見えていたマナズたちだが、目が肥えると、除去すべきやせ細った個体を瞬時に識別できるようになってくる。

 するとこんどは、丸っこいクジラのような個体のほうを注視する余裕がでてくる。

 あれはなんだろう。

 いまさらのように気づいたが、どの個体にも頭部に小さなボタンのようなものがついている。

 ダンゴムシが丸まれば似たような玉ができる。

 なんだろう、といちど気になると、もうそれしか思考の壇上にのぼらなくなった。

 作業は身体のほうでほとんど反射で行えるまでに熟練した。短時間で習得可能なくらいに単純な作業なのだ。

 ちょっとくらいいだろうか、と本来ならばそのまま流してしまうクジラ型の個体に手を伸ばし、掴み取る。

 時間はかけられない。

 流れ作業で、頭部にくっついている玉を指で摘まみ、引っ張ると、なんとズルリと引き抜けた。

 芋に刺さった待ち針を引き抜けば似たような触感になったかもしれない。

 現に玉には針のようなものがくっついており、それがクジラ型のナマズの頭に刺さっていたのだ。

 いったい何のために。

 疑問すると同時に、手のなかでクジラ型のナマズがビタビタと暴れた。

 生きていたのか。

 慌てて玉を刺して戻すと、こんどは一転、動かなくなる。

 焦った、と額を拭う。冷や汗が滲んだ。

 それにしても。

 ベルトコンベアに流れてくる個体はどれも身動き一つせずにいたので、死体だとばかり思っていた。 

 取りあげるイルカ型の個体とて、生け簀に放りこむが、泳いでる素振りはない。

 だがそもそも死体であるならば生け簀に入れる必要もないはずだ。

 ということはひょっとするとこの玉は、仮死状態にするための道具なのではないか。

 しかしイルカ型の個体にはこの手の玉は見受けられない。

 そうと思い、流れてきたイルカ型の個体を掴み取る。よくよく目を凝らしてみると、これにも頭部に玉が刺さっていた。

 ただし、表皮にめり込んで同化している。だから一見すると見えなくなっていたのだ。

 玉の有無で見分けるには、玉は小さすぎる。

 やはり形状で見分けるのがよさそうだ。

 イルカ型の玉を引っこ抜くのはむつかしい。指で摘まめないのだ。目玉のように完全に埋もれている。

 しばらく真面目に作業に戻ったが、やはり何も考えずに淡々と作業をしつづけるには退屈すぎた。暇を持て余すのに、好奇心を満たすのはうってつけだ。

 もういちどクジラ型の個体を鷲掴みにして、流れ作業で玉を抜いた。

 するとこんどは先刻よりも激しく暴れた。

 持っていられない。

 だけに留まらず、こんどの個体は潮を吹いたのだ。

 それこそまるで本物のクジラのように、頭部に開いた穴――それはちょうど玉の納まっていた穴なのだが、そこから止めどなく水を噴き上げる。

 これがまた尋常ではない勢いである。

 ホースの先っちょを潰すと水の勢いを増すことができるが、それと似たような勢いで、シャワーよりもよほど激しく、ほとんど消防車の放水を思わせる圧力で、水を噴きだした。

 遠目からでも一目瞭然だっただろう。

 即席の噴水がその場にできたようなものだ。

 完全なる失態だった。

 イタズラでは済まされない。

 クジラじみたマナズは、頭部から噴出する水の勢いのせいで、床をやたらめったらに這いずり回る。さながらねずみ花火だ。

 さいわいなのは周囲の作業員たちが悲鳴をあげるでもなく、淡々と対処に乗りだしてくれたことだ。

 まずはブザーが鳴った。

 ベルトコンベアが停止し、つぎに遠目からやってくる正社員らしき人たちの姿が見えた。ここまで案内してくれた女性の姿もある。

 彼女たちよりさきに五メートルとなりで作業していた阿部さんが寄ってきて、銛のような棒状の道具で、狙いを定めて、クジラじみたナマズを突き刺した。

 ナマズは動きを止め、噴水も途絶えた。

 例の女性上司が、阿部さんから銛を受け取るとそのままこちらに駆け寄ってくる。「だいじょうぶか、怪我はなかった?」

 銛の先端には問題のナマズが突き刺さったままだ。「だいじょうぶです」

「ごめんごめん。びっくりしたよね。説明してなかったこれはこっちの落ち度だから気にしないでね」

「すみませんでした。頭の玉が気になって、その、すみません」

「いいのいいの。気になるよね。それだけ集中して見てくれてたってことだし、ホント説明しないで作業を任しちゃったこっちの落ち度なので」

 女性上司は何度も、じぶんの責任だ、といったことを強調した。

 最初こそ、責められずにいてよかった、こちらの身を心配してくれるなんてなんていいひとなんだ、と感動しかけたが、どうやら彼女の関心事はそこにはないらしいことが、なんとなくだが、彼女の態度から推し量れた。

 何かしらの問題を誤魔化そうとしている人間に特有の、ひとまずこの場を丸く収めようとの魂胆が見え隠れした。

 ひょっとしたら説明義務を果たさずにバイトたるこちらに作業をさせたことが大問題になるのかもしれない。

 そうと閃くと、呵責の念も薄れ、余裕ができた。

「水の量、すごかったんですけど、変じゃないですか」

「変? なにが?」

「明らかにその魚――ナマズでしたっけ――それの体積以上の水がでてましたよね」

 その場で地団太を踏んでみせ、水溜まりを示した。水溜まりはすでに排水口に吸い込まれ、引きつつある。

「人間ってほら」女性上司は誤魔化しの笑みを浮かべる。「びっくりするときって大袈裟に物事を認識しちゃうでしょ。目の錯覚というか、人間の感覚ってアテにならないからさ」

 頬をひくつかせながら彼女は、それよりも、とようやくというべきか上司らしい威厳を声に宿し、「私はこのナマズを取れと言ったかな。こっちじゃないのを取ってほしいと指示したはずなんだけど」

「すみませんでした。間違ったんです」

「さっきと言ってること違うよね」

 あなたこそさっきと態度が正反対ではないか、と不平を鳴らしたかったが、呑み込んだ。どうやら彼女にとってこちらの投げかけた問いは、逆切れしてまで誤魔化したいほどの秘奥だったらしい。

 これ以上、逆鱗に触れたらタダでは済まなそうなので、ここはしおらしく、すみません、と頭を下げておく。

「もうしないでね。対策もこっちで立てるから、もうホント、ダメだよ」

 彼女の言葉通り、いちどは作業を再開させたものの、二度目の休憩を終えたあと、きみはほかの場所を担当してもらうことになったから、と作業場を移された。

 こんどは倉庫のような場所で延々と積み荷の上げ下げを任された。

 重労働だ。

 腰にくる。

 バイトの求人には、簡単な仕分け作業だと説明があった。

 これでは詐欺ではないか。

 三度目の休憩を挟み、へとへとになりながら就業時間を終えたころにはすでに今後の方針は決まっていた。

 辞めよう。

 このままでは身体も心も壊れてしまう。

 作業中、女性上司との会話を振り返っているうちに、段々と理不尽な目に遭ったとの認識が強固となっていった。

 被害妄想と言われようが、そう思ってしまうのだから仕方がない。

 相手のためにも距離を置いたほうがいい。

 だいたい扱う品物が何かもわからない職場なんて怖くて勤めていられない。もしこれが違法な手段で入手した稀少な生き物だったらどうするのだ。

 よし、辞めよう。

 全身の筋肉が悲鳴をあげているなか、最後の積み荷を指定の場所に持ち上げて置き、ちょうど本日の就業終了時間となった。

 しかし休憩所にてほかの作業員たちが帰ろうとしない。

 どうしたんですか、と訊ねると、予定外のハプニングがあってその分を取り戻さなくてはならないから残業がある、と知らされた。

 聞いていない。

「僕、バイトなんですけどやっぱりやらなきゃなんですかね」

「さあねぇ。俺らに訊かれても。ただ残業代は手当てがつくから割り増しだよ」

「そうなんですね」

 いちおう、例の女性上司に指示を仰いだほうがよいのではないか。

 そうと思い、姿を探すと、ちょうど向こうからこちらにやってくるところだった。

「あ、あの」

「どうだったこっちの仕事は。つらかった?」

「はい、それはもう」

「まだこのバイトつづけたい?」

「そのことなんですが」言いながら、まさか辞めさせたくてつらい工程に回したんじゃないだろうな、と嫌な気持ちになった。「もうこのバイト辞めようかと思いまして」

「あらそう」その声は嬉々としていた。

「もうつぎからはこないでもいいようにしてもらってもいいですか」

「いいよ、いいよ。手続きはこっちでやっておくね。ご苦労さま。もう帰っていいよ」

「きょうは迷惑ばかりかけてすみませんでした。お世話になりました」

 一礼して踵を返す。

 そのまま作業場を抜けて、昼間に来た道を逆に辿った。

 防護眼鏡や帽子はどうしたらいいだろう、と迷ったが、適当に休憩所に置いていくことにした。誰かが片付けてくれるだろうし、邪魔だったら捨てるだろう。

 本当はさっきの女性上司に訊きにいくのが筋だったけれど、もうそういった筋を通す気にもなれなかった。

 こういう筋は、たとえ相手がわるくとも通しておいたほうがのちのちのじぶんのためになるとは知っているけれど、嫌なものは嫌だった。一刻も早くこの場を去りたかったのだ。

 職場は地下にあったため、一階にあがるべく、ビル内の廊下を歩いていると、声をかけられた。

「お疲れさん。どうだったかな初日の感想は」朝に職場まで案内してくれた身体の丸っこい男性だった。

「いやあ、その、ええっと」こちらが曖昧に言葉を濁すからか、彼は心を読んだように、

「さては失敗したね」とほころびる。「いいんだよ、きみはバイトなんだから。失敗させるような指示しかだせなかった上司がわるい。職場がわるい。ちゃんと対策はとってもらえたかな」

「それははい」女性上司の肩を持つわけではないが、嘘を吐きたくはなかった。「持ち場を変えてもらって、対策ははい。してもらいました。それから僕はきょう付けでバイトも辞めます」

 男性が目を見開いたので、

「これは誰かに言われたからではなく、僕が決めました。逃げだすようで申し訳ないのですけど」

「いやいや。そうか。それはざんねんだな。きみのような若い作業員がいると職場も活気が出ていいと思ったんだがね。いや、すまない」

 なんだか言動が社長のようだったので、まるで社長みたいですね、とからかい半分で指摘すると、

「言っていなかったかな」と彼は告げた。「僕がここの社長なんだよ」

 信じられなかったが、はいこれ、と名刺を渡された。そこに書かれた肩書きはまがうことなき、代表取締社長であった。

「すみません、生意気な口を利いてしまって」

「いいんだよ。社長なんて言っても雑用みたいなもんだからね。きみのような若い働き手に逃げられるような職場はちょっとよくないね。なんとかします。もしまた気が向いたら連絡してね。いつでも働き手は募集しておりますので」

「それは、はい。こちらこそお願いいたします」

 しどろもどろに腰を折り、頭を戻したところで、この際だから訊いてみようかな、と思い立った。どの道きょうで辞めるのだ。いまさら気を使うのもバカらしい。

「訊きたかったんですが、いったいここでは何を作っているんですか。ベルトコンベアに載ってるあれってなんなんですかね。ほかの作業員の方たちはナマズだって言うんですけど、僕には小型のクジラとイルカにしか見えなかったですけど」

 社長は黙り込んだ。

 でしゃばりすぎたかもしれない、と恐縮する。「詳しいことは社員になれないと教えてもらえないのかもしれないですけど」と付け足す。

「社員でなければ教えられない、というわけではないよ。それはね。うん」

社長はすこし迷っているようだった。それから、まあいっか、とでも言いたげに眉間を開き、「あれは水源だね」と言った。

「スイゲン?」

「ナマズではあるんだよ。一見するとクジラみたいだけどね。ほらむかしから言うでしょ。地震はナマズが起こすんだって。あれね、半分は当たっているんだよね。とある種のナマズは、極まれに、条件さえ揃えば、地震を起こすこともあるんだ」

「ナマズがですか?」

「うん。ここで扱っているあのナマズたちだよ。集団で集まるとね。あれはクジラみたいに頭から水を拭きあげる生態があってね。それがまたとんでもない量の水を吐きだすんだ。じっさいに見てもらわなければ信じてもらえないくらいに、それはもう大量の水をだね。いったいどこからひねりだしているのか、とびっくりするくらいに大量にだよ」

 すでに目にしていたが素知らぬふりをして、へえ、と相槌を打つ。半信半疑にびっくりするといった具合だ。

「信じられないですけどでも、仮にそうだとして、あれらナマズは何に使われるんです? スイゲンって、水源のことですか? あの、水の湧く泉みたいな」

「まさしくそうだね。きみだって毎日使っているはずだよ」

「毎日ですか?」

「水を飲むし、シャワーを浴びるし、トイレに入ったら水を流すだろ」

「つまりあれらナマズは、水道水の大本だと?」

「川の水を浄化して使っている分ももちろんあるけどね。この工場では、基本的には、家庭用の水道水と、それから消火栓に埋めておいていざというときに水を大量に使えるように準備していたりするね」

「消火栓もなんですか」にわかには信じられないが、ひとまず話を合わせる。「じゃあ消火栓の真下を掘り返せば、あのナマズが埋まっているってことですか」

「ありていに言えば」

「そんなこと、だって、そうですよ。もしそれが本当なら、埋まっているナマズを掘り返して、売り飛ばしちゃえばいいじゃないですか。水道水の大本とは違って、消火栓のほうはほとんど新品が埋まっているはずですからね」

 我ながらよい矛盾の突き方、だと思った。

「うん。だからそういう盗人がでてきちゃって困っているんだよね。きみだって今朝は困っただろ」

「今朝ですか?」

「遅刻したじゃないか。道路が冠水していて」

 ぽかんとする。

 道路の冠水の話とどこで繋がったのだろう、と脈絡が掴めなかった。

「ここさいきん多いんだよ」社長は腕を組み、眉根を寄せた。「掘り出されちゃうんだよね。消火栓の真下を。でもいちおう、スイッチで水源を起動できるようにナマズは専用の箱に入れているから、盗まれる心配はないんだよね。でもそれを無理やりこじ開けようとして、中途半端に穴を開けて、それで水が溢れちゃって、まあたいへんなわけだ」

「それはえっとぉ」

 どこまで本当の話なのだろう、とやはり信じきれない。冗談ではないのだろうか。

 社長はこちらの戸惑いには気づかない様子で、それとも気づいていて敢えて素知らぬふりをしているのか、「まあだから」と続けた。「きみもこのことを知ったからと言って、消火栓にイタズラはしないでくださいね。社長さん、困っちゃうので。お願いしますね」

 情けない笑みを浮かべつつも、彼にはそれを笑い話にするだけの余裕があるように映った。ひょっとしたら、職場に不満が募っているこちらの心証を見抜いて、冗談を装い、釘を打っているのかもしれなかった。

 かろうじて愛想笑いを返し、

「お願いされました」と頭を下げ、その場を辞した。社長はこちらについてはこずに、背後から、「ご苦労さまね」と声を張った。

 職場への不満は、社長とのやりとりのなかですっかり薄れていた。

 人たらしとはああいうひとを言うのかもな、と社長という人種のおそろしさを、恐怖とは切り離された心地で学んだ。

 帰り際、冠水していた道路にさしかかる。

 水溜まりの幅は小さくなっていたが、まだ水は漏れているようだ。

 作業員が修繕工事をしている。

 クレーン車が停まっており、地下から大きめの金庫のような箱を引き上げているところだった。水はその箱に開いた穴から漏れていた。

 しばらく遠目から作業を眺めた。

 すると工具で箱が開かれ、作業員たちは中から何かを取りだした。

 穴を塞ぐとこんどは反対に、何かを箱の中に入れるではないか。

 そのときに運ばれてきた容器はちょうど、先刻に辞めてきた職場で、上げ下げしていた積み荷とそっくりだった。容器から取りだされ、金庫に似た箱に新しく詰められた物体は、まさしくベルトコンベアに載せられ流れていた、例のクジラじみたナマズだった。

 箱はそのまま地下に沈められ、土が被せられ、アスファルトで平らにならされていく。

 帰宅の途にふたたび就いたとき、辺りはすっかり薄暗くなっていた。

 社長との会話を振り返りながら、職場で目撃した一連の光景を思いだす。

 ベルトコンベア、クジラじみたナマズ、待ち針のような玉と、頭部に開いた穴、そしてそこから放出される水柱の勢いの激しさ。

 世の中にはまだまだ知らないことが多いのだな。

 つぎのバイトを早く探さねば、と鬱屈としながら、日常に潜むふしぎな仕組みに感じ入る。

 消火栓を示す看板が目に留まる。

 溜め息を吐く。

 これからは消火栓の看板を目にするたびにきっと、例のナマズがまぶたの裏に浮かぶのだ。




【魔王、去る】

(未推敲)


 ソレの出現が確認されてから三日で主要各国の軍基地がこぞって壊滅した。

 人類はまず防衛手段を失くした。

 以降はただ逃げ惑い、身を隠し、息を潜める生活がつづいた。

 人々は、ソレ、を魔王と呼んだ。

 いつから存在していたのか、確かな記録は残っていない。

 人々が魔王の存在に気づいたとき、すでに魔王は行動を起こしたあとだった。人類を進退窮まる窮地に追い込んでから、ようやく人類はじぶんたちの窮地を察したのである。

 魔王は見る者によってその姿が変化した。当初は、目撃譚ごとに姿が異なって報告されるため、軍勢による襲撃かと錯誤されたが、現場に残された映像から、どうやら魔王は一匹であると知られるようになった。

 人類は闘争意欲を削がれた。

 たった一匹の魔王に人類は、全世界に散在する暴力のあらゆるを無効化されたのだ。

 なす術がない。

 魔王の目的は不明だった。

 魔王の出現が報告されてから半年後には、武力の高い組織から順に狙われていることが判明したが、かといって事態は何も好転しなかった。

 各国は人類の生き残りを集結させ、魔王討伐を遂行すべくつぎつぎと兵器を生みだしていったが、けっきょく魔王を滅することはおろか、傷一つ付けることも適わなかった。

 人類の武力がのべつ幕なしに薙ぎ払われ、いよいよ後がなくなったと悟った人類は方針を変えた。

 魔王をどうにかするのではなく、じぶんたちのほうで魔王の手の届かない新天地へと旅立とうと決起した。

 計画立案から発足、準備、計画実行までに要した年月は一年と驚くべき速さで事は進んだ。

 人類の人口は魔王出現時からおよそ二十分の一に減った。

 新天地は地球外の惑星だ。

 宇宙に飛びだしたのち、三年をかけて徐々に加速し、光速の五十パーセントの速度に達したあと、およそ三十年をかけて目的の惑星へと辿り着く計算だ。

 計画実行の準備が整った。

 しかし問題があった。

 突貫工事ゆえに宇宙船の規模が当初の予定よりも小さかったのだ。

 いや、違う。

 それも含めて予定通りだ。

 市民に知らせていた計画の全貌のほうこそが偽りであり、予定通りの大きさに宇宙船は竣工した。

 すなわち、全人類を乗せるだけの要領がなかったのである。

 端から首脳陣たちは人類の一部だけを選抜して宇宙に旅立つ算段を立てていた。

 安直にノアの箱舟と名付けられた件の宇宙船には、科学者や技術者、医者に法医学者といった社会に必要な技能を有した者たちへと優先的に搭乗権が割り当てられた。

 何の技能もないその他大勢は地表に置き去りにされることとなる。

 気づいたときには遅かった。

 大勢の市民が抗議の声をあげる間もなく、ノアの箱舟への搭乗権を有した者たちは、こっそりと予定よりもひと月も早く宇宙へと旅立ったのである。

 全人口分の箱舟を造船する計画のはずだったが、じっさいには三隻の宇宙船が造られたのみだった。

 一隻に百万人が収容可能な巨大な都市のごとく宇宙船である。

 地球に残された者たちは、後ろ盾も何もなく、これからさきじぶんたちが滅亡するまで、魔王の脅威に晒されつづける。

 ノアの箱舟に乗り込んだ人口は、全人口の〇,一パーセントに満たないにも拘わらず、船に積まれた資源は、食料を含め、倉庫に保管されていた備蓄の八割にも上っていた。

 僅かなりとも地上に資源を残していったというよりもそれは、積みきれなかったから残していかざるを得なかった、といった有様だった。

 保存に適さないものばかりが地上に置き去りにされたのだ。

 さも、地球に取り残された大勢の市民――何の技能も持たぬ人々のごとく。

 ひょっとしたら魔王はより武力の高い宇宙船のほうを追って地球を去るのではないか、との希望的観測もささやかれたが、それからも魔王の目撃譚は地表の観測地点でたびだび報告された。

 残された人類は、なんとか生き残るべく、これまで以上に知恵を絞り、支え合い、協力し合った。ときには地表に散らばり、それぞれに独自の村を築いた。

 ノアの箱舟が去ってから三年もすると、みなようやくというべきかじぶんたちを取り巻く環境が変容していることに気づきはじめる。

 魔王は相も変わらず地上の至る箇所に出現するが、しかし人類に危害を加える素振りをふしぎと見せない。

 そして魔王が立ち去った土地に時間を置いて様子を見に行くと、そこにはかつて滅びかけていた生態系が、息を吹き返したように蘇っていた。

 それから十年もすると人類はふたたび各地に都市を築き、文明を発展させ、かつてのように電波を介して遠距離での情報のやりとりを行えるまでに復興を遂げた。

 ノアの箱舟には、当時の人類社会にとっての有能な者たちがこぞって乗っていた。

 みな地球を去った。

 いまは暗い宇宙の長い旅路の最中である。

 狭い宇宙船内での生活を余儀なくされ、つねに危険と隣り合わせの極限の世界に身を置いている。たとえ惑星に無事辿り着いたところで、そこからさき、無事に社会を築けるかは未知数だ。

 いっぽう、地球に取り残されたその他大勢の、社会の役に立たないと見做された者たちは、各々に知恵を絞り、ふたたびの文明を発展させつづけている。

 魔王の目撃譚は、ある日を境にぱたりと止んだ。

 いったいアレがなんであるのか、その正体を知る者は一人もいない。

 魔王自身、じぶんが何のために存在したのかなど知る由もないだろう。

 だが魔王の登場により、生じた影響は、地球から何かを去らせ、何かを新たに芽生えさせた。

 失われたモノは数知れず、これは悲劇でしかない物語だが、これを語り継ぐ者たちはしかしいまなお途絶えない。

 或いは誰もが口をつぐみ、過去をなかったものとして扱ったとしても、それをとやかく言う者はない。

 魔王は消えた。

 数多の犠牲と共に。

 それでもなお人々は生を活つし、営んでいる。

 日々の一刻一秒のそのときどきを。

 吐いて吸う息のように、ときに得難く。

 ありふれた季節の移り変わりのごとく。

 羽虫の蠢きのように、ただ生きている。




【栞を宙に挿す】


 勉強のお供にとコンビニでお菓子を大量に購入して家へと帰る道すがらにそれを見つけた。

 最初はミノムシかと思った。

 それとも蜘蛛だろうか。

 宙に何かが浮かんでいる。微動だにせずただ浮いているので、見えないくらい細い糸でぶらさがっているのかと思った。

 頭上には何もない。空があるばかりだ。

 周囲を見渡す。

 民家があり、公園がそばにある。

 電信柱、街路樹、道路標識。

 そのほかに、これといって何もない。

 おとといに降った雪はきのうきょうとで融けており、道の端っこに雪掻きの痕跡が白く体積して残っている。

 もういちど視線を戻し、宙に浮かぶそれを見詰めた。

 白い。

 薄い。

 紙のようだ。

 ぐるっとそれの周囲を回ってみる。

 やはり宙に留まっている。

 糸らしきものは見えない。

 白い紙は親指くらいの長さで、長方形だ。

 背伸びをすると手の届く位置にある。

 私は背が低いため、一般の大人であれば容易に手が届く高さだ。

 目立つ場所ではあるものの、人通りの少ない路地裏のため、おそらくこれに気づく者はそうそういないだろうと思われた。

 いったいいつからあるのだろう。

 ジャンプして掴み取ろうと幾度かその場で跳ねてみる。

 スカートのため、上手く反動をつけられない。

 ぴょんぴょん、としばらく兎の物真似をしていると、

「ちょっとちょっと、やめいやめい」

 叫びながら駆けてくる人物が現れた。物凄い剣幕だ。

 私は委縮し、三歩下がった。

「ダメだよかってに触っちゃ、危ないでしょうが」

「すみませんでした」

「あっぶなー。滅多に人通らない道かと思って油断してたわぁ」

 女性だろうか。

 ニット帽に大きめの黒いマスクをしている。顔面がほとんど隠れているため、年齢の目星がつかない。

 声が甲高く、若い印象だ。

 大学生の私よりかは上かもしれない。ダウンジャケットにジーンズというこれといって特徴のない格好だ。

 なんとなく初めて会った気がしなかった。

「あの、ごめんなさい」私は謝罪した。それから気になったので、「それって何なんですか」と宙に浮いた白い紙を視線で示す。

「ああん? チミにゃあ関係ないだろ」

 カチンときた。

 せめて怒られた理由くらい教えてくれてもいいように思う。

「そういう言い方ってどうかと思いますよ。警察に相談してもいいんですよ」私がメディア端末を取りだすと、

「そこまでせんでもいいでしょうに」

 相手は見るからに怯んだ。

 阿諛に染まった声音に、存外に気が弱いのかもしれない、と手綱を握った気持ちになる。

「じゃあ説明してください」

 ぐい、と迫ると、うぐぐ、と呻いて彼女は、「じゃあ見てて」と背伸びをする。「言ったってどうせ信じてくんないし、見たほうが早いからさ」

 腕を伸ばしたかと思うと彼女は、宙に浮かんで見える白い紙を摘まみ取った。

 するとどうだ。

 周囲の景色が動きだすではないか。

 あたかも新幹線に乗っていて車窓の向こうの景色が動くことで、じぶんが動いているのか、景色が動いているのかの区別がつかなくなる。そんな妙な感覚があった。

 白い紙の挟まった点を中心に、放射線状に景色が、伸び縮みして見える。

 伸びきったかと思ったつぎの瞬間には、景色は急速に元の状態に戻った。

 いったいどれくらいの時間、景色がうにょうにょと伸縮したのかは分からない。

 目のまえの女性は地面にかかとを戻す。

「どう? こんな具合に、これは空間にちょっとした作用を働かせるまあ言ったら呪具みたいなものでね」

 そう言うと彼女は、いましがた摘まみ取ったばかりの白い紙を真横の虚空に押しつけるようにする。

 すると白い紙はスルスルと中ほどまで宙に埋まり、静止した。

 浮いている。

「ま、どこぞの猫型ロボットの秘密道具でもいいけどさ」

「あの、さっきいま、なんか景色が変に」

「なってた、なってた。でもそれ以前に、ここの時空はそもそも狂ってたんだ。これを差しこんでたからね」

 女性は白い紙を指差す。

「栞に見えますね」

「そう、栞。本に挟むためのものじゃないってだけで、その通り。これは栞です」

「宙に浮いてるように見えるんですけど」

「浮いてるね。挟んだんだよ。こっちとそっちの狭間にね」

「狭間……」

「というか、挟んだ場所が自動的に狭間になるって感じだけど。栞を支点に、挿した人の立っている場所側が内側だね。だからいまはチミも狭間の内側にいるってことになる」

「挟むとどうなるんですか」

「そう、そこ重要だよね。本当はこういうのおいそれと教えちゃダメなんだけど、どうせチミがほかの人に話したって誰も信じやしないから特別に教えてしんぜよう」

 意気揚々と秘密を明かしはじめる彼女だが、ひょっとしたらさきほど私に威圧されたことを根に持っているのかもしれない。どうあっても優位に立ちたいようだ。

 私は、お願いします、と下手にでた。

 案の定、彼女は機嫌をよくし、鼻息を荒くした。

「この栞はね」と語りだす。「空間を本をめくるみたいに戻せる栞なんだな。いわばセーブポイントをどこにでも作れますみたいな優れ物なわけ」

「はぁ。セーブポイントですか」

「なんだそのポイントカードかな、みたいな顔は。ゲームとかであるっしょ。セーブしとけばもしものことがあっても、もしものことがない時の場面に戻れるみたいなのがさ」

「私あんまりゲームしないんで」

「ドン引きしてんじゃないよまったく。説明して欲しいつったのそっちじゃん」 

「そうなんですけどね。いきなりそんな突拍子もないこと言われましても」

「あーそう。じゃあいいよもう。そういうことなんで、つぎからは見つけても見て見ぬふりをしてくれよな。じゃ」

「待ってください」栞を引き抜こうとした彼女を制する。

「なんじゃいよ」

「その栞の役割というか、効能は分かりました」

「信じたの?」

「いちおうそういうことにしておきます、この場は」

「この場だけかよ。まあいいや。で?」

「その栞が超常現象みたいなことを起こせるのはいいとして、それであなたはここでそれを使って何をしていたんですか」

 彼女は押し黙った。

 図星を刺されて、ぐぬぬ、と下唇を食むような表情をつくる。

 私が腕を組んで、苛立たしげに、何をしていたんですか、とふたたび詰問すると、ややあってから、 

「それは言えんよ」と彼女はうつむく。

「どうしてですか」

「それはだって」

「だって?」

「犯罪じゃから」

「犯罪をしていたんですか?」

「そう」

「ダメじゃないですか」

「そうそう。ダメなんよ。だから人に知られたらマズイから、これ使って、バレたときの保険に使ってたんじゃ」

「正直に言えばいいってもんじゃないと思いますけどね、私は」

「はい」

 いそいそとその場に正座になる彼女が急に子犬のように見えてくる。私は優位に立った者に特有の嗜虐心を刺激され、まあいいですけどね、と聖母の微笑を浮かべてみせる。

「え、見逃してくれんの」彼女がぱっと顔を明るくする。

「どんな犯罪かによりますね。どんな犯罪なんですか」

「それは」

「それは?」

「言えんでしょうよだって。絶対警察呼ばれちゃうもん」

「警察呼ばれるようなことをしていたんですか。重罪じゃないですかそれ。泥棒程度なら、もうしないと誓ってくださったら見逃してもいいと思ってたんですけど」

「そ、そうだよ、そうそう。泥棒。空き巣。でもたまに家の人に見つかることもあって、そういうときはナイフで刺して逃げてきちゃうんだよね」

「人殺しじゃないですか」

「いやでもそこはさすがに死なないように加減するよ」

「何の言い訳にもなってませんよ」

「仮に死んじゃっても、だってそこはほら、この栞があるからさ」

 宙に埋もれた白い紙を指で示し彼女は、だから大丈夫なんよ、と出処不明の自信を惜しげもなく全面に押しだすが、

「全然大丈夫じゃないですよ。人殺しですよ。命まで盗ったらさすがに警察を呼ばずにはいられませんね」私はさっそくメディア端末を取りだして一一〇番を押す。

「ちょちょーい。待った待った。そそっかしいなチミは。だから大丈夫なんだって。人を傷つけたりときにはそう、殺しちゃうこともあるけど、でもこの栞を挿してるから、そうなる前の時間に戻れるわけ。栞の挿した場所までくれば問題ないわけ、なかったことにできるわけ。盗んだお金はそのままあたしが狭間の外に持ち出すから、それはそのままあたしの懐に納まるけれども、そこはだってしょうがないじゃんね」

「何がしょうがないのかはさっぱり分かりませんけれど、盗人も殺人もよくないと思いますね私は。たとえ時間が戻るにしたって、あなたには殺した記憶が残るんですよね。じゃあそれってなかったことにはなってないんじゃないんですか」

「それはそうなんだけど」

「ダメですよ。そういうことしちゃ。さっきの私じゃないですけど、もし栞を誰かに引き抜かれたら、殺しちゃった人は死んだままなんですよね。危なっかしいですよ、見て見ぬふりはできません」

 私はメディア端末で警察に通報すべく、通話マークに指で触れようと思ったところで、急に胸が熱くなった。

 熱湯をかけられたみたいにカっと熱くなったので、思わずその場から飛び退いた。手に持っていたコンビニ袋を落とす。

 イタタタ。

 胸を手で押さえると、硬い物に触れた。

 胸から木が生えていた。

 いや違う。

 取っ手だ。

 木製の取っ手が胸から突き出している。

 じんわりとコートが内側から黒く染まっていく。

 全身の力が抜け、私はへなへなとその場にへたりこむ。

「ごめんごめん。刺しちゃった。あんましうるさいからさ」

 なんでもないように言ってのけ彼女は私のまえに屈むと、おいしょ、と言って、私の胸から生えた取っ手を引き抜いた。

 ギャッッッ。

 とびきりの痛さに悲鳴が漏れた。

 ドクドクと血が溢れだす。

「聞き分けない子は嫌いだよ。でもだいじょぶ。これもなかったことになる」

 一歩、二歩、三歩、と後退して彼女はナイフを持ったまま、宙に埋もれた栞の向こう側に立ち、

「つぎからは気を付けることだね」と手のひらを掲げる。「きみが死ぬのはこれで五度目だ」

 彼女が栞を摘まみ、引き抜く様子を目の当たりにしながら、そう言えば彼女とはここではないどこかで会ったことがあるような気がするぞ、とデジャビュの出処を探りながら、急激に揺らぎだす景色のなかに倒れこむように私は意識を失った。

 視界が暗転する。

「どう? こんな具合に、これは空間にちょっとした作用を働かせるまあ言ったら呪具みたいなものでね」

 そう言うと彼女は、いましがた摘まみ取ったばかりの白い紙を真横の虚空に押しつけるようにする。

 すると白い紙はスルスルと中ほどまで宙に埋まり、静止した。

 浮いている。

「おっと、ここに戻るのか」

「あの、さっきいま、なんか景色が変に」

「なってた、なってた。でもまあ、こんな具合にちょっとした手品ができますよ、みたいな感じで、チミも今度からは不自然に浮いているモノには手出ししないようにしなね」

「手品? これ、手品なんですか」

「そうだよ。ほらね」

 彼女は白い紙を引き抜くと、指パッチンをした。つぎの瞬間には彼女の手の中から白い紙が消えた。

「わ、すごい」私は拍手する。

「新作の練習していたのにチミが邪魔するからちょっと怒鳴っちゃったけど、すまんね。つぎからは気をつけますんで」

「いえいえ。こちらこそお邪魔してしまったようですみませんでした」

 プロの方なんですか、と訊ねると、まだそこまでじゃないんよね、と彼女は肩を竦めた。そいじゃまた、と私の真横を掠めるように抜けると、彼女はそのままそそくさと小走りで去っていく。

 彼女とはどこかで会ったことがある気がしたけれど、マジシャンだったならば、と得心がいった。何かの動画で観かけたことがあったのかもしれない。

 早く家に帰って勉強をしないと。

 コンビニ袋の中身はお菓子でパンパンだ。

 ウキウキと袋の中を覗くと、見覚えのない紙幣が一番うえに載っていた。目を疑う。この国で最も価値の高い紙幣だ。

 いったいいつの間に。

 財布の中身を確かめようとするも、意味がないことに気づく。

 この国で最も価値の高い紙幣を私はきょう持ち合わせていなかった。

 ならばこの紙幣は何なのか。

 偽札なんてことはないだろうな。

 マジシャンが披露してくれた粋なマジックと考えれば最もしぜんな解釈として呑み込めようものの、紙幣は本物っぽいため、いったいどういうつもりでこれをくれたのか、まったく理解が及ばず、据わりがわるい。

 家に着くまでのあいだにあれこれ考えを巡らせたが答えはでず、ひとまずもらっておくことにした。

 自室に戻る。

 気になったのでネットで白い紙を宙に浮かすマジックのネタ明かしを検索したが、ついぞヒットするような記事はなく、そういったマジックの動画もからっきしだった。

 あれはいったいどんなからくりだったのだろう。

 想像するたびに例の、胡散臭い女性マジシャンのやけに甲高い声を思いだすのだった。 




【浮島のごとく静かに】


 十万年に一度の寒気が地表を襲った。

 地球の表面は数日ののちに余すことなく氷に覆われた。

 特筆すべきは、雪がまったく降らなかったことだ。あまりの低温ゆえに雪すら結晶を保てず極小の粒子にまで砕け、それら粒子が地表の起伏のことごとくを埋め尽くした。

 すなわち、地表のすべてがすべてツルツルになったのである。

 一歩家の外に出れば、その場に立っていられない。いちど滑りだせば何かに激突するまで止まらない。

 否、激突したそれの表面すらも滑り倒して、平面立体の区別なく、ツルンツルンとどこまで滑り通してしまう。

 かろうじて大気との摩擦があるがゆえに滑りだした物体は徐々に減速する。理論上では人間大の体積を有した物体であれば、こけた程度の加速度であれば、たいがい二時間ほども滑れば自然に停止する、とされた。

 靴底にスパイクをつけても無駄だった。

 摩擦係数ゼロ災害と名付けられたこの自然現象は、人類に、家の外へ一歩も踏みだせない生活を強いた。

 だが人類には知恵がある。技術がある。

 文明の利器を用いて、地表を介さずに物資をやりとりする技術を発展させた。空を自在に無数の精密機械が飛びかう社会がこうして数か月ののちに成立した。

 すぐに収まると見られた寒気は全世界に停滞したまま、氷河期の到来を各国は宣言した。

 このことにより、地球寒冷化現象を緩和する策が即座に提言された。世界規模での氷河期対策が講じられていくが、日に日に地表は低温の底へと落下していく。

 人類は温室効果ガスを放出して地表を温める作戦にでた。

 しかし地表全土を温めるには絶対的に量が足りず、根本を穿り返せば、そもそも大気が分厚い雲に塞がれており、太陽光が地表にまで届かない。いくら温室効果ガスで大気を満たしても、そも温めるエネルギィ――太陽光が足りなかった。

 まずは雲をどうにかしなくてはならない。

 低気圧を、寒気を、緩和しないではどうにもならないと結論付けられたころ、ぽつりぽつりと全世界同時にとある問題の報告が続出しはじめた。

 宙を自在に飛びかう精密機械たちが、一様に制御不能になる事案が多発しはじめたのだ。その件数は指数関数的に、各国で増加傾向にあった。

「いったいこの事象はなんなんだ。何が要因なのだ」

 首脳たちはこぞって専門家たちを問い詰めた。

「分かりません」専門家たちは口を揃えて言った。「しかし世界的に気候が安定していないことは判明しています。何かが起こっているのは確かなようです」

「気候が安定していないだと? 何を言っているのだ。いつどこを見ても寒空ばかりだ。安定しているではないか。毎日同じだ。違うのか」

「そういう意味ではたしかに安定しておりますが、日に日に天候が荒れているのです。ふしぎなのは低気圧にさほどの変化がないことです。世界のどこを見渡しても、気圧の変化は微量でありながら、なぜか日に日に風速だけが増加しているようでして」

「なぜかね」

「それが解らないのです。基本的に風は、気圧の変化で生じます。気圧の高いところから気圧の低いところへ。そこへ重力が関係してくると、温かい空気は上へとのぼり、冷たい空気は下へと落ちます。しかし気圧の変化がないいまの環境で、なぜこれほどまでに暴風が頻発しているのか、原理が不明なのです」

「ほかに風の発生する要因はないのか」

「台風や竜巻などでは遠心力や、地球の自転による慣性力、いわゆるコリオリの力など、渦を巻く仕組みでの気流によって風が生じます。しかし現在確認されている暴風にはそういった渦のような複雑な動きが見られないです」

「というとつまり、風向きに法則があるのかね」

「はい」

 専門家はスクリーンに地球儀を映しだす。首脳陣は一様にそれに注目した。

「暴風は総じて、地球の自転と真逆の方向に吹いています」

「であれば何かしらの原理があると考えるのが妥当だな」

「さすがはお国の代表を努めておられるだけはある。卓見ですね。その通りです。地球の自転と相関していると我々は考えております」

「一つお訊きしてもよろしいでしょうか」首脳の一人が発言した。これまでずっと黙って聞いていた女の首脳だった。

「どうぞ」

「暴風の最高速度はどれくらいですか」

「場所によりますが、時速千キロを超したとの報告もあります。秒速ではおおよそ二百から三百キロのあいだかと」

「ありがとうございます。もう一つ質問をよろしいでしょうか」

 手短に頼むよきみ、と大国の大統領から声がかかるが、女の首脳は丁寧にそれを受け流し、では質問です、と付け足した。

「風の発生要因に、地表との摩擦はまったく関係ありませんか?」

「それはええ」専門家が発言する。「なにせ摩擦係数がゼロですからね。以前であれば、地表との摩擦によって、たとえば山脈や防風林に妨げられることで、風が生じることはあったでしょう。しかしいまは総じて摩擦がないのです。風がなくなることはあっても、このように暴風が吹き荒れるとはとても」

 だそうだよきみ、と大国の首脳陣たちが失笑するが、女の首脳は、でしたら、と手を合わせ、柔和に意見した。

「摩擦のないいま、大気すらも滑っているのかもしれませんね」

 こう、ツルツルと。

 女の首脳は、手で、見えない球体を宙に描くようにし、可能性はありませんか、と一同を見渡した。

 やれやれ、とかぶりを振るほかの首脳陣たちに交じって、専門家たちは、ぽかんと互いの顔を見合わせた。

 一拍の静寂ののち、いっせいに、それだ、と叫んだ。

「なんだね、なんだね」大国の首脳が眉間に皺を浮かべ、椅子にふんぞりかえる。「いまの彼女の意見から打開策でも見つかったのかね」

「はい」

「え、本当に?」議会室が騒然とする。

「もちろんです。いえ、調べてみなければ分かりませんが、有力な仮説の一つとしては申し分ありません」

 専門家たちは議会室に一人を残して、阿吽の呼吸で退室した。中には電波越しに参加していた専門家もいたが、すでに通信は切れていた。みな仮説の検証にさっそく取り掛かったようである。

 残った専門家の一人が、餌を欲しがる雛のように首を伸ばす首脳陣たちに説明する。

「地球は自転しています。大気は通常、慣性力によって、自転と共に移ろいます。しかし大気は気体ゆえに、さして地表付近の摩擦の影響を受けません。しかしそれは、地表付近の大気が地表の摩擦を受けていないことを意味しません。むしろ往々にして受けていたでしょう。それがいま、地表の摩擦がゼロになったことで、ほかの物体と同じように、大気ごとツルツルと滑って、地表の動きに影響をいっさい受けなくなったわけですね。つまり、自転の影響をいっさい受けつけなくなったわけです」

「ならば風は生じないのではないか」

「わたくし共も当初はそう考え、この可能性を端から検討に入れておりませんでした。しかしたとえば、走行中の電車のなかでジャンプをしても、着地するときは同じ場所ですよね。電車が進んだ分、着地地点はずれません。これは慣性の法則がジャンプした人間にも働いているからです。つまり、宙に浮いているあいだも、電車の速度がジャンプをした人間に加わっていたことを意味します」

「それは解るが」

「大気とて同じです。いくら地表の摩擦がゼロになったところで、即座にこれまで加わっていた自転速度が消えてなくなるわけではありません。大気は、それが地表に近ければ近いほど、自転にしたがい動いていたわけです」

「電車に乗った人間のようなものなわけだろう」

「そうです。ですが大気は気体です。地表から離れれれば離れるほど、上空にいけばいくほど、地表の摩擦とは関係なく漂います。つまり、慣性の法則にそもそもしたがっていなかったわけです」

「だとしてそれがどう暴風と繋がるんだね」

「現在は、地表の摩擦がゼロです。地表付近の大気は、地表に引っ張られることはなくなったわけです。しかし慣性力が働いていますから、それまで加わっていた自転速度と同程度の速度で地表を回転しつづけます。それこそ地表の摩擦はゼロなので、いわば無重力状態になったようなものです。ロケットが高速飛行していようが、それが等速運動である限り、搭乗者がロケットの壁をぶちやぶって、宇宙に取り残されるなんてことは起きませんよね」

「そうだろうね」

「地表付近の大気も同じです。しかし問題は、上空の大気がこの理屈にしたがわないことなんです」

「うん? ちょっとややこしいな。話が急についていけなくなった」

「理屈は単純ですよ。上空の大気と地表付近の大気はそもそも連動してはいないのです。地表近くの大気は、地表というレールのうえを走っていた電車のようなものです。しかしレールの摩擦が消えたので、慣性の法則で、そのままレールから切り離されていながら、レールの上を流れつづけていました。しかし上空の大気は、そうした電車を上から押さえつけてブレーキを踏ませていたのです。綱引きのような関係とも言えますね。これまでは地表の力がつよくて引っ張られていた縄が、地表の力がゼロになったので、こんどは上空の大気側に引っ張られはじめた。すると地表付近の大気は、自転に従わなくなります。そうすると、ただその場に佇むだけでも、地表に立つ我々人類からするとそれは、自転の速度で流れる大気として感じられるのです」

「つまりいま起きている暴風は、吹いているのではなく、むしろ停滞しているわけか」

「そうです。暴風に感じられるだけで、速く動いているのは我々地上にへばりついている側の者なんです」

「電車に乗っている我々にとって、ただ地表に打ち付けられた杭が脅威になるのと理理屈は同じわけか」

「ご納得いただけましたか」

「その仮説が確かだとのデータはすぐに集められるのかね」

「いま各地の研究員たちに手配しています。あすの朝にはデータが揃うでしょう」

「ではこの仮説が確かだと判明すれば、打つ手が見つかるというわけか」

「いいえ。現時点で決定打となるような解決策はありません」

「ないのかね」

「都市を巨大な箱のなかに閉じ込めて、暴風から身を守ることくらいしかいまはまだ思いつきません。外部に露出した部位は即座に凍りつき、摩擦がゼロになってしまうのですからね。ですからできるだけ我々の生活圏を外気と切り離す以外に術はないものかと」

「地下にでも都市を築けとそういうことか」

「はい」

「暴風はでは、悪化することはあれど、鎮静化する可能性は低いとの見立てか」

「おそらくは。現時点でのデータを見る限り」

「ということは最悪、自転の速度にまで暴風は高まり得るということかね」

「その可能性は拭えません。おそらくあと数年以内に秒速三百四十メートル級の暴風が吹き荒れる星となるでしょう」

「もはや生き物が生息できる環境ではないな」

「地下への移住をいまからでも計画すべきときかと」

「ふむ」

 首脳陣たちのいまさらつくる深刻そうな顔つきを見ながら専門家は、このような者たちに人類の行く末を任せていてもだいじょうぶなのだろうか、と己の統率力のなさを嘆きつつも、内心、凍るような絶望をひしひしと感じていた。

 どの国が主導で地下移住計画を立てるのかで揉めはじめた首脳陣たちを眺めつつ、一人凛としずかに成り行きを見守る女の首脳――有力な仮説を思いつき、謙虚に披歴した彼女に、あとでひそかにコンタクトを計ろうと専門家は考えた。

 地下に移住せずとも打開策はある。

 常時風の吹き荒れる大気を利用すれば風力発電によって延々と飛行しつづける飛行船はいまの技術であっても建設可能だ。

 全人類は不可能であっても、一か国くらいであれば、分厚い雲のうえに浮島を築くくらいのことはできそうに思えた。

 雲の下へと風力発電機を垂らし、太陽の光を独占しつつ、雲海を漂う浮島を思い描き、専門家は、誰にならばこの計画を託せるだろうか、ともういちどじっくりと首脳陣たちの醜い言い争いを眺める。

 何度見回したところで、目に留まるのは凛と静かに佇む浮島のごとく人物、ただ一人きりであった。




【寸借詐欺に遭った話】

(未推敲)


 これは実際にきょう遭った出来事なので、小説というよりかはエッセイにちかい覚書きである。いわゆる実録というものに分類されるのだろうが、おそらく私は詐欺に遭った。

 寸借詐欺である。

 財布を落として困っている、お金がないので貸してほしい、と言って他人からお金をまきあげ、そのままとんずらをこく、むかしからある古典的な詐欺だ。

 しかしいざ目のまえに、心底に申し訳なそうに、家に帰れないのだ、と縋られると、いちがいに無下にもできず、悩むことになる。

 きょうは日曜日だった。

 遊び場までの道中にある坂道をのぼっていると、すみません、と声をかけれた。

 マスクをした中年男性だ。薄手のダウンジャケットに綿パンを穿いた、全体的に灰色の人物だ。

「はい、なんでしょう」私は歩を止めた。

「××市までの道を知りたいんですが、教えてもらえませんか。いまスマホを持っていなくて困っていて」

「はぁ。まあ、いいですよ」

 メディア端末を取りだし、ここから件の市までの経路を探る。

 男はこちらの作業を眺めながら、事情をしゃべった。

「郵送で送った荷物のなかに財布とスマホを入れてしまって、帰れないんです。電話したらあすにならないとトラックを開けられないみたいで、要はもう運搬にでちゃってるみたいで。いまはワタシ、友人の家まで歩いていこうと思っていて、でも交番で訊いたら徒歩で十時間もかかると言われてしまって」

「はいでましたね。千百円くらいでいけるみたいですよ」

「そう、なんですね」

 何かを言いたげにもじもじするので、仕方なく、

「千五百円くらいあれば行けますか」と申し出ると、いえいえそんな、と遠慮する素振りを見せつつも、「ただ、いまじつは友人がいま家を留守にしているみたいで、そこに行ったところで会えるかどうか」と言いだした。

「家ってどこなんですか」

「東京です。新宿からこっちにまで来て、それで財布もスマホも手元になくて途方に暮れていたんです」男はこの辺りで最も大きい駅の名を言い、そこから歩いてここまできたんですけど、と泣きそうな声をだす。「夜行バスだと三千円で帰れるんですけど」

「三千円あればいいんですか」と財布を取りだすと、

「五千円のバスもあって、どっちに乗れるのかは分からないんですけど」と言う。

「じゃあいくらあれば確実に家に帰れるんですか」と問うと、「新幹線だと一万五千円で」と言い出したので、もうこの辺りで、これは詐欺だな、と勘付いた。

 こちらが険を滲ませたからか、

「いまのは質問されたから答えただけで」と男は慌てだし、「身分証明書もありますし」とマイナンバーカードを取りだす。「なんだったら顔も写真にとってくれていいですから。本当にどうしていいか分からず、困ってるんです」

「はぁ、そうですか。でもこういう詐欺がありますからね」

「さっきも女性に声をかけたら充電が切れててと応じてもらえず、あの人に訊いてください、とあなたを指さしたので、それで」

 心底に弱った者の声音と身振りだった。これが演技だったら相当に手慣れているな、と感じた。ただし、この時点ではまだ、真実に困っている者か詐欺師かの区別がつかない。半々の確率でどちらもありえた。

 とはいえ、とすばやく考えを巡らせる。

 男が声をかけてきたのは、住宅街の坂道だ。五十メートル先にもとよりの小さな駅があるが、なぜ彼はそちらで人に訊かなかったのだろう。交番や駅員に相談されるのを防ぐためではないのか。

 それから男は財布とスマホがないことに気づいたあとに運送会社に連絡をとったような旨を語っていたが、スマホがないのにどうやって連絡をとったのだろう。

 交番に道を訊いたとは言うが、交番でもいくらかお金は借りられるはずだ。借りなかったのだろうか。

 疑念は尽きないが、差しだされたマイナンバーカードを見て、しょうがない、の溜息を吐いた。

 これがたとえ詐欺であろうと、ここまでしてお金を手に入れなければならないほどに困窮しているのだろう。寸借詐欺は無知な若者が狙われやすい。

 こちらに声をかけてきたのも背格好が若く見えたからだろう。

 ここでお金を渡せばまず返ってこないが、致し方ない。

 真実に困っている者である可能性もやはり拭いきれはしないのだ。

 ほとんどないような確率だが、まあ、本当に困っていたらここで無視したことで一人の中年男性が路頭に迷う。

 その可能性を払拭するためにも、詐欺と判りきってはいるが、お金をあげてもいいように思えた。ここでお金をだしておけば、きょうのところは彼も帰るだろう。きょうというその場しのぎでしかないが、ほかに騙される者はいなくなるはずだ。

 マイナンバーカードを写真に取り、連絡先を渡した。彼は四十三歳と自称した。

 相手の連絡先は敢えて訊かずにおいた。詐欺師だったらそも、かけても通じないだろう。

 私は財布に入っていた紙幣をそっくりすべて男に渡した。「これだけあれば家には帰れますよね」

「はい」

 男はお金を受け取るなり、じぶんは食事処を営んでおり、東京にきたときはぜひ恩返しをさせてほしい、とそういったことを口早に言った。刺身とかそういうのをだしているのだそうだ。

「いえ、私に恩は返さなくていいです。もしほかに困っていた人がいたら、その人に代わりに返してあげてください」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

「それからこれもどうぞ」

 リュックから買ったばかりのフライドチキンとペットボトル飲料を取りだし、男に渡す。

「お腹減っているでしょう。お疲れさまです」

「いいんですか。ご自分で食べるために買ったものでしょうに」

「いいんです。お互いさまです」

「もうなんか、泣いちゃいそうです」

 繰り返すが、これが演技だったら相当な腕の詐欺師である。

 四十三歳の男は、家のある東京新宿江戸川区から遠く離れた地にて、財布とスマホを失い、友人宅までの数十キロを徒歩で歩こうとしていたが、道中に出会った愚かな私に出会い、運よく金と食料を手に入れた。

 これが詐欺でなければなんであろう。

 奇跡かな?

 男の話の矛盾点を突くのも、交番までいっしょに事情を話に行ってあげるのも億劫なので、詐欺師であろうと真実に途方に暮れた迷い人であろうと、人助けだと思ってお金を貸すテイで、一万ちかくを差しだした。

「あす、家に着いたら一番でお金は振り込みますので。あ、書留のほうがいいですか」

「口座に振り込んでください」

 口座番号と名前を教えるのに躊躇したが、あす電話するという男の話がもし嘘だったならばそのときは警察に被害届をだせばいいか、と思い、教えた。

 ここで断ったら、詐欺師かどうかも判らぬままなのだ。よくできた仕組みだな、と感心する。もし詐欺師だったら彼は、騙されやすい者の個人情報までタダで手に入れられるのだ。

「電話は、03で始まる番号でかかってきますので」男は念を押した。「どうかでられないときでも折り返し、ぜひ連絡ください」

「口座、お金返してくれるときも、お礼とかいりませんので、渡した分だけそのまま入れてください。そのほうがこちらも気が楽なので」

 男は何度も礼を述べ、腰を折り、いただきます、と食料を大事そうに抱えた。

 彼とはその場で別れた。

 遊び場で遊んだあとに、家に帰ると、しかし本当にこれでよかったのかな、と気を揉んだ。

 彼が詐欺師であれば、これに味を占めてまたしばらく犯行を繰り返すだろう。しかしもし真実に困っていた者だったならば、無視すればそれは人を絶望させるような窮地に追いやることになる。

 どうあっても、縋られた時点で、お金をあげてしまうのが最適解になるように思われてならない。交番に一緒に行けるのならばそれが最善だったのだろうが、寸借詐欺は、そうはいかない忙しそうな人物を選んで声をかけるし、前述の通り、無知そうな若者やお年寄りを狙うのだ。

 彼に限らず、私は人にお金を渡すときは、あげるつもりでしか渡さない。これは誰に対しても同様だ。身内であっても例外ではない。

 返ってくるとは端から思わない。だから、あげてもよい、と思うときでなければ金はださない。

 貸したつもりはないのだ。

 あす、電話がなく、口座に入金がなくともそれはそれでべつに構わない。

 彼が腕のある詐欺師だったというだけのことだ。

 仮に彼が詐欺師であったとしよう、しかし彼はいちども金を無心してはいないのだ。

 すべてこちらから金を貸しましょうか、と言いだしている。そのように上手く状況を操作し、口先八丁で煙に巻いていた。

 途中でそのことには気づきはしたが、彼の演技力、そして高い技能を目の当たりにしてすくなからず感心してしまったのも事実だった。

 一万円は私にとっても大金だ。月の食費の半額に相当する。

 しかしそれでも、まあいいか、と思える程度には、愉快な出会いではあった。

 彼が犯行を繰り返し、騙される者が増えないことを祈るしかない。

 もしあす連絡がなければ、彼の顔やら手口やらの情報が警察のデータベースに乗ることになる。マイナバーカードの画像もいっしょにだ。

 彼がどれほどの嘘を駆使して私から金を巻きあげたのかは定かではないが、相手が誰であれ、どの道の者であれ、私は玄人と接するのが嫌いではない。

 これは小説というよりかは、エッセイにちかい覚書きである。

 念のために、あすになって連絡があったかどうかだけ、最後に後日、記すことにする。

 

 あ、連絡ありました。

 ふつうに財布失くした人みたいでした。

 めっちゃ感謝されました。

 お礼いらないって言ったのに割増しで口座にお金振り込まれてました。

 無視しないでよかった。無事家に着いたようです。

 上記のあれ、めっちゃ探偵ちっくに推理したのに、恥ずかしい。

 ただの疑心暗鬼野郎でした。

 人を疑いすぎるのもよくないですね。

 ただ、寸借詐欺も似たような手口でお金を人から巻きあげるので、今回は特例中の特例だと思って、みなさんは気を付けてください。

 失礼しました。

 ではまた~。




【我が隣人にして敬愛なる】

(未推敲)

 

 ポン、とメディア端末が通知が報せた。

 アケミさんだ、と直感し、腕を伸ばすも焦ったのがよくなかったようで、カップを倒してコーヒーを零してしまった。

「ああっ!?」

 大声をだすと、数秒後に、またポンと通知が鳴る。

 大雑把に引き抜いた数枚のティシューを零したコーヒーに浸しつつ、メディア端末を確認する。

 ――大声した。

 ――だいじょうぶ?

 アケミさんからのテキストメッセージだ。

 その前に送られてきた用件をつづけて読む。

 ――またお荷物預かっています。

 ――きょうはずっとお家にいるので、お時間あるときにいつでもどうぞ。

 コーヒーを拭きつつ、急いで返信を打つ。

 まずは荷物を預かってもらっていたことに礼を述べる。いまから取りに伺います、と書き、それからカップを倒して床を汚してしまったのだ、と説明した。

 すこし迷ってから、壁薄いですよね、と互いの部屋を分かつ境界に対する愚痴を追加する。

 すぐに返信がある。

 ――たまに鼻歌聞こえますよ。

「うっそぉん」

 顔面がカっと熱を持った。

 アケミさんが静かな人だからか、こちらが彼女の生活音を聞くことは珍しかった。

 床はまだべとつくが、あとでいいや、と手を洗う。

 鏡を見て軽く髪を整える。

 服装は新調したばかりの部屋着だ。以前は同じ型のスウェットを何枚も買って着まわしていた。用事があるとき以外は外にでず、そして家でできる仕事のため、ゴミ出し以外では週に三回外の空気を吸えればいいほうだった。

 サンダルに足先をひっかけるが、いつもの癖がでた。こっちじゃなかった、と新調したばかりの靴を履く。

 もういちど手櫛で髪を整え、玄関扉を開け、廊下にでる。

 この階にはほかに三軒の家がある。うち一つがアケミさんの住まいで、すなわち彼女は私の隣人だった。

 なぜか隣同士の住所が同じなのだ。

 かろうじて、AとBの文字がそれぞれの住所の最後尾に付属するが、そんなものなどみなは見慣れないので、多くの場合、無視されて送り状が書かれる。

 じぶんで注文する分には、登録した住所に間違いなく届くので、難なく私の部屋に荷物が到着する。しかしそうでない場合、つまりが取引先から送られてくる荷物のすくなからずは、けっこうな頻度で隣の部屋に届いてしまうのだ。

 彼女の部屋のほうがエレベータの入り口に近いせいだろう。

 郵便物のように専用の大型ポストがあればよいのだが、このマンションにはかような便利な設備は備わっていないのだった。

 ここに引っ越してきたのは半年前だ。駅から近くて安いのが売りだった。

 いざ住んでみれば壁は薄く、住人はしょっちゅう入れ替わり、こうして配達間違えが頻発する。

 かれこれ十回くらいは、アケミさんはこちら名義の荷物を受け取っている。

 業者よ、学びたまえ。

 そう思わないでもないが、配達員とて毎回同じなわけではない。それこそいまの社会情勢では、マンションの住人ではないが入れ替わりが激しいのかもしれなかった。

 アケミさんは忙しい社会人であるようだ。

 休日以外は毎朝バタバタと慌ただしく部屋をでていく。

 その様子が、廊下に響く足音から窺えるのだ。

 きょうは休日だから部屋にいるようだ。荷物を代わりに受け取ってくれたので、テキストメッセージで知らせてくれたのだ。

 私たちはすでに連絡先を交換している。かつて移ろってきた住処では考えられない交友関係だ。隣人となんて挨拶もろくに交わしたことがない。

 私は彼女の部屋の玄関扉のまえに立つ。

 足音を聞きつけてなのだろう、インターホンを押す前に扉が開いた。

「こんばんは。はいこれ。重いよ」

「すみません、いつもいつも」

「いいですよこれくらい。それよりいつも思うんだけどね、中身なんですかこれ。本っぽいけど」

 彼女が扉を支えたまま空間を開けるので、戸惑うと、

「あ、寄ってきません? いま紅茶とお菓子食べてたんですけど」

「いいんですか」

「お時間あるならどうぞどうぞ」

「じゃあお邪魔しちゃおっかな。へへへ」地の笑い方が漏れ、やばい素がでた、と表情筋を引き締める。

 部屋に入るとローズティだろうか、薔薇の香りが漂っていた。

 紅茶ポットから湯気がのぼり、すでにカップが二人分用意されていた。

「昨日ちょうど好きなケーキ屋さんに寄ってきて、で、これ買ってきたの」

 彼女は紙袋からどら焼きを取りだした。

「わあ、美味しそう」言ってから、素朴な疑問が湧いたので訊ねる。「紅茶と合うんですか」

「ん?」

「ああいえ、ふつうこういうときって緑茶とかかなって」

 アケミさんはまだきょとんとしていたので、和菓子に紅茶ってあまり見ない組み合わせだったので、としどろもどろに説明するが、徐々に居たたまれなくなり、ご馳走になるのにすみません、とその場に正座になる。

「あはは。そういうことね。いえね、どら焼きが和菓子の印象なくって。だってこれ、ほら」

 彼女は包装紙を破るとどらやきを二つに割った。「中身チョコだし」

「ああ、そっか」

「カスタードとか、抹茶もあるけど、どちらかと言ったら洋風のイメージで買っちゃってたものでね」

「紅茶のほうが合いそうですね。美味しそう」そう言えば彼女はケーキ屋さんに寄ってきたと言っていた。「認知バイアスですね。偏見でした」と釈明する。

「うんうん。やっぱりそうだ。あ、どうぞ食べて食べて」

「はい。いただきます」どら焼きを頬張る。抹茶ホイップが入っていた。思っていた以上にスイーツだ。美味だ。やっほほーい、の気分である。

 紅茶に口をつける。これがまた合うなぁ。

 アケミさんは家具の趣味もよければ、おやつの趣味もいい。

 化粧も服装に合わせて変えているようだし、完璧超人か、と眩しくなる。部屋着や靴に多少気を利かせるようになったくらいの私では太刀打ちできない。

 アケミさんは私にとって、こういう大人になりたかったな、と思える女性だった。憧れだ。

「ね、相田さんさ」

「はい」もう一口どら焼きを頬張る。

「読書趣味でしょ?」

 ごっくん。

 ろくすっぽ咀嚼せずに呑み込んでしまった。咽せそうになり、紅茶で飲みくだす。

「げほげほ。あーっとそれは、はい。ふつうに本は読みますけど」

 わざわざ質問してきた以上は、それ以上の意味合いが込められていると、それくらいの機微は私にも読めた。

「ただの読書好きじゃなくて、なんかこう、同人誌とかそういうの作ってそうな気配がするよね。ね、ね。読ませてくれない? 書いてるよね、何か」

 さすがはアケミさん。鋭いなぁ。

「書いてないですよ」私はそら惚けた。「アケミさんは書いてるんですか」と質問をし返して急場を凌ぐ。

「わたし? わたしは書いてるよ。見る?」

 彼女はそう言って板状のメディア端末を取りだして画面にテキストを表示した。

 じつのところ私は彼女が物書きをしていることを知っていた。

 彼女は昼間は会社員をしているが、副業でライターをしているのだ。

 書評家である。

 顔出しで、かつ、本名で活動している。

 私は彼女のテキストをすでに読んだことがあったのだ。

 辛口書評家として有名で、歯に衣着せぬ物言いには、爽快感と小説への愛が垣間見えた。あなたならもっとおもしろい物語がつくれたでしょ、と暗に彼女は著者にモノ申しているのだと、どの書評を読んでも感じるのだ。

 書評家の人気に見た目が関係あるのかは知らないし、あって欲しくはないが、彼女は比較的若いし、見た目も端麗だ。私ですら憧れるようなステキセンスの持ち主でもあるから、余計に注目の的にされているように感じた。

 画面に表示された彼女のテキストを読みつつ私は、これはすでに読んだことのある書評だな、と思いつつ、ちょっと困ったな、と冷や汗を搔いていた。

「どうかな。読める? おもしろい? 感想とか聞かせてもらえたらうれしいのだけれども」

「いえ、はい。とってもおもしろいです。というかアケミさん、ライターさんだったんですね」

「副業だけどね」

 知っています、と私は内心で応える。

「その本ね」と彼女が本棚を漁り、一冊の本を取りだした。いま私が読んでいる彼女の書評にある本だ。その本について彼女は、辛口の所感を述べている。それでいて、ユーモアと豊富な知識を駆使し、その本を知らない読者が書店に駆けこみたくなるような文章に仕上がっているのだから、書評家としてはもちろん、物書きとしても一流だ。「あんまり有名じゃないし、売れてないらしいんだけど、わたしはおもしろいと思っていて、その本もだけど、ホントその作者のひとがね、新作書くたんびにこれまたおもしろい小説を読ませてくれるわけ」

「へー」

 でも、と思う。「この書評を読む限り、そういう絶賛って感じじゃないですよね」

「仕事だからね」彼女は言った。「ファンとしてなら絶賛したいし、するよね。いくらでも。ただ、書評はお仕事でしているから、客観性も取り入れなきゃいけないし、この本のファンが読んだときに、そうそう、と思うところと、そうじゃないんだ、と庇いたくなるようなところ、両方ないと、やっぱり言及してくれないんだよね」

 ちょっと語ってもいいかな、と許可を仰がれ、私はうなづく。彼女は紅茶のお代わりを淹れながら、わたしはね、と伏し目がちに述べた。

「書評家ってのは、読者の代弁者であると共に、わからず屋でもあるべきだとわたしは思っていて。本当に真実おもしろい理想の物語がこの世にあるとして、それを基準にしたときに、じゃあこの本はどうなのか、って視点からの感想もちゃんと書かなきゃダメなんじゃないかって思うんだよね。だって読者はおもしろい小説が読みたいんだもん。わたしたち書評家が絶賛だけして、さあこれを読め、なんて言うだけじゃ、誰も書評になんて目を向けなくなるよね。書評家がけちょんけちょんにけなした本だからこそ読みたくなる人だっているだろうし。もちろん売るためにそういう嘘は吐かないよ。飽くまで本当に思ったことした書かないけど、でも技術としてはやっぱりあるんだよねぇ」

「プロですね」私はただそれだけを言った。

「本をね。もっとみんなにも好きになって欲しいんだ。読んで欲しい。そのための触媒っていうか、きっかけっていうか、読者と本の懸け橋に、ううん。せめて小指の先っぽだけでも引っかかるようなフックになれればいいんだけど」

「なってますよ。有名じゃないですかアケミさん」

 口を衝いていた。

 部屋に漂う静寂の波紋に気づき、しまった、と息を呑む。

「ははは」彼女はお腹を抱えた。「はーおかしい。語るに落ちるってやつだね。その感じはあれだね。わたしのことはもう知ってたって感じだ。書評家のあいつだ、みたいな」

「えっとぉ、あの」

「いいです、いいです。何も言わずにおいてください。わたしと相田さんはただのお隣さん。これ以上の穿鑿は野暮だね。ごめんなさいね、いじわるして。ただちょっと、思っていたのと全然印象が違ったから確かめてみたくなっちゃって」

 茶目っ気たっぷりに言っておきながら彼女は、職業倫理違反かなぁ、とこめかみを掻き、そうだよねごめんね、と誰にともなくつぶやいた。

 栗色のゆるく波打つ髪の毛が、彼女の懺悔に呼応して揺れる。

 しばらくの沈黙を過ごしたのち、ぱっと顔をあげてアケミさんは言った。

「またいっしょにお茶飲んでもらえる?」

「それははい。ぜひ。ご迷惑でなければ」

「その本、貸してあげるね」

「え、でも」

「もしよかったらでいいんだけど、返してくれるときにさ、間違ってイタズラ書きしちゃってもいいからね。宛名はアケミお姉さんへ、でお願いします」

「ぶふっ」

 反則だ。思わず噴きだしてしまったではないか。

「ふふふ。これも書評家の技術なのだ」

 彼女はおどけると、紙袋をこちらに押しつけるた。

 仕事のお供によかったら食べてね、と返品不可の笑みを浮かべる。

 私にはもう、どうあっても彼女に逆らう真似ができなくなっており、それはきょうに限ったことではなくとっくのむかしに彼女の姿を目にした瞬間から決まっていた制約であり、ともすれば或いはそのずっと以前からすでに私は彼女の術中にはまっていたのかもしれなかった。「すみませんじゃあ、ありがたく」とかろうじて返し、美味しいどら焼きを受け取った。「もちろん単なるお隣さんとして、ですけど」

「ふうん。お友達としてはダメ?」

「えっとその、それは、あの」

「職業倫理?」

 私は首をぶんぶんと縦に振る。

「だって相田さんは文章を書いたりしてないんだよね。さっきそう言ってましたし。それにわたしはわたしのお隣さんが毎日家に引きこもってどんなお仕事を熱心になされているのかも知りませんので。お隣さんのほうではわたしのことを知っていたみたいですけど。前以って。一方的に」

 顔が熱くなる。

 勘弁してください、と心の中で悲鳴し、その場でちいさくなる。「すみません」

「いいですよー。許します」彼女はご機嫌に上半身を左右に揺すった。「あ、もうこんな時間」壁掛け時計に目を留める。「長々とごめんね。お時間だいじょうぶ?」

「あ、はい。いい気晴らしになりました。お荷物も、いつも預かってもらっちゃってすみません。ありがとうございます」

「また受け取ったら連絡するね」

「はい」

 待ってます、と言ってから、あまりに待ち遠しそうな声音にじぶんで気づいて恥ずかしくなった。一刻も早くこの場から立ち去りたくて、席を立ち、お邪魔しました、とぺこぺことお辞儀をしながら玄関口に向かう。

「またおいでね」

「ご馳走さまでした。お土産までもらっちゃって」

「いいのいいの。お仕事がんばってくださいね。楽しみにして待ってます」

「あ、はい」

 もはやどこまで誤魔化す気があるのか、それともないんだか。

 よく分からんな。

 これ以上、人を幻惑しないで欲しい。ついでに魅了しすぎにも注意である。

 困った人だ、とスキップをしながらぼやき、じぶんの部屋まで戻った。

 どら焼きの入った紙袋、郵送物、そして一冊の本を机のうえに置く。 

 疲れた。

 しかし不快な疲労感ではなく、たとえばふしぎの国に行って戻ってきたとしたら似たような気持ちになる気がした。

 ソファに身を投げだす。

 アケミさんは音楽をかけたようで、壁の向こう側から微かにピアノの旋律が聞こえた。クラシックだろうか。

 アニソンばかり聴いている私とは大違いだ。とはいえアニソンだって負けじといい曲が多い。世間一般に漂う印象が異なるだけなのだ。偏見だ。

 じぶんの偏見に気づくたびに創作意欲が湧く。

 アケミさんから渡された本を手に取る。

 じぶんの本棚にもそれと同じ本がある。

 献本用の非売品だ。新刊が発行されるたびに出版社から贈られてくる。

 今回の郵送物も、文庫化した分の献本だった。

 アケミさんは送り状に書かれた出版社名を見て、気づいたのかもしれない。

 中身が献本だとすれば、新刊の発売日からして当て推量はついただろう。私の筆名は、本名を文字ってあるし、小説の主人公の名前にも使ったことがある。

 熱心なファンならばこれだけのヒントから作者を特定することが可能かもしれない。それこそ、隣に住んでいたとすればなおさらだ。

 私は彼女が私に部屋で見せた書評を振り返る。彼女はわざと私の本の書評を作者たる私に読ませたのだ。私はすでに件の書評を読んだことがあったが、何度目を通しても心地よい作品愛を感じる。

 けして称賛されているような書評内容ではない。どちらかと言えば批判的だ。しかしその批判が、却って物語に深みを与えているのだから、料理に振りかけられたスパイスさながらに、風味そのものを際立てる。

 彼女の辛口には熱がある。

 彼女の言葉ならばどんな毒でも、向けられてみたいと思わせる、珠玉の物語への底なしの飢餓感が窺える。

 否応なく突きつけられるのだ。

 いち作者として。

 表現者として。

 文字を駆使して物語をかたどり、この世に刻印する小説家として――私は。

 もっともっと、と貪欲に、まだまだもっとおもしろい世界を、物語を、小説を読ませてくれと渇望する読者の存在を。

 私の部屋の隣に住まう書評家から、テキストを通して、毒を介して、愛を垣間見、否応なく突きつけられるのだ。

 ――楽しみにして待ってます。

 彼女の部屋をあとにする際に投げかけられただけの、ただそれだけの言葉が、行き詰まった私の心に、物語の世界へと深く深くより深く降り立つ勇気を、ふたたびそそぎこむ。

 床には拭きかけのコーヒーが零れたままになっている。

 掃除してしまおうと、ソファから腰をあげるが、ふとその前に、と思い直し、ペンを手に取る。

 アケミさんから借りた本を開き、裏表紙の裏側に、手慣れた調子でペンを走らせる。

 私の筆名のサインを刻み、我が隣人にして敬愛なる読者さまの注文通り、私は、いつもより丁寧な筆致で、アケミお姉さまへ、と書き添える。




【彷徨う者はなぜ】


 あるところに痩身の男がいた。年齢は三十より下ということはないだろう。髪の毛は伸ばしっぱなしで、髭は顔の半分を覆った。体臭こそ薄いが、見るからに見すぼらしい姿をしていた。

 男は旅をしていた。

 村から村へと砂漠を渡り歩ていたのである。

 村へと到着すると男はまず熱心な宗教家を探した。

 どの村にも必ず十人はいた。

 そうした者の居場所を村人に訊いて回り、家が判ると訪問した。

 たいがいは話を聞くこともなく追い払われた。ときに親身に話を聞いてくれる者もあったが、事情を話すと激怒され、するとこんどは村からも追いだされた。

 当初こそ男はもっと身なりがよかった。

 しかし旅をつづけるたびに、村々にて追い剥ぎに遭い、詐欺に遭い、困っている者から相談されれば、渡せるものはすべて渡した。

 そうしていつの間にか身ぐるみを剥ぎ取られ、泥を投げられ、罵倒された。

 そこらの乞食のほうがマシな姿だ。

 こうなるともう、誰に話かけようとしても、近づく矢先から逃げていく。目すら合わせない。

 しかし男には目的があった。

 旅をやめるわけにはいかなかった。

 とある村の広場にて、集会が開かれていた。

 これさいわいと、男は人混みを掻き分け、演説台にのぼり、大声をあげて訴えた。

 旅の目的を話し、事情を説明した。 

 これがかつてないほどによくなかった。

 耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言が男に浴びせられた。石が投げられ、誰が言うともなく、民衆は、男を処刑しろと言いだした。

 またたく間に、「死刑! 死刑!」の大合唱が生まれた。

 男は落胆した。

 いったい彼ら彼女らはどうして欲しいというのだろうか。

 男は民衆に囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けた。

 簀巻きにされ、日時計の柱にくくりつけられる。

「あすの朝、おまえを処刑する」

 男に宣告すると民衆は、やれやれ、と各々の家へと帰っていった。

 夜は静かだった。

 満天の星が男の頭上に広がる。男はそれら星々の無言のささめきに耳を欹てた。

「おいちょいとあんた」

 真下から声をかけられた。

 見遣ると、乞食が一人立っていた。手には刃物を持っている。

「どうされましたか」男は応じた。口を開くたびに血の味がした。

「ちょいと待ってな。いま助けちゃる」

 乞食はいそいそと日時計の柱によじのぼり、男を縛っていた縄を解いた。

 地面に落下した男を、乞食は、すまねぇ、と助けに起こす。

「痛かったろ。怪我はねぇか」

「だいじょうぶです。助かりました。ありがとうございます」男は乞食を観察した。薄汚れた格好だ。長いこと風呂に浸からず、泥の上で寝ていると判る。「親切にしてくださりありがとうございます。何かお礼をしてさしあげられればよいのですが、御覧の通り、私にはもう何も差し上げられるものがないのです」

「お礼っておまえさん。こんなになってまでそんな。それより早くお逃げなせえ。見つかりゃこんどこそあんた殺されるど」

「ですが私が逃げれば誰が逃がしたのか、という話になりましょう。あなたが危ない目に遭ってしまうのではないですか」

「かもしんねぇが、いまさらだ。この村の連中さ、おらのことなんざ眼中にね。犯人捜しの候補にも挙がらねぇだ。虫けらは人を助けね。それとおんなじだ」

「よく分からない理屈ですが、村人たちがあなたをひどくぞんざいに扱っていることはよく分かりました」

「おしゃべりしてる暇なんざね。はよ逃げい」

 手を取られ、男は乞食の案内のもと、村はずれまでやってきた。

「あとはこの砂漠さまっすぐ行けばほかの村さ辿り着く。死ぬなよ。達者でな」

「ご親切にどうもありがとうございました」

「いんだ。お互い様だべ」

「一つお訊きしてもよろしいでしょうか」

「なんだい」

「あなたも、この村の方々のように神を信仰なさっておいでなのですか」

「神だぁ? おまえさんこんな目に遭ってまでそんなもん信じてんのかい。あんたを助けたのは神さまじゃね。薄汚ねぇ乞食だべ」

「ではあなたは神の御心とは別に、それとは関係なく、私を助けてくださったのですね」

「んだ」

「ほかの方々はしかし私を襲い、あまつさえ殺そうとしました。なぜなんでしょう」

「あんたぁ、だいじょうぶかい。そんなふうなことじゃほかの村でもすぐに痛い目見るど」

「はい。どの村でもみなさん、私をひどく避け、敵視なさります。なぜなんでしょうか」

「ばっかだねぇ。あんたそりゃあ、あんなこと皆のまえで言ったらそうなるのは当たりめぇだべさ」

「あんなこととは、どのことでしょう」

「おまえさん忘れたわけじゃねぇべ。集会に乗り込んで、皆のまえであんたぁ、じぶんが神だと名乗ったんだ。ありゃ殺してくれと言っているようなもんだべさ」

「よく分からない理屈ですね。どうして私が神と名乗るとみなさん、お怒りになられるのでしょう」

「あんたなぁ」乞食は深く息を吐いた。「いいさ。あんたの好きに生きりゃええ。しかしできれば人前で、じぶんが神だ、なんてことは言っちゃなんねぇど。ましてや、みなに祈られてやってきたなんて、そんな嘘は言っちゃなんね。わしとて村の連中をよく思っちゃいねえが、しかし人様が大事に思っているものを無駄に貶しちゃなんねぇべ」

「貶す? 私がですか? いつどなたを貶したのでしょう」

「わかったわかった。もうええ。行きなされ。殺されねぇようにがんばんな」

 乞食は役目は果たしたとばかりに背を向けた。振り返ることなく、村へと戻っていく。

 男は乞食に深く腰を折って、感謝の念を送った。

 この六日後に辿り着いた村にて、男は、熱心な宗教家に、いつものように事情を説明したことで呆気なく殺された。

 男はどの村でも、どの宗教家たちにも同様の文句を告げていた。

「私は神です」「愛しい我が子どもたち――あなたがたの祈りに応え、こうして会いにきました」「いつも祈ってくださり感謝いたします」「これからも共にみなの平和と愛を祈りつづけましょう」

 宗教家たちはみな、目のまえに現れた男を、神を名乗る不届き者と見做し、例外なく激怒した。

 そして最後は呆気なく殺された男であったが、彼の遺体はふしぎとつぎの日には跡形もなく消え去っており、この地には間もなく深刻な日照りと疫病が襲った。

 奇しくも、男を助けた乞食だけは、生き残った。

 乞食はそれから無人となった村の財を元手に、一人逞しく生きた。旅人たちにも親切に接する乞食のもとには人が集まり、やがて新しく村が築かれた。

 乞食はときおり、神を名乗る妙な男のことを思いだしたが、そのこととじぶんの境遇は関係があるようでないだろうと考えた。

 夜になると村からは満天の星々が望めた。

 月は眩く、空は高い。

 ぼんやりとカーテンのごとく月光が砂漠にうっすらと陰影を浮かべ、星々の輝きがささめきのようにひしめく。

 この地に、神を信じる者はいない。

 しかし、神のごとく振る舞った人間がかつていた。

 一人は死に、もう一人はいまなお日々を慎ましく、豊かに暮らしている。




【瞬久間弐徳の焦燥】


 全国で多発している不審死が連続殺人だと見抜いたのは、三秒伝説で知られる名探偵ただ一人であった。

 彼は謎と事件の概要を聞くだけでたちどころに真相を暴き、犯人をずばり名指しする。その神業的な発想力と直観力、なにより予知めいた言動には、多くの事件関係者が、藁をも縋る思いで彼のもとを訪ねる。

 しかし彼の推理という名のあてずっぽうには、証明が欠けていた。

 論理的に妥当だろう、との仮説を口にしはするが、それが真実であるかどうかの証明を、かの名探偵がすることはない。

 しかし、世の多くの書籍に登場する探偵たちとて、同様だ。綿密に、科学的な、裁判を開いても有力な証拠となるような真実を搔き集める真似などしないのだ。

 なんとなくその場の雰囲気で、犯人はあなただ、と名指しし、犯人がかってに自供するか、追い詰められて自滅するかを期待するかのような姑息な手段ばかりがとられる。

 探偵とは言うなれば、詐欺師をカモにする詐欺師なのである。はたまた、マジシャンを相手取って、種明かしをしてみせるマジシャンのようなものだ。

 三秒伝説。

 それは件の名探偵、瞬久間(またたくま)弐徳(にとく)につけられた通り名のようなものである。

 この男にかかればどんな事件とて概要を聞けば、三秒で解決する。

 誇張表現かと思えば、ふしぎとこれに異議を唱える依頼人はいない。

 こたびの事件とて同様だ。

 彼のもとを訪れたのは、馴染みの刑事であった。瞬久間弐徳は彼女のことを、サル、と呼ぶ。ここではサル刑事と呼ぶことにしよう。彼女は過去、数々の難事件を屋敷に持ち込んでは、瞬久間弐徳に解決の糸口を語らせてきた。

 いわば名探偵の唱えた仮説の証明を担う人物だ。

 もはや刑事は瞬久間弐徳の仮説を疑うことをしない。コイツがこう言うのならそうなのであろう、と半ば機械的に盲目している。考えることを放棄した人間だが、瞬久間弐徳以外の言動は根っこから疑ってかかるため、刑事には向いている。

 言ってしまえばそれは、瞬久間弐徳が彼女に対して、事件について嘘を吐いたことがないことの裏返しでもあった。彼が嘘を吐かぬのならば、彼ののたまく仮説はまずハズれたためしがなかった。

 なぜ的中するのかを、当の本人には説明できないようである。なぜみなにはこんな自明なことも解らぬのか、と周囲の者たちを視野が狭い呼ばわりして、自身の特異性を認めようとしない。

「私は見えたものをただそのまま口にしているだけだ。目のまえにリンゴがあればこれはリンゴだと言うだろう。それをみなはすごいと称賛する。意味が分からん」

 この調子である。

 瞬久間弐徳は頑迷にして実直な人物であった。

 堅物がゆえに、融通が利かず、傲慢ゆえに卑劣な手を好まない。

「また性懲りもなく頼りにきたのか」屋敷を訪問してきたサル女こと刑事に瞬久間弐徳は投じた。表情をぴくりとも変えない。

「またよろしく頼むよ。むろん金は払う」

「当然だ。なぜ私のほうが道理を譲られたかのように言われなくてはならん」

「責めちゃいなさ」

「寒いから戸を閉めてくれ」

「きょうは恋花ちゃんはいないのか」

「助手なら遣いにだしている」

「あんまし扱き使ってやるなよ。いいコなんだから」

 サル刑事の本音としては、じぶんの味方となり得る手駒を失いたくないだけだろう。瞬久間弐徳は頑迷であるが、助手の鯉仇(こいがたき)恋花(れんか)には甘い節がある。

「おまえに言われる筋合いはない。いいからとっと要件を話せ」

「あいよ」

 サル刑事は語った。

 彼女の説明は三十分にも及んだ。その説明を瞬久間弐徳は相槌一つ挟まずに聞いた。

 彼女の話の概要は以下の通りである。

 全国でここ三年間のあいだに、共通点を持った変死体が見つかっている。

 どれも五年前に市場で売られはじめた共有感覚スーツを着こんだまま亡くなっていた。死者は総じて、全身の関節を損傷し、ときに頭部を打って死んでいた。首の骨を折った者まであるそうだ。

 多くは自室ではなく、人気のない公園や、ビルの駐車場で亡くなっていた。

 目撃者はなく、最近までは一連の不審死を結びつけて考える者すらいなかったのが現状であったそうだ。

「ではなぜいまごろになって関連性があると見做された?」

「急激に増加傾向にあってね。さすがに鑑識のデータベースから、これは妙だと声が上がった。調査してみれば御覧の通りだ。看過できない不審死が三年ものあいだ見逃されてきたわけだ。ひょっとしたらそれよりずっと前から起きていた可能性もある。もしこれが事故や偶然ではなく事件だったら警察の沽券にかかわる。どうか力を貸してくれ」

「私はただ依頼をこなすだけだ。警察の沽券などには微塵も興味ないが、まあいいだろう」瞬久間弐徳はいちど目を閉じると、三秒後に目を開けた。「いいぞ」

「助かるよ。でだな、遺体が身に着けていた共有感覚スーツってのは」

「そうじゃない。いまの、いいぞ、は説明を再開させろという意味ではなく、もう謎は解いた、という意味だ。むろん共有感覚スーツがなんたるかくらいは知っている。仮想現実を体感するための道具だろう。ほかにもプロスポーツ選手の動きをトレースできる。いずれも筋肉に電気信号を与えて、各部位の感覚を誘起する類の仕組みだ」

「その通りだが、まさか謎をもう?」

「重要なのは犯人の名前ではない。どういう人物が犯行を可能なのか、だ」

「犯行? ひょっとしてこれは事件なのか。連続殺人だとそういうことか」

「犯人の特定はきみに任せる」

「それはいいが、ちくしょう大変なことになったな。で、犯行の手口は? 本当にもう謎が解けたのか」

「大声をだすな。いちいち唾を飛ばされるこちらの身にもなれ。絨毯が汚れる」

「掃除するのは瞬久間、おまえじゃないだろ」

「我が助手に苦労をかけるな、と言ったのは誰だったかな」

「すまんよ黙る。で? いい加減答えを聞かせてくれ」

 もったいぶるのがおまえのわるい癖だ、とサル刑事は腕を組んだ。

「簡単なことだ。共通点は共有感覚スーツのみだったのだろう。あれは他人の肉体に流れる活動電位を受信し、スーツを着た者が受信できる仕組みだ。他者の肉体の使い方を体感できるスーツとも言い換えてもいい」

「仮想現実での虚構を体感できるのもその仕組みが応用されているわけだろう」

「そうだ。そしてきみがそれら一連の不審死を連続殺人だと断定できずにおり、なおかつスーツへの言及がすくなかったことから、不審死した者たちの身に着けていたスーツはろくすっぽ調査されていなかったのだろう」

「いや、いちおう、鑑識による鑑定を受けたケースもあったらしいが、スーツにこれといった凶器や毒物は仕込まれていなかったようだ」

「しかしスーツそのものを徹底的に解析したわけではないのだろう」

「それはそうだが」

「事件として扱いはじめたのが昨日の今日ゆえの怠慢と言えるな。もしつぎに同様の案件があがってきたら、スーツを子細に解析することをお勧めするよ」

「だがな瞬久間。おまえはそういうが、どうやったらスーツを着ている人間をあれほどに大量に殺せるのだ。スーツを利用したというのなら遠隔で殺したということだろう。可能とは思えんが」

「可能だ。目撃者がいないのも無理はない。被害者自ら人目のない場所を選んだのだからな」

「そうなのか?」サル刑事は紅の引かれた唇をはんだ。言動は粗暴だが、身だしなみには気を使う女なのだ。まつ毛もくるんと上を向き、鋭い眼光でありながらも、ぱっちりと大きく見える。

「おそらくはスーツの出力は異常に底上げされていたはずだ。一昔流行っただろう。腹周りのダイエットに、電流を流して筋肉を自動で収縮させて痩せるとかなんとかいい加減なことを謳った器具が」

「あれは嘘なのか!?」

「サルよ、きみも騙された口か。一部の筋肉を収縮させるだけで消費できるエネルギィなど高が知れている。いくら指先だけ動かしても全身の脂肪が燃えないのと同じことだ。無駄ではないが、謳い文句にあるほどの効果は期待できんよ」

「そうだったか。いや、それはいいが、スーツの話だ。違法に改造したとして、どうやって遠隔で殺人なんか」

「誰だって一度は一流アスリートのように身体を自在に操ってみたいと思ったことはあるだろう。もしそれが叶うと誘惑されたらどうする? 一流アスリートに依頼するがゆえに、このことは極秘にお願いします、と真実に一流アスリートからの太鼓判まで添えられたら」

「ファンだったらイチも二もなく乗りそうな話ではあるが」

「不審死した者たちに共通点がスーツ以外にないようなことをきみは言ったが、それは見方による。彼ら彼女らはみな例外なく、何かしらのアスリートのファンだったはずだ。各分野にまたがっていれば共通点として見逃されていてもふしぎではない。或いは、被害者たちがみな、自身も競技者だった可能性もある」

「それは調べてみなければなんとも言えんが」

「共有感覚スーツは、その出力を上げれば、寸分たがわずアスリートと同じ身体の使い方が可能だ。もっと言えば、それは他者の肉体を遠隔操作可能であることを示唆する」

「そんなバカなことがあるか。もしそれが可能だったら、そもそもわざわざアスリートを使う必要もないだろ。違法改造したスーツを着せさえすれば、誰であっても操れるわけだろ。そしたらそのまま線路なり、高層ビルなりへと歩かせて自殺させればいい」

「そこまでの性能はないんだよ。あくまで、任意の動きをしようとスーツ着用者が肉体に意思を反映させなければ、ブレーキをかけることは可能だ。スーツをその場で脱ぐこともできる。それはたとえば、坂道で、ブレーキを踏むかアクセルを踏むかの違いにちかい。自動車のほうでアクセルを踏むと意識しなければ、自動車が大破するほどのスピードはでない」

「分かったような分からんような話だな」彼女はネクタイを緩めた。「で、けっきょく死因は何なんだ。どうやって殺した」

「ここまで言って分からんのか。不審死していた者たちはみな全身の関節が歪んでいたのだろう。肉体に激しい負荷がかかったためだ。首が折れていたのも、そういう運動をして、床か柱にぶつけたのだろう」

「ぶつかると判っていたらそもそもブレーキを踏むんじゃないのか。瞬久間、おまえの話では、そういう理屈だっただろ」

「いかにも。しかし、たとえば軽自動車にスポーツカーのエンジンを積んだらどうだ。一応は走るだろうが、それでレースにでれば、造作もなく軽自動車は限界を超して破損するだろう。スピードが出れば制御不能となる。ときには何もなくともひっくり返り、壁や地面にぶつかればやはり大破する」

「ではおまえはこう言いたいのか。被害者たちはみな、共有感覚スーツ越しに一流アスリートと同じ動きをして、それで死んだ、と」

「いかにも」

「肉体がついていけなかったから。それが殺害方法にして、死因だと言いたいわけだな」

「その通りだ」

「理屈は理解したが、いやはや。そう上手くいくものかな」

「それの証明は私の役目ではないよ。私の帰結を信じるも信じないもきみしだいだ」

「いや、信じるよ。瞬久間、おまえが言うのだからそうなんだろう」

「それはどうかな。私はただ、私の知り得る情報を駆使して見える景色をきみに述べているだけだ。ひょっとしたら間違っているかもしれない」

「それで間違っていた試しがあるのか」

 瞬久間弐徳は、思案の間を空けると、「ないな」と応じた。

「だろ。ならこっから先はあたしの領分だ。任せろ」

「好きにすればいい。私の役目は終わった」

「んー。しかし一つ解せないのは」

「まだあるのか。追加料金を請求するぞ」

「サービスしろよ。常連だろ」サル刑事はネクタイを締め直した。「なんで被害者たちはみな、首を折ったりしてたんだろうな。そんな激しいスポーツがあったか?」

「体操に、トリッキン、ブレイキンと探そうとすればいくらでもあるのではないか」

「なんだそれ。体操はいいが、ほかのをあたしは知らないんだけど」

 溜め息の音が部屋に反響する。「それでよく刑事が務まるものだな」

「まあな」

「これは馴染みとしてのサービスだ。犯人は、共有感覚スーツの製造メーカーに勤めているか、それとも退職した社員の内の複数人だ。アスリート関係者に近づき、ファンとの交流サービスを謳って、アスリートそのものを凶器とした。おそらくアスリートたちは犯行に関与していることにも気づいていないだろう。動機はそうだな。スーツ会社への復讐といったところか。すでに会社のほうでは事の次第に気づき、てんやわんやの騒ぎになっていることだろう。警察はまだ連絡はしていないのか」

「捜査員が数名、スーツの性能の詳しい話を訊きに行ったくらいだ。事件のこともまだ話していない」

「ならば急いだほうがいい。このままだと証拠を隠蔽される確率が高い。違法改造すれば他者の身体を乗っ取り、殺人に利用可能だと証明できなくなるぞ。スーツの規格が変われば、犯人たちも犯行に利用できなくなり、たとえ犯人が自白したとしても、メーカーが証拠を隠滅していれば立件は困難だ。それこそサル、きみが最初この話を信じきれなかったのと同様に、証拠がなければやはり誰も信じんだろうな」

「分かった。助かった。まずはメーカーへの令状をとることにしよう。結果はあとで報告する。楽しみにしといてくれ」

「いらんよそんなものは。ただし、ニュースには目を通しておこう」

「おう。あ、恋花ちゃんによろしく。こんどいっしょにデートしようって伝えといてくれ」

「私は行かないぞ」

「べつに瞬久間、おまえは誘ってない」

 瞬久間弐徳は引き出しからヘッドフォンを取りだすと、頭から被った。もうサル刑事には応じない。出て行けと言えば、あまのじゃくの彼女のことだ、もうしばしこの部屋に居座るだろう、と予想できたがために、瞬久間弐徳はじぶんのほうで、内面世界に引きこもることにした。

 目をつぶる。

 うっすらとサル刑事の声が聞こえた。悪口でも唱えたのだろう。わかりやすい人格である。扉の閉まる様子が、空気の流れの変化で感じ取れた。ようやく去ったようだ。

 瞬久間弐徳はそのまま瞼の奥に広がる暗がりのなかで、書きかけの小説の構想を練る。

 しばらくすると、扉が開いた気配があった。空気のうねりが頬を撫でたのでそうと判る。

 まだ用事を重ねる気か。 

 どうせサル刑事が思いだしたように、ほかの謎の真相も訊いておこう、と踵を返してきたに相違ない。

 むかし馴染みであるというだけで少々甘やかしすぎたかもしれない。

 ここいらでガツンと釘を刺しておこう。

 ヘッドフォンを外しがてら、目元を揉みつつ、

「いい加減にしてくれないか」

 声を荒らげると、

「あ、すみません」

 可憐なる声音が、臆した様子もなく、「寝ていらっしゃったかと思ったので、黙って入ってきちゃいました」と耳に届く。

 目を開けると、ソファのうえに荷物を置く助手の姿があった。鯉仇恋花である。彼女は瞬久間弐徳の側近にして、唯一この屋敷内に雇われているお手伝いさんでもあった。

「ただいま戻りました。はぁ疲れた。くたびれちゃましたよもう。せんせーの描いてくださった地図、まったく役に立たなくて、無駄に道に迷っちゃいました。責任とってほしいです」

「きみの読解力がないだけではないのか」

「うわ、絵心のなさをわたしの見る目のせいにされた。絵心だったらわたしのほうが絶対上ですからね。こう見えて高校時代は美術部だったんですから」

「初耳だな。どれ、きみの作品というのを見せてもらおうか」

「いやですよ。絶対痛烈に批判するじゃないですか。じぶんを棚に上げさせたらせんせーの上に立つ者はいないですからね。ご遠慮しておきます」

 いかにも大学生といった風体であるが、瞬久間にこれほどまでに面と向かって意見を言えるのは彼女のほかを抜いていない。何にも増して、瞬久間弐徳のほうでこれほどまでに耳を傾ける相手がいないのだ。

 彼女は唯一、瞬久間弐徳が長時間同じ空気を吸っていても気分を害することのない相手と言える。しかし彼女の言動によっては、臍を曲げるので、そこはつねに鯉仇恋花のほうが名探偵さまの手綱を握っていると言える。

 どちらが助手か分かったものではない。

 しかし瞬久間弐徳が彼女の身の回りの世話をすることはなく、雇い主以上の対価もまた払わないため、明確に彼女のほうが扱き使われているという意味で、助手であった。

「あ、さっきサルさんから連絡がありまして、こんどデート行きましょうって誘われちゃいました」

「それをいちいち私に報告する義務はきみにはない」

「とか言っちゃって。いざ何も言わないでサルさんと会えば、せんせーってばあとでいじける癖に」

「そんなことはない」

「そんなことはあるから前以ってご報告さしあげているんですよ。まあ、いいです。せんせーもよかったらご一緒にどうですか。日時が決まったらお知らせしますので。ええ、ええ、もちろん無理強いはしませんし、お暇であれば、の話ですけど」

 急な依頼が飛びこまない限り、瞬久間弐徳はつねに屋敷の書斎で、すなわちこの部屋にて小説を書いている。プロではない。十割趣味である。

 誰にも読ませず、たとえ読ませたとしても誰も最後まで読み通すことのできない、斟酌せずに言えば駄作ばかりをつむいでいる。

 したがって、瞬久間弐徳が割こうと思えばいくらでも時間を空けられるのだ。

「そんな暇はない」

「はいはい」

 鯉仇恋花はソファのうえに放りだした荷物から、箱を取りだした。靴が入っていそうな大きさだ。

「なんだそれは」

「これはお使いに行った先でもらってきたお土産です。なんか、お礼にってもらっちゃって。いちおうわたしの分もあるんですけど、せんせーにもどうぞって」

「それは例の彼女が?」

「はい。せんせーにくれぐれもお礼を伝えてくれ、ととてもよくしてくださいました。あ、わたし初めて一切れ五万円のお肉食べました。お肉というよりデザートでしたね。美味しかったです」

「彼女からの贈り物か。すこし恐いな」

「せんせーがそんなことおっしゃるの初めて訊きました」

「きみは初めてが多いな。単に物忘れが激しいだけではないのか」

「せんせーがおっしゃるそういう皮肉は全部憶えてますけどね。わたし、根に持つタイプなので」

 瞬久間荷徳は無言で、彼女から箱を受け取る。

 さっそく開けると、中からは薄いツナギのような服が現れた。

「これは」

「スーツですよ。いま流行りの異世界を体験できるスーツです」

「それは知っているが」

 まさに先刻、サル刑事と話していた例の共有感覚スーツであった。

「きみのほうもこれと同じものが?」

「そうですけど、何かマズいですか」

「いや、そういうわけでは」

 何気なく箱の蓋をひっくり返すと、裏側にメッセージが貼りついていた。

 メモ用紙には、安心してください、とある。

 その下にはさらに、違法改造されたものはこれだけです、と書かれていた。

「まったくこれだから」

「どうしたんですか、せんせー」

「いや、なんでもない。しかしまあ、なんだ。これでサルが間に合わずとも、証拠を逃す確率はゼロにちかくなったな」

「なんです?」

 なんたって、ここにこうして証拠たる違法改造されたスーツが一着あるのだから。

 三秒伝説を誇る名探偵だが、彼にも空を仰ぐように、太刀打ちできない相手がいる。

 瞬久間弐徳には、他者に見えない風景が視えている。それはみなが見逃している欠けた情景を補完できる慧眼だ。

 過去に何があったのか、欠けたジグソーパズルのピースを、あらゆる情報の集積によって補っている。類稀なる演算能力による直感の鋭さと、構築した仮説の言語変換能力に秀でているだけにすぎない。

 けして未来が視えるわけではないのである。

 しかし、彼女は違う。

 瞬久間弐徳がゆいいつ情景を補完できない、虚無そのもの。

 瞬久間弐徳がひそかに、深淵の佳人と呼ぶその人は、未来予知の精度が魔法のように高い。

 あたかもジグソーパズルが組みあがるより前、絵画が切断される以前から、どのような情景が描かれ、どのようにピースが欠けるのかを、幻視できているかのように。

 彼女をまえにすれば、謎とは解くものですらない。

 あらゆる謎が、彼女に黙認され、許容された現実でしかないのだ。

 蜘蛛が巣を張るより先に、蜘蛛が生まれてくる環境を阻害できる。

 事件が発生するより前に、事件の生じ得る背景を書き換えられる。

 それをしないのは単に彼女がそれを面倒に思い、手を抜いているからだ。

 そんな彼女に目をつけられ、いちどは存在の根底を脅かされた瞬久間弐徳にとって、こうして助手を遣いにだせるくらいに有効な関係を築けたことは、僥倖と言うよりない。

 ともすれば、瞬久間弐徳、彼一人きりであったならば、いまここに名探偵は存在を保てなかっただろう。

 鯉仇恋花。

 彼女の介在が、瞬久間弐徳と深淵の佳人の歪な縁を破談寸前に保っている。

 それゆえに大事にしている――わけではない。

 そこは因果がねじれている。

 瞬久間弐徳にとって鯉仇恋花なるいち大学生にすぎない小娘が、それでも自身の日々に欠かせない柱と化したことが、結果として深淵の佳人の巨大なたなごころから瞬久間弐徳当人を逃す一石となり得た。

 ゆえに、深淵の佳人からの招待を断っておきながら、瞬久間弐徳は、代理として鯉仇恋花を差し向けた。

 一見すれば身代わりにしただけに映りかねないその案はしかしそのじつ、鯉仇恋花を自身の命綱と見做しているわけではないことの証左として、敢えて深淵の佳人の手中へと差しだしたのである。

 暗にこう示したつもりだ。

 あんたは危険ではないのだろ、と。

 なにより、鯉仇恋花――彼女はべつに私の盾とはなり得ない、と。

 現実には盾となっている。

 しかし瞬久間弐徳は、それが理由で鯉仇恋花との縁を繋いでいるわけではないのだ、とそう示したかった。

 その意図はすくなからず先方に通じたようだ。

 返事としての品が、すなわちこの箱だ。

 深淵の佳人――彼女に見通せない未来はない。

 瞬久間弐徳は、違法改造された共有感覚スーツをふたたび箱のなかに戻した。

 この先、そう遠くないうちに世間を震撼させるだろう、連続殺人事件の重要証拠である。

 サル刑事に送りつけてやるのもいいし、証拠を掴めずに困り果てて縋りついてきた際に見せびらかしてもいい。

 なんでおまえが持ってんだ、と目を剥くむかし馴染みの顔を思い浮かべるだけで留飲が下がるようだ。

「着ないんですか、せんせー」

 見遣ると、鯉仇恋花がいそいそとスーツに着替えていた。器用に、普段着を着衣したまま、水着を着るように衣装替えを済ませている。

「はしたないな」

「そういうこと面と向かって言わないでくれません」

「ここで仮想現実を体験するなとは言わんが、一応前以って忠告しておくぞ」

「なんですかもう」

「きみに視える風景を私は見えない。つまりきみが仮想現実を体験していても、私からはきみが何ない場所で奇妙な動きを連発しているふうにしか見えないわけだ。きみがこの部屋でへっぴり越しをクイクイ動かしていたら、さすがの私も大笑いするかもしれない。そうなっても機嫌を損ねてくれるなよ」

「分かりました。家に帰ってからじぶんの部屋でします」

 スーツの上から普段着をまとうと彼女はそそくさと荷物をまとめた。「ではごきげんようせんせー」

 一礼し、書斎をでていった。

 瞬久間弐徳は祈るように組んだ手に額を押しつける。

 また余計なことを言ってしまった。

 ああして腹を立てた助手は、機嫌を直すのに時間がかかる。根に持つタイプだと自称するだけあり、謝罪や貢物がなければ曲げた臍を元に戻してはくれないのだ。

 いったいどちらが雇い主なのか分からんな。

 これではペットを飼っているのと変わらない。否、ペットの飼い主のほうがよほど主人らしいではないか。

 なにせペットは懐いてくれるのだ。

 しかしあのコはな。

 閉じた扉を見遣り、瞬久間弐徳は自身の慧眼の役に立たなさに舌打ちする。

 せめて助手の一人くらい笑顔にさせてみろ。

 おまえはそれでも名探偵なのか。

 三秒伝説を有しようが、名探偵と称揚されようが、しょせんこの程度なのである。

 大事な人の未来くらい、見通せるようになってみたい。

 さすれば、あのコの奇禍の一つでも防げるだろう。

 ひょっとしたら、と想像する。

 もしも助手の未来が覗けたとして、そうしたらイの一番に遠ざけるべき奇禍の種とは、じぶんなのかもしれない。

 こうして我が行動を自制する理由ができるがゆえに、おそらく深淵の佳人は手を引いたのだろう。

 それくらいの事情は見抜けるが、とうてい認めたくのない現実であった。

 地雷を踏んだようなものである。

 鯉仇恋花、彼女の幸せを思えば、助手をクビにし、解放するのが最善だ。

 しかしいまそれをすれば、我が身は深層の佳人の手により、破滅する。そのときは十中八九、瞬久間弐徳の関係した総じての人々にまで破滅の余韻が伝播する。

 禍根を残さぬようにすることこそが、因果を安全に捻じ曲げるための条件だからだ。

 なればこそ、瞬久間弐徳にとって唯一の存在となり得た鯉仇恋花の平穏を思えばこそ、このさきも嫌われつづけてでも、縁を繋ぎ留め、そばに置いておくしかないのだった。

 それをこれ幸いと思う我が身があり、同時に、ふがいなく、醜悪だと思うじぶんもある。

 それを自覚するたびに、慧眼など備えてよいことなど一つもないと、何も得られぬ思いに気分が塞ぐ。

 大事なものほど傷つける。

 いちど触れたが最後、傷つけつづけるほかに守り通す術がない。

 もはや厄病神である。

 しかしふしぎといまがずっとつづけばいいとも望む自家撞着に嫌気が差し、瞬久間弐徳はペンを手にとり、書きかけの、ここではないどこか、虚構の世界へと逃げ込むのである。




【塞ぐ者たち】

(未推敲)

 

 人工内耳技術が普及して十年が経つ。かつては難聴を患った者たちの治療技術だったそれがいまでは一般人が手軽に、知覚拡張するための技術として人口に膾炙している。

 いまでは僕の高校の同級生たちの八割以上は人工内耳を内蔵している。

 コンタクトレンズ型端末とセットで使うことで、ひとむかし前に流行った板状メディア端末の上位互換品として重宝されている。

 手に装着した操作素子で、遠隔での操作が可能だ。

 好きな音楽でも映画でもいつでも楽しめる。画面はいらない。眼球に張りついた極薄のコンタクトレンズが映像を投影し、音声は人工内耳が鮮明に届けてくれる。

 ほかにも自動翻訳や、騒音の遮断、仮想現実や拡張現実の観賞、ほかにも他者との通信から、音声や映像の記録まで指先の動き一つで可能だ。

 もはや人体はデジタル機器と一体化したと言っていい。

 そこにきて人類にどんな隘路が立ちはだかっているかといえば、これがさして見当たらない。デジタル機器は規格が一本に統一されつつあり、個別の性能差は縮む一方だ。みな外を出歩かなくとも家のなかで世界中のどこにでも旅立てる。全世界での消費電力は減少しつづけ、環境汚染の軒並み解決に向かっている。

 自動翻訳機能のお陰で、人種間の交流はかつてないほど盛んで、その影響か差別問題ものきなみ是正されつつある。

 クラウドによって人工知能が日常生活を援助してくれるサービスもある。

 日々行う選択の積み重ねにより人工知能は、そのユーザーに固有の最適な環境を自ずから築かれるように選択肢を示してくれる。

 たとえば、日常生活において見聞きしたくないものを視覚や聴覚から排除してくれる。暴言は聞こえず、汚い景色を見ずに済む。

 雨の日でも晴れのように鮮やかな視界を保てるし、小鳥のさえずりや、雨音を、絵画のごとく鮮明に聞き取れるようになる。

 もはや日常生活ではなくてはならない代物だ。

 良好な人間関係の構築にも、一役買っている。

 たとえば僕の家の近所に住まう吉田さん夫婦だ。

 三十代後半の二人は、インターネット上で知り合い、直接会ったのを機に結婚したそうだ。

 吉田さん夫婦は近所でも話題になるほどのおしどり夫婦だ。

 仲が良く、互いに気遣いあっている。

 じぶんがいなければ相手が生きていけない、とでも思いこんでいるかのような献身的な姿をまま見掛ける。

 僕は人工内耳の機能で、他者の声を遮断しているのでどんな会話が繰り広げられているのかは知らないが、よく吉田さん夫婦はしゃべりながらいっしょになって歩いていた。

 買い物では夫が荷物を持ち、妻のほうでは夫の服を真剣に選び、購入している姿が目撃されている。

「仲良いわよね」僕の母がうらやましそうに零していたのを憶えている。

 我が家では父と母の関係はさしてよくはない。恋愛の二文字が窺えない程度に冷めており、或いは一般的な家庭における成熟した夫婦関係とも言える。

「吉田さんたちはよく会話をしているよ。お母さんもお父さんとしゃべればいいのに」

「だってあのひと生返事しかしないんだもの。一人相撲しているようでつまんないのよ」

「そっかぁ」

 無理をしてしゃべっても険悪になるだけだ。ならば放っておくに越したことはない。

 しかし、あれほど仲が睦まじいと、僕としても後学のために秘訣を習っておきたい。

 近所なのだから声をかけてもそれほど不自然ではないだろう。すこしくらいしゃべりかけても失礼ではないはずだ。

 そうと思い、学校帰りに見かけた吉田さん夫婦を呼び止めた。

「あの、すみません」

 聞こえなかったようで、二人はスタスタと歩きつづける。夫のほうが何事かを言い、妻がそれに答える。二人ともご機嫌だ。

 僕はじぶんが人工内耳をマナーモードにしていたのに気づき、ほかの機能共々、OFFにした。マナーモードは、こちらの音声を相手の人工内耳が拾わないようする機能だ。これをすると、人工内耳を使って音を聞いている人たちには僕の声が聞こえなくなる。

 特定の音だけを集音できる機能が人工内耳には付随しているのだ。

「あの、すみません」僕はわざわざ吉田さん夫婦の夫のほうの腕をとった。「僕、二軒向かいの佐々木です。すこしお話してもだいじょうぶですか」

「おう、あそこの坊主か。大きくなったな」「あら、こんにちわ」

「あの、お二人がいつ見てもすごい仲がいいので、どうやったらそんなに愛し合えるのかなって僕、訊きたくて」

「あっはっは。面白いこと言うな。おれたちが愛し合ってる?」「ちょっと冗談よしてよ、そんな風に見えるわけ?」

 二人とも笑顔で否定する。

 僕は鼻白む。

「違うんですか?」

「違うも何も、こんな豚をオレが愛するわきゃねぇだろ」「やめてよ、こんなゴリラ、好くわけないじゃない」

「え、でも夫婦なんですよね」

「そりゃそうだ。結婚はしてるよ。何かと便利だからな」「表面上はね」

「えっと、お二人はどういう関係なんですか」

「コイツはオレのペットだ」「コレはあたしのペットよ」

「え? でも」

「おいおいそんな哀し気な顔するなよ。べつにわるいことしてるわけじゃねぇんだ。コイツだって喜んでんだ。な?」「ねぇ見てこの人、あたしに蔑まされるのが好きなの。図体ばっかでかいだけの荷物持ちの分際で、あたしの世話させてやってんだからいい身分よね」

「ほらな? 喜んでんだろ」「見て、だらしない顔。ゴリラのほうがマシよね。ただまあ、身だしなみくらいは整えてあげないと一緒に歩くだけでもキツいでしょ。だからいい服だけは着させてんの」

「豚は豚だが、まあペットとしては扱いやすいよ。じぶんのことはじぶんでしてくれっからな。アッチのほうの具合もいいしよ」「コイツ、ゴリラのくせに、マッサージだけはやさしいから、家に置いてやってんの。稼ぎもわるくないしね」

 二人とも互いに罵り合っているのに、笑顔を絶やさない。いったいどうなっているのだろう。

「あの、すみません」断ってから僕はじぶんの人工内耳をONにした。自動翻訳を起動し、耳に優しいモードに切り替える。

 するとどうだ。

「本当、ステキな女性なんです。僕なんかにはもったいないくらいに女神のようで」「彼ってば男らしくて、毎日惚れ直すのに忙しくって。見てこの逞しい身体。一生ついていっちゃう」

 さっきと言っていることが違う。

 いや、聞こえてくる音声が違っているのだ。

 歪曲されている。

 事実ではない。

 本音ではない。

 そのままの音声ではないのだ。

 人工内耳が、暴言を修正し、耳に優しいカタチに変換している。

 だから互いに罵倒しあっていても、それが愛のささめきに聞こえてしまうのだ。

 ぞっとした。

 吉田さん夫婦は、本当は、互いに互いを、都合のいい愛玩動物としてしか見做していない。にも拘わらず、じぶんの認識のなかだけでは、相手だけがじぶんを慕っていると勘違いしているのだ。

 だから機嫌がいい。

 じぶんのほうが常に優位な立場にあり、崇められ、愛され、敬われているように聞こえるから。

「ど、どうも貴重なお話、ありがとうございました」

「いつでもどうぞ少年」「またいらしてね、ボク」

 ぺこぺこと何度も頭を下げて僕はその場を辞した。

 人工内耳をOFFにするなんてとんでもない。僕はもう二度とこの機能を手放さないとじぶんに誓った。

 事実が反映されている歪んだ現実を生きているのだとしても、真実を知るほうがずっと怖い。

 表面上の平穏が、じつは、針の筵のうえに築かれた仮初だったとしても、構わない。人工内耳に付随する人工知能によって、常にギリギリでその平穏が保たれつづけるのだとすれば、願ってもないことだ。

 絶対に崩れない城がたとえ一本の針の上に築かれていたとしても、その事実を知ろうが知るまいが絶対に崩れないと判っているのならば、そんな事実は知らないでおくほうが賢明だ。

 僕は家に帰る。

 するとリビングでは母が、おかえり遅かったわね、と笑みを浮かべ、出迎える。

 僕はそれには応じずにキッチンに立ち、買い溜めておいたレトルト食品を温める。

「そんなのばかり食べてちゃ身体によくないよ。もっとお野菜も食べなくちゃ」

 僕は横に立つ母を無視し、温めた食品を持って食卓に着く。 

「いただきます」

 食べながら、父からのメッセージを再生する。人工内耳から、きょうも夜遅くなる、との父からの肉声が聞こえた。

 またか。

「お父さん、また遅いの?」

 母が心配そうに僕の対面の席に座るが、僕はそれを避けるように席を立ち、リビングの隅にある小さな仏壇からカップを手に取り、中身を捨てた。

 新しく水を汲み、それを仏壇に添える。

 そこには母の遺影が置いてある。

 遺影に微笑みかける僕のとなりでは、母の姿をした虚像が、ご飯冷めちゃうわよ、とまるで何も見えていないかのように、場違いに明るい声音で小言をつむぐ。





【麺と毛糸】


 仕事終わりの時間帯、駅前の横道に屋台が停まっていることがある。

 ラーメン屋だ。

 サイドメニューはなく、味噌と塩しか味を選べないが、しかしこれがまた美味なのだ。疲れた身体に適度な塩気と油分が染み入るようで、いつの間にか見掛けるたびに暖簾をくぐるようになっていた。

 最近になって店主の親戚の子だという娘が接客をしてくれるようになった。

 明らかに客の回転率があがっており、看板娘の御利益たるや、招き猫の比ではない。

 店の制服なのか、店主と娘はセーターを着こんでいた。

 秋とはいえど、屋台は熱気がこもっている。娘はいつもしっとりと汗ばんでいた。それがまた色っぽくもあり、褒められた所感ではないにしろ、食欲以外にも何かが満たされる心地がした。

 ある日、ほかの客に交じってラーメンを頬張っていると、妙なことに気づいた。

 あくせくと接客する娘のセンターがほつれていたのだが、背中側の裾が短くなっている。それがどうにも麺を啜る勢いに呼応しているようだった。

 ずずず、と麺を口の中に吸いこむと、看板娘のセーターが、糸を引っ張ったように、するすると縮む。

 彼女はセーターの下にこれといった肌着を身に着けていなかった。桃色に上気した肌が露わになる。そのことに彼女は気づいていないようだった。

 却って涼しくなるからか、彼女の、ふぅ、と息継ぐ声音に、ぞくっするような嬌声の響きが交じる。

 目が離せない。

 否、直視するのも憚る情欲を覚え、ちらちらとしか見られない。

 無視すればよいのだが、眼球と彼女の素肌のあいだに強力な磁石でもくっついているかのように、どうあっても視線がそちらに惹きつけられてしまう。

 麺を啜る。

 セーターが縮み、娘の肌が露出する。

 ほつれた毛糸は行方知らずだ。

 いったいどこに消えるのか。

 ひょっとして麺と毛糸が何の因果か同期し、運命共同体となって、我が胃のなかに落ちているのかもしれなかった。

 すると我が口は、娘の汗ばんだ肌に触れている毛糸を食べていると言っても過言ではないのではないか。ごくり、と生唾を呑み込む。

 麺はまだ半分ある。

 いつもよりゆっくりと、執拗に咀嚼する。ちぢれ麺に絡むスープの油分まで舌のうえに感じるように、ソムリエさながらに味わった。

 娘の背中はさらに露出し、彼女が身体をよじるたびに背骨の窪みが陶器のよう光沢を滑らせた。ゆびでなぞりたい衝動に駆られる。

 ほかの客が食べ終えたのか、勘定をして席を立った。

 いつの間にか客は我が身一人となっていた。

 娘に破廉恥な格好をさせた犯人がじぶんであるとこれでは丸分かりだ。名残惜しいが、完食してしまおう。罪悪感を覚える必要はないはずなのだが、焦燥感に促され、スープごと麺を掻きこんでいく。

 だがどうしたことか。

 娘のセーターはなぜか縮む様子を窺わせない。

 効果が切れたのか?

 落胆しつつ、残りの麺を勢いよく吸いこむと、

「いい食べっぷりだねぇ」

 店主のおやじが奥から顔を覗かせた。

 重たい荷でも運んでいたのか、店主は全身汗だくで、ふしぎとおやじの羽織ったセーターは、屋台に響く、ずずず、の音に連動して、勢いよくほつれた。

 口いっぱいに詰めこんだ麺を、歯でぶつぎりに裁断する。急激に込みあげた抵抗感ごとごっくん、と嚥下した。

 店主の臍が露わとなり、ぷりんぷりんにたるんだ肉のうえを、脂ぎった汗がツツーっと雫をしたらせる。




【仮想の現実へようこそ】

(未推敲)


 仮想現実の普及に伴い、日常には幻想が溢れた。

 誰もが拡張された世界を生き、目のまえをクジラが泳いでいても道端に咲くたんぽぽほどにも注視しない。 

 仮想現実の普及には膨大な情報を送受信可能とする技術と、情報を可視化させる端末の開発が不可欠だった。

 そのためには、まだ実現されていない未来を信じ、仮想現実の有り触れた社会が可能だと支援し、後押しした者たちの存在を抜きには語れない。

 いまでは専用の補助具がなくとも、立体映像として、誰でも拡張現実を体験できる。空をドラゴンが飛びかうなんて光景はもはや日常だ。ドローンよりも身近になったと言ってよい。

 仮想現実の社会浸透計画において、中枢を担った企業があった。

 起業当初は誰も注目しなかったその企業に多額の資本を投資した組織があったが、仮想現実が一般化した現在にあっても、その組織を知る者は、当の企業内でも限られた重役たちだけであった。

「会長、きょうはいよいよ例の方々に拝見できるのですよね」重役の一人、女が緊張した面持ちで言った。

 彼女のまえを男が歩いている。社の発起人にしていまは代表取締の立場を退き、会長である。綿パンにTシャツ姿は、自由人ゆえか。四十後半くらいの見た目で、髪には白髪が目立つが、髭はきれいに剃られ、肌艶はいい。

 会長は、ああ、と短く応じた。

「注意事項には目を通してきたな」

「もちろんです。十回以上読み直しました」

「一回読めば充分だろ」

「いえ、記憶するくらい読み込んでまいりましたとも」

「要点はシンプルだ。彼ら彼女らをまえにしても、驚くな。ほかの取引先に接するように、ただ言葉を交わせ。彼ら彼女らがこの会社を支援しつづけてくれているのは、ひとえに目的の合致によるものだ。我々は彼ら彼女らの期待通りの働きをした。投資してもらった恩があるとはいえ、立場は対等だ」

「とは申しましても。これからも支援していただくためには失礼のないようにしておかねばなりますまい。会長とて、どうか言動にはご注意ください」

「案ずるな。彼ら彼女らは我々よりもよほど寛大だ。我々が犯すミス程度は、彼ら彼女らにしてみれば、ペットのする粗相のようなものだ。躾はされど、見限られはしない」

「だとよろしいのですが」

 重役の女は気が気ではなかった。

 言ってしまえばこれから拝謁するのは、社会構造を根こそぎ刷新した陰の立役者なのだ。

 彼ら彼女らの支援なくしていまの社会はあり得ない。

 未来を見通す視座の高さ、底の突きぬ資本の潤沢さ、目指した未来を手繰り寄せる計画性、どれを差しても突出している。人類史と比べても最上だ。

 いったいどんな組織ならそんな真似が可能なのか。

 知名度はゼロにちかい。無名なのだ。

 名を知られる必要がないのだろう。

 ただそこに存在するだけで、力を誇示できる。目を掛けた相手は誰であれ、水をやった芽のように巨木へと育つ。

 影響力の塊のような組織と言える。

 権威とはまさにそういうものなのだろう。誰に支持されるでもなく、純粋に存在のみで発揮される否応のない干渉だ。拒めば滅び、受け入れれば栄える。

 神にして悪魔。

 構えるな、と言われるほうが無理である。

 重役の女は、行き当たった扉のまえで二の足を踏んだ。

 荘厳な扉である。

 奥には本社の大客間があり、そこにて本日の客人――例の組織の方々が控えている。

 彼ら彼女らと会うためだけに築かれた部屋だ。

 会長のほかには、数名の古参役員しか足を踏み入れたことの魔境である。

「どうした」

「か、会長。お恥ずかしながら、足が竦んでしまって」

「うん。見れば判る。しかし歩けないわけではないだろう。代わりに扉を開けてやろうか?」

「いえ、わたくしが。しかし、その。大事な方々に会うのには不適切な身体反応のように思えてしまい――笑顔を保てる自信が揺らぎます」

「構わんだろ。先にも言ったが、彼ら彼女らは我々程度の存在に、過度な期待をしておらん。自然体でいい。臆して小便を漏らしても、彼ら彼女らは笑って許してくれる。それともおまえはよもや、彼ら彼女らを相手にあくまで優位に立ちたいとでも?」

「いえ、そんな」

「彼ら彼女らのほうが圧倒的に優秀なのだ。しかし我々にもできることはある。彼ら彼女らには扱えない能力を発揮できる。ゆえに仕事上は対等だ。パートナーだ。安心したまえ。彼ら彼女らのほうで我々に合わせてくれる。不安なら目を閉じたままでも構わんぞ」

「いえ、だいじょうぶです。会長からの信頼に応えてみせます」重役の女は呼吸を整え、「では、開けます」

 扉の取っ手を両手で握り、観音扉を開くように引っ張った。

 左右に扉が開き、天井の高い部屋が露わとなる。煌びやかな内装だ。

 会長と重役の女が室内に足を踏み入れると、扉は自動で閉じた。

 音もなく閉じたが、風圧が感じられ、重役の女は反射的に振り返った。

「どうも初めまして」

 前方から声を掛けられ、慌てて姿勢を正した。

 そして女はぎょっとする。

 足元には分厚い絨毯が敷かれ、左右に延びた空間には、長いソファと、いままさにそこから立ち上がる面々の姿が目に飛びこむ。

 彼らは一様に和風の格好をしており、着物や袴をまとっていた。

 目を瞠ったのは、彼ら彼女らの姿が、仮面でも被っているかのように、明らかにヒトのそれと違ったからだ。

「あ、あの会長」身体は硬直し、口だけしか動かせない。「これはいったい」

「驚くな、と言っただろ」

「そ、そうでした」何度も読み直した注意事項を思いだすが、「しかし、こんなことって」

 特殊メイクではあり得ない。

 大きさからして規格外の個体がある。

 宙に浮かぶ白い木綿のような物体はなんだ。天井のあたりにとぐろを巻く長い首はどうなっている。あっちのは骸骨ではないのか。なぜ動いているのだ。

 目のまえを火の玉が高速で通り過ぎ、うひゃ、と真横に飛び退いた。重役の女は会長に受け止められるカタチで、腰を抜かした。

「はっはっは。やはりこうなるか。まあ、無理もない。驚かせてしまってわるかった」

 赤い顔をした、やけに鼻の長い男がやってくる。いや、性別があるのだろうか。よく分からない。

 手を出しだされるが、どうすればよいのか判らない。手の大きさもさることながら、指の一本一本の太さときたらない。じぶんの足より太いのではないか、と頭がくらくらした。

 赤い顔の人物は、まさに巻物から現れた天狗のような容姿である。

「まずはこちらにどうぞ」天狗らしき人物にそっと身体を掴まれると、一瞬でソファのある場所まで運ばれた。

 会長がゆったりとした足取りで寄ってくると、となりに腰掛ける。

 ソファは二列に並んでおり、対面して座れるようになっている。間に机はないが、壁際に立っていた白い着物の女性が、ふぅ、と息を拭くと、見る間に透明の直方体がソファに沿って出現した。立ち昇る白いモヤはひんやりとしており、即席の氷のテーブルだと直感した。

「か、かいちょう」重役の女は会長の腕にしがみつく。

「そう怖がらんでください。なぁに、ちょっとした仮想現実だと思えばよろしい。現にありますでしょう、我々に似た造形の仮想生物が」

 言われて気づいた。

 会社では過去、彼ら彼女らにそっくりの立体映像を制作したことがあった。重役の女が携わったプロジェクトであり、まさにそれがきっかけで出世したと言ってもよかった。

 しかし、じぶんで手掛けたからこそ判る。

 彼ら彼女らは仮想生物ではない。物理的肉体を有した実存だ。そこに真実に存在している。生きている。

 妖怪のような姿をした知的生命体が。

「あなたには感謝しております」首の長い女の顔がするすると宙を移ろい、目のまえで止まった。キリンが首を横に倒してもこうはいかない。いったいどんな筋力をしているのか、と大蛇顔負けの水平維持力に目を瞠る。「我々はこの数百年、陰に隠れての生活を強いられてきました。それがあなた方の尽力のお陰で、ようやく日の下を遠慮会釈なく歩けるようになったのです」

「それはどういう意味でしょうか」叱られているわけではないのは解ったが、予想外に慇懃に感謝されたので当惑した。

「言葉通りだよ」会長が嘴を挟む。「彼ら彼女らはね、いわゆるまあ、見てのとおり妖怪さまだ。かつて我々人類の祖先と戦争をして負け、以来、人目を避けるように暮らしてきた。しかしそんな過去の戦のことなど、我々は知らんだろう。妖怪さま方のほうでも友好的だ。過去の人類がした仕打ちを恨んでもいない。立派な方々ばかりだ」

 長生きゆえの年の功ですよ、と氷の机をつくった女がつぶやく。

「資金はどこから調達して」

「それはあれだよ」会長が答える。「妖怪さま方は長生きゆえ、古い品物をいまでもたくさん保有している。それは我々からすれば国宝級の骨董品だ。オークションにだすだけで、いくらでも資金はつくれる。のみならず、長生きした者たちの証言は、歴史を解析するのにも役に立つ。当時の文献とて、未発表のものがまだまだたくさんあるからね。時期を見計らって、すこしずつ世に流すだけでも、権力を築くうえでプラスに働く」

 この国だけではないんだよ、と会長は言った。

「海外にも人類ではない知的存在が陰に隠れて生きてきた。そうした方々とも手を組んで、みなが社会を出歩いても大騒ぎにならない偽装を施そうとなった。それがつまり――」

「仮想現実の社会普及……ですか」

「いかにも」

「ではいまはこの方々が面を堂々と歩いていると?」

「きょうも歩いてきたぞ」天狗が鼻の頭を掻いた。長い鼻は弾力があるようで、指で掻かれるたびに、ぐねんぐねんと上下に揺れる。「空を飛んでくるやつもいるが、そこのユキさんなんかは電車できたと言っておったわ」

 雪女はソファに腰を下ろすと、着物の裾をぴっちりと合わせた。上品な人だ。そこにいるだけで存在が目立つ。しかし雑多な都会の電車に揉まれれば、その存在感すら薄れるのかもしれなかった。

「きょうは顔合わせだ。後日、みなで会食がある。きみもぜひ来てくれ」天狗はふたた手を差しだす。「歓迎しよう。ようこそ人妖怪振興議会(ひとようかいしんこうぎかい)へ」

 重役の女はソファに座る妖怪の面々を見渡し、それから会長を見た。

 彼が頷くのを見届けると、しかと天狗の真っ赤な岩のように厳めしい顔を仰ぎ、こんどはしっかりと、羽を広げた鷲のごとく大きな手に、じぶんのどんぐりじみた手を添えた。

 窓のそとを巨大なドラゴンが飛び去る。

 よもやあれも本物ではあるまいな。

 重役の女は目をしばたたかせるが、その真偽を確かめる術をじぶんは持たないのだ。そうと思うと、手に伝わる感触と熱だけが確かなのだと、天狗の大きな手の如実を感じずにはいられない。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 温かな拍手が室内に響く。

 拍手が途絶えると、とたんに緊張の糸の解けた声が室内を満たし、どこからともなく現れる食事と共に、歓談がはじまる。




【ナットウマン】

(未推敲)

 

 なんで納豆なんだ。

 俺は叫んだ。

 手首に力を籠めると納豆の糸が飛びだした。

 糸は千切れることなく天井に付着する。

 糸を掴み引っ張ると身体が浮いた。糸はまだまだ千切れない。

 これ知ってる。

 本当ならゲノム編集された蜘蛛が噛みついて、蜘蛛男!みたいになってスーパーヒーローのごとく活躍できるやつ。

 でもこれ納豆の糸なんですけどー。

 数時間前を思い起こす。

 親戚の頼みで、納豆菌を企業にまで運んだのだ。

 その企業では、納豆の糸をつむいで強靭な糸を生産する事業を行っていた。

 納豆菌に特殊な光線を当てることでゲノムを変異させ、それによりできた納豆からは良質で頑丈な糸がねばねばと伸びるようになるそうだ。

 納豆には目がないわがはいは、研究員たちの目を盗み、その新種の納豆を食べたのだ。

 それがこんなことになるなんて。

 もういちど手首に力を籠める。

 納豆の糸が勢いよく飛びだし、こんどは自動車にくっついた。綱引きよろしく、足を踏んばり、手で引き寄せると、なんと自動車が動くではないか。

 どうやら筋繊維を納豆の糸が補強し、尋常ではない膂力を発揮できるようだ。

 まさに超人である。

 手あたり次第に糸を飛ばし、身体を吊りあげ、振り子の原理で宙を飛ぶ。

 工場の一画である。

 糸をくくりつける柱に事欠くことはなく、糸は尽きることなく、無尽蔵に噴きでる。肉体とて活殺自在に操れた。

 素晴らしい。これほどの異能があれば敵なしである。

 世の悪人をばったばったとなぎ倒し、老若男女問わず、ウハウハのモテモテではないか。

 ガハハハハ。

 糸の張り巡った工場内にて呵々大笑するが、はたと冷静になる。

 なんか、臭うな。

 納豆の糸を手当たり次第に飛ばしすぎたやもしれぬ。

 いそいそと回収しようとするが、これがまた頑丈でどれほど引っ張っても千切れない。工場内の道具を使っても無駄だった。

 それでいて納豆の糸は納豆の糸だけあって臭うのだ

 いや、それだけではない。

 じぶんの腕を嗅ぐとこれまた濃厚な納豆の香りがツンと鼻を突く。わがはいは納豆が好物であるから不快には思わぬが、しかし納豆がさほど好きでもない相手ならばわがはいを差して、クサっ!?とびっくりしてしまうやもしれぬ。

 その公算が高そうである。

 いささか困った事態になった。

 一生このままなんじゃろか。

 わがはいの不安は見事に的中し、この日からというもの誰もわがはいに近づかなくなった。電車に乗れば車両から人が去り、街を歩けばわがはいの半径十メートル四方に人が寄りつかぬ。

 親戚家族ですら、あんたちょっと臭うよ、と顔をしかめて威嚇する。

 なんてこった。

 日に日に孤独は深まり、鬱憤が溜まる。

 どうにかこうにか留飲を下げなくては、誰かを心底傷つけたくなってしまう。

 とっくにそうなっているかもしれない懸念を見て見ぬふりしつつ、わがはいは世の悪党どもをバッタバッタと懲らしめることで、八つ当たりを果たした。

 わがはいを避ける万人どもには、鉄槌をくだすわがはいの正義の姿を以って、称賛する余地をくれてやる。

 しかしわがはいは警察ではない。ゆえにふつうに犯罪者として指名手配された。

 のみならず、わがはいが悪党相手に大立ち回りをするたびに街の至る箇所に納豆の糸が散乱し、納豆の濃厚な香りを立ち昇らせた。

 納豆の糸を撤去するだけでも行政は多額の費用を使うため、わがはいは四方八方から目の敵にされた。

 悪名だけが高まり、余計に孤独に磨きがかかるばかりだ。

 なんでぇい。

 わがはいはいじけたが、しかし最低限、弱き者には正義の鉄槌を下さぬようにした。

 するとどうにも、悪人どものなかにも弱き者たちの姿がちょくちょく見掛けるようになり、話を聞いていくと、なんであろう、わがはいが成敗してきた悪党の家族たちが大勢含まれていた。

 わがはいが彼らの大黒柱を刑務所送りにしてしまったがゆえに、生活が立ち行かなくなり、一人が犯罪すればよかった者たちが、みなこぞって罪を犯すようになってしまったのだ。

 元を辿れば、解りやすい犯罪者のすくなからずはみな、飢えていた。

 あす食べる物に困る日々を生き、病気になっても医者にすらかかれない。

 家賃も払えず、寝る場所もない。

 犯罪に手を染める以外に生きていく術を思いつけない。そういう人間が悪党として、みなから嫌われ、正義の鉄槌を下される。

 まるでわがはい自身を見ているようであった。

 わがはいは胸を打たれた。

 じぶんのしてきたことを後悔した。

 警察でもないのに、正義を笠に着て、弱い者いじめをしていたのはわがはいであった。

 悪党は、わがはいのほうであったのだ。

 正義の鉄槌をくだそうと拳を握り、他者をひねりつぶす快感に抗えずに実行に移してしまった、わがはいは心弱き者である。

 わがはいはスーパーヒーローの道を諦めた。

 どこぞの蜘蛛男のようにはなれない。

 わがはいはただ、みなからすごいすごいと褒められ、偉い偉いと褒められたかっただけなのだ。

 みなを見返し、わがはいのほうが上に立つべき存在であると誇示したかっただけだった。

 弱い者いじめをする側に立ちたかっただけなのだ。

 弱い。

 なんという弱さであろう。

 何より、その弱さに気づけなかった己の浅はかさに心底嫌気が差す。

 わがはいは受け入れた。

 納豆臭い男として、ただ生きていこう。

 誰の役に立たなくともよいではないか。わがはいは、わがはいの時間を生きよう。生を活かそう。

 ひっそりと、つつましく暮らすのだ。

 わがはいは孤独を受け入れ、ただ一人、しずかな日々を送った。

 納豆の糸は相も変わらず手首から飛びでる。放っておくと、母乳のごとくかってに溢れてくるため、血抜きではないが、何の用もなくとも放出する習慣ができた。

 数日でドラム缶が一本埋まるが、保管場所には困らない。

 工場の倉庫にて、山積みにした。

 いつか廃棄しよう。そう思っているうちに、ドラム缶は山のように溜まった。

「どうしたもんかな。まあいっか。納豆の糸だしな」

 死ぬ前にはどうにかしよう、と見て見ぬふりをした。

 ある日のことだ。

 小惑星が地球に落下した。

 大津波が起き、空を分厚い雲が覆った。

 連日のように雷雨がつづき、雹が降り、雪が舞い、世界中で大飢饉が起きた。

 食料が届かない。

 気候は荒れ、日に日に人々は飢えていく。

 人類存亡の危機であった。

 しかしわがはいには何もできない。

 わがはいだけではなかった。

 悪党に暴力を揮い、喝さいを浴びていたスーパーヒーローたちのことごくが偉そうなことばかり言って、ろくに解決の糸口を示さない。食べ物をみなに配る真似一つ適わなかった。

 わがはいは気づいた。

 ヒーローなどいなかったのだ。

 いや、日常の至る場所、至るところにヒーローは存在していた。

 誰を虐げることなく、日々を健やかに生き、空いた時間で仕事をする。人の生を支える日常必需品を生産し、ときにそれらを効率よく生産する発明をする。

 或いは、日々の生活の妨げになる問題を解決するための術を編みだし、そうした策を生みだすための素材を、人々は堆肥を持ち寄るかのごとく、日々、誰の役に立たずとも生みだしている。

 生きている。

 ただそれだけのことが、どれほどの偉業であったろうか。みなでみなの偉業を支え合っていた。

 その自覚なく。

 ただ生きていた。

 みなはようやく意識したようだった。

 本当のヒーローがどこにいたのかを。

 それは憧れ、崇め、縋るような存在ではなく、日々のちいさな、しかし、すぐそばにある生そのものであったのだと。

 誰か一人がなるものではなかったのだ。

 日常が崩れてから気づいても後の祭りだ。

 間もなく、飢えて死ぬ者たちが出始めた。各地で暴動が起き、食べ物の奪い合いが起きる。

 国同士で繰り広げていた戦争は鳴りを潜め、代わりに個々の闘争が身近に蔓延した。

 わがはいは孤独にただその様子を眺めているしかなかった。

 仕方がないのだ。

 わがはいはただ、全身が納豆臭いだけの役立たずなのだから。

 しかしある日、妙なことに気づいた。

 どうにもわがはいの住まう地区では暴動が起きていなかった。比較的治安が安定していたのだ。

 犯罪者が多い街だったはずが、どうしたことか。

 疑問は、じっさいに街を彷徨い氷解した。

 みな食べ物を食べていた。

 割りばしに巻きついた水飴のようなものを、みなこぞって手に持ち、舐めている。

 いったいそれはどうしたのか。

 道行く人に訊ねると、

「あっちでもらえるよ」

 笑顔と共に、納豆臭い息が返ってくる。

 わがはいは街を彷徨い、合点した。

 かつてこの地区に撒き散らしたわがはいの納豆の糸は、邪魔な分は撤去されたが、それ以外はずっとそのままになっていた。硬化し、無臭化した納豆の糸は、却って建物や道路を補強すると判明したためだ。

 意外なことに、硬化した納豆の糸は、熱を加えると食べられるくらいに軟化するらしい。

 すなわち、食べられるくらいにやわらかくなるのだ。

 通行人の後を追うと、間もなく、とある広場に行き着いた。

 そこでは割りばしに巻かれた納豆の糸が配られていた。

 配膳している連中には見憶えがあった。

 なんと彼ら彼女らは、かつてわがはいが見逃した犯罪者たちではないか。

 みなから悪党と疎まれていた者たちがいま、街中に残されたわがはいの納豆の糸を回収し、食べられるように加工したうえ、みなに配っているのだ。

 ひょっとしてこの期に及んで金を巻きあげているのではないか。

 疑いつつ、列に並ぶと、やがてわがはいの番になった。

「はいよ」

「どうも」

 納豆の糸は無償だった。

 ただただ善意によって行われたこれは救済であった。

 わがはいは、渡された納豆臭い食べ物が自らの身体からひねくりだされた残滓であることを知りながら、それでもその無類の美味さに感動し、ただただ涙ながらに帰宅の途に就いた。

 わがはいはその足で、工場の倉庫に向かった。

 扉を開く。

 そこにはドラム缶がずらりと山積みになっている。

 中身は推して知るべし、わがはいの体液もとより納豆の糸である。

 大量にある。

 これだけあれば、すくなくとも街の者たちの命は数か月は繋げるはずだ。

 それだけではしかし、足りない。

 全世界にはいまなお飢えに苦しんでいる者たちがいる。

 わがはいは、ドラム缶を倉庫のそとに運びだしながら、必ずや、と決意する。

 みなの飢えを埋めるべく、用意してみせよう。

 全人類分の食料を。

 嘆くことなかれ。

 たとえそれが、納豆の糸なれど。




【異端の名探偵】

(未推敲)


 ヤバい、ヤバい、ヤバいヤバいヤバい。

 なんでアイツがいるんだ、と最初は目を疑ったが、あの奇抜なファッションは間違いようがない。

 異端の探偵、イイア・テールだ。

 若干の十四歳にして世界屈指の犯罪組織を瓦解させ、黒幕たる某国の大臣を逮捕に追いこんだ名探偵だ。

 あれから数年、いまはたしか十七歳になったが、現在に至っても数々の難事件を解決し、退屈な日々を持て余す大衆の娯楽としてあらゆるマスメディアに取り上げられている。

 そんな有名人がいま、目のまえを横切って、旅館の受付けと言葉を交わしている。

 最悪だ。

 宿泊する気なのだ。

 なぜきょうに限って、と動悸が乱れて仕方がない。

 私がこの日を迎えるためにいったいどれだけの時間と労力をかけ、溶かしてきたことか。

 いやまだだいじょうぶだ。

 いくら何でも名探偵が私と同じランクの部屋に泊まるはずがない。あれほどの有名人だ、一般人に紛れて過ごすとは思えない。

 しかし私の予測はことごとく外れ、異端の名探偵は幼馴染たちと格安の部屋を選び、一般客に交じって温泉や卓球を楽しんだ。

 私の部屋のとなりではないだけマシだが、廊下にでるたびに、きゃっきゃとはしゃぐ彼ら彼女らの姿を目にすると、まるで私の計画を喝破しているがゆえに犯行を妨げようと策を講じているのではないか、と疑心暗鬼に苛まれる。

 いやいや、とかぶりを振る。いくら名探偵とはいえど、起きていない犯罪を予期し、あまつさえ防ぐなどできるわけがない。

 私はきょうこの日、人を殺すためにここへやってきた。

 ターゲットはこれからこの旅館へやってくる某企業の重役だ。毎月、第三金曜から日曜日の三日間は、愛人を引き連れ、この旅館に宿泊するのが通例化していた。

 それを突き止めるだけでも膨大な労力と犠牲を払った。

 なにより今日を逃しては完全犯罪は不可能だった。

 今日以外にないのだ。

 ターゲットがフグの刺身を食べるのは。

 私は今日を迎えるにあたって、これまでの日々を、工作活動に費やした。ターゲットの周囲に、それとなくフグ刺しが食べたくなるような情報を散りばめた。わざわざターゲットの愛人にまでフグの話題をだすように、それとなくフグが美味い、との広告の目にする機会を増やした。

 たとえばSNSのアカウントを特定して、いくつかの偽アカウントをフォローしてもらい、そこでどこそこの旅館のフグ刺しは絶品だ、とのつぶやきを流すのだ。

 業者に依頼すればこれくらいの情報操作は朝飯前だ。

 また真実にこの旅館のフグ刺しは絶品だ。

 ただし、高額なうえ、季節が限定されている。

 また、ターゲットの男が刺身を好まぬ人物であるから、注文するように誘導するのには骨が折れる。しかし可愛い愛人の頼みならば無下にはしないだろう。

 一度くらいならば注文してやるか、と重い腰をあげることを見越し、工作活動をつづけてきた。ずいぶんと長い時間を費やした。

 ターゲットは周期的に愛人を変えるので、せっかくの工作が無駄に終わることも珍しくなかった。

 凶器にフグを使う以外の策も講じたが、けっきょく上手く事を運べそうなのは、フグ刺しを使った犯行だったのだ。

 そしてきょう、ターゲットはいよいよ愛人に促され、フグ刺しを食べにこの旅館へとやってくる。

 私のやるべきことは多くない。

 まずはターゲットの泊まる部屋を突き止める。つぎに従業員の格好をとり、食事が運ばれてきた直後に、サービスだと言って、日本酒を部屋に運ぶ。

 どさくさに紛れてフグ刺しに、フグの毒をスポイトで垂らす。あとは毒に塗れたフグの切り身をターゲットが食べるのを待てばいい。

 毒フグを愛人が食べてしまうこともあり得るが、それはしょうがない。恨まれるような男と不倫をして遊ぶようなじぶんを恨んで欲しい。男を見る目がなかったと思って諦めて欲しい。

 必要な犠牲と思って、甘んじて関係ないあなたを殺してしまうかもしれないが、まあ、それはあなたの自業自得だ。

 すなわち今日、私は人間を二人殺すつもりでこの旅館にはせ参じたのである。

 しかしどうしてこうも運がわるいのだろう。

 よもや異端の名探偵、イイア・テールが宿泊しにくるとは。

 思えば、異端の探偵の解決した事件の数は、優に数百を超える。ほとんど数日に一回の頻度で事件に遭遇し、そのたびに彼はその場で犯人を言い当てているのだ。いったいどんな星の下に生まれればそのような真似ができるのか。

 むしろ彼が事件を起こしている真犯人なのではないか、とまことしやかに噂されるほどに、異端の名探偵の事件現場居合わせ率の高さは異常だった。

 ひるがえって、彼と遭遇してしまった犯人たちの心情たるや、察するに余りある。

 現にいま私の精神は乱れに乱れている。思考は目まぐるしく巡り、発狂寸前の様相を呈している。

 まるで悪霊に追い詰められるホラー映画の主人公さながらだ。いったいどこから異端の名探偵が現れるか分かったものではない。

 不用意に接点を持ってしまえば、私のせっかくの計画は水の泡だ。

 せめてターゲットを殺したあとで遭うならばよいが、怪しまれたのではうかうか犯行に移ることもできない。

 異端の名探偵の嗅覚は異常だ。

 私が客であるにも拘わらず従業員の制服を着衣していたら、確実に怪しみ、その謎を暴くべく行動に移すはずだ。

 慎重に行動してしすぎて損はない。

 万が一にも、異端の名探偵が、動画並みの記憶力を有していたとしても問題ないように、彼の視界に入らぬようにしておくくらいの予防線は張っておいたほうがよい。

 まるで見られたら死ぬ悪霊を見かけたような緊張感だ。

 すぐそばを死神が出歩いているようなものである。

 おそろしい。

 しかしいまさら後には引けない。

 私は死神と鉢合わせせぬように神経を張り巡らせつつ、温泉セットを腕に抱えながら、怪しまれぬように旅館内をうろついた。ターゲットがどの部屋に案内され、いつ夕食が運ばれるのか、を調べるためだ。

 さいわいにも異端の名探偵こと死神御一行様方は、部屋に入るなり浴衣に着替え、旅館の外を散策しに出かけた。

 いつ戻ってくるかは分からぬが、旅館から遠のいてくれるのは気が安らぐ。

 ターゲットはというと、こちらは部屋にこもったきり出てこない。

 さしずめ、愛人とさっそく乳繰り合っているのだろう。破廉恥な男である。

 なぜ私のような女が――そう私の性別は女であるのだが――彼のような男を殺そうと思い立ったかと言えば、話せば長くなるし、さして面白い話でもないがゆえにことさらに明らかにはせぬが、端的に言って私は、私の大切な人を、その男に傷つけられた。損なわれた。奪われたのだ。

 どうあっても傷つけられた当人は復讐しようとせず、そもそもできるような状態ではないがゆえに、私は彼女の代わりに、身勝手に、私は私のために、男を殺そうと決意した。

 そこに正義はなく、ただただ鬱憤を晴らしたい一心だった。

 私は基本的には平和主義者だ。誰かを傷つけるのはよくないと思う。ただし、誰かを傷つける相手にまでその理屈を適用するほどお人よしではないし、正義を掲げてもいない。

 私は平和主義者だが、それはあくまで相手に合わせているだけだ。私の周囲の人間たちが平和を望み、人に優しく、穏やかがゆえに、私もそれに合わせてあげているにすぎない。

 仮に相手が私を傷つけようとするのならば、翻ってそれはじぶんにもされていいことだとの意思表示をされたも同然であり、ゆえに私は相手を傷つけるのに躊躇はしない。

 もし誰かが私の大事な人たちを傷つけるようならば私は、その誰かしらにとっての大切なモノを傷つけるだろう。目には目を、歯には歯をだ。

 しかしたいがいそうした輩は自分自身を大事に思っている。ゆえに私はその人物を損なう方針を固めるはめとなる。

 私は単に、私がされたことを相手にし返しているだけだ。

 それが嫌なら誰も傷つけないことだ。じぶんがされて嫌なことは他人にするな。単純な話だ。

 しかしそんな単純な理屈をターゲットの男は解さない。

 他者の大事なモノを平然と損なう。その行為を以って自尊心を満たし、のうのうと他者から奪った尊厳を肴に酒を飲み、愛人を囲い、こうして休暇のたびに旅館の一等室で豪遊する。

 割に合っていない。不公平だ。

 一向に天罰がくだる様子はなく、私の大事な人は日に日に過去に受けた傷を腐らせる。

 見ていられない。

 傷つきつづける大事な人の姿も、傷つけた事実すら認識せず、下卑た顔で愛人を抱くターゲットの男も。

 見ていたくなかった。

 消す。

 それしかない。

 過去を変えられないのならば、このさき残るべく未来を変えるしかない。

 私にとって不要なモノには消えてもらい、すくなくともこの世からあなたを傷つけた元凶はいなくなったよ、と傷つきつづける大事な人に知ってもらわねばならない。

 それで心安らぐ日々が彼女に訪れるかは分からぬが、何もせずにはいられない。

 消す。

 男を。

 我が愛しい人を損ない、傷つきつづける元凶にはいなくなってもらうよりない。

 そうして私はきょう、この場に立っている。

 従業員の召し物に着替え、お盆に用意してきた日本酒を載せる。

 客間に備わったブザーを押すと、襖が開く。

 愛人の女が、なに、と女子高生みたいな気軽さで返事をした。

「こちらサービスの日本酒となっております。どうぞお召し上がりください」

「だってよぉ」愛人の女は部屋の奥に声を張った。

「飲む飲む。こっち持ってきて」

 ターゲットの男が手招きをするのが見えた。はだけた浴衣からは苔むした腹がぼてんと零れ落ちている。まったく似ていないにも拘わらず、むかし読んだコブとりじぃさんの絵本を思いだした。鬼に千切り取ってもらえばいいのに、と一瞬でよぎった嫌悪を脳裏の奥底へと押し込める。

 客間へと上がると卓上には豪勢な食事がずらりと並んでいた。二人で食べきれる量ではない。贅沢の極みだ。じぶんの権力を愛人に誇示するためだけの無駄遣いに思えた。 

「こちら、最高級の日本酒で、現在世界に百本しかない稀少なお酒となっております」

「お、いいねぇ。どれさっそく」

 私は日本酒の蓋を開けると、それをテーブルのうえに置く。

 ターゲットの男は不服そうにしたが、お酌をしろ、と文句は言わない。お酌は接待扱いだ。風俗営業の範疇になる。業務として逸脱する。場合によっては旅館に公安委員から指導が入る場合もあるため、従業員がお酌をすることはない。

 これくらいの事情は企業重役の男であれば承知のはずだ。

 案の定、男は無言でカップを掲げ、「んっ」と愛人に無言で突きだす。お酌をしろ、暗に命じた。

 愛人が男の気を引いているあいだに私は、ついばまれた料理を弁当箱に詰めるようにして一つの皿に移し替えていく。空になった皿を回収しがてら、スポイトで以って毒をフグの刺身に振りかけた。ぐるりと大雑把にかけたが、漏れなく切り身に染みたはずだ。

 しかし妙なのはフグ刺しにはいっさい手がつけられていなかった点だ。

「こちら、当旅館のお勧めなのですが」フグ刺しを示し、「お口に合いませんでしたか」と水を向ける。

「ああ。それ二皿目だ。美味かったんでお代わりしたんだよ。な?」

 愛人が頷く。「美味しかったです」

「そうでございましたか。ご満足いただけてなによりです」

「お嬢さんもどうよ、食べてくかい」

「いえ」

「遠慮せずに。一口だけでも」

 なぜか執拗に勧められ、冷や汗が滲んだ。

 ひょっとしてバレているのか。

 男は私の顔を知らないはずだ。しかし仮に知られていてもふしぎではない。何せ私は、コイツが損なった女の友人なのだ。彼女のほうで私の写真を男に見せていた過去があっても驚きはしない。それを男が憶えていることとて、当然あり得てくる。

「お客様のご馳走をつまみ食いしたなんて知れたら、女将さんに叱られてしまいます」

 お気持ちだけいただいておきますね、と言って誤魔化す。

 そうかい、と男は引き下がった。「きみ、名前は?」

「伊藤と申します」この着物の持つ主の名前だ。従業員の制服をかってに着ているだけなのだが、名札がついているため、それを名乗った。

「きょうは何時まで働くのかな。仕事が終わったらどうだい、一杯。なんだったら部屋をもう一つとってあげてもいいけど」

「いえ、そんな」

 愛想を浮かべながら私は呆れていた。この男、愛人のまえでほかの女をくどいているのだ。下半身に脳みそがあるとか以前に、脳みそがないんとちゃうか、と内なる弁慶が荒ぶるようだ。

 そろそろ失礼いたしますね、と暇を告げ、部屋をでていこうとしたところで、襖が開いた。

 部屋の玄関口から、バタバタと人が雪崩れ込んでくる。

 私は驚愕した。

 何が起きたのか、と呆気にとられながらも、全身の細胞が危険信号をけたたましく鳴り響かせていた。取り返しのつかない失敗をしたときのような血の気の引く感覚が、まるでこれが現実ではなく映画の中であるかのような作り物めいた錯覚を呼び起こす。

 部屋には七人ほどの従業員が押し入り、最後に例の異端の名探偵、イイア・テールその人が登場した。

 彼の幼馴染たちは廊下から部屋の様子を窺っている。慣れた調子で、さっすがー、と口笛を吹き、或いは興味なさげに手持ちのメディア端末に目を落としていた。

「なんなの、なんなの」ターゲットの愛人が部屋の隅に逃げた。

 ターゲットの男は座ったまま、手に日本酒のなみなみそそがれたカップを持ち、それをぐびりと口に含んだ。「何かの余興かね。おっと、そこのキミの顔には見覚えがあるな。ドラマの俳優さんだったかな」

「僕はイイア・テールと申します。趣味ですこしばかり探偵をしておりまして」

「おう、そうだそうだ。見た顔だ」

「僕が用のあるのは、あなたではなく、こちらの女性です」

 異端の名探偵は私を見た。

「あなたはここの旅館の従業員ではありませんよね。作業着が一着盗まれたと仲居さんたちが騒いでいたので、どうしたんですか、と声をかけたところ、事情を聞き、現場を見せてもらいました」

 異端の名探偵は意味もなく、指を振った。「初歩的な推理ですよ、みなさん。この旅館は高級旅館ゆえに部外者が侵入することはむつかしいです。ならば作業着を盗んだ犯人は、客か従業員の誰かということになります。作業着には名札がついており、さらには従業員には専用のロッカーが与えられ、ほかの人物が誤って持ちだすことは考えにくい。現にこれまでそういった事案はなかったそうです。ならば、イタズラでしょうか。困らせたくて作業着を隠した。そう考えることもできますが、しかしいまは繁忙期です。困るのはむしろほかの従業員の方々でしょう。ただでさえ人手不足のいま、抜けてもらっては困るはず。ではサボりたいがゆえの当人の自作自演はどうか。これも考えにくい。サボりたければ詐病をしたほうがよほどみなからの心証がよく、すんなり休めるでしょう。ここまで考えれば、従業員の犯行と考えるのは理屈に合いません。ではお客さんでしょうか。変出者が、仲居さんたちの作業着を盗んだと考えるが妥当に思えますが、しかし一着だけを盗みだした点が解せません。風呂場での下着の盗難もない。そもそも女子更衣室に怪しまれずに入れるということは、同性か、それとも女装をしてなお見破られないほどに華奢な男性ということになります。どちらの可能性もありますが、いずれにせよ、客の犯行であるとすれば、それは仕事着への偏愛ゆえではなく、もっと別の目的があったと考えるほうがしぜんです。ではその目的は何か」

 ごくり、と一同が息を呑んだが分かった。

 異端の名探偵は誰に頼まれたのでもないにも拘わらず、舌鋒を鋭くした。

「考えてみましょう。仕事着とは何か。それは仕事をするための服です。従業員と客を見分ける印――制服の意味合いもありますね。そこにきて、仕事着を入手して適えられることはそう多くはありません。それはすなわち、客ではなく、従業員だと多くの者から見做されること。単純な帰結です。ではなぜその人物は従業員に成りすます必要があったのか。従業員同士は顔見知りです。いくら仕事着を羽織っていようが、見慣れぬ人物がいればふしぜんに思うでしょう。つまりその時点で、犯人の目的は、従業員の目を欺くことではないと判ります。では客の目を欺くことでしょうか。それもしかし、ほかの従業員の目のつく場所に立てば即座に見つかり、何もせずに終わるでしょう。となればあとは人目のない場所にて、従業員に成りすます必要があったと考えるのが妥当です。しかしそんな状況が考えられるでしょうか。悩んでいたところで、はたと閃きました」

 みなが息を呑んで、異端の名探偵の言葉を待った。私も息継ぎを忘れ、深い水中に沈んでいるかのような心境で見守った。そうしてじっと息を鎮めていれば嵐が過ぎ去ってくれるのではないか、と祈るように。

 しかし現実はそう甘くはなかった。

「仲居さんの仕事着を盗んだ犯人は、旅館の従業員に成りすますことで客の誰かに近づきたかったのではないか、と。ただ近づきたいだけでなく、警戒されずに何かをしたかった。仲居さんの仕事でお客さんに直接近づく機会はそう多くはありません。それこそ人目のつかない場所での接触となれば、各宿泊部屋で食事を運ぶときくらいでしょう。布団は客のいないあいだに敷くのが通例です。温泉に浸かっているあいだに済ましたり、展望台に出ていたり、とかく部屋のロックの有無で無人かどうかは判断できますからね。となれば、食事の際に近づく必要があったと考えるのが最も確率の高い可能性と言えるでしょう」

 問題は、と異端の名探偵はまだつづけた。もったいぶたせすぎである。

「なぜ犯人は、宿泊客に近づく必要があったのか、です。食事の際に、身分を偽って近づかなければならない理由――これはほとんど犯罪行為に与することだと考えるのがしぜんでしょう。となれば善は急げです。仕事着はすでに盗まれていますから、いままさに犯人は計画を実行させようとしているはず――なれば食事が運ばれており、なおかつ仲居さんたちの目がすくない場所――すなわち、割高な一等室からチェックしていくのが合理的です。それはそうでしょう、もし手軽に標的と接近できるのならば、そもそも仕事着を盗みだすなんてまどろっこしい真似をせずに済むのですから。僕の推理は以上です。推理によって導きだされた仮説を検証すべく、こうして条件に合致する部屋を訪れたら、ずばりあなたがいたわけです」

 異端の名探偵は私に指を突きつけると、あなたの敗因は、と告げた。「この旅館の仕事着を前以って自前で揃えておかなかったことです」

 ちげぇよ、と私は思った。

 私の敗因は、きょうこの場におまえが居合わせたことだよ。

 糾弾したかったが、言葉にならなかった。

 私の費やしてきた計画は何もかも潰えたのだ。

 終わった。

 私は無言でその場に座り込むと、テーブルのうえのフグ刺しに手を伸ばした。

 ひとつまみし、それを口に運ぼうとした。

 死のうと思ったのだ。

 だがそのときだ。

「おいおい、それは俺んだろ。何かってに食おうとしてんだ盗人め」

 ターゲットの男が私の手を箸で叩いた。

 私はフグの切り身を落とした。

 ターゲットの男は皿の上に花咲くフグ刺しを箸でぐるりとこれみよがしにこそげとると、あーん、と大きな口で頬張った。

 見せびらかすようにして咀嚼し、呑みこんだ。

 私は呆気にとられた。

 おいおい、いいのかよ、と思ったのだ。

 何せそばには異端の名探偵がいたのだ。ふつうは止めるだろう。

 私の狙いを喝破したのだ、ならば毒を盛って人を殺そうとしていたことくらいは当て推量であれ、見破っていたのではなかったか。

 案に相違して、件の名探偵は、無表情で男を眺めている。その顔からは何の感情も読み解けなかった。

 間もなく男が苦しみだし、全身を弛緩させ、呼吸困難に陥った。

「しまった、なんてことを」見計らったかのように異端の名探偵は声を荒らげ、テキパキと旅館の従業員たちに指示をだした。救急車が呼ばれ、ターゲットの男が運ばれていくが、すでに男に息はなかった。

 私は個室に監禁された。

 警察がやってくると、手錠をかけられ、連行される。

 パトカーに乗るとき、旅館のそとにまで例の異端の名探偵が見送りにでてきたので、私はパトカーに押し込められつつ、声を張った。

「なんで見逃したんですか」

「見逃した?」

「私に同情して、本懐を遂げさせてくれたんですか」

「何のことかはわかりませんけど、僕はあなたの凶行を止められませんでした。名探偵失格です」

 ああこの人は、と私はじんわりと胸の内に湧くあたたかな感動に浸った。私のためにきっと手を出さず、復讐を遂げる機会をつくってくれたのだ。

 乗り込むと、パトカーは静かに走りだす。

 警察官は二人だ。一人はハンドルを握り、もう一人は後部座席、私のとなりに座った。

 車窓に景色が流れ、旅館が遠のていく。

 しばらく道なりに進むと、運転席から声をかけられた。

「あんたも復讐を遂げたクチかい」

「はい?」

「いやね。前回も、その前のヒトも、きちんと復讐を遂げられてよかった、と満足していたから」

「あ、はい。満足です。でも罰は受けます。これでよかったんです」

「そうだね。きみは罰を受ける。あの人もひどいひとだよね」

 異端の名探偵のことを言っていると判った。

「ひどくないですよ。優しい方です」

「みんなそう言うんだよね。ま、いいです。満足しているなら」

 含みのある言い方だった。

「裏があるみたいに聞こえますね」私は挑発した。「まるであの方が、私への温情からではなく、ほかに狙いがあって私の犯行を見逃した、みたいに聞こえました」

「そうだよ。だって考えてもみなよ。殺人事件じゃなきゃあんなに大々的に報道されたりなんかしないし、たとえば制服の窃盗犯を捕まえたって、はあそうですか、って誰も興味なんか持たないでしょ。殺人事件を解決するから持て囃される。違うかい」

「それは、そうかもしれませんけど」私は目がぐるぐると回るようで、悪心が込みあげた。

 そんなつまらない動機で異端の名探偵は私に人を殺させたのだろうか。信じられない。

「まあこれはあくまで我々の憶測でしかないけどね。止められたかもしれない犯罪を止められなかったとしても、それを裁く法律はない。ふつうは他者の犯罪計画を喝破することなんかあり得ないんだから。喝破したところで、止めなきゃいけない義務もない。あの青年は法律上は、悪人ではないよ。ただね」

「ただ、なんですか」

 おいその辺にしとけよ、と私のとなりに座る警察官が制止した。

 運転手は、すまんしゃべりすぎたわ、と押し黙った。

 私はしばらく窓のそとを眺めていたが、我慢できなくなり、さっきの話ですけど、と切りだした。

「もし彼が、私のためでなく、じぶんのために敢えて犯行を止めなかったとして」声が裏返る。「じゃあ彼はなんのためにそんなことを」

「一つしかないんじゃない。まあ、本人がそうだと言ったわけじゃないけどさ」

 いい加減にしないか、と私の隣に座る警察官が諫めた。

 車内は静寂に包まれる。

 ぽつりぽつりと雨が降りはじめる。

 車窓にまだら模様を描く雨の軌跡を眺めながら私は、思い詰めた人間に敢えて人殺しを犯させてなお、自身は知名度をあげ、称賛される若き異端の名探偵の凛々しい立ち姿を思い浮かべる。

 彼に付き従う若き美貌を湛えた幼馴染たちを思い、いったい彼は、と物哀しさに襲われる。

 何を積みあげんがために、偉業を打ち立てていくのか、と。

 想像せずにはいられない。

 いまごろ彼は旅館の一室で、どんなひとときを送っているのだろうか、と。

 雨脚は徐々に勢いを増していく。




【巨大な、亀と水溜まり】

(未推敲)


 あれはたしか僕が五歳のときのことだ。

 祖父に買ってもらったミシシッピーアカミミガメがいた。

 当時友達のいなかった僕は毎日のように授業が終われば家に一目散に帰り、ペットの亀ことコーラと遊んだ。

 コーラは賢かった。

 餌をあげる前に芸を仕込むと、犬のごとく覚えた。

 とくに首を甲羅に引っ込め、じぶんからぐるんとひっくり返って背中で回る芸は、一目に値した。ひっくり返ってから手足を引っ込めるので、フィギュアスケートの選手のごとく、回転速度が増す様は圧巻だった。

 まるで独楽のようだった。

 僕はどうしてもそれを誰かに見せたくなり、コーラを持って公園に出向いた。

 公園では同級生や上級生たちが遊んでいた。

 僕はそれとなく公園のベンチに腰掛け、コーラの入った虫かごを覗いた。

 何してんだアイツ。

 誰が言うともなく集まりだした。

 僕はコーラに一芸をさせ、みなに驚嘆の声をあげさせた。

 僕は鼻が高かった。

 しかし常日頃、影のごとく目立たなかった僕が注目を集めることに不満を募らせる者もおり、おもしろくないとばかりに、僕からコーラを取りあげた。

「やめて、返して」

 僕らは揉めた。

 互いに掴みかかり、殴り合いの様相を見せはじめたところで、ぽちゃん、と音がした。

 ベンチのそばには水飲み場があり、そこには排水口が開いていた。

 コーラは相手の手から零れ落ちた弾みで排水口へと落ちたのだ。

 僕は呆気にとられた。

 ほかの面々は、あーあ、とばかりに、その場から去っていく。

 僕の喧嘩相手も、おまえがわるいんだからな、と捨て台詞を吐いて退散した。

 僕は排水口の金網を外し、肩まで腕を突っ込んでみたが、ついぞコーラを救出することは適わなかった。

 僕は後悔した。

 ただ同じ種族で同じ年代だというだけの仲良くもない相手に、コーラを自慢しようとしたばかりに、じぶんにとっていちばんのともだちを失ってしまったのだ。

 ひょっとしたら殺してしまったのかもしれず、このときの経験から僕は、じぶんを立派に見せようとすることの愚かさを学んだ。

 せめてじぶん自身で努力した技量ならともかく、僕はともだちの芸を餌にして、同族からの称賛を得ようとした。

 ひどくさもしい行為だった。

 それからというもの僕は、誰にどう思われようとも構わないと考えるようになった。もちろんなるべくわるく思われたくはない。でも、誰かを傷つけたり、脅かしたり、損なったりしたわけではないのなら、どう思われてもいいと割りきった。

 僕は僕だ。

 褒められたくて生きているわけじゃない。

 でもたまには褒められたいときだってあるから、人生はままならない。

 僕が大学三年生になった年のことだ。

 蝉の声のにぎやかな夏にそれは起きた。

 突如として、国土から川が干上がりはじめたのだ。

 専門家の調査の結果、川上の原水が枯渇していることが判明した。

 いったいどうして原水枯渇現象が起きたのかは不明のままだった。

 飲料水をはじめとする生活用水全般が不足しはじめ、見る間に社会基盤が揺るがされた。

 給水自動車による水の提供を受けながら僕は、うしろに並ぶ近所のお兄さんと話す。

「これからどうなるんでしょうね」

「海水を濾過する計画が進んでいるらしいよ。まあ、雨が降らなくなったわけじゃないから、なんとかなるんじゃないかな」

「ポジティブですね」

「ネガティブになっても現実は何も変わらないからね。できることをするしかない」

 その通りだった。

 しかし、現実はときに非情だ。

 水源枯渇減少が初観測されてから一年と半年後にそれは起こった。

 とある関東地方の都市近郊にて突如として水が湧きはじめたのだ。しかも水流の勢いは増すばかりで、止めどなく溢れつづけた。

 水が湧きはじめて三日後には周辺一キロ四方は水底に沈んだ。

 巨大な水溜まりができていた。

 湖と見紛うその水溜まりは、三日経ってなおその直径と深度を増しながら、周辺の家屋ごと土地を呑み込んでいく。

 水溜まりには押し流された様々な木々や材木が浮き、水面を覆った。遠近感の狂った光景からは、地獄の窯にかぶされた蓋を眺めているのに似た、一種、神秘的な昂揚が感じ取れた。

 絶望とはかくも美しく、悠然とただやってくるのだ。

 住居を失くした者たちが大勢でた。

 僕も例に漏れず、避難を余儀なくされた。

 巨大な水溜まりはいよいよ都市部をすっかり呑み込んだ。

「地下水が一か所に集まり、噴きだしているようです」

 専門家の分析からすると、どうやらあの巨大な水溜まりは、水源枯渇現象によって消えたかに見えた水源が、ひと塊になって湧きだしているために起きている水害であるらしい。

 水の湧きだす地点はゼロポイントと呼ばれた。

 原理は未だ不明だ。仮説としては、地下にて水脈が陥没し、一段と低くなった場所に水源が溜まったがゆえの現象ではないか、とのことだ。

 理屈が判っても手立ての施しようがない。

 あまりに膨大な水量なのだ。

 穴を塞ぐにしても、水の勢いが尋常ではない。潜水艦の潜水力を以ってしても、水底にすら到達できないのだ。

 いったいどうすればよいのか。

 せっせとポンプ車で水を吸いだし、海へと放流しているが、焼け石に水もいいところだ。プールの水を耳かきで掻きだしているようなものである。

 このままでは内側から島国が丸々一つ沈んでしまうのではないか。

 誰もがそう身構えていたとき、もう一つの大きな事件が起きた。

 なんと怪獣が現れたのである。

 えぇぇえええ!!!!

 こんなときにそんな泣きっ面に蜂を地で描かなくとも。 

 天変地異だけでやっとこさなのに、神さまはいじわるだ。

 誰もが疲れきった顔で、もういいですサービスはいりません、と拍車をかけた絶望をただ茫然と眺めていた。

 現れた怪獣は巨大な亀であった。

 専門家の見解では、ミシシッピーアカミミガメだと類推された。

 しかし破格の大きさである。

 甲羅の厚みだけで優に東京タワーほどもありそうであった。

 いったいこれほどの巨体がどこに潜んでいたというのか。

 専門家たちの侃々諤々の議論をよそに、政府はこっそりと深夜のニュースで真相を明かした。

 じつは都心の地下には、大雨による浸水の被害を防ぐために巨大な空域が建築されている。これは一般にも公表された建造物であるが、じつはさらに地下にも広大な空域が築かれており、それはもしもの事態に備えての緊急避難都市として機能するはずだった。

 巨大な亀はそこで巨大化したものと見られる。

 そのような旨を政府は語った。

 んなアホな。

 地下に大容量の空間があるのは百歩譲ってよいとして、なにゆえ亀があれほどまでに巨大化するのか。

 みなは我に返ったように政府を非難した。

「いい加減にしろ。水害だけで手いっぱいなのに怪獣なんか育てやがって。なんでチェックの一つもしなかったんだ。隠すようなものを造るからだろ。子どもの隠した零点のテストじゃないんだぞ、どうしてくれんだ、俺たちの人生を返せ」

 人々は、絶望を振り払うかのように怒りを爆発させた。

 政府はたじたじだ。

 海抜千メートル以上の場所に避難区域を設け、そこに簡易都市を建設する。

 ひと月という短期間に、沈んだ都市部と同じだけの居住区が築かれた。

 さらに一月後には、学校や病院など、公共機関ののきなみが増設された。

 しかし避難者たちは日々、高山病に悩まされた。

 また、高所からは否応なく、眼下に広がる巨大な水溜まりを目にすることになる。

 怪獣の立てる地響きに、地鳴りが、人々の精神を確実にすり減らす。

 僕は親戚の家から、日増しに被害ばかりが募る状況を電波越しにただ眺めているしかなかった。

 巨大な亀はなぜか都心から動かない。

 すでに亀の足場は浸水しはじめており、巨大な水溜まりはいよいよ郊外にまで及ぼうとしていた。

 高所から撮ったとみられる映像からすれば、うっすらと地表に水が張っているようにしか見えないが、その実、水深は深いところでは三百メートルを超えた。

 水の湧きでる地点にはクレーターのごとく深い穴が開いているのだ。

 いったいどうすれば塞げるのか。

 隕石でも降ってこないだろうか、とみな同じ思いで、冗談をささめきあった。

 巨大な亀は、ふしぎとおとなしく、ずしんずしん、と歩きだしたかと思えば、首を空高くもたげ、こんどは微動だにしなくなる。数日その場に佇むこともあれば、手足を甲羅に仕舞い、首だけ伸ばして、つぶらな瞳をぱちくりさせるだけのこともある。

 方向展開をすることもあるが、のきなみ亀は、水深の深い場所、深い場所へと移動している。

 亀が首を左右に振るたびに、暴風が吹くため、空を巡回中の偵察機が煽られるからか、空撮映像が乱れるので、ライブ映像を観ているだけでも怪獣映画を観ているかのような臨場感を味わえる。

 甲羅の頂上には特徴的な紋様が浮かんでいる。

 渦巻き状のそれは、魔法陣じみており、その巨体とも相まって、余計にこの世のものではないような奇異な印象を見る者に抱かせた。

 おとなしい性質と愛らしい眼差しから、一部界隈では、巨大怪獣亀吉のあだ名で親しまれはじめている。

 被害が生じる前に攻撃すべし、との論調もあるが、のきなみ政府共に国民の巨大亀への感情はそこまで悪辣なものではない。

 僕としても、むかし飼っていた亀を思いだすので、いくら怪獣とはいえど、ひどいことをしてほしくはなかった。

 あんなに可愛いのに、ただ大きいだけで傷つけるなんて許されてよいわけがない。せめて海とか、ほかの場所に誘導する作戦を練ってほしいと望むものだ。

 僕は日に日に巨大海獣亀吉への愛着が増していった。

 ある日、母がむかしの家族写真のメモリを再生して、眺めていた。

 僕もいっしょになって見ていると、排水口に消えた我が友の姿が映っていた。

 水槽から我が友こと、亀を持ち上げ、手の上に載せる幼き日ころの僕の姿が、画像に納まっていた。

「動画もあるよ」

 母から見せられたそれには、僕が亀に頬づりをし、心底に可愛がっている姿が映しだされていた。

 ん、と動画を一時停止する。巻き戻し、よくよく目を凝らす。

 甲羅に傷がついている。

 おそらくは、覚えた芸をこなすたびにちょっとずつついた傷だろう。

 甲羅のてっぺんには特徴的な渦巻き状の紋様が克明に刻まれていた。

 それは奇しくも、巨大怪獣亀吉の甲羅にある紋様と酷似していた。

 僕は何度も双方を見比べ、疑いようもなくそれが相似であることを確認した。

 かつて排水口に落としてしまった我が友のことを思い、僕は、生きていてくれたんだ、とじんわりと熱くなる胸と、わずかに走る痛を感じずにはいられなかった。

 我が友は、薄暗い地下にてずっと独りで生きてきたのだ。

 ああしてようやく日の下にでられたところで、しかしもうそこには仲間も、仲間となり得る同族もいない。

 いったいどれほどの孤独を感じてきたのだろう。

 まるでじぶんのことのように僕は巨大海獣亀吉――かつて失くしたと思っていた我が友へ、いますぐにでも駆け寄り、抱きしめ、謝罪と満腔の愛情をそそぎたかった。

 いちどそう湧いた衝動は、都市を呑み込む巨大な水溜まりのごとく、滾々と噴きだしつづけ、僕は時間帯が夕暮れであることなどお構いなしに、親戚の家を飛びだした。

 都心までは三百キロ以上の距離がある。

 交通機関も軒並み運航していない。

 けれど僕は行きたかったのだ。

 一日に二本しか出ていない上りの新幹線に飛び乗り、最も水害地域にちかい駅で僕は降りた。

 ほとんど深夜にちかい時刻だ。

 しかし空は明るい。

 巨大怪獣を自衛隊の照明が燦々と照らし、その巨大な甲羅を夜空に浮き彫りにしている。

 そうして光を当てていると、温まるためか、巨大怪獣は、夜のあいだその場を動かなくなる。照明がないと、夜でもおかまいなしに移動しはじめるのだ。

「こらこら、こっから先は立ち入り禁止だよ」

 警察官に注意された。

 どこも通行止めだ、と教えられた。

 巨大怪獣までの距離は十キロ以上ありそうだ。

 道路を、物資を運搬するためのトラックだろうか、列を成して自動車が通り抜けていく。

 関所を通るためか、トラックの行列は速度を落とす。

 停車したトラックの荷台にこっそり忍び寄り、僕は荷台に潜り込んだ。

 荷台から下りると、地上から空へと光の柱が伸びていた。

 証明だ。

 巨大な亀は全貌が見えず、ビルの合間から甲羅の側面が覗いていた。

 足場が組まれ、立体道路のような場所にトラックは停車している。地上はすでに水浸しており、ビルも大方は流されたり、倒壊したりしている。

 頑丈なビルだけが残り、そこを足場に即席の道と基地が築かれている。

 僕は夜の帳をくぐるようにしながら、巨大海獣の近くへ近くへと距離を詰めていく。

 足の竦むような巨大さだ。

 いまさらのように、なぜじぶんはこんな真似をしているのだろう、と恐怖心が湧いた。

 しかし身体はそうあるべきだというように、しぜんと巨大海獣の甲羅の上へと到達し、さらにその上から、あらんかぎりの声で叫んだ。

 巨大海獣の頭部は甲羅に仕舞いこまれている。

 声が届くかは分からない。

 しかし僕は伝えなければならなかった。

 ごめん、ごめんよ。

 あのとき、きみを置いて帰ってしまって、助けてあげられなくてごめんなさい。

 僕は思いの丈を、謝罪に載せて訴えた。

 きみのことを自慢しようとしたりなんかして、ごめん。

 こんなになるまで気づいてあげられなくて本当にごめんなさい。

 僕に何ができるわけでもないけれど、せめて、せめてきみのそばにいることにするよ。

 それが償いになるかは分からないけれど。

「でも、僕がきみのそばにいたいんだ」

 ずっと胸のうちにわだかまっていた。忘れてなどいなかった。

 きみを失ったあのときからずっと僕は、空虚ながらんどうを持て余しつづけてきたのだから。

 地響きがし、足元が大きくぐらついた。

 甲羅から伸びた巨大な頭部が、夜空に浮かぶ月光を遮る。

 巨大な頭部はぐるんと振り返り、甲羅のうえに乗る僕の目前にまで迫った。

 鼻の穴が収縮し、次点で突風のごとく鼻息が僕を包む。

 吹き飛ばされまいと足元にしがみつくと、照明が、カッカッカッ、と集まった。

 巨大怪獣が動きだしたので、周りを取り囲む自衛隊が警戒態勢に移行したようだった。

 巨大怪獣は甲羅から手足をだし、さらに標高を伸ばした。

 頭上を何機もの無人飛行機が飛びかう。

 僕に呼びかける大音量の声がある。

 そこを動かないように、と注意を呼び掛けているが、ひょっとしたらこの場面がいままさに全国放送で報道されているのかもしれない、と思うと、なんてたいへんなことをしてしまったのだ、と血の気が引いた。

 いまさらの所感だが、急に現実に引き戻された心地だ。

 頭上から縄梯子が下ろされ、それに掴まるように、と指示がある。

 逡巡したものの、ひとまずは指示に従うことにした。

 縄梯子にしがみつき、甲羅の上から飛び立つ。

 上空から見下ろす巨大海獣は、動く山のようだった。

 彼は大きな首をもたげ、僕を見た。

 つぶらな瞳が、一瞬だけ、永遠のように、僕と彼をあの日々に戻した。

 幼き日ころ、僕の手のひらに乗っていた彼が、いまは僕を乗せるまでに大きく育った。

 逞しい。

 僕はかつて小さかったころの彼にしたように、指をぐるぐると回した。

 トンボを捕まえるときのように。

 蚊取り線香を指でなぞるように。

 宙にぐるぐる巻きを描いた。

 巨大な甲羅の真ん中に描かれた紋様をなぞるように。

 渦を僕は指でつくる。

 僕は無人飛行機によって近場のビルの上へと運ばれた。

 巨大怪獣からは距離がある。

 すぐに自衛隊員に確保され、僕はさらに安全な場所へと連行される。

 トラックに押し込まれ、空中に敷かれた即席の道路を走り去る。

 車窓は塞がれており、外の光景は見えなかった。

 車内には画面が備わっていた。

 いまはそこに無人飛行機からの映像が映し出されている。

 巨大怪獣は首だけを縮ませ、甲羅のなかにビルよりも大きな頭部を仕舞いこんでいる最中だった。

 照明が遠ざかる。

 ほかの面々も避難をはじめたのだ。

 何かがいつもと違ったのだろう。

 異変を察知し、緊急避難の様相を見せている。

 画面のなか、巨大怪獣の甲羅が傾きはじめる。

 ほとんど真横に倒れたかと思うと、一時停止したあとで、ゆっくりとひっくり返っていく。

 間もなく、とてつもない暴風が吹き荒れ、その数秒後に大地震かと錯覚しかけるほどの地響きが襲った。

 トラックは横転し、後方の簡易道路が崩れた。

 かろうじて地表の道路に乗りあげていたため、僕は無事だった。

 横倒しのトラックのなかで僕は、画面に釘付けになる。

 巨大怪獣はひっくり返ったまま、僅かに回転していた。それはちょうどお椀を落とした際に、反動で、ぐわん、ぐわん、と縁に沿って波打つのに似た光景だった。

 さらにその波打ちに合わせて、手足が甲羅に仕舞われていく。

 円周が縮まるにつれて、回転の速度は増していく。

 巨大怪獣が甲羅を下に向け、独楽のごとく回りはじめた。

 巨大な水溜まりに浸かっていたがゆえに、水が押しのけられ、周囲に溢れた。

 僕のいる地点、トラックの横転している場所にまで、水が溢れだしてくる。

 トラックは船のように流された。

 広範囲にわたって水びだしになったはずだ。

 とんでもないことを仕出かしてしまった。僕はぞっとした。

 巨大怪獣はなおも回転を止めない。むしろ徐々に水嵩の深い場所へ、深い場所へと移動していく。そのたびに、大量の水が押しやられ、津波もかくやの惨状を生みだした。

 僕のいる地点は標高の高い場所であったので、さほどに被害は甚大ではなかった。

 しかし、そうでない平野では、それこそどこまでも水は伸びつづけ、無事だった家屋を呑み込み、押し流した。

 もういい、やめてくれ。

 僕は祈った。

 巨大怪獣は水の湧きだす地点、ゼロポイントに向かっていた。

 それは文字通り、水の湧きだすまさにその水底、巨大な穴を目指しているようだった。

 回転によって水は弾き飛ばされる。

 勢いよく噴きだす水すら巨大怪獣は物ともせず、回転する独楽のごとく分厚い水の層を押しのけた。

 巨大な水溜まりの中心には渦ができ、そこに沈みゆく巨大な亀の腹が、上空から撮影される映像からはよく見えた。

 巻き上げられた水しぶきの影響か、昇りはじめた陽の光を受けて、見事な虹がかかった。

 地上からは水溜まりが徐々に引いていき、水の湧きだすゼロポイントには、身動きのとれなくなった巨大な亀が一匹、窮屈そうに埋もれている。

 いったいどれだけそのままでいてくれるのかは分からないが、いまのうちですよ、と僕は念じる。

 巨大な僕の友人がそこをどけてしまう前に、彼の代わりとなる蓋を用意する。それが、指を咥えて見ているしかなかった僕たちにできる最良の選択にして、最善だ。

 よもや僕の友人ごと埋め立てたりはしないだろうな。

 一抹の不安を胸に僕は、僕との思い出を忘れずにいてくれた彼に、謝罪の言葉だけでなくこんどは、ありがとう、の言葉も伝えたいと思った。

 トラックのそとに出る。

 足首まで水に濡れながら僕は、空を仰ぐ。

 虹はうっすらと、まるで甲羅に仕舞われる首のように、足元から順に消えていく。 




【びびっとイートシステム】

(未推敲)


 細胞サイズの飛翔体を開発したところ、某企業から声がかかった。

 なんでも食糧難を解決するためのプロジェクトに私の「ビビット」を使いたいそうだ。ビビットとは、私の発明し、実用化した極小の飛翔体のことである。

 ビビットはただ小さいだけでなく、集合し、全体でひとつの仕事を行うことができる。蜂や蟻が、複雑な指令なくして、全体で群れを機能させるのと原理的には同じだ。

 ひるがえって、複雑な指令をだせるのならば、人間社会のような機構を維持することも可能だが、個々のビビットに搭載できる演算能力が低いため、そこまでの働きをいまはまだ実現できない。

 企業の担当は私にこう言った。「じつは我々はいま、人類史上初の実験にとりかかっている最中でして。是非とも明家(めいか)さんの発明品を利用させていただきたいな、と思いまして」

「ビビットをですよね。はい、もう、それはよいですよと許可をだしたので、だから私はいまここにいるわけでして」

「そうでした、はい。ありがとうございます。じつはですね、明家さんには、ビビットのプログラムをこちらが指定したものに書き換えてほしいのです」

「どれですか」

「これです」

 提出された資料に目を通す。

「はあはあ。つまり、捕獲機にしたいわけですね。人体から流れる排せつ物の」

「そうです。ただしそれは単に糞尿だけではなく、垢やフケ、抜け毛や唾など、そういったものを含めたあらゆる排せつ物を捕獲してほしいのです」

「吐息や発汗はどうするんですか」

「さすがにそこまでは困難だと見立てています。ですから、水分だけは摂取することを前提に計画は進めています」

「あの、すみませんが計画の全貌を私はまだ教えてもらっていないのですが」

 人体の排せつ物を集めて、それでなにをしたいのかをまだ聞いていなかった。

「失礼しました。我々のプロジェクトは、人間の自給自足循環型システム――通称【イート】と言いまして、要約してしまえば、食料を外部供給せずとも、じぶんの肉体から零れ落ちたものを再利用することで、恒常的に肉体の機能を保つシステムの開発および普及を目的にしています」

「つまり究極の自給自足で健康を維持する技術ってことですか」

「はい。排せつ物を分解し、たんぱく質やアミノ酸、ほか健康の維持に不可欠なビタミン類など、そういったものの生成には、別途に細菌を用いますが、まずは余すことなく排せつ物を搔き集められないことにはそもそも自給自足にはなりませんので、そこにきて明家さんのビビットが大活躍してくださるという算段になります」

「そう上手くいきますかね。いえ、まずはやってみましょう」

「さすがは天才発明家ですね。論より証拠が身についていらっしゃる」

「いえ、そういうんではなく」

 資料を読み込むより、まずはやりながら覚えたほうが早いのだ。むろん危険な実験の場合は手順を学ばなければ死に直結するため、資料の読み込みは必須だが、しかしここには専門家の方々がいる。まずは実験をやりながら、相互に理解を深めていくのが好ましいと判断した。

 いざ作業に取り掛かると、これがまた面白いのだ。

 ビビットへ新たに指令を与えると、驚くほどすんなりビビットは人体にまとわりつき、全身に薄い膜を張った。

 人間の皮膚の上層は死んだ細胞でできている。垢となって剥がれ落ちる前から、ビビットはそれらを取り込み、細菌と混合する。

 それにより発生した再利用養分が、これまた皮膚を通して体内に運ばれる。

 皮脂や垢やフケの類は、こうしてすんなりシステムに順応した。

 問題なのは、比較的大きな排せつ物だ。

 抜け毛はまだいい。

 大便や小便、精子や経血となると、全身を覆うビビットだけでは対処不能だ。

 そこはしかし、ビビットを使う必要はないのではないか、と疑問を呈する。

「ふつうにトイレで回収して、細菌と混ぜて、食料に加工してしまえばいいんじゃないですか。宇宙ステーションのシステムを応用すればさほど難しくはないでしょう」

「しかしそれだとトイレに立つたびに、微量ながら排せつ物が減っていくのです。なにせ、トイレにこびりついた分の排せつ物が回収できないですからね。尿と混じればなおさらです」

「じゃあ、トイレの表面をビビットで覆ってしまいましょう。表面を流動させれば問題ないでしょう。極小のエスカレーターですよ。ただし、そのエネルギィを別途に供給しなければ動きませんので、太陽光か、もしくはなんらかの熱源があるとよいのですが」

 元々ビビットの原動力は、光か熱だ。

 身体を覆う被膜と化しているあいだは身体の熱を活動エネルギィに変換できる。

 しかしトイレの場合はそうもいかない。

「ではそこだけ外部供給でまかないましょう。トイレ設備の一部ですから、プロジェクトの趣旨と矛盾もしないでしょう。問題ないです。あくまで、排せつ物を再利用して、食事をすべてじぶん由来の成分でまかなえれば、ひとまずの目的は達成と見做せます」

「では、そうしましょうか」

 問題点が見つかるたびに、改善が進む。

 潤沢な設備に、優秀な科学者たち。

 技術力は世界最高峰にして最先端ときて、こんな環境に身を置けばイチ発明家として昂揚せずにはいられない。

 気づくと召喚されてから三年が過ぎていた。

 濃厚な時間ゆえに、光陰矢のごとしだ。

 イートシステムを一般に普及させるにはまだ何段にも及ぶ安全性テストをパスしなければならないが、一応のカタチにはなった。原型モデルとしては申し分ない。

「動物実験では軒並み成功しましたね」

「そうですね」いちどは首肯してみせるものの、ただじつは、と一つの懸念を漏らす。「動物実験ではマウスと兎を用いていて、いまは倫理委員会にサルでの実験の許可を得ようという段階なわけじゃないですか」

「はい。おそらく通りますよ。死亡例は低いですからね」

「ですが、体重の数値を見ると、一週間後に若干の減少傾向が見て取れます」データを画面に表示する。「マウスではほとんど誤差の値ですが、ウサギのほうでは倍以上にまでなっています。どちらも誤差の許容範囲内の微小な体重減ではあるのですが、数値上では体積に正比例して減っているので、このままサルや人間へと適応してよいものか、いささか不安なんです」

「偶然でないとして、システムと相関関係があるとしたら要因はなんでしょう」

「さてねぇ。考えられるとすれば、ビビットで拾いきれなかった排せつ物ってことなんでしょうが、ふしぎなのが、密閉容器内で測っても、容器そのものの質量が減っているんですね」

「じゃあやっぱり誤差なのでは」

「うん。ひょっとしたらだけれども、我々が未だ認知していないナニカシラが、我々の肉体から剥がれ落ちている可能性はないかな」

「それはえっと、霊的(スピリチュアル)な話ですか?」

「いやもっと物理的な話だよ。素粒子だって地球をすり抜けるだろう。同じように、肉体からもそういったものがじつは零れ落ちていて、ゆえにビビットでは回収しきれなかったとか。それとも、そこまで小さくなくとも、質量がエネルギィに変換されて、熱として容器のそとに漏れているとか。もちろん、ふつうに考えればそんなことがたとえあったとしても、計器に表れるほどの質量の現象として観測できるはずはないんですがね」

「局長に相談されました?」

「いや、まだだよ。単なる妄想だからね。ただ、すこし気になって」

「したほうがいいと思いますよ、報告。あ、僕がしておきましょうか」

「そう? じゃあ頼もうかな」

 馴染みの研究者はデータをコピーすると、ほかの相談ごとがてら話してきます、と研究室のそとへと出ていった。

 私はしばしコーヒーを飲みながら考えた。

 ビビットを使っての自給自足循環型システムは、どのように作ろうとも完全な閉じた系にはならない。永久機関にはなりっこない。外部供給がなければ、いずれは肉体のほうで崩壊するだろう。

 たとえ水分を補給できたところで同じことだ。

 熱として発散されているエネルギィにしたところでそうだし、身体は筋肉を動かすし、頭脳とて働かせる。

 そも、肉体は単なる細胞だけでなく、様々なウィルスや細菌と共生関係を結んでいる。もっと大きなダニとて身体の一部と言えるのだ。

 仮に完全なる無菌状態を実現できたとして、そこでは人は生きてはいかれないだろう。

 ゆえに、ビビットを活用したイートシステムは、あくまで通常の食事を長期間取らずとも、生命維持を保てる技術と言える。

 永久に自給自足はできない。不可能だ。

 だが商品としてはそれでも充分に食料を節約できるし、世界中の飢餓対策や食糧難の解決策にも役立つ。

 宇宙空間での活動や、惑星間移転にも応用可能だ。

 しかしふしぎなのは、なぜわざわざ閉じた系に拘るのか、だ。

 べつにトイレにした排せつ物を再利用するだけでも充分に画期的なシステムと呼べる。垢やフケにしたところで、床に落ちた分を、別途にビビットで回収させればいい。

 わざわざ被膜にして常時循環型に設計せずともよいはずなのだ。

 幾度かそのように指摘したのだが、納得のいく返事は聞けなかった。

 イートシステムの改善作業に夢中になっていたので、この期間、そうした計画のフレームそのものへの疑問を放置してしまったが、いよいよ佳境に入ったことで計画の全貌を俯瞰して振り返る余裕ができた。

 そして思う。

 何か妙ではないか。

 騙されているといった感覚はない。ただ、正攻法ではなく、どこか歪んで感じられる。違和感がある。具体的にどう、とは言えないが、目的地へまっすぐと最短距離で向かっている感じがしない。

 敢えて曲がりくねって、任意の絵柄を浮き上がらせようとするような作為を感じる。

 気のせいかもしれない。

 しかし経験上、こうした直感は蔑ろにしないほうがいい。拭えるならば、反証を以って拭っておくに越したことはないのだ。

 まずは、資料を初めから見直そう。

 計画の立案からこれまでに辿ってきた修正案のすべてに目を通す。

 空き時間での個人的な作業だ。

 ざっと確認するだけでも半年を費やした。

 結論から述べれば、怪しさ満点だ。

 イートシステムそのものに大きな瑕疵はない。ただし、事業計画に難がある。

 開発した技術は市場を通して社会普及させる手筈になっている。しかしなぜか、販売される国や地域が限定されていた。

 表向きは、規制や関税を理由に後回しにしているだけだ、といったポーズが取られているが、明らかに販売地域が貧困地域や文化水準の低い国に偏っている。

 食糧難は、けして貧困な地域だけの問題ではない。

 一部の豊かな国々が贅沢な暮らしを維持するがために、ほかの国々を奴隷のように扱い労働力を搾取している。貧しい国々はそれにより、本来ならば鋭角に発展していけるはずが、徐々にしか文化水準があがらない。

 合理的に考えるのであれば、裕福な国にこそ、イートシステムは適用されるべき技術である。

 食べ物を粗末にし、贅沢の極みを贅沢だとも思わずにいる人々に、まずはイートシステムを普及させる。ダイエットを名目にすれば流行るだろう。そこは広告企業の戦力に頼るよりないが、ともかくとして、明らかに使う相手を選んでいる。

 差別をさらに深める使い方だ。

 豊かな国はより豊かに、そうでない国はさらに貧しく。

 しかもイートシステムは最新技術ゆえ、表面上は社会発展しているように見える。あくまで手を差し伸べているふうを装い、奴隷の首に鎖を繋ぐような狡猾さが窺える。

 運営人を問い詰めたい衝動に駆られたが、いまはまだ騒ぎを大きくしないほうが利口だ。証拠を揃え、言い逃れできない状況をつくってから穏便に話を聞いてみよう。

 それではぐらかされたら、出るところに出るしかない。

 報道機関に情報を流してもいい。

 考えはまとまったが、ぐつぐつと腹が煮えるようだ。

 じぶんの発明品を、社会をよくするためではなく、困窮した人々にさらなる鞭を打つような仕組みのために利用されていた事実に怒りが湧く。

 嘘は吐かれていないが、肝心なことを話さないのでは、騙したも同然だ。

 いったいどうしてくれようか。

 部屋をうろついていると、先刻に部屋を出ていった馴染みの研究者が戻ってきた。

「お、まだいましたね。よかった」

「おかえり」彼は知っているのだろうか、と訝しむ。

「いまきみの話していた懸案事項を伝えてきたんですけど」

「体重が減る理由が分かったかな」

「はい。あれはどうやら死滅した細菌の分らしいですよ」

「ああ」もうそれだけで疑問が氷解した。

「ビビットに搭載している細菌がありますよね。あれが、排せつ物を分解して養分にするとき、増殖しつつ、古いのは死んでいく。いちおうそれも養分にはなりますけど、回収しきれなかった分が、ガスとなって空気中に逃げてしまうようで」

「大気より軽いから浮力が生じるわけか」

「そうです」馴染みの研究者は拍手する。「さすが先生。僕は最後まで説明を聞くまで、納得できませんでしたよ」

「いや、細菌の死骸がガス化するのは知っていたんだ。ただガスの重さについて失念していたから。胞子よろしく、てっきり重いものかと」

 彼にならそれとなくカマをかけてみてもいいかもしれない。

 そうと思い、気づいたばかりのイートシステム計画のキナ臭い動きについて探りを入れた。

 すると彼はあっけらかんと、

「ああそれはカモフラージュですよ」と言った。

「カモフラージュ?」

「先生、あれですね。ひょっとして我々が貧困層から搾取するために裕福層を優遇するためにこのプロジェクトを利用しようとしていると思ったんじゃないんですか」

「いや、そうではないのだが」いちどはそらとぼけてみせるが、面倒だ、と思い、「じつはその通りでね」と明かした。「ということは、私の勘違いだということでいいのかな」

「はい。権力者たちを説得するうえでのそれは建前です。そう言っておけば、貧困層へとイートシステムを優先的に普及させることができますし、じぶんたちが得をすると思えばこそ、支援すらしてくれるでしょう」

「かもしれんが、実際に裕福層が得をするだろう」

「そうではないんですよ。なぜイートシステムが、自給自足循環型――すなわち身にまとうデザインを採用したのか、疑問に思われませんでしたか」

「思った。まさにそこが疑心の出発点だった。なぜトイレや部屋への適用を見送り、人間がまとう型に拘ったんだい」

「先生がそれを存じなかったことに僕のほうがびっくりしていますよ。上の人たちは説明しなかったんですか」

「聞いていなかったが」

「ひょっとしたら先生、信用されていなかったのかもしれませんね。先生が我々を疑ったように、上の人たちも、もしものときのことを考えて、しばし様子を見ていたのかもしれません」

「保険をかけていたと?」

「そう考えれば筋が通るというだけのことですけどね」

「それはいいが、イートシステムの本当の目的を教えてくれないか」

「目的は変わりませんよ。食糧難および、世界にはびこる不公平の是正です」

「あくまで社会の理不尽を失くすことだと?」

「そうです。ご存じでしょうが、いまは気候変動やら砂漠化やら、技術の進歩では補えないほどの世界的環境問題が盛りだくさんですからね。貧困層では、虫食の普及が盛んですが、それだって本来は富裕層こそが食すべきでしょう。ですが現実は、富裕層ばかりこれまでの食生活をつづけたがります。ですがこれから先の社会では、よりいまの環境に即した社会に適応する人々のほうが発展の礎を築いていけるようになると我々は予測しています。イートシステムとて、けっきょくは食べやすく加工するとはいえど、口にするのはじぶんの排せつ物です。糞尿です。いくら見た目や味がハンバーグであろうと抵抗を抱いて、忌避する人々は後を絶たないでしょう。イートシステムを着衣しながらの生活にも相応に工夫がいりますしね。訓練が必要なわけです」

「なんとなく分かってきたような、掴めきれないような」

 話の腰を折る場面ではないと判断し、いいよつづけて、と先を促す。

「仮に、世界的に食糧難に陥ったとき、イートシステムに慣れ親しんでいた場合とそうでなかった場合、どちらがダメージがすくなくて済むかと言えば、考えるまでもないですよね」

「たしかに」

 いまからでもイートシステムに親しんでおけば、この先、世界規模の飢饉が起きたとしても、社会が崩壊するほどの危機には見舞われない。平然とみな、じぶんの排せつ物を食らって自給自足して暮らしていけるだろう。

「現在の食文化を継続する富裕層は、このさきそう遠くない未来に、とんでもない危機に見舞われるでしょう。そのとき、誰が指揮をとるでもない、しぜん淘汰による社会革新が自動的に行われることになります」

「貧富の構図が逆転するな」

「はい。そのために、いまから貧困層にこそ、イートシステムを普及させておく必要がある、というのが我々の結論です。もちろん、全人類に広く普及できるのならそれが一番よいのですが、現状、資金や原材料、ほか設備上の制限によって、どうしてもイートシステムの適用人数には限りがでてきます。とするならば、必然、どこから優先して普及させていくべきかが問題になってきます」

「とするときみたちは、いままさに飢餓に苦しんでいる人々を選んだわけか」

 彼はにっこりと微笑んだ。

「あくまで最悪のシナリオから逆算した結果でしかありませんので、このままいまの自然環境がつづくのなら、そもそも優先順位うんぬんは、杞憂でしかないのですけどね。利益がでれば、全人口にイートシステムを普及させることだってできるようになっていくでしょうし」

「それはそうだ」

「ただ、イートシステムを適用すれば、食事だけでなく、シャワーや洗濯の回数を減らせます。下水処理とて劇的に改善されるでしょう。水を節約でき、環境を汚染せずに済みます。なにせ、ビビットが汚れをつねに処理してくれますからね。養分としてそれを皮膚から吸収もできますし、糞尿は食事に様変わりです。仕事や趣味だって、これまでよりずっと疲れずに活動できます。おそらく、人口の数十パーセトントがイートシステムを適用するだけで、社会の発展度合いは飛躍的に向上するでしょう。それこそ、現在の裕福な国々に頼ることなく、扱き使われる必要すらなく、独自に」

「独立の一歩というわけか」

「他国に依存せずに済めば、国同士の優劣もなくなりましょう。対等に交渉できるようになれば、いまある理不尽な社会問題の多くは改善されていくと見立てています」

「問題があるとすれば、では一つだな」

「と、申しますと?」

「じぶんたちが優位ではないと知った現在の裕福な国々が、イートシステムの真価を知ったときに、軍事力に物を言わせて圧力をかけないとも限らない点だ」

「いまだってそれは起きていることじゃないですか」

「そうだな。それにまあ、そのときまでに私たちが、全人類に適用可能なくらいにまでイートシステムの量産体制を整えておけばいいだけの話ではあるが」

 そうすれば、いまある国家間の諍いの種はすくなからず解消される。

 すくなくとも戦争をしたくてしている国がないのであれば、の話になるが。

 そうであると信じるよりないし、そうであるような社会を築いていくしないのだろう。

 それはおそらく、私たち一人ひとりが、そうあるように日々を生きていくことでしかなし得ない未来である。

 馴染みの研究者は上気した顔で両手を掻き合わせた。「では、これからも我々に協力してくださるのですね」

「もうとっくに仲間だったと思っていたのだが?」

「それ、僕らを疑っていた人の言動ではありませんね」

「はて、なんのことやら」

 手元の容器を覗く。

 マウスが十匹入っている。

 マウスたちはかれこれ水だけで一年半を生きつづけており、断食継続日数を日々更新している。

 私は日めくりの記録日数を一枚ひっぺがし、健康的なマウスの代わりに、新記録樹立をきょうも秘かに祝うのだ。




【蘇る者たち】

(未推敲)


 その者たちは春になるといっせいに土から孵り、数日で幼生から成体へと成長する。それから秋になるまでは群れを築き、束の間の栄華を極める。冬になり雪が舞いはじめるころには、急速に死滅しはじめ、すべての個体が土へと孵る。

 つぎの春が訪れると、死体から幼生が孵り、そうして同じ運命を繰り返す。

 その者たちは、いずれもある時期には人類だった。

 しかし流行り病に倒れたのち、異なる変異を獲得した。

 人類は彼ら彼女らを、隔離区域へと収容し、そこを厳重に外部と切り離した。

 キョンシー感染症、またはゾンビ症候群と呼ばれるそれは、いまなお治療法の見つからない回避指定難病である。治療や研究を行うことすら厳格に規制されている。かかったら最後だ。社会の合意によって、患者は社会の外へと排斥される。

 すなわち、一生涯隔離されるのだ。

 正式な医学用語では、バイオメトロノームシンドロームと呼称される。

 一定期間内に生と死を繰り返し、なおかつ感染者同士で同調し、社会に類する群れを築く点が、あらゆる疾患や疫病と異なっていた。

 隔離区域が密閉されて以降、新たな感染者の報告はあがっていない。

 しかし隔離区域内では、季節が一巡するごとに、蘇る幼生の数が増加傾向にある。

 感染者たちは、生体のあいだ、群れとしての栄華を誇るあいだに、子を成すのだ。その子もまた冬には死ぬが、新たな遺体が一つ増え、つぎの春には新たな幼生として、その数を増す。

 指数関数的に増えつづける蘇る者たちへの対処法は、未だ検討中である。

 あと七年後には、隔離区域に収まらないほどの幼生が、土から孵ることになると見られている。

 その後の対策については、未だ、合議すら開かれていない。




【紛い物抹消装置】

(未推敲)


 独蘇(どくそ)鵜青(うせい)は文化功労章を授与されるほどの偉大な芸術家であった。

 芸術はオリジナリティこそ大事、とする指針を揺るぎなく信じていたため彼は、この世から紛い物を抹消せんと、あらゆる権力者に直訴し、己が理想の社会を築こうと邁進した。

 父は著名な政治家であり、母は教科書に名が載るほどの科学者であった。また嫁は一時期世間を席巻した女優であり、そして娘息子たちはみな名門校に属し、現役で文武両道を貫いている。家族の誰もが世界的に名を馳せるほどの才能に溢れた家族であった。

 独蘇鵜青はそうした恵まれた人脈を駆使し、己が理想の世界を手繰り寄せるべく、いよいよ念願の、紛い物抹消装置を入手した。

「これはな。とある機関に頼み込んで、紛争を失くすための装置の一部を改造してもらった特注品だ」

 偽物の種類を指定すれば、それに類する同属の紛い物を一網打尽にできる便利な装置であった。

 独蘇鵜青はまず、己が分野の紛い物を消した。

「偽物の絵画などいらぬ」

 つぎに、ほかの芸術の分野からつぎつぎに紛い物を消していった。

 彫刻、文学、舞踏に、人形。

 漫才、落語、歌舞伎に、音楽。

 映画、漫画、アニメに、舞台。

 彼の手により、人類社会からは数々の紛い物と共に、名作までもが失われた。

「やはりか。本物の顔をしている紛い物が混じりこんでいると睨んでおった通りだ。清々する」

 世に溢れた素人の手に寄る作品のほとんどすべてが消失し、さらにはプロの手掛けた作品の多くも、姿を消した。

「これでよいのだ。この世には本物しかいらぬ」

 独蘇鵜青は満足した。何せじぶんの作品だけはそっくりそのまま残ったのだ。

 彼の芸術家としての腕は、紛うことなき本物であった。

 いちどは気をよくした独蘇鵜青であったが、腐敗した政治の茶番劇を見るに見かねて、本物でない政治家には退場いただくべく、紛い物抹消装置を使った。

 世界中から世を腐らせる偽物の政治家が姿を消した。

「いいぞいいぞ。ますます生きやすい社会になった」

 いちど人間に対して使用すると、あとはなし崩し的に歯止めは壊れた。独蘇鵜青は当然そうすべきというかのように、科学者や芸術家、アイドルや芸能人にまで、紛い物抹消装置の能力を向けた。

 世の中から多くの才能なき者が消え、さらに過去に名を馳せた偉人たちの幾人かも、その存在があらゆる記録上から抹消された。

「素晴らしい」

 独蘇鵜青は感激した。

 しかし彼の感動をよそに、社会からはつぎつぎに職業が失われ、また文化存続の危機に見舞われた。それはそうだろう。仕事をしようにも、同業者を募ることもできず、後継者を育てようにも、候補すらいないのだ。

 偽物の評論家、偽物の読者、偽物の鑑賞者と、つぎつぎにとめどなく独蘇鵜青は装置を濫用した。

 彼と彼の家族だけは一向に消えることはなく、清らかになるいっぽうの社会を眺め、裕福な家のなかで独蘇一家はよりいっそうのしあわせなひと時を過ごした。

 いよいよ、じれったくなったのか、独蘇鵜青は、偽物の人類にも消えてもらおうと考えた。

 そうだ、なぜそれを初めにしなかったのか。

 それをすればいちどきにすべての偽物を排除できたではないか。

 愚かで、未熟で、何かの模倣をすることでしかモノを作ることもできぬ、生む楽しみすら知り得ぬ者たちには、いっそ消えてもらったほうが人類のためだ。

 よりよい未来のために、去ってもらおう。

 この世からな。

 独蘇鵜青は装置に手を伸ばし、しばし考え、さきにじぶんの偽物から消えてもらうことにした。

 いったいどれだけの人間がじぶんの芸術を模倣し、のうのうとのさばっているのかを確認してから、人類の偽物に消えてもらえばよい道理。

 せっかくの装置だ。有効活用をしよう。

 掃除をするにも、一つずつ丹念に捨てていくからこそ生まれる感謝の念もあるだろう。生じる感情もあるだろう。

 そうした機微が、つぎなる我が作品、本物の芸術を育む土壌となる。

 閃きの種となる。

 なればこそ、独蘇鵜青は、じぶんの偽物を消すように指定した。

 装置を起動する。

 しかしこれといって変化はなかった。

 それはそうだ。

 すでに大方の偽物の芸術家は消えている。

 ほかに消える者がいるかと思ったが、いまこの世に残っているのは本物ばかりだ。いくらなんでもやはりその中にじぶんの模倣をしている者などおらぬようだ。

 肩透かしの感を覚えつつも、安堵しながら、独蘇鵜青は、いよいよ人類の偽物を消すべく、指定コードを入力した。

 これを起動すれば、あとはもう消すべく紛い物の候補は見つからない。

 これにて理想の世界の完成だ。

 この世そのものが我が手による作品となるのだ。

 そこで独蘇鵜青は、そうだ、と思いつく。

「偉大な仕事が終わるのだ。家族にもこの記念すべき瞬間を味わわせてやろう」

 いつになく殊勝な気分で、独蘇鵜青は、両親や妻や、子どもたちを呼んだ。

 父と母はすぐに自室からやってきた。

 妻はしばらくしてから、鬱陶しそうに顔を覗かせる。

 しかしいくら待っても娘息子たちが現れない。

 痺れをきらした独蘇鵜青は、妻に子どもたちを呼んでくるように命じながら、怒りに任せて、装置の起動スイッチを押した。

 この日、地上からとある生物種の遺伝子が根こそぎ消えた。

 文明は静かに、ゆったりと、深い自然に呑み込まれていく。




【オーバーなほどにゲーム】

(未推敲)


 アキトが部屋に入るとゲーム機が置いてあった。

 見たことのない機種だ。

 目覚めると巨大な迷路に置き去りにされていたのが一時間前のことだ。目覚める以前の記憶が覚束ない。

 じぶんが小学六年生で、男の子で、名前がアキトだということは思いだせた。

 迷路を歩いているうちに、扉を見つけ、そうしてこの部屋へと辿り着いた。

 四角い部屋だ。ゲーム機以外に物体がない。

 壁が画面になっている。

 ゲーム機のまえに座り、戸惑いながらも起動ボタンを押した。

 音もなく画面にゲームの立ちあがる。

 映像が浮かぶ。

 ゲームのタイトルが流れる。

 「永久機関ゴッコ」とある。

 立体的なロゴで描かれており、大音量の音楽と共に画面が切り替わる。

 そこには真っ黒い部屋にぽつねんと座る少年キャラクターの姿があった。

 少年キャラクターは、真っ白い画面のまえに座っており、動かない。

 アキラはコントローラーを手に取る。

 適当にいじくると、画面のなかの少年キャラクターが動いた。

 背後に扉があり、部屋のそとに出る。

 少年キャラクターはその後、迷宮を右往左往しながら、数々の罠や襲い掛かる異形者たちと遭遇しながらも、かろうじてなんとか、もう一つの部屋へと辿り着いた。

 扉を開ける。

 するとそこには、ラスボスらしき巨大な魔物が立っていた。

 いよいよ決戦であるらしい。

 しかし、とアキラは画面下に表示されたライフゲージを見遣る。

 ここまで来るまでの道中に、ずいぶんとダメージを負った。

 罠にかかるわ、バケモノには襲われるわ。

 落とし穴に落ち、矢に刺さり、噛みつかれ、毒を吐かれ、鋭い爪で切りつけられたりした。

 満身創痍と言ってよい有様のなか、ラスボスと戦わなければならないなんて。

 回復するためのアイテムもない。

 理不尽なゲームだ。

 アキトは早々にゲームの攻略を諦め、投げやりに少年キャラクターを動かし、魔物に体当たりさせた。

 魔物は物ともせず、尻尾を振った。

 少年キャラクターの首が刎ねられ、頭部が地面に転がる。

 ゲームオーバーの文字が、デカデカと画面に浮かんだ。

 すると部屋の明かりが消え、画面は真っ白いまま、光だけを放った。

 アキトは戸惑った。

 なぜか身体が動かなかった。

 声もだせなければ、じぶんが息をしているのかも分からない。

 身体に力を籠めたり、反対に力を緩めたりするが、一向に身じろぎ一つできないのだ。

 どうしたものか。

 困り果てていると、どこからともなくゲームのオープニング曲が聞こえた。

 先刻、じぶんでしたばかりのゲームの音だ。

 しかし目のまえの画面は真っ白なままだし、聞こえてくる音も、ずっと遠くでなっているようなくぐもり方をしていた。

 ほかの部屋で誰かがゲームを起動したのかもしれない。じぶんと同じような人間がほかにもいたのかもしれない。

 そのように考えた次の瞬間、なぜか身体がかってに立ちあがった。

 一瞬、無重力になったのかと錯覚しかけたほど、何もせずに身体が浮きあがった。

 しかし足は床にしっかりとついており、体重も支えている。

 座ろうとしても、やはり身体の自由はきかなかった。

 当惑していると、身体はつぎつぎにアキトの意図しない動きを連発した。歩きたくないのに歩き、跳ねたくないのに跳ねた。しゃがみたくないのにしゃがみ、でんぐり返しをしたくなくてもでんぐり返しをした。

 そのうち部屋のそとへと飛びだし、迷路をずんずんと突き進む。

 落とし穴に落ち、足を挫いた。

 壁から飛びだす矢が、腕や脚に刺さった。

 暗闇からは身の毛もよだつようなバケモノたち――爪や牙が鋭く、剝きだしで、身体の表層には太い血管が縦横無尽に巡っていた。お腹にもう一つの顔が埋まっていたり、皮膚がドロドロに溶け、溢れた内臓を衣服のように見にまとう背の大きな魔女のごとき人物もあった。

 一様にアキトに襲い掛かってきたが、アキトは逃げることもできずに応戦し、そのたびに全身に、意識が遠のくような傷と、百年の眠りからも覚めるような痛みが刻まれた。

 身体はそれでも歩を止めず、痛みを引っ下げながら、迷路の奥へ奥へと突き進む。

 死なないじぶんを不思議に思ったが、ひょっとしたらすでにじぶんは死んでいるのかもしれない、と思いもした。

 やがて巨人しか開けられないような大きく分厚い扉のまえにくる。

 アキトが壁に触れると、壁はそういった感知器がついていたかのように、ゆっくりと隙間を広げた。

 部屋の中は薄暗かった。

 アキトが考えるより先に意思に反して身体がみたび動いた。

 ボボボボ。

 部屋のなかは広く、松明が支柱ごとに灯った。

 玉座だ、とまずは思った。

 アキトは束の間、じぶんの陥った境遇を忘れ、部屋を眺めた。

 広さといい、何もなさといい、人の暮らす場所ではないと思った。

 部屋には椅子が置いてあった。

 椅子は大きく、舞台のようだった。そのうえで人間が演劇を披露できるくらいの面積がある。

 ひじ掛けや、背もたれの装飾がなければ椅子とは思えなかったし、なによりそこに腰掛ける巨大な魔物の存在がなければ、やはり舞台だと見做しただろう。

 魔物は魔物としか言いようのない見た目をしていた。

 魔王と言ったほうが正確かもしれなかったが、魔王と呼ぶにも、そこには何かを治めるような理性の輝きはなかった。ただただ禍々しく、剣吞で、おぞましかった。

 アキトは唾液を呑みこもうとしたが、そうした仕草すら意識してもとれなかった。

 身体はかってに戦闘態勢をとった。

 魔物が玉座から腰を浮かした。

 アキトはこのあとじぶんがどうなるのかを予感できた。

 脳裏には、先刻終えたばかりのゲームの映像が流れ、どこからともなく勇ましい音楽がうっすらと聞こえてくるのだった。




【腐れ縁のサファイヤ】


 幼少の頃より付き合いのある馴染みの女がいる。

 モモチである。

 思春期に差し掛かって以降、彼女は、何かと僕に突っかかってきたり、よそよそしくなったり、突然に怒りだしたり、プレゼントをくれたりと、山の気候よりも不安定にコロコロと感情の起伏を描くので、ジェットコースターだってもうすこし落ち着きがあるというのに、なんというか、接しづらい相手である。

 とはいえ、馴染みであるし、いいやつなのは確かだ。

 憎めないやつでもある。

 同い年の従妹といった調子で縁を繋いできたが、あろうことか、高校生に長じてから、愛の告白をされた。

「ねぇなんでさいきんほかのクラスのコとしゃべってんの。放課後とかも遊んでるみたいだし、やめたほうがいいよ。変な噂立つし。ちゅうかさ、ねー、もう、うちと付き合えばよくない? どうせ彼女とかできないでしょ。特別に恋人になってあげてもいいんだけどな」

「え、彼女だよそのコ。付き合ってる。あ、言ってなかったっけごめん」

 付き合ううんぬんのところは冗談めかし言われたので、冗談かと思ったが、どうやらそういうわけでもないようで、モモチは、「なにそれ、なにそれ、やなんだけど、やなんだけど」と壊れた音楽再生機のように目の焦点の合わない表情で、間もなく大粒の涙を流しはじめた。

「え、ひょっとしてモモチ、僕のこと好きなの?」

「ずっとそう言ってんじゃんバカ」

 死ね、と怒鳴ったあとで彼女は、うそ死んじゃやだぁ、とめそめそしだす。ふだんの勝ち気で、ツンと冷めた様子の彼女の性格からは考えられない本性の表しように、しょうじき僕は、いまさらもう遅いよ、の呆れた気持ちに襲われた。

 好きな相手に好きになってほしいなら、相応の態度があると思うし、そうでなくとも、せめて好きだという意思表示は、それとなく誤解の余地なく示してもらわねば、ただただ意思疎通のできない相手との印象ばかりがつよく植えつけられて、いまさらどうあっても覆らない抵抗感として根付いてしまう。

 馴染みの友人としては快く受け入れられても、恋人の範疇ではあり得ない存在にいちどでもなってしまったら、そこから元のまっさらな関係には戻れないのだ。

 結んだ縁はすでに腐っており、腐れ縁を金のネックレスと言い張るにはもう遅すぎた。

 僕はモモチを振った。

 泣きじゃくる彼女を丁重に慰め、これからもよい友人同士でいよう、と約束した。

 同じ学校に進学したこともあってか、翌日からも顔を合わせた。家が隣同士ゆえ、同じ時間帯の電車にバスを乗り継がねば、遅刻する。朝からぶすっとした態度のモモチと、微妙に距離を空けたまま、一言も口をきかずに登校した。

 しばらくそうした、触らぬ神に祟りなしの関係がつづいたが、半年も経たぬ間に僕が恋人と別れると、モモチはその間のわだかまりなどなかったかのようにまた僕の周りをうろちょろし、ちょっかいを出し、山の天気のように掴みどころのない接し方で僕を翻弄した。

 高校を卒業するまでのあいだに僕は、モモチから、おそらくそうだろうという迂遠な表現を含めて、五十回以上は告白された。

 そのつど僕ははぐらかしたり、丁重に断ったりした。

 モモチは僕から袖にされるたびに荒れるが、かといって縁を切ろうとするでもなく、また性懲りもなく僕に恋愛関係という名の首輪を嵌めようとするのだった。

 高校を卒業後の進路はさすがに別々だった。

 僕は専門学校に入学し、モモチは四年制大学に進んだ。

 映像関係の仕事に就きたかった僕は、学校と仕事に役に立ちそうなアルバイトに精をだし、日々あくせくと過ごした。

 モモチと顔を合わせる機会はめっきりと減り、互いの近況を、それとなくインターネットに更新される個人情報を垣間見ることで知ったり、知らないままだったりした。

 モモチはときおり突発的に気持ちが高まるようで、電波越しに、怪文書としか思えぬようなラブレターを送りつけてくるが、いまは忙しいんだけどな、と僕が返信すると、邪魔してごめんなさい、と殊勝にも謝罪文が届くのだった。

「返信はいりません。好きなひとに好きって言えるだけでしあわせになれるから、たまにはこうして伝えさせてほしいです」

 モモチもなかなかに、人の心を掴む技術を身につけたものだ。

 僕としても、そこまで言われると、そうわるい気はしなかった。

 かといって付き合うつもりはさらさらない。

 モモチはモモチだ。

 腐った縁が白金(プラチナ)のネックレスになるわけではない。

 授業に課題にバイトに就活、日々の雑務に追われるうちに、モモチとはほとんど会う機会を得られずに、いつの間にか僕は専門学校を卒業していた。

 先輩から紹介してもらった映像会社に就職し、一応の目標は達成できたが、ではつぎの目標には手が届きそうなのか、というと、こんどばかりは暗中模索、手探りで進むしかない状態だった。

 進んでいるのか、落ちぶれているのかの区別もつかない日々に、僕は安らぎを求めた。

 恋人をつくるのもいいな、と思うが、そんなふんわりした動機で寄りつく男になびく女性はことのほかすくない。僕が同性愛者だったならばもっと恋人のできる可能性が広がったのだろうか、と考えるが、やはりそのように安直に考える時点で、そのような人物の恋人になってくれる同性はいないだろうと思われた。

 要するに僕は知らぬ間に、人間性すら落ちぶれていたのかもしれなかった。

 誰でもいいから僕を求めてくれ。

 存在の無条件肯定に飢えはじめたところで、僕は、インターネット上で見つけた漫画にドハマりした。

 アマチュアの手掛ける作品だ。

 かわいらしいキャラクターたちの繰り広げる童話的な話で、素朴でやさしく、キャラクターが本当に生きているかのように思える漫画だった。

 僕は毎日のように作者のサイトを確認しては、新作が投稿されるたびに、匿名で感想を送った。

 社交辞令かもしれないが、作者は律儀に僕の感想をよろこんでくれた。

 僕のようなしがない読者の感想ですら、よろこんでくれる人がいることがうれしかった。純粋に好きな漫画を生みだす神さまのような人と交流できている気にもなり、僕の日々は充実した。

 凡人たる僕がハマるくらいなのだから、その人の漫画のポテンシャルは非常に高かったと言える。普遍性があったのだ。

 徐々に人気がではじめ、気づくと固定のファンが一万人に迫る勢いだ。

 僕の感想が影響していたのかは定かではない。

 ほかにも津波のようにファンからの言葉が、作者に送られた。作者からの返信は個別にはなくなり、ごく稀にまとめて、ありがとうございます、と書かれるようになった。

 古参のファンとしてはしょうじき面白くなかった。

 作者はどうやら女性らしく、そこはかとなく僕は恋心を抱いていたのだった。

 ファンのなかの一人ではなく、僕は僕として作者に認知されたいと望むようになっていた。僕は毎日のように、作者へファンレターをつづり、電波越しにそれを送った。

 しかしなぜか、あるときを境に、急にパタリと新作が更新されなくなった。

 作者に何かあったのかもしれない。

 音沙汰のなくなった作者へと僕は、心配している旨を、やはり毎日のように送った。

 せっかく潤いはじめた日々が、また乾きはじめた。

 陰々滅々と日々の生活から色が抜けてきたところで、久方ぶりにモモチから連絡が入った。

 僕は誰からでもよいから無条件の肯定をもらいたかった。

 二つ返事でモモチと会う約束を取り交わし、そうして今宵、この場に馳せ参じたわけである。

 待ち合わせのファミレスに着くと、すでにモモチは座席に着いていた。

 僕の顔を見るなり、彼女はぱっと笑顔になり、両手を振った。細かくパタパタと蝶々が羽ばたくような動きに、どことなく懐かしさを覚えた。

「久しぶり」

「ほんとだよー。ぜんぜん会ってくれないんだもん」

「ちょっと忙しくて」

「社会人はたいへんだねー」

 言われて気づく。

 モモチはまだ大学生なのだ。

 見た目も垢抜けて、ますますじぶんとの差異が浮き彫りになる。

 違う世界に息づく住人のようだ。

 本来、交わるはずのない縁が、過去に偶然、家が隣だったというだけのことで交わってしまったといった感覚が湧く。ゆびで瘡蓋をなぞれば、似たようなざらつきを感じるだろう。

 ハンバーグセットを注文し、食事をしながら互いの近況を聞き合った。

 主に僕がモモチからの質問を受け、それに答えた。

 恋人はいるのか、仕事はどうなのか、いまはどこに住んでいて、いつ連れて行ってくれるのか。

 ほとんど誘導尋問じみていたが、僕はそれらに律儀にも答えていった。

 ひとしきり話し終えると、モモチは両手を掻き合わせ、そっかぁ、とほころびた。

「恋人いないんだねぇ。仕事も忙しくて、寂しそう」

「寂しくはないよ」言ってから、つよがりだ、とじぶんで気づく。「モモチはいるの、恋人」

「いるわけないっしょ。だってどこかの誰かさんが私のこと振るから。こてんぱになるまで」

「こてんぱにしたつもりはないよ」

「ズタボロなんですけど。責任とって」

「はは」

「笑いごとじゃねぇっつの」

 半笑いで膨れながら、モモチはテーブルの下で僕の脛を蹴った。

 子どものころに戻ったようで、本音を漏らせば、癒された。旅先で偶然にむかし家で飼っていた、しかし逃げだして行方知れずになったペットの犬に出会えたときのような心境だ。むろんそのような体験をしたことはないので、想像にすぎないが。

「モモチこそ、さいきんは何してるんだ。サークルとかは?」

「入ってないよ。ずっと一人。なんか疲れちゃうんだよね人といっしょにいるの」

「僕はいいのかよ」つっこむも、

「いっしょにいたいと思うから好きなの」モモチはうつむき、ストローを吸うが、中身はとっくにカラになっている。「お代わりしてこよ」と彼女は席を立った。

 学芸会で緊張する小学生のような歩き方だ。彼女はドリンクサーバーのまえに立つ。

 動作やちょっとした仕草は変わらずで、見た目ばかり僕の知らないモモチになっていく。

 物寂しさと、やはりというべきか、僕にとってはどうあっても彼女は馴染み深い身内でしかなく、彼女の求めるような関係にはなれないのだと確信した。

 どうして彼女が僕のような人間をいつまでも慕ってくれるのか。

 ひょっとしたら、逆なのかもしれない、と思いもする。 

 彼女は僕を高く評価しているのではなく、低く評価しているがゆえに、僕のような男から袖にされたと信じたくなくて、意固地になって射止めようとしているだけなのではないか。

 だからいざ射止めてしまったら、案外に呆気なく振られてしまいそうにも思えた。

 じっさいにいちどくらいは付き合ってみてもいいのかな、と想像を逞しくするも、どの道いまの関係とそう変わらず、そのあまりの変わらなさに彼女のほうで業を煮やし、腹を立て、けっきょくはいまよりもこっぴどい思いをしそうに感じ、やはりいまのままでいたほうがよいのだ、と考えをまとめた。

 僕はどうあっても彼女と恋人になることはできない。

 それを承知のうえで、いまなお彼女は僕に執着している。

 ひょっとしたら、いくら執着したとしてもけっして結びつくことなくそれでいて絶縁されることもないいまの生ぬるい関係に、彼女のほうこそ満足しているのかもしれなかった。

 ジュースをグラスに並々入れ、モモチが戻ってくる。

 零さないように両手でグラスを抱え、抜き足差し足で歩く姿は愛嬌があり、見る者が見れば一瞬で惚れてもおかしくない愛嬌がある。

 だがどうあっても彼女とキスだとか、それ以上の恋人らしい接触を果たすじぶんは想像できそうになかった。

「おいしょっと」席に座ると彼女は僕を見て、「え、なに?」と片頬だけに笑窪をあけた。「なんで笑ってんの」

「いや、すこしむかしを思いだして」

「むかしってどんくらいむかし?」

「どんくらいかな」ハンバーグを米に載せ、フォークで刺して頬張る。咀嚼しきってから、「モモチは卒業したあとのことって考えてるのか」と話を逸らした。いや、まさに僕はそのことが訊きたかったのかもしれない。

「わたしはふつうに就職するよ。夢とかもないから、まあ雇ってくれるとこがあればそこって感じで」

「手当たり次第にするわけか。就活を」

「たぶん」

「いまはじゃあ、企業説明会で忙しいんだな」

 当然忙しいのだろうと思い、たいへんだよな、と労ったのだが、

「うんみゃ。わたし、まだしてないよ」

 びっくり仰天の答えが返ってきて、閉口する。

 モモチはこちらの呆れともつかぬ反応を察したように、

「あ、そうじゃなくって」と弁解した。「わたし、いまちょっと忙しくって。バイトというか、副職じゃないけど、趣味というかちょっとね」

「へぇ。モモチにも趣味ができたのか。あれ、でもサークルには入ってないんだよね」

「うん、そう。一人で寂しく、ちまちましてます」

「ちまちましていましたか」僕は笑う。「その趣味ってなに。どんなの。ふつうに気になるな」

 いやぁ、と一応は気恥ずかしそうにするモモチだが、僕が興味を示したのがよほど珍しかったのか、じつはねぇ、と乗り気半分、逡巡半分といった具合に、メディア端末を取りだし、画面に一つのサイトを表示した。

 そこには、僕の見知った絵があった。

 漫画だ。

 毎日のように眺めている、例の、大好きなアマチュア漫画家のサイトだった。

 僕は反射的に、モモチもこの漫画家のファンだったのか、と思った。

 ひょっとしたら僕のことが好きすぎて、どこかで僕がこの漫画家の大ファンだという情報を掴んだのかもしれない、とおそろしい考えも浮かんだが、それはあり得ないと知っている。

 僕は誰にもこの漫画家のことをしゃべったことがなかった。

 じぶんだけのものにしたいと独占欲を暴走させるほどに、人に知ってほしいと望むよりもいまは知られたくない気持ちのほうが肥大化しつつあった。

 だから確信できた。

 モモチも何かの拍子にこの漫画家の作品に触れて、ファンになったのだな、と。

 不自然ではない。

 それだけの魅力がこの漫画家にはあった。彼女の描く漫画にはあったのだ。

「へぇすごいね」僕は偶然の神秘に驚嘆したつもりで言った。

 ところがモモチときたら何を勘違いしたのか、すごくないよ、と照れ臭そうに鼻の頭を掻くのだった。

「趣味でね。描きはじめたらけっこうハマちゃって。いつの間にかこんなんなっちゃった」

 ポチポチとつぎつぎに画面に漫画を表示させていくモモチだが、言動がおかしい。

「おもしろいよね、それ」僕は違和感を引きずりながら言った。

「うん、ホント。なんかね。まさかじぶんが何かを作る楽しさを知って、ハマるなんてこと思ってなかったから、びっくりしてて。でもホントそう。おもしろいんだよね」

 創作。

 モモチの言葉に、僕は、遅まきながら僕と彼女とのあいだに開いた隔たりを察した。しかしすぐには呑み込めない。

 え、モモチ。

 おまえこれの管理人なの?

 おまえがこれの作者なのか?

 そんなバカげた質問を僕はじぶんの口から放てなかった。 

 僕が無言で画面を見詰めているからか、モモチはすこし居心地がわるそうに、なんかさいきんさ、としゃべりはじめた。

「やっかいなファンというか、アンチじゃないんだけど、ちょっとしつこい読者さんがいてね。匿名でメッセージ送ってきてて、たぶん全部そのひとだと思うんだけど、毎日くるの。で、それがさあ、もうこわくって」

 タタン。

 モモチの指が画面に触れ、テキストが表示される。

 僕は、全身の血が逆流したかのような、熱とも冷たさともつかない痛みを覚えた。

 見覚えのある文面だ。

 僕はそれのすべてに目を通さずとも、何と書いてあるのかを即座に理解できた。

 否、思いだせた、と形容したほうが正しかった。

 それは僕が、大好きな漫画家さんに送ったファンレターともラブレターともつかぬ感想文だった。

「もうこういう感じのがずっと、毎日、返信すらしてないのにきてて。やめてとも言えないし、でも怖いから最近は漫画のほうも更新してないんだけど」

「そう、なんだ」僕はかろうじて応じた。「こわいね。ストーカーじゃないの」

 口にしてから、違うんだそうじゃないんだ、の内なる声に押しつぶされそうになる。

 言いたい。

 違うんだ。

 そうじゃないんだ。

 ただただ好きで、好きで、あなたに知ってもらいたくて、ただあなたにしあわせになってほしいと望んでいただけなんだ。

 あわよくば、そう、たしかに、あなたからもたいせつな存在として思われたかったが、しかし怯えさせたかったわけじゃないんです。

 僕は頭のなかの大好きな漫画家へ釈明しながら、未だに目のまえの現実を処理しきれずにいた。

 モモチなのか。

 本当に?

 きみがあの、例の、僕の大好きな、あの作家さんなのか。

「あ、ごめん。愚痴っぽくなっちゃった。でもそう。大学入ってからはこんな感じで、ずっと一人で忙しくしてたりもしてて。就活もだからサボるじゃないけど、まだいいかなって。あはは。ホントはダメだけどね」

「プロにはならないの」僕は訊ねた。気を抜くとモモチ相手だというのに敬語を使いたくなる。もはや目を合わせられない。じぶんが虫けらのように小さくなった気がした。

「ならないよ。ちゅうか、なれないっしょ」

「いや」

 なれる。

 なるべきだ。

 叫びたかったが、それは同時に、彼女のまえで、僕が彼女の熱心なファンだと明かすようなものであり、それは遠からず、彼女を困らせた粘着質な読者が僕だと知られる危険を高める、愚行と言えた。

 僕は彼女に嫌われたくない。

 僕の大好きな偉大な作家にして漫画家、癒しの権化に嫌われたくはなかった。

 すでに嫌われていたらしい事実と、しかしそれが現実の僕と結びついていない幸運とのあいだに、僕は板挟みとなった。

「あーあ。漫画描くのは楽しいけど、本当はもっと現実が充実してたらよかったのにな」モモチはメディア端末を仕舞った。「誰かさんにいっぱいこてんぱんにされちゃったから、創作意欲が湧いて湧いて困っちゃう」

「それは、でも」

「うそうそ。ただ、どうせ執着されるなら、もっと大好きな人がよかったなぁって思ってさ」

 いたずらに指で頬を突つくような言葉をモモチは吐いた。

 背中がぞくぞくした。

 愛撫されたような多幸感を覚えたが、寄せた波が返すように、気分が塞ぐ。

 暗に僕は、神に嫌われたのだ。

 そして神だと思っていた相手は、僕がぞんざいに扱いつづけてきた昔馴染みの女の子だった。

 嫌いではない。

 だがどうあっても恋愛感情を抱けないと自分自身に豪語してきたにも拘わらず、僕はいま、目のまえに座る昔馴染みの女の子が、女神のごとく煌々と輝いて見えている。

 触れたい。

 いますぐ抱きしめ、できることなら僕のものにしてしまいたい。

 しかし、果たして受け入れてくれるのだろうか。

 モモチは。

 いまさら手のひらを返した僕のことを。

 或いは、忌み嫌った粘着質なストーカーの中身が僕であったと知って。

 それでもこれまでのように、僕を慕ってくれるのだろうか。

 急におそろしくなった。

 これまでの関係が崩れることを。

 それでいて、また彼女から告白されたときにもし普段通りに僕が拒んだら、彼女が僕からの好意に気づかずに、諦めてしまうかもしれない可能性に。これまでのような奇跡が巡ってはこなくなるかもしれない事実に。

 僕は怯んだ。

 とんでもない時限爆弾を仕掛けられたかのごとくおそろしさだ。

 僕は湧いた恐怖をどう扱っていいのか分からなかった。

 黙っていれば済むことだ。

 僕が彼女の熱心な読者であることなど、まるでなかったかのように彼女の告白を受け入れ、何食わぬ顔で恋人になってしまえばいい。

 しかし、それができるほど、僕の、女神への想いは低くはなかった。

 小石を割ったらダイヤが入っていたかのような衝撃だ。

 とっくに腐りきった縁かと思っていた。

 しかし錆びた鎖には、サファイヤが昂然と輝いていた。

「あーあ。しあわせになりたい」

 恋人欲しいなぁ。

 目のまえで乞うように唱えるモモチの、熱っぽい眼差しを、どうしても僕はもう、いままでのように見詰め返し、受け流すことができずにいる。




【父の波紋】

(未推敲)


 父の遺品を整理していたところ、音楽再生機を見つけた。

 チロルチョコくらいの大きさで、ワイヤレス機能のついていない古い型の機器だ。

 コード付きのイヤホンを差して聴く仕様で、ちょうどイヤホンと充電器が揃っていたので、何気なく電源を入れ、音楽を再生させてみた。

 聴いたことのない曲だ。

 ロックともヒップホップともつかない曲調で、最初の印象は、うるさいな、だった。

 けれど曲を変え、また変えてと、つぎつぎに聴いていくと、徐々に病みつきになる。

 どの曲も同じアーティストの曲らしい。

 一万曲ちかくも入っており、じつはとんでもなく偉大なアーティストなのかもしれない。

 私は音楽の道に明るくない。

 知っているむかしのアーティストと言えば、ビートルズくらいが関の山だ。

 いったいなんというアーティストなのだろう。

 父の遺品は古い型ゆえ、曲名やアーティスト名が表示されなかった。というかそもそも画面がついていない。

 本当に音楽を再生させるためだけに特化した機器だ。かろうじて楽曲数が機器の側面に数字となって浮かぶだけだ。

 好きな曲を指定して再生させることもできず、ひたすらポチポチとボタンを押して、これじゃないしなこれでもないしな、と順番に探していくしかない。

 自前のメディア端末には音楽検索機能がついている。曲を流せば、インターネットの膨大な情報力を以って、鼻歌からですら曲名を探しだしてくれる。

 私は音楽検索機能を使って、父の遺品に入ったアーティストを特定しようと試みた。

 イヤホンから最大音量で曲を流す。

 しかしいくら検索しても候補の曲すらあがってこなかった。

 曲はちゃんと認識されているようだ。

 該当曲が見つかりません、とでる。

 私がそうやって父の遺品整理をそっちのけで音楽を聴いていたからか、母が部屋に入ってくるなり、

「まあ、すごい」と感嘆した。「ぜんぜん片付いてない」

「ねえこれ。お父さんの持ち物っぽいんだけど、誰の曲か知ってる?」

「んー?」

 母は膝を畳んで床に座ると、どれどれ、とイヤホンに耳をはめた。

 私は音量を小さくし、しばらく母の横顔を眺めた。

 目じりの皺が、流れた年月を否応なく私に突きつけるようだ。もっと父の顔もよく見ておくんだった。父にも母と同じような皺が刻まれていたはずだが、私はそれらをじっくり眺めることすらしなかった。

「ああ、懐かしい」母は私の見たことのない笑みを浮かべた。無邪気な子犬のような笑みだ。子どもみたいだな、と私は思った。

 曲を聴き耽る母に、私はじれったくなって肩を揺する。

「ねぇってば。それ、有名なアーティストなの? 名前は?」

 検索する気満々でメディア端末を構えると、母はイヤホンを片耳からだけ外し、やぁねぇ、とちいさく噴きだした。梅干しの種でも飛ばすような仕草だ。

「これ、お父さんの曲よ」

 私はきょとんとする。

 母はなぜかそこで、

「作曲者イズあなたのファザー」とあんぽんたんに言い直したので、なんだ冗談か、と一瞬思った。

「で、なんていうアーティストなの」

「ま。信じてくれてない」

「いやだって明らかプロの仕業でしょそれ」

 我が父の作曲した音楽だとはとうてい思えない。

 父が鼻歌を奏でていた姿すら私は見た憶えがなかった。

「本当にお父さんがつくったんだよ。だってお母さん、それでお父さんとお付き合いするようになったんだもの。ま、生まれるのが五十年くらい早すぎたのかもしれないわね。さっぱり売れなくて、諦めちゃったみたい」

「ホントに?」

 母がどこまで本気なのか判断がつかない。未だに信じられない。我が父がこれらの曲をつくったなどと。

「いやだってこれ、私ですらいい曲だってわかるよ」

「むかしはそういう感性を持つひとがすくなかったのね。ま、時代よね」

「あっけらかんとしてますなぁ」

「だってもう、お母さんもお父さんも、あなたが産まれてきてくれたから、それで満足しちゃったから」

「じゃあお父さん、私のせいで音楽辞めちゃったってこと?」

 言い訳にされたように聞こえ、ちいさく憤慨する。

「違う違う。そうじゃなくって。音楽に頼らなくとも日々のしあわせを見つけられるようになっちゃったのね。あ、でもこれ、初めて聴く曲かも」

 母はイヤホンをもういちど両耳にはめ直した。

 音量はちいさいので、その状態でも私の声は聞こえるはずだ。

「一万曲くらいあるよ」私は言った。

「え、そんなに?」母は目を点にすると、こんどは一転、やわらかく目じりを下げた。「じゃあこっそり作ってたのね。曲。きっとそう。お母さんにも内緒でまったくあの人は」

 言われて気づく。

 そう言えば、音楽再生機は古い機器の割に、埃が錆びといった汚れが目立たない。直近まで使われていた節がある。

 充電とて、繋がずともけっこうな量が残っていた。

 誰にも聴かせることなく、父は亡くなるまでのあいだに音楽と戯れていたのだ。

 私は未だに半信半疑ながら、しかし父の作っただろう曲を、母からイヤホンを片耳だけ譲ってもらい、共に聴いた。

 父が亡くなって半年が経とうとしている。

 まったくあの人は、と私も母も以心伝心同じことをぼやいている。

 私たちにも知らせず、じぶんだけこんなに素敵なもので遊んじゃって。

 遺品整理がされたときに、じぶんの娘の目につくだろう場所にこっそり放置しておくそのそこはかとない自尊心も、父らしいと言えば父らしかった。

 お、見つかっちゃったな。

 父のしてやったりの顔が目に浮かぶようだ。

 曲が、私の内面世界に根を伸ばす。

 父の深淵な森のごとく連なりが、波のように、雨音のごとく、私の知らぬ色彩を、私の輪郭の隙間を縫って、じんわりと染み入ってくる。




【トトトの帰還】

(未推敲)


 長い宇宙の旅からようやくトトトは母なる星、地球へと帰還した。

 光速の九十九パーセントに達するほどの超高速飛行で、およそ三十年間もの長旅であった。

 人類史上で最も地球から離れる人類として、トトトは地球を出発する前から英雄として称えられた。

 とはいえ、超高速飛行ゆえ、船内でトトトが三十年を過ごすあいだ、地球ではさらにおおよそ七倍もの時間が経過する。

 一般相対性理論における時間と空間の関係がそうしたウラシマ効果を顕現させる。

 すなわち、トトトが地上へと帰還したときには、出発した日より二百十年が経っていることとなる。

 現に、トトトが地球との交信可能範囲に入ると、おかえりなさい、の労いの言葉と共に、迎えの宇宙船が周囲を囲んだ。

 そのまま地上までトトトは何もせずに誘導された。

 地球の衛星上には数多の宇宙ステーションが浮かび、地上へとケーブルを垂らしている。宇宙エレベータだ、と察する。

 二百年余りの年月は、人類を指数関数的に発展させたようだ。

 これはすなわち、大きな戦争が起きずに済んだことを示唆する。

 順調に発展しつづけてきたようだ。

 トトトは、宇宙船内にて、新たに受信した地球の歴史をざっと振り返り、母星を離れていたあいだに流れた時代の変化を学んだ。

 とはいえ、大筋を辿るだけでも一苦労だ。

 人工知能がおおむねの労働を代替し、いまは金銭を得るために働く者はいないという話であった。

 なかでも、エネルギィ問題と食糧問題が解決された、との記述には心底に驚いた。

 詳しい技術を浚おうとしたところ、宇宙船が地上に着いたことを告げた。

 いよいよ大地を踏むことができる。

 感極まり、トトトは涙を流した。

 宇宙船の扉を開き、トトトはそとにでた。

 大勢の観客がいるかと身構えたが、そういう雰囲気はなく、ぽつん、と一人の出迎えがあるばかりだった。

 しかもどうやらその一人も人間ではないらしい。

 敢えて人間ではない、と分かるようなデフィルメされた造形の二足歩行ロボットが、おかえりなさいませトトト様、と合掌した。

 それがいまふうの挨拶らしい。

 トトトは合掌し返し、宇宙船を下りた。

「出迎えありがとうございます。あの、ほかに人間はいないんでしょうか」

「はい。トトト様の時代とは違い、いまは人と人とが直接に会うことがすくないのです」

「なるほど」

「トトトさまのエッグまでご案内差し上げますね」

 どうぞこれにお乗りください、と案内役が板状の物体を取りだした。地面に置く。板状の物体は瞬く間に椅子に組みあがる。ハンドルがついており、タイヤのない自転車といった塩梅だ。

 言われるがままに椅子にまたがる。

 パリパリと周囲にモザイクの壁が現れ、椅子ごと身体が包まれた。

 一瞬の浮遊感が襲う。

「では参りましょう」

 案内役の声がし、次点で顔の部分のモザイクが透明になった。

 外部が見える。

 空を飛んでいる。

 案内役もまた身体の周囲を球体で囲われていた。

 二つの球体が並んで空を移動した。

 すごい。

 羽もなくいったいどうやって飛行しているのか。

 推進力はなんなのだろう。

 皆目見当もつかない。 

 二百年あまりのあいだに技術力はとんでもなく発達したようだ。

 窓のごとく透過した部位をゆびで触れると、するすると移ろった。好きに大きさや場所を操れるらしい。

 足元に持っていくと、地上が遥か下に見えた。

 指で窓を広げるようにすると、枠はそのままで見える風景が拡大した。

 一瞬、急下降したのかと焦ったが、重力変移を感じなかった。

 トトトは、しばらく眼下の様子を眺めた。

 どこまで行っても田んぼが広がっている。

 妙な心地だ。

 二百年あまりが経ったはずだが、地表には都市ではなく、広漠と田んぼばかりが占めている。よく見ると、なんと田植えをしている人々までいるではないか。

 いや、あれらはロボットだろう。

 人間は労働から解放されたはずだ。

 しかしロボットに田んぼの世話をさせるとは。

 人型である必要もないのではないか。

 食料難の解決とは、こうも原始的な作業の自動化によるものだったのか。

 肩透かしを食らった気分だ。

「乗り心地はどうですか」

 案内役の声が聞こえた。

 モザイクの一部に案内役の顔が表示される。

 問題ない、と応じてから、どれくらいで到着するのか、と問うた。

「もう間もなくです」 

 案内役の言う通り、空飛ぶ卵は徐々に降下していった。その様子が透過画面越しに見え、さらに身体に伝わる重力変化からも伝わった。

 やがて、浮遊感が治まった。

 椅子周りのモザイクが細かく剥がれる。椅子から下りる。案内役が寄ってきて、椅子の側面に触れた。椅子は手のひらサイズの板へと折りたたまれていく。

 辺りを見渡す。ここが移住区域のようだ。。

 しかしずいぶんと狭い。個室と言ったほうが正確だ。

 さきほどよりも一回り大きな球体の中である。

 案内役の姿がいつの間にか消えていた。

「ここは?」

「エッグでございます」案内役の声がした。「現在、人類はみなこのようなエッグで暮らしています。一人一空間をあてがわれ、多くの者たちは人生のほとんどすべてをここで過ごします」

「そんなまさか」

「仮想現実です。トトトさんの時代ではまだなかった技術ですが」

 視界が暗転した。

 つぎの瞬間には、だだっ広い空間に立っていた。瞬間移動をしたように感じたが、なるほど仮想現実か、と合点がいく。

 そばに案内役が立っていた。

 なぜか、生身の女性の姿へと変身する。

 ぎょっとしていると、

「わたしは人間ではありません。しかし礼儀として、こちらの世界ではこのような姿をとるのが一般的なのです」と説明がある。

 トトトはじぶんの手のひらを見た。

 こちらはじぶんの手とそっくりだ。これといった変化はない。

「本当に仮想現実なのかな」

「いえ、トトトさまのそれは生身の身体です。あくまで、仮想現実がエッグに投影されているだけです。ただし、五感のすべてが現実とほとんど同じように感じられます」

「本当にどこか別の世界を歩いているように感じるが」

「そう錯覚しているだけで、トトトさまはさきほどのエッグ内から一歩も移動してはおりません」

「なんだか不思議な心地がするな」

「大都市にご案内致しますね」

 案内役は宙に地図を浮かべた。

 立体映像のようだ。

 仮想現実内の任意の場所に移動するためのリモコンも兼ねているようで、トトトが瞬きをしている合間に、景色が一変した。

 懐かしい景観だ。

 トトトがまだ宇宙に旅立つ前の街並みだった。

 人でごった返している。

「街のデザインは、個々人で自由に変えられるのです。同じ街にいながらにして、まったく別の風景を目にしています。とはいえ、街の建造そのものは共通しておりますから、共有している部分のほうが多いと言えます。トトトさまにはまだこのほうがよろしいかと思いまして。慣れてきてから、徐々に現代風のデザインに変えていきましょう」

「たしかにそうですね。助かります」

 しかし、とトトトは思う。「なぜみなさん、髪の毛の色が緑なんですか?」

 みな一様に髪の毛が真緑だった。

 マリモだってもうすこし控えめな色をしている。

「あ、そうでしたね。トトトさまの時代にはまだ、エナフが普及していなかったんでしたね」

「エナフ?」

「現在、人類はエネルギィ供給の意味合いでの食事をとりません。十割、娯楽としての食事があるばかりなのです。何も食べずとも何不自由なく活動できます。そのための身体拡張技術がエナフです」

「髪の毛が緑なのとどう関係あるんですか」

 食事を摂らなくていいことと髪の毛の色はまったく関係ないように思えた。

 案内役はこちらの質問には応じず、

「同調モードに変えますね」と指を振った。

 すると、視界に映っていた人々の姿が、突然に様変わりした。

 髪の毛の色はみな各々違っており、姿カタチも多様になった。

 アニメのような現実味のない姿から、宙を泳ぐ人魚のような姿まである。

「現代では、こちらの世界では誰もが自由に姿を変えられます。ただし、さきほどまでトトトさまに見ていただいた素面モードでは、じっさいのご本人さまたちにちかい造形が視覚に反映されます。もちろんある程度の補正はかかりますが、ご本人さまの顔形とそう遠くない造形がとられます。あまり好まれないモードですが、お使いになられる方もすくなくはありません」

「つまり、現代人はみな髪の毛が緑色だと?」

「はいその通りです」

「それはその、エナフでしたっけ? その技術のせいなんですか」

「はいそうです。宇宙船からエッグまでご案内する際、地上の風景は御覧に入れましたね」

「ああ。田んぼばかりだった」田植えをしていた者の姿まであった。おそらく案内役同様にロボットだ。

「あれはトトトさまの知る田んぼとはすこし違います」

「人ではないんだろ。作業をするのが」

「それもありますが、植えているのが稲ではないのです」

「では何を」

「髪の毛です」

「はい?」

「正確には、エナフに加工された髪の毛です」

 言葉として認識できなかった。田んぼに髪の毛を植える。まったく意味が分からない。

「すまない。まずはエナフが何かを教えてもらっていいですか。話についていけなくて」

「エナフは細胞内共生技術の一つです。生物が進化する過程で、細胞にミトコンドリアが入りこみ共生したように、現在ではさまざまな別種の生き物の細胞を、自在に人類の細胞に植え付けることができます。エナフはそのなかでは葉緑体を人類に植え付ける技術を指します。人類は、髪の毛に葉緑体を取り込み、水と日光さえあれば食事を摂らずに済むようになりました」

「だから髪の毛が緑なのか」

「はい。しかしエナフには一つだけ改善できていない欠点があります。毛根そのものを変えることはできないんですね。それゆえ、生え変わるたびに、エナフ加工された髪の毛は減り、徐々に食事をとらなくてはならない身体へと戻ってしまうのです。それを回避するためには」

「植え替えをしなきゃいけないってことか」先回りして言った。

「その通りです」

「植毛ってわけだね」

「エナフ加工された髪の毛は人工栽培されています。さきほど上空から御覧入れたかと思いますが、あの広大な敷地面積の田んぼはすべて、エナフ加工済み毛髪の養殖地です。ああして毛の苗を育て、人々はエッグ内にて定期的に毛髪を継ぎ足すのです」

「水と光さえあれば食事要らずとはいえ、それだとなんだか味気ない気もするが」

「仮想現実のなかで、架空の食べ物をお召し上がりになることは可能です。味覚や満腹感など、相応に再現されますので、娯楽としての食事がなくなったわけではないんです。ただ、物理的な食事をとることはもうほとんどありません」

「じゃあそのうち胃とか腸は退化しちゃうかもな」

「いえ、どうでしょう。人間の細胞は三十七兆ほどですが、腸内に存在する細菌の数はおおよそ一千兆です。人間は、細胞の数よりも体内に宿している細菌の数のほうが多いんです。おそらく、腸内細菌は人体の健康を保つのに不可欠な要素でしょうから、すっかりなくなることはないと思います。現にいまも、排せつ行為や腸内環境を整えるサプリメントはみなさん活用なさっておいでですからね」

「食糧難は解決してもじゃあ、ほかの問題があるわけか」

「とはいえ、人命にかかわる問題はほとんどありませんが」

「じゃあみんなもう、好き勝手暮らしているんだな。仮想現実のなかで。働かなくていいから、好きに遊んで暮らしているわけだ」

「と、申しますよりも、遊びと仕事の区別がなくなったと言ったほうが正確かもしれません。エナフ毛髪の田んぼは御覧に入れましたよね。そこで毛髪の苗を植えている方々の姿にはお気づきになられましたか」

「ああ。あれもきみみたいなロボットだろ」

「いいえ。ロボットは水気を嫌いますからね。あの方々は、田植えをしたくて、ああして有志で働いていらっしゃるのです」

「人間が? 無償で?」

「もちろん、肉体増強はされていますが、日の下で作業をすることは光合成にもよいので、人気の遊びでもあるんです。ああして身体を動かしながら、思念体だけを仮想現実に飛ばして過ごすこともできますから、全人口の一割くらいの方々は、ああしてみなさんの毛髪を育てるべく、遊んでいらっしゃいます」

「いやいや普通に仕事してるじゃないですか。タダ働きってことですよね」

「いえいえ。みなさん、ほかの方々から感謝されておりますし、広々とした場所で身体を動かせて爽快感を得ています」

「でもなぁ。もしその人たちが気まぐれに一斉に田植えをしなくなったらどうなるんだ。担い手がなくて、全人類が困るんじゃないのか」

「そうなったらエナフを毛髪ではなく、皮膚に永久移植することが決まっています。ただし、肌の色が真緑になりますし、光合成のために皮膚を露出しておかねばなりませんから、まあ抵抗感を覚える方が多いのが実情です。とはいえ、どの道みなさんエッグ内からでませんので、差し障りないと言えば差し障りはございません」

「う、うーむ」

「さっそくですが、トトトさまにもエナフ毛髪を実装していただきたいのですが、構いませんか。許可さえ得られればいますぐにでも、施術致します。トトトさまはそのままエッグ内にて好きにお過ごしいただいて構いません。自動で、いつの間にかといった具合に終わりますが、いかがなさいますか」

「ちょっと考えさせてほしいな」

「構いません。ごゆっくりお考えください。ただし一つだけ注意がございます」

「なにかな」

「ここ、仮想現実内では、食事が可能です。おそらくはトトトさまの思っているような食事がそのままできるのですが、あくまでそれは食事をとっているように身体が錯覚するだけでございますので、現実には刻一刻とトトトさまのお身体は衰弱していきます。早めにエナフ毛髪を実装しなければ、一週間も経たぬ間に衰弱死することが想定されます。どうぞ、お早目のご決断をお願いいたします」

「仮想現実のそとに、エッグのそとにでるにはどうすればいいんだ」

 トイレに行きたくなったらどうすればいい、と訊ねる。

「おトイレは仮想現実内のトイレにてお済ましください。エッグ内にて何不自由なく処理されます。また仮想現実からの離脱に関しては、任意の教習を得て、資格を有してからでなければ適いません。と申しますのも、エッグのそとを出歩くにしろ、仮想現実内での活動が不可欠だからです。いわば、肉体と思念体を別々に動かせるようにならねば、現代においてエッグの外には出られません。そのための免許のようなものがございますので、まずはそちらをご取得ください」

「それをとるにはどれくらいかかる?」

「トトトさまの場合は、現代社会への適応を含め、おおよそ二年ほどかと」

「餓死するほうが先だな。わかった。エナフとやらを植えつけてくれ」

「植毛の許可、ありがとうございます。ではただいまより、トトトさまの毛髪を脱毛し、新鮮なエナフ毛髪に植え替えさせていただきますね」

「痛くしないでね」

「だいじょうぶです。痛覚は切らせていただきますので」

 案内人は、にこりとほころびながら、では街をご案内いたしましょう、と歩きだす。どうやら施術しながらでも動き回っていいようだ。

 これといってとくに身体の変調を感じないが、トトトは案内人のもと、二百十年ぶりに帰還した地球の文化を散策する。

 触れるものすべて虚構であると知りながらも、まるで現実のような質感に、トトトは、いっそ宇宙船にもこの技術が欲しかったな、と孤独な三十年を振り返る。

 未だじぶんの帰還をよろこぶ人類と出会わない。

 それがトトトには物寂しく、同時に、時間の隔たりなどがなかったかのような居心地のよさも覚えた。三十年を費やした偉大な、しかし孤独な長旅よりも、よほど新鮮な驚きに満ちた世界に、トトトはようやくじぶんの旅がはじまったような、ふしぎな高揚に包まれるのであった。




【雪男はなぜ山にでるのか】

(未推敲)


 吹雪であった。

 明智はカモシカの毛皮でできた防寒着の襟袖を掻き合わせ、顔全体を覆う。

 寒い。

 遭難しそうである。

 地面に穴を掘り、カマクラを造って潜り込む。風除けができるとだいぶマシになる。暖かい。雪の礫に身体を打たれないだけで極楽だ。

 荷から寝袋を引っ張りだし、明智はそれに包まった。

 明け方にはやんでくれるだろうか。

 風音は轟々と呻り、横殴りの雪はいっそう勢いを増した。

 明智が山に入ってから三日が経とうとしている。

 ことの発端は、知人の猟師からの相談だった。なんでもとある山に得体の知れない生き物が住み着いており、里の物はおろか、山の獣たちまで逃げだした。誰も近寄れない空白地帯になっている。獲物を仕留めれば謝礼がたんまり出るが、いまのところ誰も手を挙げない。おまえはどうだ、とそういう誘いであった。

「なんで誰も行かないんだ。おめが行ってもええべ」

「明智はん。ここだけの話、バケモンらしいんですわ」

「バケモン? 山に居ついたのがか?」

「へえ。見たやつがおって、そやつの話じゃ、雪男っちゅう話でしたわ」

「何を寝ぼけたことを」

「しかし、鉄砲も効かんっちゅう話じゃて」

「外しただけだろ。それに熊とて弾の当たりどころによっては物ともせずに突進してくる。獣はみな頑丈だ」

「そりゃ承知してやすがね」

「まあ、マタギのおぬしが言うのだからまったくの嘘っちゅうことでもないんだろうが」

「へい。わしの勘が言うておりやす。あそこにゃ魔物が棲んでおりやすよ」

 一目置いていた猟師が言うのだ。山に居ついた生き物の正体が何であれ、大物であることは間違いない。

 なれば、明智の腕が疼くのも詮無きことと言えた。

 明智はそれから子細な事情を聞き、くだんの山へと踏み入れた。麓の里はもぬけのカラで、本当に住人たちは村を捨てて避難したのだ。

 実害があったという話は聞かない。

 だが山から獣が消えたことで、里での暮らしが成り立たなくなったのだろう。生態系の頂点に立つ獣たちがごっそりいなくなれば、森の恵みはずいぶん減る。

 それだけでなく、夜な夜なおそろしい声を聞くとも言う。

 隕石が落下しただの、未確認飛行物体を見ただの、胡散臭い噂話も飛び交っていたようだから、里の者たちはよほど錯乱していたのだろう。

 明智は里には留まらず、山へと踏み入れた。

 三日を掛けて、雪男の目撃された地点を順繰りと巡った。

 夜中、たしかに寝ていると、風の音のごとく、ぼぉーぼぉー、と妙な声が響いた。狼の遠吠えではないし、熊の鳴き声でもない。もっと管の太い何かを空気が通って吐き出されるような、楽器じみた印象を覚えた。

 トロンボーンに似ているな。

 明智は冷静に鳴き声のした方向を確かめ、翌日はその方向に足を伸ばした。

 大陸を東西に二分する山脈だ。片側から湿った空気が年中流れてくるため、山頂付近は夏でも分厚い雪に覆われている。

 いまは冬である。

 明智がバケモノ退治にいちどは戸惑った理由がそれだった。

 冬山の恐ろしさは誰より弁えている。

 だが目撃譚の新鮮なうちに山に入らねば、獲物と遭遇する確率はぐっと下がる。標的の行動範囲が読めないし、里が無人となったいま山に入る者もいない。となると目撃譚は途絶えるだろう。

 むかしを思いだす。十年以上前のことだ。北方の大陸から渡ってきたらしい、五メートルを超える熊を明智は仕留めたことがある。正直なところ、日々の暮らしに飽いていた。

 血肉湧き踊るような体験がしたい。

 あのときの死が煮え立ち、生の燃えるような瞬間をふたたび味わいたい。

 いっそ死んでも構わない。

 さすがにそれは言い過ぎではあったが、しかし嘘と一蹴できずにいることもまた事実だった。

 悩んだ末に、悩みながらも、身体は狩りの支度を済ませ、気づけばこうして山に踏み入っていた。

 しかし四日目にして吹雪に行く手を阻まれた。

 山の天気ばかりはどうしようもない。

 明智ほどの手練れともなれば、空気の湿り具合や、風の向き、強さ、雲の動きを読めばそれなりに天候の悪化を予見はできる。しかし、予見できたところで、未だ狩りは終えていない。下山するより、留まったほうが楽である。

 仮にこれがエベレスト登頂ともなれば、すこしでも無理だと思った時点で下山する。

 しかしいまは登頂が目的ではない。名誉もいらぬ。

 ただただ獲物を仕留めたい。

 カマクラの中で夜を越える。

 簡易コンロで氷を融かし、湯をつくる。湯たんぽにすれば凍死することはない。固形スープの素を融かして、栄養を摂りながら、身体の内側から暖をとる。

 生き返った心地だ。

 火を消し、横になると、十秒も経たぬ間に、うつらうつらとまどろんだ。

 吹雪の音が子守歌のように世界を微かに塗りつぶす。

 声がした。

 鳴き声だ。

 雪男が吠えている。

 否、雪男の姿は目にしたことがない。見えるわけがない。ここはカマクラのなかだ。寝床のなかだ。寝ているのだ。

 なればこれは夢か。

 いや、違う。

 ぱっと目を開ける。意識が追うように覚醒した。

 寝転んだままで耳を澄ます。吹雪はつづいている。しかし、ザクザクと明瞭に、カマクラの外を出歩くナニモノカの足音がある。

 この吹雪である。足場は相当に深く、不安定なはずだ。それを物ともせず、ナニモノカがズカズカと歩いていると判る。

 カモシカか、と想像するが、音が妙だ。カモシカならばこの深さの雪を進むときは、胸で雪を押しのけ進む。このような音は鳴らないはずだ。

 足音がする時点で、二足歩行だと判る。獣ではない。

 日中に溶けた雪は夜になればふたたび凍り、さらにその上に雪が積もる。そのため、上から踏みつけるとザクザクと足音がするのだ。

 歩幅からして、相当に大きい生き物だと判る。

 以前に死闘を交えた巨大な熊を思いだす。よもや、と思う。類種の熊であろうか。この山にそれほどの巨体を維持できる餌があるとは思えぬが、獣たちがこぞって山から逃げ出したことを思えば、さもありなん、と思いもする。

 仮に熊であるならば、いちどこのままやり過ごすのが正解だ。

 しかしひと目その姿を確認しておきたい。

 吹雪で足跡はすぐに消える。

 なればこそ、正体を明らかにしておくべきではないか。

 保身をとるか、利をとるか。

 明智はイチかバチかの賭けにでた。吹雪で臭いは掻き消される。音も気取られることはないだろう。カマクラの中にいるからこそ明智は外の物音に気づけたが、吹雪の中に立っていたならば、仮にそばでラッパを吹かれても気づけるかどうか。

 そういう意味では、なぜ標的が吠えているのか、謎である。

 仲間がいるのか。

 それとも単なる習性か。

 ややもすれば吹雪に苛立ち、威嚇しているのかもしれない。

 もしそうならば、知能は熊以下と言えそうだ。

 明智は力なく笑い、緊張を和らげる。

 銃に手を伸ばし、いつでも撃てるように備える。

 ひざ元に銃を置き、カマクラの壁めがけて指を伸ばす。

 指で目を潰すのと同じ動きで、内側からカマクラの壁に穴を開けた。

 穴から寒風が吹きこむ。

 笛に似た音が鳴り響くが、それが果たして穴を開けたせいで鳴っているのか、風の音が元々それくらい大きく鳴っているのかの区別はつかなかった。

 覗き穴を作り、そこから外の様子を窺った。

 時刻は夜更けだ。月明かりもない。仮に満月であったとしてもこの吹雪では新月との差はあってなきがごとくだ。

 足音に耳を澄まし、目をそそぐ方向を探る。

 そう遠くはないはずだ。

 カマクラの背後を歩かれていたらそもそもこの穴からは見えないが、大丈夫だ。足音はこちら側から聞こえる。のみならず、鳴き声だろう、骨を掴まれるような重低音が身体の芯まで響くのだ。

 まるでゾウだ、と身構える。

 以前、動物園で間近に見たゾウが鳴いたとき、このような響きを身体の奥底に感じた。

 バケモノの名に恥じない声量である。

 明智は目を凝らした。暗い。何も見えない。

 だがたしかに目のまえを何かが通った。

 大きい。

 全身の毛穴が閉じた。ゾクゾクと刺すような悪寒が駆け巡り、それが一向に薄れない。

 ただでさえ極寒の環境だ。

 ガチガチと口が高速で噛み合う。カスタネットのようだ。じぶんの意思ではどうしようもできなかった。強く歯を噛むことでかろうじて抑えたが、もはやじぶんの身体を支配下に置けなかった。

 もしいま襲い掛かられたら、と思うと、嫌な汗が滲んだ。

 銃を握りしめ、耳を欹てる。ただ獲物が遠ざかるのを祈ることしかできない。

 徐々に足音が小さくなっていく。

 行ったようだ。

 だが気は抜けない。

 明智は寝床に横になりながら、

 いったいあれはなんだったのだ。

 見たばかりの、巨大な影の正体に思いを巡らせた。

 翌日、目を覚ますと、雪の壁越しに陽が透けていた。晴れたようだ。ほっと胸が軽くなる。

 明智は昨晩そうしたように、壁に穴を開け、そとの様子を窺った。

 安全なようだ。何もいない。

 ひとまずそのまま湯を沸かし、身体を温めがてら、朝食をとった。

 それから袋に小便をし、それを湯たんぽ代わりにして、外にでた。

 周辺を見て回る。

 だいぶ雪が積もった。じぶんの足跡もそうだが、そのほかの痕跡も見当たらない。一面が真新しい雪の絨毯だ。陽を受けて細かく輝いている。

 バケモノがどちらに去ったのかは分かっている。

 ひとまずそちらのほうへ行ってみよう。

 明智は荷を抱え、歩きだす。

 ここがバケモノの縄張りの範囲内であることはハッキリとした。あとはいかに痕跡を発見し、追跡できるのかが要となる。

 食料にはまだ余裕がある。

 水は雪を融かして飲めばいい。

 久しぶりの大舞台、死を予感するほどの狩りに血が滾った。休憩するたびに熊の肝の干し肉を食らい、精力をつける。マムシの干し肉もよいが、あれはなぜか獣を遠ざける。臭いはしないはずだが、何か獣どもの警戒心を呼び起こす粒子が漏れているのかもしれない。

 森林限界を超えた。とはいえ、元々が木々のすくない岩場である。吹雪がやんでしまえば見晴らしがよく、平野を挟んで海まで地平線を望めた。

 仮に、と明智は疑問する。

 雪男がいるとして、一匹のはずはない。

 群れで暮らしているにしろ、はぐれているにしろ、どこかに同種の生き物がいるはずだ。しかし目撃譚では、いずれも一匹だ。それぞれ別の個体が目撃されたのかもしれない。一目でバケモノと直感させるくらいの姿かたちをしていたのならば、複数体いるにしろいずれも生半可な装備では仕留めることは適わないだろう。

 あらゆる状況を前以って想定しておくのが生き残るコツだ。

 それでも想定外はなくせない。

 だが訪れる想定外の数は減らせるはずだ。

 明智は雪男が、熊やほかの獣である可能性を筆頭に、真実に未確認の生物であるかもしれない可能性とて当然考慮した。とすれば、銃では倒せないかもしれない。念のために即効性の毒を持ってきたが、ナイフに縫って使うよりいまのところは術がない。

 接近戦になっても倒せる相手だろうか。明智とて無傷では済まされない。

 当初は、ひょっとしたら雪男が、山で暮らす人間である可能性も考えていた。しかしそんな甘い考えは、昨晩に目撃した巨大な影、唸り声、足音によって容易に覆った。

 人間であるわけがない。

 仮にあれが人間であったならば、いまごろ世界中の登山家のトップに君臨しているはずだ。超人的な体力に、適応能力だ。

 極限の環境のなか、吹雪を物ともしない生物を、あいにくと明智は知らなかった。カモシカや熊ですら、蹲って身動きをとらなくなる。

 吹雪のなかを歩き回り、吠え散らかすなんて生き物は、明智の知るかぎりこの地上にはいなかった。

 よもやマンモスではあるまいな。

 ゾウに似た鳴き声を思いだし、その可能性を閃くが、そこまでくるともはやなんでもアリになってくる。現代に太古の生物が生き残っていたと考えるよりかは、まだ未確認生物たる雪男説を指示したい。

 絶滅した生き物が生き残っている確率よりも、誰にも見つからずに生き流れ続けてきた種がある確率のほうが高い。

 環境に適応できないから種は滅ぶ。

 逆から言えば、環境に適応できてしまえすれば、いかな過酷な環境のなかでとて生き残ることはできる。

 過酷な環境であればあるほど人は近づかない。発見が遅れても致し方ない道理だ。

 とはいえこれはとびきり、空想に寄った想像だ。

 雪男など、いるわけがない。

 明智の理性はそう唱えるが、しかしどうしても昨晩の体験が、雪男説を一笑に伏す真似をよしとさせてくれない。

 地図を取りだし、捜索範囲を絞っていく。

 しかし分からない。

 この山にナニカシラの巨大な生き物が生息しているのは確かだ。巨体を維持するには相応の餌がいる。いったいこの冬山で何を食べているのだろう。

 ふつうは巨体の持ち主は冬眠する。クマがそうである。シカや兎とて、木々の皮や根を食べて飢えを凌ぐ。

 森林限界を超えた場所に棲みつく生き物がいるとは考えにくい。

 だが現にいたのだ。

 吹雪のなかを歩いていた。

 謎は深まるばかりだが、発見してしまえば済む道理だ。

 風が吹き、雪原から細かなキラメキをはぎ取っていく。風のうねりが目に映る。

 ふと、白いモヤとなったキラメキの向こうに一本の木が見えた。

 あんなところに一本だけ生えているなんて妙だな。

 明智はぼんやりと眺めた。

 木が動く。

 全身の血がカっと熱を持ったのが判った。

 木ではない。

 あれは。

 生き物だ。直立不動で立っている。

 顔はこちらを向いている。

 見られている。

 ドクドクと心臓がけたたましく鳴った。

 目覚まし時計を連想するが、その連想にこれといった意味はない。脳が、過去の経験から手当たり次第に活路に結びつく記憶を引っ張りだそうとしている。冷静なじぶんがじぶんを俯瞰している。

 銃を構えるべきか。

 否、まだだ。まだ見つかっているとは限らない。

 こちらが相手を木だと錯誤したように、相手もこちらをただの木か岩だと思っているかもしれない。

 身体の大きさからして差がある。明智から相手が見えても、相手から明智は見えていないのかもしれなかった。

 分からない。

 風が吹く。細かな雪の粒子を巻きあげ、バケモノとの距離感を狂わせる。否、端から距離感など掴めない。

 あいだには何もない。

 雪が砂丘のごとくゆったりとした起伏を湛えているだけだ。その起伏すら、陽が陰るたびに見えなくなる。

 ひょっとしたら物凄く小さいのかもしれない。

 ふとそんなことを思った。

 じつはすぐそばに立つ兎を、遠近感を失ったじぶんが巨大な生き物に見間違えているだけではないか。

 いや、そんなはずはない。

 風が呻りをあげるたびに、それがそばに立つ生き物ではないと如実に示す。

 同時に、どれだけ遠くに立っているのかあやふやに濁すのだ。

 おや、と明智は目を瞠った。

 先刻よりもハッキリ見える。

 木に錯覚したくらいに黒く見えていたそれが、じつは全身が白い毛に覆われていると判る。

 反射率が違うのだ。ゆえに雪のほうが日光を反射し眩くなる分、バケモノのほうが黒く浮きあがって見える。

 しかし、大きい。

 以前に対峙した規格外の熊も大きかったが、この生き物はもっとだ。

 錯覚だと思いこみたくなるほどだが、そうではない。実際に大きいのだ。

 そしてそこに立つ真っ白い生き物が大きいのだと確信するたびに、明智は死の予感を色濃くした。

 近づいてきている。

 足音はない。

 相手もまた警戒しているのだ。

 気配を消し、それでいてゆっくりと着実に距離を詰めてきている。

 気づくのが遅れた。

 風が吹き視界が濁るたびに相手は素早く、それでいてその気配をこちらに悟らせぬように、動いている。

 明らかに明智を意識した挙動だ。

 狙われている。

 威圧を感じないのがふしぎなほどだ。

 敵意や威嚇はない。

 否、消しているのだ。意図的に。

 あれほどハッキリと目にできるにも拘わらず、生き物の気配を未だに感じ取れない。

 生きているのか。

 まるで置物が風に煽られ、凧のごとく迫ってきている印象だ。

 明智は危機を感じなかったが、危機を感じないことに恐れを抱いた。

 獣をまえにすればたとえそれがイノシシだろうが、よしんば野犬であろうとも、山のなかで出会えば本能が危機を告げる。

 だがいまはどうしたことか、迫りくる異形の者をただ待ち受けている。

 銃口を向けたくない。向けるべきではない。

 いっそこちらから出迎え、歩み寄りたくさえあった。

 陽、空、雲海、雪原。

 澄んだ大気、凍てついた風、ツンと鼻を突く空気の薄さはここが雪山の山頂付近であることを細胞単位で知らせてくる。

 現実だ。夢ではない。

 夢心地のなかで明智は、日影のなかに佇んでいる。

 異形の者が陽を遮り、そこに立っていた。

 巨躯である。全身が白い毛に覆われ、顔面にも皮膚が見当たらない。目鼻立ちも覚束ず、一種そういった植物のようでもある。

 手足は太く、身体の輪郭に馴染んでいる。

 見下ろされているが、明智にはどうすることもできなかった。

 洞窟に風が響くような唸り声が、地の底から湧きたつように轟いた。巨大な獣が喉をゴロゴロと鳴らすのに似た音だ。

 明智はここに至ってようやく恐怖した。

 何をしているのだじぶんは。

 暢気に突っ立っていることしかできなかった数秒前までのじぶんがじぶんではないかのようだった。

 幻想的な冬山の景色のなかで、命の灯の吹き消えるような事態をまえにして、未だこれが現実であるとの実感を抱けずにいる。

 鉄の塊が高速で接近してきても、おそらく人間は轢かれるその瞬間までじぶんが死ぬとは思えないのだろう。轢かれたあとですら死ぬとは思えぬのかもしれぬ。

 いかに死の臭いを、死から遠く離れた地点から嗅ぎつけられるか。

 畢竟、狩人の素質とはそれと言ってよい。

 じぶんの危機を遠ざけながら、獲物の死を手繰り寄せる。

 そこにきて、現状はどうだ。

 脅威そのものとも言える桁違いの巨躯をまえに、闘争本能どころか逃げる選択肢すら浮上してこない。高いところに立ったときに反射的に抱く恐怖のみを感じている。

 何かが妙だ、とようやくというべきか、ここで気づいた。

 異常な事態にあって、狩人としてのじぶんの才を信じきれずにいたが、根っからの狩人のおのれが絶体絶命の窮地にあって、未だなんの行動も起こせないとは甚だ不自然である。

 臆して身体が動かないのならばまだしも、そういうわけではないのである。

 つまりこれは、

「偽か」

 明智は両手を掲げ、万歳の格好をとった。銃を手放し、無抵抗の意を示す。

 獣相手に降参もなにもあったものではないのは百も承知だが、相手が獣でないのなら効果はあるはずだ。

 白き巨躯の獣は、洞窟に響く風のごとく声で吠えたが、明智が微動だにしないと見るや、ぴたりと動きを止めた。

 それから互いに見つめ合う。

 なるほどそこに目があるわけか。

 明智は、獣の頭部ではなく、胸部に覗いたレンズを発見した。

 対峙しているうちに陽が傾き、レンズが光を反射した。

「もういいんじゃないですかね。正体見せてくださいよ。できれば説明もしてほしい」

 明智は懇願した。

「どうして分かりましたか」白き巨躯の獣から声がした。人間の声音だ。

 おとなしそうな口吻に、ひょっとして青年なのか、と明智は驚いた。

 白い巨躯の獣が凍った。否、微細して身体の震えすら失せ、鉄のようにシンと静寂を宿したのだ。

 明智がぎょっとしていると、プシュ、と短く音が鳴り、白い巨躯の獣が真っ二つに割れた。腰骨と肋骨の中間から、炊飯器の蓋が開くようにして、ぐわん、と上半身がうしろに傾いた。

 あたかも腹に大きな口があったかのような光景だが、白い巨躯の獣の中から現れたのは、明智と同じくらいの背丈の男だった。

「脅かしてしまい、すみません。ご説明差し上げますので、僕のあとについてきてくださいますか」

 明智が何も言わぬうちから、男はもう一度白い巨躯の獣のなかに納まった。

 のっそ、のっそ、と歩きだす。

 明智はしばらく茫然と立ち尽くしたが、意を決して後を追った。

 人間だ。

 被り物をしていた。

 見た目は、巨大な肉体を持つ獣に見えるが、そのじつそれは着ぐるみなのだ。偽物だ。

 やはりか。

 直感が当たっていたことに安堵の息を漏らすも、いまさらのようにぐっしょりと汗が噴きだしてくる。

 雪男に直面したことも非現実的だが、雪男の被り物をして雪山を歩き回る男とて、同じかそれ以上に、非現実的だ。

 どちらがより信じられないか、と問われれば、悩んだ末に、後者だと答えよう。

 未確認生物に扮した男が、誰に見られるかもわからぬ場所を、誰に会えるとも知れず歩き回っていたなどと。

 猟師仲間に語っても、夢でも見たんだべ、と一蹴されるのがオチだった。

 間もなく、雪男に扮した男は、雪庇のまえで歩を止めた。

 こちらを振り返り、くぐもった声で、このさきに下ります、と言った。

 明智は、なんだ、と反問した。

 しかしそれには答えず、雪男に扮した人物は、雪男の姿のまま雪庇を進み、ずぼり、と足場を突き抜けて姿を消した。

 落ちたのだ。

 雪庇である。

 雪が凍りながら積もり、または宙に押しだされ、競りだした部位だ。

 真下には何もない。地面がない。

 雪庇に飛びこんで事故に遭った者の逸話は、数えだしたら暇がない。

 山での事故で十本の指に入るほど、ありふれた事故だ。

 明智は助けに走った。

 慎重に雪を掻き分けていく。

 あんな重そうなものを着込んで乗るからだ。

 だがふしぎと、落下地点に辿り着いても、穴らしい穴が見当たらない。

 塞がっている。

 そんなバカな。

 明智が面食らっていると、身体が急に軽くなり、風景が頭上へと消えた。

 じぶんが落下したのだ、と気づくより先に、ポーン、と軽快な機械音が鳴った。

 明智は、薄暗い空間にいた。人工物だと一目で判る。

 床は鉄を思わせる硬さで、壁はやわらかな光を放っている。壁そのものが発光しているのだ。

「ここは」

「基地ですよ」壁の隅で、例の男が着ぐるみを抜いていた。雪男の着ぐるみだ。

「それは機械か」

「はい。人工筋肉が使われていますから、怪力ですよ。救助のために使われたりもしています」

「なんだってあんなところを」明智は言いながら、そうだそうだ、と段々腹が煮えてきた。「麓の里はあんたのソレが怖くて逃げだしたって話だ。バケモノがでるってな。山の獣どもも寄りつかんと、生態系が崩れて困ってるって相談があってな」

「それであなたはここを」

「そうだ」

「それはたいへんに申しわけないことをしました。じつは我々、以前からこの地に秘密の基地を築いておりまして。噂が立っているのは知っていましたが、人が寄り付かないのであれば結構なことだと、放っておいたのですが、いよいよ人が乗り込んでくるまでになりましたか」

「人の土地を奪っておいてその言い草はないだろ」

「いえいえ。元からこの地は我々の管轄内です。里の者たちとて、承諾済みで出ていったのです。大金を払っています。新しい棲家も容易してあります。山の獣たちについては配慮が足りませんでしたが、それとて、元からこの山には生き物が寄り付かたないんですよ。磁場が狂っているので」

「磁場だぁ?」

「渡り鳥もそうですが、動物たちは地球の磁場を利用して、縄張りを把握したり、帰巣本能を保ったりしています。しかしこの山の地層には、鉄やニッケルが含有されており、山全体が巨大な磁石のようになっています。獣はそもそも棲みつかない山なんです」

「しかし里の者の話では」

「又聞きではないんですか。本当に里の者たちがそのように申していたのでしょうか」

「ああ、いや」

「そうでしょう。里の者たちには守秘義務が生じています。親しい者たちにも、なぜこの地を離れたのかは言えないのです。きっとそれで誤解されるような物言いをしてしまったのでしょう。話に尾ひれがつき、それでこんなことに」

「そう、なんだろうか」

「現にこうしてこの山にバケモノはおりません」

「その着ぐるみはなんなんだ。なんだってそんな真似を」

「まさにあなたのような方がやってくるようになってしまったからですね。いえ、あなたほど本格的にバケモノを討伐しにくる輩は珍しいのですが。基地は秘密なのです。迂闊に山に登ってこられては困ります」

「人除けのための脅しってことか」

「はい」

「逆効果だろう。それに動画に撮られたらどうする気だ」

「その動画を本物と認定するほど現代人は愚かではないでしょう。同時に、目撃者は恐ろしくて二度と山には近寄らなくなるでしょう」

「だからって」

「見回りのためでもあるんです。最初に言いましたでしょ。そのスーツは元は、救援のための道具なのです」

「つまりこういうことかい。秘密基地がバレないようにと見回りがてら、遭難者がでないようにいつでも救援できるようにしていたと」

「はい。恐ろしい遠吠えを聞けば、そもそも山を登りたがる者も減りましょう」

「かもしれんが」

 吹雪のなかを出歩いていたのも、遭難者がでないようにとの配慮だとすれば筋は通るがしかし。

 腑に落ちない。

 いくらなんでも、かけた労力に対して、得られる利がすくなすぎる。

「だいいち、ここはなんの基地なんだ。なんのためにこんな場所に」

「それを言ってしまったら意味がありません。あなたのような介入者や、遭難者には、相応にご説明さしあげて、穏便に帰っていただきますが、あくまで表面的な事情をお話するだけです。どうぞこれでご納得いただければと」

「できるわけないだろ」

「謝礼は致しますので」

「そんなものはいらん」

 反射的に言い切ってしまったが、謝礼か、としばし脳内でそろばんを弾く。「ちなみに何をくれるんだ」

「新しい住まいを御用意するくらいなら融通がききます。それに類する金額のお礼でも構いません」

「住まいを用意って。家を一軒くれるってのか」

「はい。土地もご用意いたします。それを売って、お金に換えられるのもご自由に」

「そこまでしてこの基地のことを知られたくないのか」

「その通りです」 

「うーむ」明智は迷った。

 雪男を退治できないとなれば、この日のために費やした労力は無駄に終わる。むろん最初から雪男に遭遇できるとは思わなかったし、それに類する生き物を仕留められるとも考えていなかった。狩りとはそういうものだ。狙った成果を得られることのほうがすくない。

 ゆえに、こうして何もかもが裏目にでたいま、それら失態を補って余りある利を得られるのならば、断る道理はないのだ。

 しかし、狩人としての矜持には障る。

 明智が渋っていると、

「ではこうしましょう」男は手を打った。「僕があなたの腕を見込んで、依頼します。じつは、ここと似たような山がもういくつかあるのですが、そのうちの一つに、本当に恐ろしい獣が棲み着いていて、対処に困っているので。どうぞ、そちらの本物のバケモノを退治してくださらないでしょうか」

「ほう、それはおもしろい」素直に惹かれた。

「前金でまずは、これだけお支払いします」男が提示した額は、明智の年収に匹敵した。「そんなに」

「無事にバケモノを仕留めてくださったら、この三倍をお支払いしましょう」

「それはちょっと払いすぎな気もするが」

「いえいえ。それくらい価値のある仕事です。できれば、無事に狩りを済ませた暁には、そのバケモノを、この山に住み着くバケモノだということにして、ご友人など、ここのことを噂していた方々に話してくださいませんでしょうか」

「なるほど。了解だ。いいよその話乗った」

「交渉成立でございますね」

 男が手を差しだしてきたので、明智はそれを握り返した。

 なかなかに強い力だ。

 握手を交わし、彼の案内の元、外にでるための扉を開ける。

 長い一本道が伸びている。

「ここをまっすぐに進むと、麓の滝の裏にでます。いちど外に出ると、扉は向こう側からは開きませんので、ご注意ください」

「あんたと連絡を取りたいときはどうすればいい」

「こちらをご活用ください」

 小型の端末を渡された。見かけない機種だ。通話だけに特化していそうだ。

「ご迷惑おかけして申し訳ございませんでした。どうぞこのたびのことは、ご内密のほど、よろしくお願い申しあげます」

 男とはにこやかに別れた。

 明智は道を抜け、滝の裏に出た。男の言っていた通りだ。

 妙な体験をした。

 振り返ると扉は閉じており、苔の生した岩場があるばかりだ。

 まるで白昼夢のごとくである。

 山の麓に近いせいか、木々が多い。いずれの枝葉も雪の帽子を被っている。

 見上げると、山の頂が見えた。先刻まで、あそこにいたのだ。

 道はまっすぐだった。下っていた印象はなかったが、いやはや。

 ひょっとしたら、道ごと動いていたのかもしれぬ。

 奇怪な目に遭った。

 手には、例の男から譲り受けた端末があり、夢ではなかったことだけが確かだった。

 明智は一つ首をひねり、狐につままれたような心地で山を下った。

  ***

 雪男の着ぐるみを男は見詰めていた。

 ああは言ったはよいが、ちと苦しかったな。

 もうそろそろ別の策を弄するべきではないか。雪男なるものであれば、地上の者たちは恐れをなすと資料にはあったが、信用がおけぬ。

 動力源の修理にはまだちと時間がかかる。

 時間を稼ぐためにも、ほかに策がいる。

 男は、じぶんの首に手をやる。

 おもむろに握りしめたかと思うや、横にひねった。

 するとどうだ。

 パリパリと男の皮膚にヒビが走る。雷のようなヒビではなく、四角い鱗じみた間隙だ。

 男はさらに首をねじった。

 雑巾を絞るような所作だが、皺が寄るたびに、男の身体はひび割れ、服ごとパリパリと折りたたまれていく。

 あとには、人間よりも一回りちいさきツルリとした生き物が、ウゴウゴと触手を蠢かしている。

 触手を伸ばすとそれは、床に落下した菱形の、人間のガワだったものを摘まみ取った。深く息を吐くかのようにそれは、丸みを帯びた頭部らしき表皮を膨らまし、しぼませる。




【殻の中】

(未推敲)


 姉がおかしくなったかもしれない、と恋人から相談があった。

 私と恋人は男同士であり、生涯を共にする誓いを立てていたため、彼の姉ともあれば、必然、私にとっても大事な家族であるため、親身になって話を聞いた。

「お姉さんがおかしいって、それは病気的な意味で?」

「うん。なんか小瓶を持ち歩いててさ」

「小瓶?」

「何それって聞いても、ペット、とか言って笑って誤魔化すんだ」

「へ、へえ」

「最初は冗談かと思ってたんだけど、中身を見せてくれないし、本当に四六時中肌身離さず持ち歩いているみたいでさ」

「それは穏やかじゃないね」

「うん。でさ。このあいだ、こっそり姉ちゃんが油断した隙に、鞄のなかを漁ってみたんだよね」

「かってに? ダメだよそういうことしちゃ」

「ごめんて。でも本当にさいきんおかしくなってて。小瓶だけじゃないんだけど、具体的にこれこれこういうふうにおかしいとは言いにくい、なんていうのかな、家族だからこそ解かる機微みたいなのってあるじゃん」

「あるね」私は頷いた。思い当たる節がありすぎる。

「でさ。鞄のなかに、やっぱり小瓶があって、透明な瓶にお手製の紙で帯みたいのが巻かれてて」

「中身はじゃあ見えなかったんだ」

「でもノリで貼られてたわけじゃにから、するっとズラして見てみたんだけど」

「お、確信に近づいてきたね」

「目玉だった」

「ごくり」

「しかも小瓶が一つキリじゃなくってさ」

「うわぁ」

「姉ちゃんが戻ってきちゃったから、もう一つだけしか見れなかったんだけど」

「そっちにも目玉が? というか何の生き物の?」

「指だった。たぶん人間の。目玉も、たぶん人間」

「うげ」

「もちろん偽物だとは思うよ。そりゃそうだと思うけど、でもそんなの四六時中持ち歩いてニヤニヤしてるなんておかしくない?」

「うん。そうだね」私は心配になった。お姉さんを、ではない。

「写真もいちおう、撮っておいた。見てこれ」

 恋人が画像を見せてくれる。

 しかしそこには、手のひらが空虚に映っているばかりだ。

「これ?」

「うん。小瓶、見えるでしょ。中も、ほら」

 恋人が顔を近づけて、いっしょに画像を覗きこむ。

 やはり私には何も見えない。恋人の手が映っているだけだ。

 私はひとまず、うわぁエグいね、と言って調子を合わせた。それから、お姉さんの写真ってある、と水を向けた。私はこれまで、彼の家族とは会ったことがなかった。彼から家族の話を詳しく聞いたこともなかったのだ。

「いいよ」恋人は画像を選び直し、はいこれ、と私に見せた。「けっこう僕に似てるけど」

 私は画像を一目見て、ああもうこれはよくないな、と笑いだしたくなった。

 画像には、姿見越しに映る、女装をした我が恋人が映っていた。

「いちおう訊くけど、どこまで本気?」

「なにが?」

 半笑いで戸惑いがちに小首を傾げる恋人のひざ元、床に投げだされた彼の鞄の中に、何本も転がる小瓶が見えた。

 どれも帯が巻かれて見えたが、ふしぎと私にはそこに、何かが本当に詰まっている気がした。

「こんど、お姉さんに私も会わせてよ」私はそれだけを言った。

「いいよ。姉ちゃんしだいだけどね」

 私の恋人はなぜかそこで、照れ臭そうにもみあげを掻いた。




【卵からミニカー】

(未推敲)


 最初はそう、ホットケーキを食べようと思ったのだ。

 ボールに粉と水を入れ、最後に卵を割って投じようとしたところで、ボトリとミニカーが落っこちてきた。

 黄身や白身はなく、子どもの遊ぶようなミニカーだ。消防車である。

 なんでまた卵から。

 小首を傾げつつ、ほかの卵を割ってみると、こんどはちゃんとした生卵が落下した。

 その後はつつがなく料理が進み、ホットケーキを美味しく食べた。

 しかしミニカーの謎だけは解けず、もやもやしながらも、これといった害はないのでそのままで過ごした。

 この三日後のことだ。

 母の妹が、去年に産まれたばかりの姪っ子をつれてやってきた。

 姪っ子は泣き虫であったが、ミニカーを与えると泣き止むようで、叔母は袋にたくさんのミニカーを詰めていた。

 姪っ子はしかし、たった一つのミニカーを掴んで離さない。

「これがお気に入りでね」

 消防車のミニカーだ。散々に弄ばれたのか、赤い塗装が剥げていた。

 微笑ましく姪っ子を眺めていると、私は間もなく、おや、と思った。既視感があった。私はその消防車を知っていた。見た憶えがある。

 記憶違いかと思い、部屋に例の、卵から落ちてきたミニカーを取りに立った。引き出しのなかに仕舞っていたそれを取りだすと、やはり消防車である。塗装の剥げ具合はまさに、姪っ子愛用のミニカーと同じだった。

 そっくりという次元を超えている。

 ハテナで頭のなかをいっぱいにしていると、居間のほうから盛大な鳴き声が聞こえてきた。

「どうしたの」

 慌てて戻ると、叔母が姪っ子をあやしていた。

「お気に入りをどっかにやっちゃったみたいで」

 そのそばで、我が母がテーブルの下を覗いたり、絨毯をめくったりしていた。

 私はしばらく様子を窺っていたが、まあいっか、と思い、はいこれ、と姪っ子に、卵から現れたミニカーを渡した。

「なんだ。あんたが持ってたんじゃない」母が呆れ半分、苛立ち半分に言った。

 違う、と否定したかったが、説明しても信じてもらえそうになかった。照明のしようもない。

「ごめん。汚れてたから洗おうと思って」

 ひとまずそのように誤魔化した。

 この日はそれ以上妙なことは起こらず、姪っ子は終始ご機嫌に過ごし、叔母と共に帰っていった。

「こんど旅行に行くから、犬を預かって欲しくて」

「犬?」

「ふさふさで、大きいけど、でもおとなしいから」

 叔母はそんなことを言い残していった。

 この翌日のことだ。

 私は朝食にと、卵焼きを作ろうとしていた。大学の弁当にとサンドウィッチも持っていく。

 フライパン目掛けて卵を割ったところ、カツン、と指輪が落っこちた。

 またか、と思う。

 熱々のフライパンを傾け、布巾のうえに指輪を転がす。

 どこかで見たような指輪だった。指輪の内側にはイニシャルが刻まれていたが、誰のだっけな、と思いだせない。

 ひとまず指輪はポケットに仕舞い、料理を再開する。急がないと遅刻をしてしまう。

 サンドウィッチを包み、朝食を食べ、行ってきます、と家をでた。

 大学の抗議は一限目だ。

 私はギリギリで間に合ったが、友人が三十分遅れで講義室に入ってきた。遅れるとの一報をもらっている。私は友人の分の席も取っておいたので、友人は私のとなりに腰を下ろした。

「ごめんありがと」

「どうしたの珍しい。アイナが遅刻なんて」

「うん。ちょっとね。哀しいことがありまして」

 鞄から授業に必要な道具を取りだすと、アイナはうやうやしく片手を揉んだ。「指輪失くしちゃって」

「ああ、彼氏の?」

「彼女の」

「だっけね」

 アイナは一個下の後輩と付き合っているのだ。元彼の妹だというのだから、驚きだ。

 いや、これもまた差別になるのだろうか。よく分からん。

 しきりに指をさする友人を横目に、教授の小難しい話を聞いていると、ぐぅ、とお腹が鳴った。朝にバタバタしたからか、ちゃんと朝ご飯を食べてこられなかったのだ。卵を余計に一個使ったから、サンドウィッチの具にゆで卵を使えなかったのだ。

 今朝の光景がハラリと思い起こされ、するとはたと脳内の回路が閃きを司るどこかとピタリと繋がった。

 ひょっとして。

 私はおそるおそるポケットに手を突っ込み、そこから指輪を引っ張りだした。

 卵に入っていた指輪だ。

「あのさ、これ」

 私は差しだしてから、あっ、と思う。なんと説明したらいいだろう。盗んだと誤解されるのだけは嫌だな。

 思ったが、時すでに遅し。

「わっ」

 アイナが大声を出したので、講義室中から視線が集まる。

「ごめんなさい」私が代わりに謝った。

 アイナは小さくなって顔を赤らめながら、なんでぇ、の顔で私を見ては、手のひらから指輪を摘まみ取った。

 それから自前の端末で文字を打つと、電波越しにこちらへ送った。

 私はじぶんの端末を操作し、それを読む。

   なんで持ってんの。

   でもありがとう。

   どっかに落ちてた?

 怒ってはないようだ。誤解はされていないが、ふしぎがられてはいる。

 アイナは両手を合わせ、無言で私を拝むようにした。

 ひとまず廊下で拾ったことにしておいた。

 アイナのほうでかってに、あそこで拾ったんでしょ絶対そこで落としたと思ったんだよね、と自己完結して納得したので、そういうことにしておいた。

 お礼にクレープをおごってもらい、得をした気分だ。

 大学からの帰り道、しかし気味がわるいな、と改めて、卵から物がコロン現象を振り返る。

 殻を割る前から中身が黄身や白身以外の物体と入れ替わっている。

 しかも二度とも、他人の失くし物なのだ。

 いや、失くす前から卵の中に入っていたと考えたほうがしぜんだ。現にミニカーのときは、姪っ子がくる数日前には卵から落ちてきていた。

 だから、本来ならば、姪っ子に渡したあの消防車のミニカーは偽物のはずなのだ。

 しかし今回、指輪が出てきて、考えが変わった。

 友人がしていた指輪であるのは間違いない。輪っかの内側にイニシャルが刻まれていたが、それで思いだした。友人の名前なのだ。

 友人も、間違いなくそれがじぶんの失くした指輪だと見做した。

 やはり本物が、割った卵から現れたと考えるほうがしぜんだ。

 しかし、時間が合わない。

 姪っ子のことにしてもそうだし、友人にしてもそうだ。

 失くす前からミニカーも指輪も、卵の中に入っていたと考えなくては成り立たないこれは現象だった。

 ということは。

 私は家の玄関のカギを開けながら考えをまとめる。

 卵から現れる物体は、これから失くしてしまう物なのだ。しかも時間を超越し、すこし先の未来から落ちてくる。

 そう考えればひとまず筋が通るというだけのことであり、これが正しい解釈だとは思わないけれど、ほかに考えられる筋書きが思い浮かばない。

 ただいま、とつぶやくが、まだ家には誰もいない。私が一番早く帰宅するのだ。

 腹減ったな、と冷蔵庫を漁る。

 カップにそそいだ牛乳を飲みながら、マジックではよく卵を割ると中からカードがでてきたりするよな、と閃く。とすれば、壮大なビックリを仕掛けられている可能性もある。何かの番組の仕込みだろうか。

 いや、あるかなそんなこと。

 冷蔵庫の中身を確認し、私は着替えを済ませてから、親子丼でも作って食べるか、とふたたびキッチンに立った。

 腕まくりをし、さっそく調理を開始する。

 玉ねぎを炒め、肉を投入し、味付けを施す。ご飯は冷凍のをチンして温めればいい。

 そうして、何気なく卵を取って、ぐつぐつと煮えるフライパンの縁に叩きつけ、ひび割れたそれを、割った。

 割ってから、しまった、と思ったが後の祭りだ。

 くじょん、と卵の代わりに落下したのは、指のように細長い物体だ。

 親子丼の具材のうえに落ちたそれを、菜箸で除く。

 布巾のうえに置いたが、息を呑む。

 指のように細長いのではない。まさしく指なのだ。

 中指だろうか。

 切断面がある。

 刃物ではないな。食い千切られたような、ぞんざいな傷跡だ。

 なんとなくじぶんの指を撫でた。

 撫でながら、卵から出てきた指にホクロがあるのを発見する。

 じぶんの中指の同じ場所を無意識で指でなぞるが、これといった起伏はない。ホクロはない。よかった。

 そうと思い、何気なく撫でているほうの手を見遣る。

 そこにあるもう一つの中指には、私も気づかなかったホクロが、まるで何かの刻印のように存在を主張していた。

 いや、まさか。

 なんで、だって指を失くすようなことなんて。

 不意に私は、一度目のミニカーよりも、二度目の指輪のほうが、間隔が短くなっていたことに思い至った。卵から現れた品が、現実に失われるまでの時間は、二度目のほうが短かった。

 朝に見つけ、だいたい同じころに友人は自宅にて指輪がないことに気づいた。だから、遅刻した。

 猶予がないのかもしれない。

 でも、いったいどうやって。

 なぜ私が指を失くさねばならないのか。

 ただいま、と玄関口から母の声がした。何やらバタバタとしており、なかなか上がってこない。

 指をハンカチでくるみ、ひとまずポケットに仕舞って、私は母の様子を見に行った。

 靴脱ぎ場にて母は、大きな犬を両手で押さえつけていた。

「コラ足を拭かなきゃ『メっ』でしょ」

 大きな犬はふさふさで、耳が垂れ、人懐こそうな眼差しをしている。

 ヘッヘッ、と呼吸の荒い口元からは、ぺろんと赤い舌がはみ出ている。

 大きな犬と目が合う。

 フリフリと振っていた尻尾がなぜかそこで、ぴたりと止まり、避雷針のごとく直立した。毛は逆立ち、スズメバチの羽音のごとく唸り声が、廊下の空気をビリビリと震えさせた。

 大きな犬の口角は深い谷のごとく釣りあがり、そこから剥きだしになった鋭い牙が鍾乳石のように生えている。

 私は豹変した犬から目を離さぬように一歩、二歩、と後退しつつ、ポケットに仕舞いこんだハンカチの中身を、悪寒と共に思いだしている。




【天狗の鼻とボク】

(未推敲)


「お。あんなところに天狗がおる」

「我は天狗なり」

「鼻なっが。顔とか青いし。あれでも? 天狗って赤じゃなかったっけ?」

「我は青天狗なり」

「なるほど種類が違うのか。ん? なんかこっちきた」

「我は偉大なる青天狗である」

「自己主張ツヨ」

「そこのわっぱよ。我を崇めよ」

「わっぱちゃうし。めっちゃかわいい男の子や」

「崇めよ」

「いいよー。ちょっちそこしゃがんで」

「こうか」

「鼻とったりー!!!」

「我の鼻がー-!!! 自慢の長い我のお鼻がー--!!!」

「代わりにこっちあげる。はい」

「歯ブラシではないか。我の厳めしい顔から歯ブラシが生えとるではないか」

「いやなの? じゃあこっち」

「あぎゃあ。こんどは割り箸ではないか。そこら辺に棄てられていたコンビニ弁当の割り箸ではないか」

「わがままだなぁ。じゃあはい」

「我の鼻がペットボトルに!」

「はい」

「空き缶!」

「はい」

「ただの木の枝!」

「ああもう、じゃあなんなら満足すんの。青天狗のくせにうっさい」

「鼻返せ。ただそれだけが大事じゃ」

「鼻ぁ? そんなのあった?」

「おぬしがその左手に持っておる青い立派なスティーーーックがそうじゃ。はよそれを寄越さんか」

「カツアゲじゃん。警察呼んじゃおっと」

「なんでじゃ。我は偉大な青天狗なり。鼻がなければただの青くて傲慢なだけの怖い顔したおっさんではないか」

「べつによくない? ボク、おじさんのその顔好きだよ」

「我は嫌なの!」

「ふうん。じゃあいいけど。はい」

「最初からそうしとれ。まったく余計な手間をとらせおって」

「でもおじさんさ」

「青天狗さまと呼べ」

「その鼻邪魔じゃない?」

「邪魔じゃない」

「ふうん。でもさ」

「なんじゃ」

「キス。できなくない?」

「な、な、なんと破廉恥なことを。わっぱ、ふしだらじゃ」

「ひょっとしておじさん、キスしたことないの?」

「なかったらなんじゃ。我は偉大な青天狗さまじゃ」

「いくら偉大でも、ボクはちゃんと好きな人とキスしてみたいなぁ。むしろキスも好きなひととできないなら偉大でなくたっていい。てか、偉大である必要ある?」

「あるんじゃ。それがなければ我はただのキスもしたことのない青天狗。いくらなんでも哀しかろう」

「ふうん。じゃあホントはキスしてみたいんだ。イヒヒ」

「はん。誰がそのようなふしだらなこと。そもそもおぬし、何か勘違いしておらんか。我はたとえこの立派な鼻が短かろうが、キスができようが、できなかろうが、そもそもこの怖い顔では好きになった相手と添い遂げる真似もできんのじゃ。哀しい」

「そっかぁ。そうだよねぇ。鼻がなくてもキスできないんじゃ、言い訳のしようもないもんね。【わし鼻が長いからキスができんなー鼻長いからなー】ってできんもんね」

「そうじゃが?」

「うわ。青天狗なのに顔真っ赤じゃん」

「そうかな?」

「あ。ちょっと顔にゴミついてる。とったげるよ。しゃがんで、しゃがんで」

「こうかな?」

「チュっ」

「むむっ」

「言ってみただけでキスはしてないんだなこれが。だっておじさんの無駄に立派なお鼻が邪魔だから」

「立派なのは認めよう。しかし鼻が長くとも、頬にならできようが」

「頬にチュウしてほしい?」

「どうしてもしたいというのなら我は止めんが」

「じゃあやめちゃお」

「おっなんか急に足が疲れてきたな、よししゃがんで休憩しよう。ついでに横を向いておこう。何かが急にぶつかってくるかもしれん」

「これ引っ張ったら伸びそう」

「イタタ、イタタタ。折れる!折れる!折れてるーー!!」

「あはは。U字になった」

「偉大なる我のお鼻に何してくれてんのねーー!!」

「あ。取れた」

「あーーもー--!!」

「ニンジンくっつけときますね」

「雪だるまーー! それ白くてかわいいやつにつけるやつーー! 頭にバケツとか乗っけちゃうやつーー!」

「あ、もうこんな時間。おじさんバイバイ。遊んでくれてありがとうございました。またね。元気でね。早く好きな人に好かれて、キスできるといいね」

「急に礼儀正しいし、優しいし、きみも気を付けてお帰り。でもねその前に」

「あ。やっぱりキスして欲しかった?」

「まずはお鼻返そ?」

「あちゃーもういいわ。帰らせてもらいます」

「うんボクね。話し聞いてた?」

「お。こんなとこに長いドラムスティックが」

「わしの鼻や」

「まさに青天狗もまっさおの、ヨっ、青天の霹靂」

「青筋立っちゃったな」

「ていっ」

「あこらブーメランにすな!」

「ほう。よぉ飛びますなぁ曲がってるから」

「曲げたのおぬしだし、ヘソの曲がり具合じゃ勝てませんなぁ。へそ曲がりには勝てませんなぁ」

「あ、落ちた」

「戻ってこないんかい!」

「いまさらだけどおじさんさ。もはや天狗の要素皆無だね」

「鼻がないからね」

「もだけど、キャラとかさ」

「がっはっは。我は偉大なる顔色の優れぬ青白いおっさんである。我を崇めよ」

「威張り散らしてる。みっともない。おじさん、そういうのなんて言うか知ってる?」

「なんだね」

「天狗になる、って言うんだよ」

「得意げに言うのをやめなさい」

「でもほら」

「なんじゃ」

「鼻が高いでしょ?」

「天狗だった!?」

「ボクはとっても偉いので。それはそれとしておじさんさ」

「なんじゃいね」

「頭が高いですよ」

「天狗より天狗だった!?」

「おじさんもまだまだ青いですね。ボン」

「あ、あ、あなたさまは」

「ほうよ。わしこそがかの偉大なる大天使である」

「天狗じゃないんかい!」




千物語「夢」おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る