お嬢様育ちの奥様がトップセールス
@isasa130
第1話
4月1日、全社員が一同に集まった大きな会場での躍進会。それは、営業会社の表彰式と社長訓示の日である。
司会が本日最後の表彰者の名前を読んだ。
「3月度加入強化月間 個人賞第1位 獲得口数36口 澤田郁代」
「お~」
会場から驚きの声があがる。
この会社のセールス500名の頂点に立ち続ける澤田さんの成績は群を抜いている。
全社の一人平均が4~5口で優秀な人でも15口から20口である。30口オーバーは群を抜いた成績、彼女のみである。ましてや今日の澤田さんは左足を庇いながら杖をついての登壇である。先に呼ばれた2位・3位の女性に手を貸してもらいながら階段を上り一礼をした。
社長が心配そうに声を掛けた。
「どうした澤田」
常に一位の澤田さんは従業員だけでなく社長も一目を置いている。
「すいません、骨をちょっと折っちゃいまして。」
何も知らない壇上の社長はやさしい。
「そんな状態で36口の成績は凄い、本当に頑張ってくれているな。でもちゃんと治さないとな。」
「ありがとうございます。」
うそである。正確にはひびが入っただけで、しかも既に杖などいらないはずだ。今朝会った時にも杖をぶらさげて歩いていた。
「表彰状、個人賞第1位、澤田郁代殿、貴殿は・・・・」
第一位の表彰状が渡される。そして壇上の表彰者全員が振り返り、会場を埋め尽くす500人以上の拍手をもらい席に戻る場面。
武井は心の中で願った。
「頼むからその痛々しい演技を最後まで続けてほしい。」と。
その願いは虚しく崩れた。彼女は両手を広げて右手に表彰状、左手に杖をぶらぶらと満面の笑顔で跳ねるように階段を下りて行った。
社長が壇上から澤田さんの後姿を唖然と見ている。会場全体の拍手がトーンダウンし、ささやき声が聞こえる。
澤田さんは何事も無かったように席に着いた。普通は失敗して照れるとか、恥ずかしがるとかすると思う。しかし彼女は何事も無かったように席に着いて隣の部下と楽しげに会話をしている。流石である。もしかしたら自分の失敗にさえ気づいていない?そんなはずは無い。そう、平気なのである。あまり周りの目を気にしていない。失敗にもくよくよしない。おおらか? 自信家? アホ? 全てを含んだ天然キャラのトップセールスである。
そんな彼女が入社してきのは1987年10月。時給630円のパート募集広告からである。ネット社会はもう少し先の時代で、まだまだ電話営業が盛んな時代である。
当時武井は入社5年目の27歳。営業会社の管理職と言っても新米管理者の部類である。部下に激を飛ばして奮起させて数字を追及するような迫力ある部門管理者とは程遠く、どこにでも居そうな普通の営業マン。しいて言えば小柄で迫力の無い顔立ちなので、客受けが良い。ひとりのセールスマンとしてはなかなか良い成績でここまできていたのだろう。しかし、部下を持ち、数字を力強く追いかけるチームのリーダー格にふさわしいかと言うと疑問である。若さもあるが、性格的にも問題がある。強く人に難題を押し付けつつできない人をねじりあげて数字を追及する事が苦手なのだ。
そんな訳でベテラン揃いの営業所での見習いの頃は、母親位歳の離れたパートさんからは、可愛がられてはいたが、満足できるような数字ではなかった。
そんな武井に新しい事務所の開設が任された。
一週間の面接でほぼ満足できる人数が確保できた。ただし来週の会社説明会で数人減ると予想。なぜなら、広告では(電話案内係)と掲載していた。
面接では必ず「どんなお仕事ですか?」と聞かれ、事務員のような感覚で応募してくる人が多かった。武井はその度に。「電話を受ける仕事ではありません。電話を掛けて会社をPRする仕事ですよ。」と説明し、尻込みする人を「マニュアルがあるので大丈夫です。一度挑戦してみましょう。」と説得した状態なのである。実務に入ってから数人退社するのは目に見えている。
必要人数以上に採用する必要がある。12人採用するところ現在14名。ちょっと微妙な人数かもしれない。
書類を整理している時に電話が鳴った。
「はい、冠婚葬祭テレマライフの武井です。」
「わたくし澤田と言います。広告を拝見しお電話したのですが、採用はもうお決まりでしょうか?」
「いいえ、まだ大丈夫です。内勤と外勤どちらをご希望でしょうか?」
「はい、内勤の電話案内係を見ているのですが。」
「フルネームとご住所・年齢・電話番号を教えて頂けますか。」
そしてお決まりのやり取りをして感じた事は、言葉使いがきれいで聞き取りやすい事。そして頭の回転も良さそうである。武井は一応予備人数が欲しいので採用する事にした。
「月曜日の10時に駅東の結婚式場ベル・ブラージュで会社説明会があるのですが、参加できますか?」
「あのぅ、まだ面接もしていないし採用かどうかも分からないのに伺ってもよろしいのですか?」
「当社は電話でのお仕事です。この電話が面接と思ってください。澤田さんさえ宜しければ採用させてください。」
「はい、ありがとうございます。月曜日伺います」
「その時に履歴書を持ってきてください。男性は私だけなので会場で声を掛けていただけますか?」
「はい。わかりました。よろしくお願いします。」
武井は電話を切った後、仕事内容について全く質問が無かった事、あっさりしている感がちょっと不思議だった。
会社説明会当日。
会場になっている親族控え室の入り口に小柄で華奢な女性が書類を持って立っていた。特に印象が無く、向こうから声を掛けてこなければ素通りする所であった。
「すいません、武井様でしょうか?わたくし澤田です。」
まだ面接をしていない人が今日来るのを忘れていた。武井の頭の中は今日の説明会の内容を何度も確認し、きちんと話せるかどうか少し緊張していた。うっかりしていたがそれでも咄嗟に対応した。
「はい武井です。いらっしゃいませ。お待ちしていました。どうぞ空いているお席でお待ちください。」
受け取った履歴書には澤田郁代、三十九歳と書いてあった。
予定通り14名+1名全員揃い、会社説明会を始めた。この説明会のポイントはどんな会社なのか。どんな仕事でどんな上司なのか。そんな不安を持った人に入社の決断を後押しする狙いがあり、とても重要な時間である。
内容は、(会社概要・勤務条件・仕事内容) 更に、(パート勤務はご主人の理解も必要であるとか、奥様パートは子供の学校行事・ご両親の通院などで会社を休む事もあるだろうけど、報告さえ貰えればお休みには寛容な職場である。奥様には働きやすい職場である) などの説明を笑いを交えながら1時間半の説明会を無事終了した。
この「お休みには寛容な職場」と言うフレーズが後に問題になった。
そして翌日から勤務がスタート。と言っても4~5日間は研修だけで本格的な実務は来週からである。
研修初日は今後のスケジュール、そして従業員台帳・通勤手当の申請・住民票の提出などの事務的な説明と仕事の触りを話して1日が終わった。
皆がそれぞれに帰る中、澤田さんが1人残って何か言いづらそうなそぶりで近づいてきた。
「ちょっとよろしいですか?」
もしかして入社を取りやめたいとか?研修で何かまずい事言ったか?それとも思っていた内容と違っていたとか?よくある事である。
「あのぅ、住民票は提出しないといけないのですか?」
(なんだ、そんな事か。)
「そうですね、原本で提出をお願いします。」
やはり何か困った感じで下を向いている。
「何か都合が悪いことでもありますか?」
「あのぅ、実は言いづらいのですが、生年月日が違うんです」
「生年月日?ご自分の誕生日、書き間違えました?」
「いや、あの・・・1歳若く書いちゃったんです。」
なんだこの人。履歴書の年齢ごまかした訳?そんな人いないでしょ。おもしろい人なので、ちょっとからかいたくなった。
「それって公文書偽造ですよね。犯罪ですよ。」
「いや、あの、すいません。たった5日前に40歳になったばかりで、どうしても39歳って書きたくて。すいません。」
本当におどおどしている。真っ赤な顔で。こんな冗談、真に受けて慌てる人もいないと思う。おもしろい人だ。武井はニヤッとして。
「澤田さん冗談ですよ。履歴書書き直して明日持ってきてください。」
澤田さんは顔を上げて、本当にホッとした表情で武井を見た。
もしかしてこの人っていい年して世間知らず?それともただ冗談に気づかなかっただけ?この人とはこの後25年間営業の世界で戦友のような相方になるのだが、この件は何年経っても笑い話になった。しかしこれは、ほんの序の口である。
翌日も研修を続けた。黒板に(冠婚葬祭)と大きく書いた。
「冠婚葬祭と言うのは、加冠・婚礼・葬儀・祭祀の四つを指しています。個人の冠(かんむり)行事・婚礼・葬儀・年中行事、日本の各行事の事を表現しています。当社で扱う冠行事は七五三とか成人式とか還暦祝いなんかで、主に貸衣裳とかパーティーのお手伝いですが、年中行事はほとんど携わることはないですね。基本は婚礼と葬儀です。」
冠婚葬祭の話はほとんど流しで説明した。本題は婚礼・葬儀の出費について詳しく説明をする事。その時に冠婚葬祭に精通している担当者であると思ってもらう必要がある。なんせ、この中で一番若い武井が講師なのだから、さすが専門の人と一目置かれる必要がある。
「婚礼の費用は衣裳・着付け・写真・挙式料などの式典費用と列席人数分のパーティー料理と列席者への記念品。大きく分けてこの式典費・飲食費・記念品の三つに分けられます。まあ、お祝い金がありますから、結婚式はさほど心配することもないでしょうけど、実際にはそれ以外に結納金とか新婚旅行とか指輪・新居費用などを考えると少なくとも200万から300万円以上の出費は考えておいたほうが良いでしょう。そのうち本人が結婚までにどの位貯蓄しているかによって、皆さんの、お母様の家計簿にも影響あるでしょうね。早いうちから言い聞かせておいたほうがいいですよね。」
聞いていたパートさん達から。
「うちの子は貯金なんて無いかも。」
「学校出してあげたんだから、後は本人に頑張ってもらわないとねぇ。」
「うちなんか3人の子供がいるのに大丈夫かしら。」
「会田さん、3人のお子さんがいたら最低でも500万円以上の覚悟が必要ですよ。」
「わぁ脅かさないで下さいよ。」
「今のうちから言い聞かせておかないと。それと頑張って当社で働いて残しましょうね。」
「マネージャーさん、そんなにお給料頂けます?」
「頑張りましょう。同時にお子さんにも、早いうちから現実を知らせましょうね。」
「えぇ~、うちの子無理かも。暗くなっちゃうなぁ。」
「実を言うと、続きがございます。会田さんのご主人は長男でしたよね?」
「はい。」
「いずれはご両親のお世話をする立場でしょうか?」
「そうなりますね。今は別々に暮らしていますけど。」
「と、言う事は将来ご両親の葬儀も考える必要がありますよね?」
「まぁ、そういう時はくるでしょうね。」
「それでは今度は葬儀についてお話しいたします。会田さんは特によく聞いていた方がいいですよ。葬儀も婚礼に似たような出費パターンがあります。まずは祭壇・棺・写真とか仏様の移動費用などを含んだ式典費用。そして会葬者への接待費、飲食費の事ですね。それから会葬者人数以上に返礼品も用意しないといけませんね。まぁ、飲食と返礼品はお香典がありますから、少人数でも大勢の方がお見えになっても心配する費用では無いでしょう。このあたりが結婚式の出費パターンに似ていますよね。実はそれ以外にお寺さんへの支払いがあります。かなり大きな出費ですね。また、病院の清算もありますし、四十九日法要・新盆・一周忌法要もありますから。更に分家で初めての仏様の場合、お墓とか仏壇の事も考えないといけませんね。」
「えぇ~、子供の結婚だけでも大変なのに・・・」
面接の時に聞いていたが、会田さんはお子様が3人で両親の面倒を見る立場にもある。
「更に言うと、子供の結婚のタイミングと言うのは、年齢的に親の葬儀が前後にチラつく時期かも知れないですね。この大きな出費である二つの儀式は、かなり近いタイミングで発生する可能性が高いのが一般的でしょう。」
「わぁ私の家は破産しちゃいますよ。」
「まぁ、もっと言うと子供の結婚と親の葬儀だけじゃなくて孫の誕生・節句・入園・入学とか考えると備えは大切ですよね。」
「もう、無理。」
「だから頑張って当社で働きましょう。」
「マネージャーさんはどうだったんですか?結婚されていましたよね。」
「僕は、ほら、こう言う会社に勤めていれば、色々分かっていますから、自分なりに準備していましたよ。結婚式とか旅行の費用は全部自分で用意しました。」
「わ~、えら~い。流石ね。」
「でもね、実際には車のローンも残っていたし、結納金と新居の費用は親に泣きつきましたよ。」
「そりゃそうよね~。」
ワイワイ、ガヤガヤ。賑やかに笑いながら研修を続けた。しかし、澤田さんは聞いているのか聞いていないのか会話には全く入ってこない。こちらの話は聞いているようだがメモを取るわけでも頷くわけでもないし、一応こちらは見ているので聞いてはいるのかな?もしかして無口な人なのかもしれない。それとも履歴書の事で落ち込んでいるとか?そんな人では無いように見えるのだが。
翌日の研修は更に各自の家の将来を考えてもらいたいと思った。
「昨日説明したように、一般的な儀式は少なくとも200万~300万円の出費となるでしょう。婚礼のお祝い金とか葬儀のお香典などの収入を差し引いてもその位は実際に出て行くと思っていた方が良いでしょう。それに対して一所帯の年収はどの位でしょうね?」
武井の思惑は儀式の費用は年収の半分を一日・二日で使ってしまう、大変な出費と言う説明をよく理解してほしいと思っていた。
ロの字にテーブルを配した正面で澤田さんがじっと武井を見ていた。研修をちゃんと聞いていたのか不安もあったが、先日の事があったので無意識に澤田さんを指名してしまった。
「澤田さん、日本の一般的な所帯年収はどの位だと思いますか?」
「人の家の年収は分かりませんが、わたしの家は2千万円位です。」
「えっ。」
ちょっと事務所にざわめきがおきた。昨今の平均所帯年収は300万円台である。
サラッと当たり前のように発したが絶対浮くでしょ。無口でおとなしい人かと思っていたが、いきなり今の発言は驚かされた。この研修会のメンバーから浮いてしまう。本当に2千万円の年収だったら、何で時給630円のパートに来るの?もしかすると偏見かもしれないけど・・・。
武井の技量も左程の事はなく、咄嗟に笑いで回避することができなかった。その後の研修はぎこちなく、ネタを滑らせた漫才師のごとくボロボロだったと思う。
そうは言っても一応一週間の机上研修とマニュアルを使った実務研修はなんとか済ませた。そして実際にお客様の家に電話を掛け始めて一ヶ月が経ち、やはり退社したいと言う人が三人現れた。その中の一人が。
「とても勉強になりました。色々と教えて頂いて、できればここで働き続けたいのですが、ちょっと私には向かないかなと思いまして。ご迷惑を掛ける前に、申し訳ありません。儀式の事があったら必ず武井マネージャーさんに連絡しますね。」
とてもありがたいお言葉を頂いた。たとえお世辞でも。と言う事は、研修内容もその後の事務所運営もさほど間違った運営ではないと言うことだと思う。しかし、後日澤田さんにあの時(研修会)の事を聞いた事がある。帰ってきた言葉に武井はガッカリした。ほとんど聞いていなかったと言う。覚えていないと言うのだ。周りの人が感心したり、驚いたりするのを聞いて「なんでだろう。」と思っていたらしい。
そう、澤田さんの家は葬儀で喪主になる環境でもないし、なんと言ってもお金がいくら掛かろうが関係ない。あまり興味が無かったと言うのだ。澤田さんらしい。
そしてゴタゴタはもう少し後から始まる。澤田さんは淡々とお仕事を続けている。向かないとか、めげると言った感じは全くない。
その後実務に入り、皆も少しずつ仕事に慣れて、パートさん同士も仲良く仕事に取り組んでいた。
コミュニケーションの為に忘年会を企画してみた。全員参加で土曜日に、場所は武井にお任せと言う事で決まった。
パートさんの仕事は午後4時で終わる。そして当日の終礼。
「はい、お疲れ様でしたぁ。今日は6時に事務所に集合ねぇ。場所はそこの居酒屋松竹ですよ。遅れないでねぇ。」
「はーい」
パートさん達はそれぞれに、帰り支度を始めた。
「はっちゃんどうするの。」
「一回帰っておじいちゃんのごはん出してくる。」
「間に合うの?」
「出すだけだから。自分で出して食べる人じゃないからさぁ。」
「大変ね。ゆみちゃんは?」
「時間が中途半端なのよねぇ。」
「買い物に行くんだけど、一緒に行かない?」
「どこ行くの?」
「ホームセンター。」
「暇つぶしに行こうかな。」
「あたしも行く。」
「うん、しのちゃんも、一緒に行こう。」
やはり澤田さんは浮いているかと思えば、年配の倉波さんとちょっと若い石井さんと談笑していた。取り合えずお互い愛称で呼び合う程度には仲良くなっているようだ。
時間になると、ぞろぞろと揃ってきた。皆、昼間の服装のまま集まってきたが、一人だけおめかししてきた人がいた。澤田さん。
ひらひらとしたワンピースにハイヒール。ミンクのコートを羽織っている。何人かの同僚が褒めている姿も目に入ったが武井はあまり関心がないので無視した。
「揃ったみたいなんで行きましょうか。」
歩いて三分程の近くにある大衆居酒屋を予約していた。
武井はお店の玄関先で社名を告げて、最後の人が入店するまで誘導していた。澤田さんが最後、入り口で戸惑っている。
「どうしました?」
澤田さんが。
「ここですか?」
「そうです。くつは下駄箱に入れて奥の左の部屋ですよ。」
ハイヒールを手作りのような古びた下駄箱に納め、ふわふわとしたコートを左腕に抱えて入っていった。
おしゃれな服装。本人の好みだろうけどミンクのコートが場にそぐわない。ちょっと不満そうな顔をしているようにも見えた。
最後に入った澤田さんは武井の席の真向かいに座った。
「それではみんな、まずは飲み物頼んで。それから好きなおつまみ頼んでシェアーして食べるよ。まずは生ビールの人。」
「はい」「はい」「はい」
「生8つ」
「ウーロンハイ1つ」
「レモンサワー2つ」
「ジュース2つ」
「おつまみは各自頼んで。」
「サラダ」「モツ煮」「やきとりの盛り合わせ」「ソーセージ」「アサリの酒蒸し」
「サラダは3つにして。それとお刺身の盛り合わせ。」
次々に注文が飛び交った。
「僕はと・・。盛り合わせとは別に“なんこつ”ちょうだい。それとサワガニ。」
まずはドリンクが運ばれてきた。
「それではみなさん、グラスをもってくださぁい。新しい事務所・新しい仲間に乾パーイ」
「乾パーイ」
そしておつまみが次々と運ばれてきた。
目の前の澤田さんがジュース片手に目を丸くしている。お酒は飲まないらしい。
「マネージャーさん。」
「さんは要らないですよ。」
「マネージャー」
「なんでしょう。」
「なんこつって何ですか?」
「鳥の関節かな。」
「関節?・・・ここはゲテモノ屋ですか?」
「え、ちょっと。」
思わず身を低くして、右手にビールを持ったまま左手の人差し指を唇に充てる仕草を見せた。澤田さんもちょっと身を低くして怪訝な顔をしている。
武井は小声で。
「なんで?」
「だって、鳥の関節とかサワガニとか変なもの出てくるから。」
「ここは居酒屋ですよ、普通のメニューでしょ。お酒飲まないから居酒屋って初めてなの?」
「こう言うお店は初めてです。」
「そうなんだ、大きい声で言わないほうがいいですよ。お店の人に聞こえると失礼でしょ。まぁ、他に食べ物何か頼みます?」
「湯豆腐頂いてもいいですか?」
「すいませ~ん、湯豆腐くださ~い。」
お店の人には聞こえなかったと思うけど、ゲテモノ屋って失礼でしょ。
後で聞いた話、澤田さんのお父様は大阪の会員制高級クラブの常連で、澤田さんが大学生の時には、度々連れて行かれたらしい。
そこにはスポーツ用品メーカーM社の会長さんとか、世界のなんとか社なんて所の社長さんなんかも来ていて、よくご一緒だったと言う。そういう高級クラブから比べたら確かにゲテモノ屋?見えないと思うけど。
しかし、翌年の忘年会には自ら“なんこつ”を注文していた。食感が好きらしい。
それよりも、当時の居酒屋はたばこの煙と焼き鳥の煙でお店中すごい臭いになるのがあたりまえ。ミンクのコートは即日クリーニング店行きだったと思う。
後日談。会社の忘年会って言うから、どこかの宴会場とか、割烹料理店に行くものと思っていたらしく、皆が普通の服装で来たのを見て、ちょっと変だなとは思っていたらしい。そしてお店の前で絶句していたと言う。
あのときの戸惑った顔の原因が分かった。
年も明けて、少し春めいてきた頃。朝一番で事務所の玄関前に高級車のレジェンドが停車した。
運転席から澤田さんが小箱を抱えて事務所のドアを開けた。
「おはようございます。マネージャー、冷蔵庫お借りしていいですか?」
「どうしたの?」
「ケーキ作って来たのでお昼に皆さんで。私の手作りですよ。」
「ケーキなんて作れるの。すごいなぁ。朝から大変だったでしょ。」
「前の日から仕込んでいたから簡単ですよ。」
「そうなんだ。どうぞ。」
ウィンドウ越しに車が見える。
「あのレジェンドは澤田さんの車?」
「主人が買い換えたんでお下がりですけどね。」
「何に乗り換えたの?」
「BMWって言う外国の車。」
外国の車なんて言わなくてもわかるでしょ。皆の憧れの車。聞くんじゃなかった。
いつのまにか、この澤田さんは事務所の中心人物になり始めていた。とにかく元気、おしゃべり。入社した頃の印象とはまるで違っていた。
澤田さんがいる日といない日の雰囲気は歴然としていた。特に今日は手作りケーキで大変な盛り上がりだった。しかしそのころから休みの多い人ではあった。
そんなケーキの差し入れが三回。そしてそれ以外にも頂き物とか言って会社に食べ物を頻繁に持って来ていた。
ある日、澤田さんが休んだ日の事。
今日はいつもよりちょっと静かなお昼休み。
「マネージャーちょっといいですか?」
食事も済んで、おしゃべりタイムからシンと事務所の空気が変化した。
「あのぉ、澤田さんの事なんですけど。」
あらら、何か良からぬ雰囲気。本人のいない日にそろって意見を上司に訴える。武井はこの雰囲気が苦手だ。普段は何食わぬ顔でおしゃべりしていても、実は心の中はどろどろ・・・。とか?
「どうしました?」
「澤田さんが度々、ケーキとか高級なお菓子を持ってきてくれて嬉しいのですけど、私達なかなかお返しできなくて、困っているんです。マネージャーからそれとなしに言っていただけますか?生活のレベルが違うのでどう付き合ったらいいのか困るんですよね。」
「あぁ、なるほどね、でもああいう人だから本人は何とも思ってないでしょ。僕は甘いもの苦手だから食べないけど、みんながおいしいって食べていたら本人は喜ぶんじゃないですか。」
「そうは言っても・・・。私達全員同じ意見なのでお願いします。」
内容の割には真剣そうに言うので。
「わかりました、僕からあまり物を持ってこないように言っておきます。」
「すいません、決して悪気は無いんですよ、本当にお返しできないので・・・」
「大丈夫です。軽く言っておきますよ。」
パートさんがちょっと不安そうな顔をしていた。武井が澤田さんにどんな言い方をするか不安なのだろう。言い方に気を付けないといけない。パートさんどうしが険悪になるのは武井も困る。
武井は事務所で話す内容ではないと思い、その日の内に自宅へ電話した。
かわいい男の子が「もしもし澤田です。」とでた。小さい子だったので以外に思った。会社での澤田さんからはちょっと想像できなかった。
すぐにお母さんに代わってくれた。
急に会社から電話がきたので少しびっくりさせたようだが、用件を話したら笑い飛ばされてしまった。
「なにもお返しなんて思ってもいないし、趣味で作ったケーキを食べていただいて逆に感謝しているぐらいなのに。気にしないで下さい。」
「いやいや、みなさんね、気にするなと言われてもそういう訳にはいかないって言っている訳で、向こうがそう言っているんだから、ここは澤田さん理解してくれないと困りますよ。」
「なんか大袈裟じゃないですか?趣味で作ったケーキですよ。」
「職場は色々な人がいて考え方も色々違うでしょ。」
「なんかよく分からないけど持っていかないほうがいいのかしら?」
「はい」
あえてはっきりと言い切った。それからは、本当に何も持ってこないようになった。特に怒った訳ではなく、おそらく会社の人付き合いを理解したのだと思う。しかし、相変わらずお休みは多く、会社勤めを理解してはいなかった。それが原因で事件が起きた。
ある日の昼休み。食事が終わってくつろいでいた時に。
「マネージャー、明日お休みいただきたいんですけど。」
「またぁ、今度はなんですか。」
「お友達とテニスの約束があるのでお休み下さい。」
ちょっと武井はカチンときた。今までは子供の用事とか学校の役員会とか言って休んでいたのに今回はテニス。
「お友達とテニスでお休み?」
「はい」
まったく臆することのない返事。周りのパートさんが少し驚いているのが分かる。
(ここで叱るのはまずいかな。)
「澤田さん、ちょっと隣の喫茶店で話しましょう、大塚さん、悪いけど時間になったら皆で仕事始めておいてください。」
「はい」
武井は澤田さんを隣の喫茶店に連れて行き、コーヒーを注文した。
「お仕事中に大丈夫なんですか?」
「皆のいるところでは話しづらいかと思いまして。」
ちょっとぶっきらぼうに返事をした。
「澤田さんのお休みはなんでこんなに多いの?月の半分しか来ていないでしょう。まして明日はお友達とテニスだから休みたいって。皆の前でどうどうと言うのもおかしいでしょ。僕が分かりましたって言う訳ないでしょう。」
「だって、マネージャーは休みたい時に休めて働きやすい会社だって言ってたじゃないですか。」
「それはちょっと違いますよ。僕が説明したのは、子供の学校や両親の通院なんかでどうしても休まなきゃならない時があるでしょうと、そんな時に同僚に迷惑を掛けずに休むことができますって説明しただけですよ。大切な場面で休めますって意味で、好き勝手に休んでいいなんて意味じゃないですよ。」
「お友達との付き合いも私にとっては大切な事なんですけど。」
「澤田さんはお勤め始めたわけでしょ。友達に、勤めがあるからお休みの日にねって言えないの?」
「お友達は日曜日にテニスやらないんですもの。」
「募集広告に勤務条件は月曜日から土曜日って書いてあるのを見て応募してきたでしょ。雇用契約にもそう書いてありますよ。いくらなんでも月の半分休みっておかしいでしょ。お友達とお仕事どっちが大切なんですか?」
「お友達に決まっているじゃないですか、会社は一時でしょ。お友達は一生続くものですから。」
「えぇ?」
(こいつクズだ。変な人雇っちゃった。)
「澤田さんはどうしてうちの会社に応募してきたの?」
「うぅ~ん。それ聞きます?」
(なんか嬉しそう。もうどうでもいいけど。)
「聞きますよ。」
「あの日、ほら会社に電話した日。あの日、テレビドラマ見ていたんですね。社員旅行の場面が楽しそうで、一度社員旅行に行ってみたくて。広告に(年に一回社員旅行有り)って書いてあったから、この会社に入ればパートでも社員旅行に行けるって思って応募しました。」
(この人やっぱおかしい。発想が飛んでる。まぁどうでもいいや。)
澤田さんが聞いてきた。
「社員旅行はいつ頃あります?」
「毎年七月頃です。」
「今年、私達も行けます?」
「行けますよ。ちゃんと勤めればね。」
「わぁ、楽しみ。どこに行くのかしら。」
「そんなのまだ決まっていませんよ。」
(この人、僕が言っていること理解していないな。)
「あの、澤田さんは大学卒業してから就職しなかったの?」
「パパが女性は苦労することないって。だから就職する必要もないって事で就職していません。」
(この人が“パパ”って言ってもなんとなく違和感がない。天然っぽいから?ん~不思議な40歳。)
「じゃぁ会社勤めはうちが初めて?」
「はい、初めてのお勤めですよ。」
(なんか嬉しそう。なんで?)
「大学卒業してから何してたの?」
「お料理習ったり、お花習ったり、お友達とテニスとか旅行に行ったりかな。。」
「ずっと親のお金で?」
「私の口座は残高が減るといつの間にか入金されてました。」
(テレビドラマに出てきそうな話しだな)。
「お父さん何してる人?」
「医師です。開業医で今は弟が継いでます。」
(なんだこの人、本当のお嬢様かよ。親と弟が医者でどうしてこんな人が育つわけ?でも頭の回転がいいのはその血筋か、でも世間知らず。)
「あの、澤田さん。ご主人が年収2千万円って言ってたけど、どこかの社長さん?」
「いいえ勤め人ですよ。」
「じゃぁどこかの大きい会社の役員さんとか?」
「はい。ホンダの役員です。みんなには内緒にお願いします。」
(なんと、世界のホンダの役員とは。ちょっと僕とは世界が違いすぎる。僕はここでちょっと最後のチャンスを思いついた。)
「澤田さん、今日の僕との会話をご主人に話してみませんか?」
「何をですか?」
「勤めについて、たとえパートでもやたら休むのがまともかどうかをご主人に聞いてみてくれません?ご主人が何て言ったか教えてもらえます?」
「いいですよ。わかりました。明日のおやすみは?」
「ダメに決まってるでしょ。ちゃんと出勤してください。皆の手前もあります。認めるわけにはいきません。」
間髪いれずに答えた。
「わかりました。」
この喫茶店での件が後日ちょっとしたクレームになるのだった。
翌日、澤田さんは朝一番で出社してきた。そして武井に。
「主人に話したら、マネージャーの言っていることが正しいって、勤めるならちゃんとしなさいって叱られました。」
「そう、よかった。今日からきちんとお勤めお願いしますよ。」
「わかりました。すみませんでした。」
ご主人がまともな人で良かった。たまに、「パートなんだから、うるさいこと言われる必要ない。」なんて言うご主人がいたりするのだ。
しかし、数年後に白状した。この話はうそだった。ご主人に相談どころか勤めていることさえ内緒だったらしい。
彼女が勤めていることをご主人が知るのは3年後の年末調整の時。ご主人が会社で、奥様の勤めを知らないでいたために恥を掻いたらしい。さすがに温厚なご主人もこの時は怒ったと言っていた。
それ以来、事あるごとに「早く会社を辞めなさい。」と言われるようになったらしい。 武井は澤田さんに、その時その時でかなりあしらわれていたようだ。
そして更に明後日。夕方、内勤パートさんが全員帰った後に、外勤の中山・細田が武井のところへ来た。
「マネージャー、ちょっといいですか?」
顔が強ばっている。なにかいやな予感がする。
「なんでしょう?」
「先日、澤田さんとお昼休みが終わった後に隣の喫茶店に行きましたよね。」
「あぁ行きましたよ。」
「なんでそんな事したんですか?」
「なんでってあまりにも休みが多いから皆の前で注意するのはどうかと思って隣に連れ出したんだけど。」
「その本人がみんなに何て言ってるか知ってます?」
「知らない。」
「食後のコーヒーをマネージャーにご馳走になってデートしたんですって。」
「え、え、え~。」
「なんだそれ、テニスに行くから会社休みたいって言うんで、ついでに普段から休みが多いからそれを注意しただけだよ。理解しないもんだからご主人に聞いて来いって言って。それできのうの朝、その結果を僕のところに言いに来たじゃない。二人とも一緒に聞いていたでしょ。」
武井はなぜか一気に捲くし立てた。
「それは知ってます。でもねマネージャー、本人は注意されたと思ってないの、デートしたんですって。マネージャーがやさ~しく話してあげて、勘違いしてるんじゃないですか。おばさんの毒牙にかからないように注意して下さい。」
「アホかぁ、まったく何を考えてるんだあの人は、やっぱ普通じゃないわ。」
「いっそのことクビにしたらどうですか?」
「そうは言ってもねぇ、一番成績がいいしね。」
「それは私たちが頑張ってるからでしょう。見てくださいよあのグラフ。一ヶ月に三十枚も訪問カードだして、ほとんど留守とか玄関キック(玄関にも入れないで断られる事)やっと話せたところを私たちが頑張って契約にしてるんじゃないですか。」
「そうは言っても内勤がアポをとるから外勤の行くところがある訳であって、お互い様でしょ。」
「でも私たちは地図を調べて、車の駐車スペース探して、雨の日なんて大変だし、玄関先で留守だったらお手紙書いてきたりして、大変な思いしているのに半分以上留守ですよ。もう、ちょっと何とかなりません。」
たしかに外勤が言っている事にも一理ある。しかし、他の人は一ヶ月に5枚から10枚のカードで3~4件の契約に対して、澤田さんは、たまに出社して30枚のカードを出せるだけでも凄い。
ただし契約率がむちゃくちゃ悪くて6~8件の契約である。会社全体で言えば、どこの営業所にもいる普通の成績である。
外勤の二人は既に澤田さんのカードを渡されるとちょっとタメ息をつくのを知っていた。
「二人に相談なんだけど、今度澤田さんのカードで行く時に一緒に本人連れて行ってみたらどうだろう。外勤の大変さも、自分の出したカードの内容を直接見られて、いい勉強になると思わない?」
「私はいやです。」
即答で中山さんが返事した。
「細田さん、頼めません?」
「私もいやですけど、一回位ならいいですよ。」
「よかった。それじゃぁ明日早速午前中の訪問お願いします。」
澤田さんのデート発言をどうしたものか決めていなかった。まぁまともに聞いている人もいないだろうけど。
次の日の朝礼であえて勤務日数は工夫次第であると話した。子供の事でもそう、あまり構い過ぎず親離れのチャンスと言う考え方もあるとか。時間のやりくりは本人次第とか。
そんな話しの後に、これからは勉強の為に自分で出したカードの時に一緒に行って見学してもらう時がある事、そして早速今日は澤田さんには、細田さんと行ってもらう事を話した。
嫌がる人もいるだろうと想像してあえて見学という言葉を使ったのが失敗だったかもしれない。特に澤田さんには。
「わぁ楽しそう、行っていいんですか?細田さんよろしくお願いします。頑張りましょうねぇ。」
「ちょっと澤田さん、澤田さんは横にいて、頷いていればいいですからね、二人でしゃべるとお客様がとまどうからね。くれぐれも頷き役ですよ。」
「は~い」
武井は澤田さんのおしゃべり好きを知っていたので一応クギをさした。
しかしすぐに二人が帰ってきた。留守だったらしくお早いお帰り。
「おかしいなぁ今日行くって約束したのに、きっと急用ができたんだと思いますよ。またお願いします。」
全くめげていない。
細田さんには一回の約束だったがお願いしてもう一度連れて行ってもらうことにした。翌週。
「細田さ~ん、行きましょ~。」
楽しそうである。まぁ下向いているよりはましだけど。
「行ってらっしゃい。」
そして今度はなかなか帰ってこない。これは話し込んでいるなと。ちょっと帰ってくるのが楽しみだ。
「ただいまぁ~。」
澤田さんが元気な声で帰ってきた。そして同僚に。
「ねえねえ聞いて。私、初めて営業に行ったのよ。人の家に営業に行ったの。すごいでしょ。」
なんと。営業に行ってすごいでしょって喜んでいる。初めての営業は緊張してドキドキだったなんて言うのが普通だけど。度胸がいいのかも。それとも、何も考えていない?
外勤に同行すると言うちょっと変わった事にも、この最初の澤田さんのおかしな反応のおかげで皆が軽い乗りで行けそうな雰囲気になった。次の人達もそんな乗りで行けると言うメリットがあった。
そして細田さんに今日の報告を尋ねた。
「どうでした?」
細田さんの報告はどこか歯切れが悪い。結局契約にはならなかったようだ。そして夕方、皆が帰った後に細田さんが武井のところに来た。
「マネージャー、もう澤田さんと一緒に行くのいやですよ。」
「どうしました?」
「もういやですよぅ。ずっとおしゃべりしてるの。」
「お客様の前では頷き役ってクギさしたのにだめでした?」
「いや、お客様の前では静かでしたよ。でも行きも帰りもずっとおしゃべりしてて疲れちゃいますよ。いい人だとは思いますよ。でもずっとおしゃべりしてて、どうも私は苦手です。」
「まぁ一回って約束だしね、ありがとうございます。一応建前もあるので他の人、お願いしますよ。」
「わかりました。」
澤田さん以外の人達を交代で外勤に同行させたが、この手法は内勤の勉強と言うメリットの反対にデメリットが生じた。内勤の不満が外勤に伝わると言うデメリットである。そのほとんどが澤田さんに対する事だった。
やはり、しょっちゅう休んでいる為に同僚とのコミュニケーション不足だろう。どこか世間離れした雰囲気。金銭感覚の違い。休んでいる割に成績が良いとか、生活水準の違いやらのやっかみもあるのかも知れない。
内勤の皆さんは、本人の前では大人の振る舞いをしている。しかし、一番イヤな思いをしている外勤はそうもいかない。澤田さんを毛嫌いする思いが増幅してしまった。
相変わらず澤田さんの訪問カードは留守・玄関キックが多い。カード枚数も多い。いよいよ外勤から澤田拒否宣言が出てしまった。武井にとって一番の試練の時期だったかも知れない。
夕方、外勤の中山・細田との話し合いは長時間に及んだ。
「内勤の皆も澤田さんを嫌がっているし自分たちも振り回されて嫌だ。」と言う。
武井は昼間の様子を見ているので、内勤の皆が嫌がっているとか、我慢できないと言うのは少し誇張されていると思った。しかし外勤がここまで嫌がっている事は理解できた。仕方なく、澤田さんのカードは基本的に武井が行き、武井が行けない時は細田さんに行ってもらう事で承知してもらった。中山さんは頑なに拒否している。
こうなると武井も契約にならないと言う訳にはいかない。良い所を見せなきゃなんて思いもあり頑張った。結果として澤田さんの成績が十件の二桁になる事もあり、この事務所内ではいつも一位の成績が常となった。なんせ、訪問カードの枚数は人一倍出ているのだから。
そのうち一番反発していた中山さんは会社を辞めてしまった。そうなると武井と細田さんの二人で外勤をこなすしかない。内勤を管理する方法を考えなければならない。武井にとっては大きな賭けを試みた。澤田さんに内勤チーフと言う役目を与える事だ。パートさんは皆大人だし、人間関係はどうにかなるだろうと言った感じで。澤田さんには時間の管理だけ、念を押してお願いした。業務時間と休憩時間の声掛けをお願いしたのだ。
ある人から聞いた言葉で“肩書きは人を育てる”と言う。実際、武井もマネージャーなんて肩書きがあるから年上の人に指示ができたりするわけで、これで澤田さんも少しは自覚して勤務してくれるのではないかと期待していた。
ある日、武井と細田さんは営業に出かけた。途中武井は書類を忘れたのを思い出して、事務所に立ち戻ることにした。時間的に業務中のはずだ。ドアを開けてみると、席を離れている者、向かい合っておしゃべりをしている者など。
「コラ、みんなちゃんと仕事しなさいよ。」
澤田さんは受話器を持ってお客様と話していた。他の人は慌てて席に戻り電話を始めた。
澤田さんが電話を切り話しかけてきた。
「お帰りなさい、早いですね。どうしたんですか?」
「書類を忘れたんで取りに来たけど、澤田さん、みんなにちゃんと仕事させてよね。」
「すいません、私電話中で。あとはちゃんとやりますから。大丈夫です。」
嘘である。また武井は騙されてしまった。数年後に本人から聞いた話。あのとき澤田さんも皆とおしゃべりをしていたらしい。ただ、電話のスイッチにセロハンテープを貼っていた。受話器を上げていても繋がらない状態で受話器を手で持ち、おしゃべりをしていたらしい。武井がドアを開けた瞬間に耳にあてて会話の真似をしていたそうだ。演技である。
こんな人が将来トップセールスで常勝営業所の所長になるとは全く想像できなかった。
相変わらず、澤田さんのカードは留守・玄関キックが多い状況に変わりはなかった。武井はある日、澤田さんのカードを訪問する時に本人を同行させてみた。
玄関先で挨拶・雑談までは二人でお客様とおしゃべりして、本題の説明は武井が勧めて契約が成立した。本人も大変喜んでいる。昨年入社した頃は「私、人の家に営業に行ったの、凄いでしょ。」なんて言っていたが、今日は「営業っておもしろいですね。」と。
内勤で入社した人が外勤営業をおもしろいって言うのはとても珍しい。そもそも、営業職を避ける人が(内勤電話係り)に応募してくるわけだし、たまに事務職と間違えて応募してくる人もいるくらいである。最初から外勤営業に応募してきた中山も細田も前職は営業だった。
その日の訪問は時間がかかり、お昼を過ぎたので途中食事をする事にした。和食のファミレスに入り、武井はランチセットのサラダうどんを頼んだ。
澤田さんが。
「マネージャー、もっと美味しいもの頼みません?わたしこの殿様御膳。」
「それ2500円だよ。」
「だって美味しそうですよ。どうせ食べるんだったら、美味しいもの食べましょうよ。マネージャーも同じ物頼みましょう?」
「あの、澤田さん、サラリーマンのお昼ってこんな感じで殿様御膳頼む人いないと思うけど。」
「そう?じゃぁ茶碗蒸しとかお刺身あげますね。」
やはり、ちょっと違うかもしれない。
そして帰り道。信号で止まった時に、左角のレストランを指差して澤田さんが言った。
「マネージャー、あのレストラン凄い。お昼時間とっくに過ぎたこんな時間に駐車場満車ですよ。きっと美味しい人気のお店じゃないかしら。今度はあそこに行きましょうよ。」
「澤田さんって視力は?」
「全く問題なし。遠くもよく見えますよ。建物もほら、おしゃれな造りでしょ?」
「あの駐車場は中古車センターの駐車場で、全部の車に値段が付いてるよ。レストランの駐車場ではないんだな。」
「うぅ~ん、あっ本当。やだぁ。このことみんなに内緒にしてくださいよ。アホなチーフって思われちゃうから。」
「了解です。」(アホでしょ。)
しかし、事務所についてから、契約になった事、営業がおもしろかったとか、お昼ご飯の殿様御膳が美味しかったとか、武井が品祖にサラダうどん食べてたとか、茶碗蒸しあげたとか、余計なおしゃべりをしたついでに、中古車センターの車を見て、隣のレストランが満車で人気店と間違えたとか言って大笑いしていた。
この手の笑い話は沢山ある。やはり営業の帰り道で回転すしのお店の前に五人位の人が並んでいた。
澤田さんが。
「あのお店凄いですよ、お店の外まで人が並んでる。回転すしって美味しいのかな?」
「回転すし、食べたこと無いの?」
「あのクルクル回ってくるお寿司屋さんでしょ。行ったことないんですよねぇ。でも、あのお店凄く並んでる。美味しいのかも。」
「澤田さんよく見て、あれバス停。」
「えっ、あらぁ、間違えた。みんなに内緒ですよ。」
お店の入り口付近にバス停があり、一見お店に並んでいるように見えなくもないが、普通は間違えないレベルだと思う。
数年後、その回転すし店に同僚のはっちゃんと食事に行った時のエピソードが面白い。回ってきたラインのお皿を見て戸惑いながらも1皿を取り食べたのは良いが、そのお皿をラインに迷いもなく戻したのだ。慌てて注意したが皿が流れていってしまい、スタッフに謝りに行ったのがはっちゃんである。その後も彼女には公私共に色々とお世話になる事になる。
こんな話もある。国道を走っていたときに。
「マネージャー、エクボ治しちゃう人いるんですね。かわいいのにね。」
「僕は治して綺麗にしたほうがいいと思うけどね。」
「だって芸能人の○○ちゃんなんか、かわいいじゃない。」
「澤田さん、左側の看板見てるの?」
「そう、あれ。」
「あれね、車のエクボ直しますって書いてあるでしょ。修理工場だよ。」
「へぇ、車にもエクボってあるんですね。」
「違う違う、小石なんかでできた小さなキズの事をエクボって言うの。」
「あらぁ、知らなかった。みんなに内緒ですよ。」
内緒ですよと言いながら、結局自分で笑い話にするのが常である。みんなを笑わせて盛り上げるのだ。この手の話は内緒と言っても、実際に内緒にしたことが無いので、武井が先に話したら怒られた。
内勤チーフで現役のアポインターである澤田さんと夕方話していた。来月は全社挙げての加入強化月間で営業所の目標がいつもより高い訳で、その相談をしていた。
「澤田さん、毎月躍進会で表彰式あるじゃない、ベスト賞。あれって15口以上が対象なんだけど。一回チャレンジしてみない?」
「関係ないわ。あんなくだらない。会社に踊らされてバカみたい。」
「でも全社員の前で表彰状を社長から貰うってすごいよね。なかなかもらえる人いないし。澤田さんはもうちょっとで行けちゃうんだよねぇ。」
しかし澤田さんは完全に白けている感じで手振りを交えて。
「いやですよ。あんなはずかしい。私、会社に踊らされてまぁ~すって言ってるようなもんでしょ。」
「残念だなぁ、ほんのちょっとなのに。」
「いやです。私は会社に踊らされたりしません。」
本当に表彰者をバカにしている口調である。そんなわけで期待もしていなかった。
一ヵ月後、4月1日の躍進会で澤田さんは営業所開設以来始めての表彰者として壇上に立った。開設から一年半。一応表彰者の片隅に加わることができた。
しかし、この表彰が彼女の魂に火をつけた。とにかく気持ち良かったと言う。この月からは、必ず15口以上の契約で表彰台に立つようになった。500人の営業マンの上位およそ十人から二十人の中の一人に加わった。
営業所のチーフと言う立場にも慣れて、武井が外勤に出ていても朝礼を任せられるまでに意識を持つようになった。
しかし、いまだに早退と欠勤は直らないままだ。
その年の7月。社員旅行。
昨年は揉め事のせいで、この事務所からは誰も参加しなかったが、今年は皆が落ち着いてほとんどの人が参加した。
武井はバス幹事と言う事で皆より1時間以上早く、結婚式場の駐車場に行った。まだ観光バスも到着していない。
武井が一番乗りかと思いきや、薄暗い駐車場に女性の影がこちらに向かって歩いてくる。跳ねるように手を振って歩いてくる。澤田さんである。
「こんなに早くどうしたの?」
「目が覚めちゃったんです。もう楽しみで楽しみで。」
「小学生の遠足みたいじゃない。」
「まぁそう言われればそんな感じ。」
確か、この人の入社動機が社員旅行だった事を思い出した。夢が叶うわけだ。それにしても、出社率最低の人が社員旅行一番乗りとは。やっぱりよく分からない人だ。
そのうち、サブ幹事も来て、他のバス幹事と共にドリンクやら氷の積み込み作業を澤田さんも手伝いながら三台のバスが出発した。
途中、高速道路のパーキングで休憩。他地区のバスと合流である。濡れない程度の小雨の中、皆で談笑していた。近くで社長が随行車(社長の車)から降りて幹部クラスの人達とやはり談笑していた。
そして社長が近づいてきて声を掛けてきた。
「どうだ、旅行は楽しいか?」
すかさず澤田さんが。
「社長様のおかげでとっても楽しいで~す。社長、アイスクリームご馳走して下さいよ。」
ちょっと、かんべんしてほしい。社長と話したことも無いのになれなれしいでしょ。でも社長も営業出身の方なので冗談で返した。
「今晩付き合うんだったらご馳走してやるぞ。」
「社長イヤラシイ。」
澤田さんは持っていた傘で社長のおしりを叩いた。以外にも思い切り叩いた。武井も、近くにいた幹部クラスの人達も驚いた。
傘で社長の尻を思い切り叩いた人はおそらくこの人だけだと思う。
「おう元気がいいなぁ、君は誰の部下だ。」
「若手バリバリの武井マネージャーですよぅ。」
(ちょっと、尻を叩いておいて、そこで僕の名前を出してほしくない。)
「武井の部下かぁ。元気でいいな。楽しめよ。」
社長は幹部の人達と談笑しながら離れていった。
後で幹部クラスの一人と話したところ、社長が喜んでいたらしい。やはり営業出身なので元気のいい社員が好きなようだ。しかし、尻を傘で叩いた時は皆ビックリしたらしい。
「武井、お前おもしろい部下もってるなぁ。初めて話す社長の尻をいきなり叩く人いないよな。」
「おもしろすぎですよ。結構手をやいているんですよ。」
大笑いである。
武井も少しずつ忙しくなり、外勤に専念できなくなってきた。黒板の予定表に武井が動けない日の表示も目立つようになってきた。(ルート営業)の募集広告にも応募は来ない。今の内勤パートさんの中からと言っても車で動ける人は限られる。
「澤田さん、ちょっと相談があるので残ってもらえます?」
「はい、大丈夫ですけど。」
夕方、澤田さんと細田さんといっしょに外勤について相談した。
「澤田さん、ちょっと相談なんですけど、今は細田さんと僕で外勤廻っているけど僕が行けない日もあるでしょ。」
「そうなんですよ、折角聞いて頂けるのに誰も行けない時もあって困ってます。」
「そんな時だけで良いので、澤田さん行けないかな?」
「わたしが?」
「そう、澤田さん車で通勤しているでしょ?」
「まぁ、そうですけど、わたしが一人で営業に行くの大丈夫かなぁ。」
「最初は何度か細田さんと一緒に行って慣れてからでいいし、だいたい商品説明は内勤で話してる内容で大丈夫だから。」
「書類の書き方とか全然知らないですよ。」
「大丈夫、明日にでも書類の見本とか必要な書類は僕が揃えるから。お願いできないですかね?」
「ん~、なんか面白そう。」
あらっ、以外にすんなり。半分信じられない気持ちだがラッキー。
まずは服装。
「スーツとは言わないけど、あまり派手な服装はだめですよ。それから靴、ヒールはだめ、黒のパンプスとかね。」
そんな訳で澤田さんは黒の靴を買ってきた。そして数日後、いよいよ一人で営業に行くことになった。最初は自分で出したカードで訪問してもらった。
新品の靴を履いて、いざ一人で訪問。
その家の奥様はとても楽しく、気があったようでご契約を頂くことができた。澤田さんは嬉しくて嬉しくて少し舞い上がってしまったらしい。帰るときに玄関先に黒いパンプスが二足あったが、左足は自分の靴で右足はお客様の左足の靴を履いてしまった。本人は全く気づかずに車に乗り込んだ。アクセルに右足を乗せたときに違和感を感じた。良く見てみると、右足に少し大きめの左足用の靴を履いていた。
「間違えた。」
そこに奥様が靴を持って走ってきた。
「澤田さ~ん、靴間違えてるわよ~。」
顔から火が出るかと思うほど恥ずかしかったと言っていた。
別の日、やはり一人で訪問。
澤田さんがこたつに座ると、三歳のとても人懐こい男の子がちょこんと隣に座って澤田さんにちょっかいを出してきた。澤田さんもやさしく相手をしながら正面の奥様に説明をしていた。
テーブルにはお茶以外にお菓子とバナナが出されていた。バナナは男の子の大好物で上手に皮を剥いて食べていた。
男の子が食べ終わったところで、奥様がバナナのカケラを澤田さんに「あげてもらえます?」と渡された。しかし澤田さんは奥様の言葉を聞きとれなかったらしく、そのバナナのカケラを自分の口にパクリと食べてしまった。その瞬間、隣の男の子が泣き出した。とてもかなしそうな泣き声で。澤田さんは「ハッ」と気づいたが手遅れ、最後のバナナ。
正面の奥様が驚いている。何を言っても泣き止まない。男の子はお母様のところに行き、泣きじゃくっている。澤田さんは顔から火が出るような恥ずかしさで急いで近所のスーパーにバナナを買いに走ったらしい。
本人いわく、とても忘れられない失敗で今でも思い出すと恥ずかしいと言う。
また別の日。かなり豪華な造りのお宅で相当なお金持ちと思われた。澤田さんはひと通り説明したが契約には至らない。何度か繰り返し説明したがOKの返事は頂けなかった。
澤田さんは完全に契約を諦め、雑談でもして時間潰しをしようと考えた。
とにかく豪華と言うよりお洒落なお宅である。天井には明かり取りの窓が付いている。
そして北欧で見るような暖炉とその前には木製のロッキングチェアー。澤田さんは完全に仕事を忘れてお家(うち)の話しに花を咲かせた。しばらく話し込んでいたが、あまり時間潰しをしているとまずいかなと思い、そろそろ帰ろうかと思った時に奥様から。
「先程のお話なんだけど、どんな書類書けばいいの?」
「えっ」
「さっき説明していた積立のお話し。」
「よろしいのですか?」
「こんなに仲良くなれたんだもの、ご縁を大切にしないとね。」
「ありがとうございます。」
澤田さんは天にも昇る嬉しさで少し舞い上がってしまった。
ひと通り書類の記入を済ませ、押印を頂いてお客様の控えを渡し、業務用バックに書類を納めて帰り支度をした。
しかし帰り際に自分のバックとコートを置いたまま、仕事の書類関係だけを脇に抱えて玄関に向かってしまった。奥様が笑いながら。
「澤田さん、澤田さん、自分の物はちゃんと持って帰ってね。置いていかれても困るわよ。」
「あら、もう嬉しくて、すいません。ありがとうございます。」
「頑張ってね、たまにはお寄りなさいね。」
「ありがとうございます。」
その頃からだろうか、営業は商品説明よりもお客様と仲良くなる事、信頼される事が、とても大切だと感じ始めたのは。
その後も相変わらず休みの多い澤田さんではあるが、成績は順調で、たまに外勤に出ながらでも十五口の表彰ラインをキープしていた。
来月は11月の加入強化月間。年に2回の月間で目標も高くなる。武井は澤田さんに、ある提案をしてみた。
「澤田さん、来月強化月間でしょ?」
「あぁ、そんなのあるんでしたよね。それでなんですか?」
「来月は、個人賞第一位やっちゃわない?」
「なにそれ、いやですよ。」
「なんでぇ、おそらく20口超えたらチャンスあるよ。」
「やっと15口やってるのに20口なんて出来る訳ないでしょ。」
「そうかなぁ、もうちょっと出社日数増やして仕事すれば届くと思うけどなぁ。僕ももっと外勤手伝うからさ。」
「無理です。というか、いやです。前にも言いましたけど、会社に踊らされてむきになって頑張るなんてバカみたい。」
かなり強い口調で拒否していた。そんなわけで今回も期待していなかった。
しかし翌月の12月1日の躍進会では二十口を優にオーバーして見事第一位を獲得してしまった。
本人いわく、表彰台はまるで女優になったような、華やかな気分だったと言う。本来目立ちたい部類の人だったようだ。
ここから、澤田さんのトップセールス人生がスタートした。第一位の表彰台を20年以上、人に譲ることなく個人賞トップの座を守り続けた。完全に営業所の運営も任せて、所長と言う肩書きも与えた。この会社はパートでも、実力さえあればフルタイムの所長と同じ待遇にしてもらえるのだ。
内勤のアポインターとして優秀である上に外勤の営業もできる稀な人材となった。
結局、フルタイムで社会保険に加入して働いているのがご主人に知れる事になってしまった。その為に何度も辞めるように言われる事になるのだが、25年間働き続けてしまうのだった。
このころからは朝の朝礼、午後の仕事始めの昼礼、夕方の終礼を澤田所長が仕切っていた。
月曜日の昼礼での時。
「はっちゃん、○○さんの所、電話入れたの?」
「えっ、何?」
「何じゃないでしょ。先週の終礼でいいお客様がいて、月曜日に電話するって言ってたじゃない。」
「え~、誰だろう。」
「誰だろうじゃなくてノート見たら。」
ノートを見直して叫んだ。
「あぁそうだ、忘れてた電話しなきゃ。」
そして無事にお客様との約束を取り付ける事ができた。
「所長ありがとう。すごい、なんで私の見込み覚えてるの?」
「すごいじゃなくて、あたりまえでしょ。はっちゃん日曜日にビール飲みすぎて忘れたんでしょ。のん兵衛だから。」
「ひど~い、のん兵衛じゃないよだ。」
「じゃぁ何時から飲んでたのよ。」
「えぇ~内緒。」
「やっぱりのん兵衛だよ。どうせ明るいうちから飲んでたんでしょ。」
「きゃ~。」
この事務所は仕事と雑談の境目がよく分からない。仕事の延長線上にあるプライベートな人間関係も楽しい。
そしてこんな感じでいつも部下の見込みを記憶している。ノートに書き留めているわけでもなく、その日その日の報告でピンときたものをほとんど覚えているようだ。武井にはとても真似られない芸当だ。
それから数日後。新しく外勤を採用し、基本的な教育は武井が済ませた。そして人の仕事を見るのも勉強なので、何度か細田さんに連れて行かせた。
ある日、澤田所長が自分で訪問しなきゃならないと言う案件があった。武井は新人外勤の野口さんに声を掛けた。。
「運転しながら所長の仕事も見てきてください。所長お願い。」
「いいですよ。野口さんよろしくね。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
野口さんは、長年保険会社にいたので、基本的な事さえ教えれば仕事は大丈夫だとは思ったが、所長とも馴染んで欲しいので行かせてみた。
二人が帰ってきて「契約頂きましたぁ」と所長の第一声。皆からは「所長、おめでとう。」の声。
武井は野口さんに尋ねた。
「どうでした?」
「すごいです。」
「うん、どんなふうに?」
「お客様とお会いして5分後にはお客様を○○ちゃんって呼んでました。まるで昔からのお友達みたいに。所長みたいな人、保険会社にもいませんよ。お客様と仲良くなるのがすごく早くてビックリです。」
「説明はどうでした?」
「商品説明は所長が私にって言われて私がやりました。」
横から澤田所長が顔を出して。
「そうなの、シーちゃんの説明上手でしたよ。」
「シーちゃん?」
「野口さん。シーちゃんって言うの。」
澤田さんは部下の名前を、全員下の名前、愛称で呼ぶのだった。野口さんは入社して間もないし、ほとんど会話もしていないと思う。ほんの数時間でこの人懐こい性格が最大の武器なのかも知れない。
たまに困ることがある。武井は皆の名前を苗字で話すのだが、澤田さんは皆を下の名前、愛称で話すので、特に新人の話のときはその愛称を知らなくて話が通じない事がよくある。
澤田所長が外勤を連れて訪問するのは珍しい事ではない。今日も、澤田所長本人の訪問カードで、やはり外勤を連れて行った。ご自宅を探すのに迷いながら玄関前でチャイムを鳴らし、ご主人がドアを開けた。
「おはようございます。テレマライフの澤田です。奥様はご在宅ですか?」
「ちょっと出かけていますが、すぐに戻りますよ。」
「そうですか、実は先日奥様とお電話でお話しさせていただきまして、今日おじゃまする事になっていました。」
「そうですか、すぐに戻るので中でお待ちになりますか。」
「ありがとうございます。」
二人は茶の間に通されて、ご主人がお茶を出してくれた。
旅行が趣味であるとか、出身が栃木の田舎で新鮮な野菜を実家から送ってもらえるとか、奥様と電話で話した内容で盛り上がっていた。その間にも訪問の用件を伝え、冠婚葬祭の会社である事を伝え意気投合しているところに奥様が帰ってきた。
奥様はご主人がお客様と談笑しているのを見て。
「あら、どちらさまかしら?」
「おまえ、今日この人達と待ち合わせしていたんだろう?」
「いいえ、私は誰ともお約束はありませんよ。」
「あのぅ、わたしテレマライフの澤田ですけど。昨日お電話で冠婚葬祭のお話しをした者です。」
「いいえ、私は話した覚えありませんよ。もしかして家を間違えてません?」
「えっ、鈴木様のお宅ですよね。」
「はい、鈴木ですけど、お隣も鈴木さんですよ。」
「あらぁ、私、家を間違えちゃったみたい。」
奥様がケラケラ笑い出した。
「面白い人達ね。それであなたずっとお話ししていたの?」
「俺はてっきりおまえのお客様だと思っていたからなぁ。それに旅行の話しとか田舎の話しとか話しが合ってたから。こんなことあるんだな。」
「私もびっくりです。違うお宅でここまで話しが咬み合うことも珍しいですよね。これも何かのご縁じゃありません?また寄らせていただいても良いですか?」
「面白い人達ね、いいですよ、またいらっしゃい。」
「ありがとうございます。今日は約束があるので急いで行かないと。申し訳ありません。」
二人は慌てて隣のお宅に行った。
そして改めてチャイムをならした。
「鈴木さん、お待たせして申し訳ありません。」
「いらっしゃらないから、今日はもう来ないのかと思いましたよ。」
「実は間違えてお隣の鈴木様のお宅に今まで居たんです。お互いにずっと間違いに気づかなくてご主人様とお話ししていたんです。奥様が帰ってきて間違いに気づいて、慌てて来たところです。本当に全く気づかなくて、でもとっても優しいご夫婦でまたおいでって言ってくださって、もう穴があったら入りたいって言うのはこんな事でしょうね。もうはずかしいです。すいません。」
「フフッ、お隣の鈴木さんは主人の兄弟よ。」
「そうなんですか。だから話しが噛み合ったのね。後で絶対笑われちゃうなぁ。」
「まぁまぁ、お上がりなさい。」
「ありがとうございます。遅くなってすみませんでした。」
二人は間違えてお隣の鈴木さんのお宅で三十分以上話し込んでいたが、それがまた面白いネタとなって親近感が沸いたのかもしれない。無事にご契約を頂いて家を後にした。帰り際に先ほど間違えた家に寄ってお詫びと称して次回の訪問日時の約束をして帰ってきた。そのあたりの抜かりはない。
結局、二件並んだ鈴木様、両方のお宅から無事契約を頂くことができた。澤田さんはなんとなくドジるわりには人に好かれるところがあって得をする時がある。
ある時、新人の内勤が入社してきた。以前、内勤者を外勤が連れて行くと言う手法を澤田所長自身が実施した。
その日の訪問は新人が出した訪問カード。所長は気合を入れて、何とか成果を出してあげたいと思っていた。新人は最初の挨拶だけで後は澤田所長が雑談から本題の説明までお客様に話し、無事契約を頂くことができた。
お客様が新人に話しかけた。
「こんなにお上品で丁寧なお仕事をされる方なら安心して契約させていただくは。あなた、とても良い方の下でお仕事ができて良かったわね。心強いでしょ?」
「はい、ありがとうございます。」
その時に澤田所長は安心したのかトイレに行きたくなった。
「すいません、申し訳ありません、おトイレお借りしてよろしいでしょうか?」
「ハイハイいいですよ。美人さんでもおトイレは行くわよね。」
「すいません。」
県営住宅のちょっと狭いトイレであった。新人一人でお客様と二人きりにしておくのは可哀想だと思い、鏡で髪を直し急いでトイレを出た。お上品と言われた事もあり、シナシナと少し気取って席に戻ってきた。
「所長、後ろ。」新人が所長に声を掛けた。
澤田所長が後ろを振り返って。
「キャッ。」
少し長めのスカートの後ろがめくれ上がり、パンティーに挟まっていた。当然お尻丸出しと言う超恥ずかしい姿でシナシナと歩いてきた訳で、これほど恥ずかしい経験は無いという。顔を真っ赤にして急いでスカートを直した。
更にこんな話もある。警察に進入禁止違反で捕まったときの話しはちょっと信じられない。
お客様のお宅に訪問するのに少し迷っていた。やってしまった。一方通行進入禁止。そこにパトカーが待機中で御用。
「すみません、窓開けてください。ここ一方通行なの知ってました?」
「すいません、分かりませんでした。」
「標識、目に入りませんでしたか?」
「わぁ、見落としちゃった。やだぁ、ごめんなさい。お客様のおうちに行くところなんです。」
「事故を起こしたらお客様の家にも行けなくなりますよ。免許証と車検証を持って降りてください。」
若い警察官に冷たく促された。万事休す。こうなると、謝ろうが、お願いしようが、おまわりさんは許してくれない。パトカーの後ろの席に乗車。若い警官が同じく後ろの座席に乗り込んだ。先輩警官は前の助手席に座って様子を伺っている。
「お客様ってどんなお仕事なんですか?」
「結婚式場のお仕事です。おまわりさんは駅東のベル・ブラージュって知ってます?」
「はい、知ってますよ。大きい立派な式場ですよね。」
「そうなんです。私、結婚式場のプランナーやっているの。」
嘘である。まぁ近い仕事ではあるけど、式場のプランナーではない。
「おまわりさんは独身?」
「はい。」
「いい人います?」
「いやぁ、まだそう言う人は。」
「うそぅ、もてそうですよ。おいくつ?」
「二十六歳です。というか話しを逸らさないで下さい。」
しかし澤田さんはおかまいなし。
「いやいや、絶対いい人いるでしょう。かっこいいもの。お仕事も公務員で安定しているし、なんと言っても制服がカッコいいですよね。私のお客様でも警察の人がいて、お色直しで警察の式典用の制服持ち込んでね、あの、このあたりに黄色い紐みたいのがついてる服、かっこいいのあるでしょ?新婦さんがその隣で可愛らしいドレス姿でね、すんごく様になってるの。おまわりさんも結婚するときは私に言ってね、いろいろ教えてあげますよ。」
この調子で若いおまわりさんに営業をかけたらしい。たまに顔をかしげて可愛い子ぶって、まくし立てたらしい。
結果。
「今日は注意と言うことにしておきますから、今後気を付けてください。」
「あのぅ罰金とかは?」
「罰金はありませんよ。注意です。」
「ありがとうございます。」
前の座席の先輩警官がニヤけて一言。
「美人は得だねぇ。」
うそのような本当の話である。事務所に帰ってから。
「みんな聞いて。聞いて。わたしね、今日パトカーに乗ったの。産まれて初めてパトカーに乗ったのよ。すごいでしょ。パトカーに乗ったことある?」
「どうしたの、捕まったの?」
「そう、一方通行入っちゃってね、そこにパトカーがいて御用。パトカーの後ろに乗せられたの。」
「あらぁ、所長罰金と減点じゃないですか?」
「ところがね、私の可愛い魅力におまわりさんがコロリ、君みたいな可愛い子は許してあげるよって。」
「うそだぁ、絶対うそでしょ。警察が違反見逃すなんて有り得ない。」
「そこは女優魂発揮。魅力オーラをサンサンと放出して煙にまいたの。」
顔を傾げてかわい子ぶってはしゃいでいた。
「有り得ない。絶対警察が違反見逃す訳ないよ。」と武井が被せて言うと。
振り向き、膨れた顔で。
「本当だもの。」
「わかった、わかった。信じますよ。それで肝心のお客様はどうしたの?」
「お留守だった。」
皆のほうに向き直って。
「それでね、前の座席の先輩警官がね、美人は得だねって、私いくつに見えたのかしら、30歳位に見えたんじゃないかな?」
「所長、すごい。本当なの?でも所長ならありそう。しゃべり倒したんじゃない?私達じゃふざけるなって逆に叱られそうだよねぇ。」
武井は事務作業の続きを始めていた。
「ねぇ、マネージャー信じてないでしょ。」
「知らない。」
ある年の年末表彰に向けた会議が行われた。年間優秀職員表彰の選考会である。各責任者が数字を持ち寄って一覧表を見ていたがダントツに澤田さんの数字は輝いていた。誰がどう見ても最優秀職員賞は澤田さんだが、武井はどうしても納得できなかった。勤務評価が最低どころか、珍しい数字である。総出勤日数の三分の一以上が遅刻・早退・欠勤なのである。お子さんの学校の役員と言ってもそれだけではないだろう。相変わらずである。
部長が。
「ここまで数字が抜きん出ていたら最優秀賞は澤田で決まりでいいかな。」
「ちょっといいですか。」
「あぁ、武井の部下だな。それでいいだろう?」
「部長、この勤務評価見てもらえますか?」
「これ、本当なのか?間違いじゃないのか?」
「本当です。僕は、このあたりでちょっとクギを刺しておきたいと思います。最優秀賞どころか優秀賞、その下の努力賞で留めたらどうかと思います。」
「おいおい、ちょっと落としすぎだろう。」
皆からは。
「営業会社なんだから、数字がここまで開いていたらいいんじゃないか。」
「でもこの勤務評価はひどすぎると思います。」
「確かにこんな勤務日数は見たことないな。こんな勤務日数でこの成績叩いてるのも凄いけどな。それより武井、努力賞なんてランクまで落として、本人にへそ曲げられてもつまらないだろう。大丈夫か?」
「大丈夫です。」
武井はなんとなくそう思った。普段から勤務評価も年間表彰に影響するとか、見本にならないような人は表彰さえ外されると言ってあるし、毅然とした会社で厳格な評価をする会社だと言っていた。実際には結構いい加減なところはあるのだが。
「武井、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫です。」
「それでは、今年は最優秀職員賞は該当者なしと言う事にするか。優秀賞は次の二名でいいかな?」
全員一致で優秀賞は決まった。そして5名の努力賞の中に澤田さんは入賞する事になった。
翌月の躍進会で永年勤続表彰の後に年間優秀職員表彰が行われた。
先に努力賞の年間成績数字と勤務評価の数字と共に表彰者の名前が呼ばれた。抜きん出た営業成績数字と抜きん出た悪い勤務評価の数字と共に澤田さんの名前が呼ばれた。会場からはザワツキの声が溢れた。壇上に上ってきた澤田さんを見て、社長が。
「澤田、どうした?なんでおまえが努力賞なんだ?」
「すいません。休みが多くて。」
「本当か?それで落とされたのか?」
社長は事前に知っているはずだが面白がっている。澤田さんも笑いながらにこやかに壇上で雑談していた。
全従業員の前で社長と友達みたいに雑談をする姿は貫禄さえ感じる。全く動じることなく、臆することなく対等に話している。澤田さん以外の4名の名が呼ばれ、壇上に揃ったところで一人ひとり表彰状と記念品が渡された。なぜか今日のメインの感さえあった。この表彰については、澤田さんは怒ることもなく“しょうがないわよ。”と言っていた。まぁ、あまり執着していないのかもしれない。
その後もお休みとか早退はあるものの、学校の役員も終わって、比較的きちんと勤務するようになってきた。
その後の事務所運営はと言うと。都合で退職する人がいたので武井は募集広告を出して、新人のアポインターを採用した。アポインターなんて横文字で話すようにはなったが、相変わらず“電話案内係り”なんて広告で採用しているので応募してくる人は全くの未経験者である。
二名の新人を採用して二ヶ月が過ぎた。
月初めの夕方、外勤は事務所で書類整理。武井は前月のタイムカードの計算をしていた。
澤田所長はブラブラと暇を持て余し、武井の向かいの席に座り。
「マネージャー、何してるの?」
「みんなの給料計算。明日までに総務に提出なんだよね。」
「マネージャーってそんな事もやるんだ。」
「本当はこれ、あなたの仕事だよ。」
「へぇ~、そうなの?」
「他の営業所はみんな所長が計算して、ほら、こんな風に僕の所に持ってきてるでしょ。あなたはパートから所長になったばかりの人だから僕が代わりにやってるの。」
「わ~、偉い。」
「それ違うでしょ、ありがとうって言うんじゃないの?」
「あっ、そうか、ありがとうございます。」
「全然、心がこもってない。」
「マネージャー、私のお給料、多めにお願いしますよ。」
「うん、お休みが多いんで特別減らしておいたから。」
「ひど~い。ところでわたし、いくら位もらえるの?」
書類を見せながら。
「この一番上の右端の数字が総支給額。」
「へ~、ちゃんとお給料もらえるのね。」
「あたりまえでしょ。でも自分の給料ってだいたいいくら位もらってるかなんて判るでしょ。」
「知らない。」
「知らない?毎月明細書渡してるでしょ。それに降ろせば残高もでるじゃない。」
「通帳もカードも失くしちゃったの。」
「え~、のん気に言ってるけど大変な事じゃない?」
「大丈夫、家の中だから。会社から給料振り込むから口座開設するように言われたでしょ。通帳とカード一緒に仕舞ったんだけど、どこに仕舞ったか忘れちゃったの。普段使わない通帳だから、後で探せば出てくるでしょ。」
「もしかして、入社してからずっと?」
「一度目のお給料は見たけど、その後は覚えてない。」
外勤の二人が手を止めてこちらを見ていた。その気持ちは判る。目の前には異次元の人が座っている。入社して5年も経つのにお給料を降ろした事が無いと言っているのだ。しかも今はパート勤務ではなく、フルタイムのしかも営業所の所長である。
「もしその通帳が出てきたらいくら位入ってるかな?」
「知らない。」
「ちょっと、ちょっと、探そうよ。」
「マネージャーがなんで探すのよ。」
「そりゃそうだけど。僕は探さないけどね、5年間のお給料って興味ない?」
「そのうち探すわよ。」
「すごい興味あるなぁ。」
「それって無駄な興味でしょ。」
「無駄でもおもしろいじゃない。ねぇ、500万?いや1000万以上入ってるよ。」
「だから人のお金に興味持っても仕方ないでしょ。」
「まぁ、そうだけど。」
こんなおもしろい話はない。しかし全く乗ってこない。
「それより、今度の新人、全然使えない。」
「またぁ~?所長さぁ、もうちょっと時間掛けて新人の面倒見てよ。」
「武田なんてさぁ、全然電話でアポ取れないでしょ。」
「契約はあがってるじゃない。」
「あれ、ほとんど知り合いの契約。電話でアポ取れないんじゃ使えないでしょ。マネージャーだって、一般のお客様に説明して契約もらえてなんぼ、なんて言い方よくするでしょ。」
「でもまだ2ヶ月だよ。」
「もう2ヶ月でしょ。」
「まぁ、知り合いに声かけて契約取れるって言う事は、商品に自信があるからじゃないの?半信半疑じゃ知り合いにも勧めないし、武田さんはそのうち目が出るよ。もうちょっと面倒見てよ。」
「そうかなぁ、あたしなんて、全然商品の良し悪しなんて事考えてなかったけどなぁ。」
「所長は別格でしょ。」
「そうか、わたしは別格なのね。」
「うるさい。いばるな。」
この武田さんは、その後表彰台の常連になり、澤田所長も一目置く人材になった。前職は税務署の女査察官と言う経歴でとても賢い人だ。お客様と話した内容の分析と管理能力が優れている。澤田所長のように、記憶とコミュニケーション能力で叩き出す数字ではなく、あくまでも淡々とお話しをするだけのように見えるが、ノートの整理状況はピカイチである。
もうひとりの沢村さんについても文句を言い始めた。
「それより、沢村さんは駄目でしょ。」
「どうして?」
「だって、しょっちゅう会社休んでてさぁ、今日だって上の子の幼稚園から電話きて早退でしょ。明日だって休みじゃない?先週も下の子が熱出したからって二日間休んでるのよ。仕事にならないじゃない。」
「来てるときはどうなの?質問なんかしてくるの?」
「そうねぇ、結構質問してくるけど。」
「的を得た質問?」
「まぁ、ちゃんとした質問持ってくるわよ。」
「それならもうちょっと面倒みてよ。」
「でも、あんなふうに休んでいたんじゃ教えたって次には忘れちゃうでしょ。休みが多い人は駄目よ。」
「でもさぁ、お友達とテニスに行くから休みたいなんて言わないでしょ?」
「えっ?・・・なにそれ?昔のわたしの事?」
「昔って十年は経ってないでしょ。」
「もう、やだ、マネージャーしか知らないんだから。」
「だって本当の事じゃない。こんな人も居る訳だし。」指をさして言ってやった。
外勤が耳をダンボにして聞いている。
「所長、昔の事ってなんですか?なんだか楽しそうですね。」
「シーちゃん達はいいの。」
「別にもういいじゃない、時効だよ。実を言うと所長が入社した頃ね。」
「駄目駄目、所長としてのわたしの威厳がなくなる。」
「大丈夫、とっくに威厳なんて無いから。」
「ひど~い。」
澤田さんは外勤の二人に向きなおって。
「あのね、わたしが入社した頃はマネージャーなんてこんな、子供みたいな顔でね、あなたはお友達とお仕事、どっちが大切なんですか?なんて説教されたの。」
「子供みたいな顔は無いでしょ。ちょっと童顔なだけでしょ。」
「同じことでしょ。」
「どうして、そんなお説教になったんですか?」
「あっ、わたしがね、お友達とテニスに行くから会社休みたいって言ったらマネージャーに叱られたの。お友達とお仕事どっちが大切なんですかって。それでわたし言い返したの、お友達が大切に決まってますって。会社なんて一時でお友達は一生お付き合いするからお友達が大切ですって。」
「すご~い、所長しか言えない。」
「それでね、しょっちゅう休んでたんだけど、成績だけはみんなより良かったし、ほら、わたし可愛いじゃない。だから、マネージャーはクビにできなくてね。いつのまにか所長になっちゃった。」
外勤の二人が大うけで。
「楽しい。マネージャーと所長って、兄弟喧嘩してるみたいで楽しい。」
「わたしが妹で兄と喧嘩かな?」
「親子喧嘩でしょ。母親と息子の喧嘩だよ。」
「ひど~い、そんなに歳離れてないでしょ。バカ。」
いつもこんな感じで夕方は四人で笑っている事が多かった。
澤田さんから日曜日に電話が来た。
「マネージャー、今空いてる?」
「どうしたの?」
「ワンチャン買ってきたの。」
「へぇ、犬種は?」
「ロングヘアーチワワ。」
「高かったんじゃない。」
「ブリーダーのお客様から残りの一匹安く譲ってもらったの。」
「それでなに?」
「どうしていいか分からない。」
「ご主人は?ご主人も犬が好きだったんじゃなかった?昔ドーベルマン飼ってたって言ってたじゃない。」
「中国に出張。急に行っちゃったの。」
「それでどうしていいか分からないってどう言う事?」
「ゲージとか餌の器とかも買ったんだけど。とにかくうちに来てよ。シーちゃんは出かけてるし、はっちゃんは電話出ないし、困ってるの。」
とりあえず武井は澤田さんのマンションに行ってみた。なんと、駐車場には超高級車のスポーツカーNSXが止まっていた。黒の車体に一部赤と黒のホイール。隣には澤田さんのBMW。流石世界のホンダの役員さんだ。
「ごめんください。」
チャイムの音と同時に澤田さんが玄関に現れた。
「マネージャーこれ。」
「なに、ちっちゃい。」
片方の手の平に乗っている。
「こんなにちっちゃいの?」
「餌食べないの。どうやって食べさせていいかわかんない。」
「わかんなくて買ってきたの?」
「進められて、かわいいから買っちゃった。」
「うわぁ、相変わらずだね。」
「だって、買うって決めたときは主人いたから大丈夫だと思ってたら、出張行っちゃった。どうしよ。」
「ゲージにタオルなんか入れてあるの?」
「入れた。」
「おじゃましま~す。餌はこれ?」
「そう、食べないの。」
「これ、袋からだしただけじゃない。」
「だめなの?」
「お店の人から教わらなかったの?」
「う~ん、餌のあげ方大丈夫ですかって聞かれたけど、大丈夫って答えちゃった。」
「全然大丈夫じゃないでしょ。お湯ある?持ってきて。」
「は~い。」
「ペット用の粉ミルクないの?」
「あぁ、脇の袋に入ってたかも。」
「スプーンも持ってきて。」
「こんなんでいい?」
「餌は、お湯で湯がいて、少し粉ミルクまぶして、冷ましてからあげるの。子供の離乳食と同じだよ。」
「そうなんだ。」
「お湯入れすぎちゃ駄目だよ。やわらかくなればいいんだから。所長さ、こんな子犬に普通の餌あげようとしてたの?」
「うん、全然食べないの。」
「あたりまえでしょ。食べられるわけないでしょ。」
「だって知らないもの。」
「すごい、本当に何も考えないで行動する人だね。」
「大丈夫、こうやって誰かが助けてくれるから。」
楽天家である。武井がスプーンに少しの餌を乗せて鼻先に近づけると小さな口を開けて食べ始めた。
「わぁ、食べてる食べてる。ちっちゃいお口。可愛い。」
その時はっちゃんから電話が入った。
「もしもし、肝心なときに電話でないんだから。」
「ごめ~ん。おじいちゃんの散歩行ってたの。」
「そうなんだ、おじいちゃんの散歩終わったの?」
「終わった。」
「今から来られない?マネージャーもいるよ。」
「なにかあったの?」
「ワンチャン飼ったの。」
「キャー、嘘でしょ?所長が?」
「嘘じゃないよ。可愛いんだよ。」
「何飼ったの?」
「ロングヘアーチワワ。」
「うそ~、行く行く。」
電話口で相当驚いているようだ。澤田さんがペットのお世話をする姿が想像できないのだろう。武井も同じく想像できなかった。これから先が心配である。
しばらくすると自転車ではっちゃんが飛んできた。そして三人で名前を付けようと言う事になった。
「僕の家のビーグル犬は“ポロン”、どう?」
「やだ、なんで同じ名前にしなきゃいけないのよ。」
「じゃぁカブ。」
「それ男の子の名前でしょ。うちは女の子です。」
「じゃぁサリー。」
「全部、漫画の魔法使いサリーのキャラクターでしょ。古い。」
「だめか?」
「だめ。はっちゃんの家の犬は?」
「シロ。」
「ありきたりぃ~」「ありきたりぃ~」
「二人揃ってやだ。」
「誰が名前付けたの?」
「おじいちゃん。」
「だよねぇ~」
「キャサリンはどう?」
「所長、懲りすぎ。」
「名前は短いほうがいいよ。」
あれやこれやと言っていたが、武井が。
「ベル、ベルはどう?ベル・ブラージュのベル。」
「結婚式場のベル?仕事思い出しちゃうなぁ。」
「幸せの鐘、ベル。」
「ん、いいかも。」
「いいんじゃない。」
「イエ~イ、決まりぃ。ベルちゃん。」
3人で盛り上がった。
こうして澤田さんのペットとの生活は、逐一会社で報告されるようになった。
その後ベルはすくすくと大きくなって、たまに会社に連れて来られるようになり、人気者となった。
事務所の中を自由に走り回り、休憩時間は癒しの対象となった。
武井が「ベル」と声を掛けるとよってきた。抱きかかえて。
「ベル、お前の名づけ親、そして命の恩人を忘れちゃ駄目だぞ。こうして元気なのは誰のおかげかな?」と言ってやった。
パートさんが尋ねてきた。
「命の恩人って、何かあったんですか?」
ベルを抱えたまま。
「この子はね、小さい時に餓死しそうになったんだよ。」
澤田さんがジロリと睨んで。
「マネージャー。シ。餓死は大げさ。」
「はいはい。」
でもすぐに。
「私ね、子犬飼った事ないのね、餌のやり方わかんなくてさぁ。はっちゃんも、シーちゃんも来てくれなくてマネージャーに来てもらって子犬の餌のあげ方教えてもらったの。それで元気に育ちましたぁ~。」
「所長、餌のあげ方知らないでワンちゃん買ったの?流石、所長ならあり得る。マネージャーは命の恩人。」
事務所の中はベルちゃんで盛り上がった。
その後、澤田さんはワンチャンのいるお宅に行くと必ずその話しになって、ドジな笑い話として、子犬を可愛がる愛犬家として話が盛り上がるらしい。
逆に野口さんはあまりペットが好きではないようだ。
あるお宅に野口さんが訪問。その家には高齢で白内障のヨタヨタ歩くワンチャンがいた。ちょっと見た目はギョッとするかもしれない。顔が少し曲がっている。おそらく野口さんの心の中を見透かされたのだろう。ひと通りお話しはできたが契約には至らなかった。
内勤に言わせると電話でとても良い感触だったらしい。その後もしばらくの間、ご機嫌伺いのように電話でお話しをしていた。
数ヵ月後にそのお客様がもう一度話しを聞いてくださる事になった。
所長が。
「私が行くよ。人を変えたほうがいいでしょ。」
澤田さんはワンチャンの餌をひとつ持って出かけた。
やはりヨタヨタと目が見えないながらも来客者の臭いを嗅ぐ為に近づいてきた。澤田さんは満面の笑顔でワンチャンの顔に自分の顔を近づけて「可愛い」と。
「私もお家にワンチャンいるんですよ。家族ですよね。何年ぐらい飼っているのかしら。」
「15年になるわね。」
「わぁご高齢、大切にされているのね。私の愛犬はまだ2歳でやんちゃなんですよ。」
「どんなワンチャンなの?」
「いやぁ雑種みたいな子犬です。」
その頃、テレビコマーシャルの影響で、澤田さんが飼っているロングヘアーチワワは空前の人気犬種となってしまい、40万円近い値を付けたお店もある。それで犬種を隠しているようだ。
「お家にあった餌あげてもいいですか?」
「えぇ、食べるかしら。」
「名前はなんですか?」
「ロンって言うのよ。」
「ロンちゃん、おいで、食べる?」
澤田さんは床近くまで顔を近づけてロンちゃんの顔の目の前に餌を差し出した。
「わぁ食べてくれた。かわいい。」
少しゆがんだ顔で一生懸命食べていた。
「ロンの事かわいいって言ってくれる人、いないのよねぇ。ちょっとお目目が病気でいつも濡れているみたいで、それに少し曲がったお顔でしょ?気持ち悪いって思われたりするのよね。」
「15年間かわいがられて幸せだよねぇ。家族だものね、ロンちゃん。」
澤田さんはロンちゃんをなでてあげた。
するとお客様の目が少し潤んだ。
「ありがとう。」
「私もワンチャン飼い始めて本当に家族になっているから、奥様の気持ちわかりますよ。いつまでも元気でいてほしいじゃないですか。ねぇロンちゃん。」
お客様は、自分が可愛がっている子犬を可愛いと言ってくれる澤田さんを信用できたのかもしれない。商品の内容はほとんど承知している。お客様は、説明を簡単にすませて契約してくださった。
たまにはこんな事もある。
ある日、澤田所長がご葬家に葬儀後のご焼香に訪問した。外勤と2人で、夕方少し暗くなり始めた頃の訪問である。一応地図は確認済みだが、少し迷った挙句庭先に菊の花が置いてあるのを見て澤田所長が野口さんを手招きした。
「しーちゃん、ここよ。」
二人でチャイムを鳴らし待っていると、ご主人が玄関先に現れた。
「この度は改めてお悔やみ申し上げます。今日は改めてご焼香をと思いまして。」
「なんのつもりですか?」
ちょっとお怒りの表情に戸惑った。
「あの、先日ご葬儀で・・・」
「それは隣の家だよ。俺を殺す気かこらぁ。」
ご主人が手を振り上げて殴るような素振りをした。
小さな声で。「しーちゃん逃げるよ。」
澤田さんは一目散に走って逃げた。走りながら叫んだ。
「すみませ~ん、間違えましたぁ。」
野口さんも慌てて所長の後を追った。二人は自分の車を通り越して逃げた。五十メートル位走った所で二人は立ち止まり、ハァハァ言いながら。
「所長、あの玄関前の菊の花って品評会なんかに出す、観賞用の菊でしたよ。」
「そうなの?わたしそんなの知らないもの。菊イコールお葬式かと思っちゃった。あ~怖かった。」
当然、ご主人は本当に殴るわけはないのだが、ちょっと驚かしたかったのだろう、道路に出てくることも無かった。澤田さんは怖い体験がほとんど無い人なので、この時のお話しは事務所で、すごい怖い体験をしたことになっていた。
そもそも観賞用の菊の花と、仏事用の菊の花は普通間違えないと思うけど。
ある日、外勤が忙しく飛び回り、時間の調整が難しいときに、澤田所長が自分で訪問することになった。
「行ってきまぁ~す。」
澤田所長が元気に事務所を飛び出していった。
そして数時間後、元気なく帰ってきた。
「ただいまぁ~。」
パートさんが。
「所長、だめだったんですか?」
「いや、契約は頂いたんだけど。足が痛くて。」
「どうしたんですか?」
椅子に座り、パートさんが何事かと心配そうに集まってきた。
そして話し始めた。
「今日のお客様はマンションでね、目の前の二十五番の駐車場に入れるように言われていたの。でも行ったら空いてなくてね。聞いたらご主人が急に帰ってきたって。そしたらやさしいご主人で、自分の車を目の前の友達のスペースに入れるから二十五番に入れなさいって言ってくださってご主人が車を動かしてくれたのね。だから私が後ろを見て差し上げますって、後ろでバックオーライ、オーライってやってたら轢かれたの。」
「ん、なんで?」
「わたし、車の誘導なんてやったことないから、適当にオーライ、オーライってやってたの。よそ見してたらいつのまにか車が側まで来てて、気づいたら壁と車に挟まれちゃった。」
「えっ。」「まじ?」「うそでしょ?」
・・・沈黙。
どっか~ん。大笑い。
当然、所長が怒る。そしてまた一緒に笑う。
この人は怒ったり笑ったり忙しい。
個人賞では常に第一位の澤田さんに、武井は半分冗談のつもりで言ってみた。
「来月の加入強化月間はいよいよ30口、一日一口の領域を目指そうよ。」
即答で。
「いい加減にして下さい。そう言って、いっつもけしかけて、私は馬車馬じゃありませんよ。」
「そうだよなぁ、いくらなんでも30口は澤田さんでも無理かなぁ。でもアポカードだして、外勤が頑張れば出来なくもないよな。」
「自分でやってください。」
「僕にできる訳ないでしょ。できそうな人にしか言いませんよ。」
「いやです。」
かなり冷たい口調で言われたので、今度ばかりは無理かなと思っていた。
しかし翌月の躍進会ではついに30口の大台で表彰される事になった。この数字は全国的にもトップクラスに入る数字らしい。
その月からはそれ程力まなくても25口以上の数字を淡々とこなせるまでになり、個人賞第一位を人に譲る事はなかった。20年以上一位の座を譲らないのだ。
その頃には会社全体の営業マンは既に800人以上の大きな組織になっていた。その中で個人的に第一位だけではない。そればかりか第二位・第三位のスタッフを育ててしまった。
澤田さんは自分の仕事を見せながら、部下を育てている。そしてひとつひとつの案件を自分だったら・・・と言った実務者としてのアドバイス。場合によっては受話器を取り、代わりにお客様を説得するところを見せながら指導している。
あるスタッフが武井に打ち明けたことがある。
「所長の隣で表彰状を貰うのが目標なんです。」
即ち第2位である。とてもピュアな人だ。澤田さんのピュアな気持ちが人を育てるのかもしれない。武井は澤田さんがお客様だけでなく、部下をも引き付けている事に気づいた。入社した頃は同僚から煙たがられた時期もあったのに。
澤田さんはいつのまにか、個人的にトップセールスで有り続けながら、部下をも育成してしまうスーパーレディーへと変身してしまったのだ。
そして翌年の躍進会。
部署報告と言って、各部署の代表が少し話す場面があった。部長が不在で、代わりに武井が話す事になった。武井はマネージャーと言う立場と、直接営業所を管理する立場もあり、ライバルも多い。そんな中でゲームを仕掛けた。
「今日は部長が不在なので代わりに僕がお話いたします。なにも偉そうなお話しはできませんので、今月の加入競争は800人対澤田所長と言うのは如何でしょうか?」
皆が怪訝そうな顔をしている。
「毎月毎月、澤田所長が一位って言うのも悔しくないですか?誰でもいいんで、800人の中から澤田所長を破る人いないですかねぇ。たったひと月、ひと月だけでも全力で立ち向かう人。もし、澤田所長を負かす人が出たら、その人本人とその上司のお二人を僕のお気に入りのお店に御招待します。何を注文してもかまいません。いくら食べても飲んでもかまいません。どんなお店かって?僕のお気に入りのお店は山田うどん。・・・どうでしょう。」
「え~、何それぇ。」
笑いがでた。
「うそです。」
「山田うどんではありません。そのお店はお気に入りと言ってもステーキも蟹しゃぶもあるし、結構豪華で滅多に僕も行けません。誰でもいいので800人の中から挑戦する人がいたらお願いします。澤田さんを打ち負かしたら、お二人を僕が御招待します。25日までは成績をオープンに公表してその後は月末まで秘密と言う事で。宜しくお願いします。」
このゲームが見事にあたった。5日ごとに途中経過をFAXで全営業所に流していた。そして15日ごろには既に一対一の様相となった。以前から武井の一番のライバルである牛島マネージャーの部下に榎木さんと言う女性がいる。20日になってもピタリと数字をあわせている。
武井のところに牛島マネージャーから電話が入る。探りである。当然本当の話など言わない。澤田さんも後ろで人差し指を唇にあてている。
25日の数字はほとんど数口の違いでいつでも追い越しそうな位置まできていた。ここから月末までは非公開。
澤田さんはピリピリしていた。
「マネージャー、榎木さんいくつまでやってくるかなぁ。」
「そんなのわかんないよ。」
「マネージャーちょっと聞いてみてよ。」
「誰も本当の事言うわけないでしょ。この前向こうから電話来たとき、こっちだって言わないんだから一緒だよ。」
「いくつまでやれば大丈夫だと思う?」
「分かるわけないでしょ、後悔しないようにやれるだけやるしかないでしょ。」
「もう、二度とこんなことやらないでよね。」
「はいはい。」
武井たちはできるかぎり走り回った。
月末の営業会議で数字の発表があった。榎木さんがなんと45口という物凄い数字を叩き出した。しかし武井の所の澤田さんは48口というこちらも過去最高記録の数字で打ち勝った。
武井は後日再び澤田さんからクギを指された。
「マネージャー、二度とこんなことやらないでくださいよ。馬車馬じゃないんですからね。」
でた、「馬車馬じゃないんだから。」の台詞。その後二度とこの手のキャンペーンはやらなかった。やったら間違いなく鬼のように叱られる。
月日が過ぎて、最優秀営業所となり、ベストメンバーを抱えた武井はもっと上を目指せるかもしれないと思っていた。いつものように年に2回行われる強化月間の前日。
「所長、来月の強化月間だけどさぁ。」
「イヤです。」
「何も言ってないでしょ。」
「何ですか?また、月間前に変なこと言わないでよね。」
「この営業所の中で、ディズニー・シーキャンペーンやろうか?」
「ディズニー・シーキャンペーン?なんですかそれ。」
「先月、ディズニーランド・シーがオープンしたじゃない。行きたくない?」
「そりゃ行きたいに決まってるじゃない。連れて行ってくれるんですか。」
「来月の強化月間、十口以上の人はご招待、十五口以上の人はランチ付、なんてどう?」
「おもしろい、マネージャーやって。」
即答である。
外勤も目を輝かせて。
「外勤の私達は?」
「営業所全体の達成によって御招待でどう?」
「行きた~い。」
「よ~しやろう。」
正直言って、ここのスタッフがディズニー・シーで奮起するとは思ってもいなかった。
決して若いスタッフとは言えない、奥様パートの会社なので2~3人喜ぶかな位に思っていた。武井自身が行きたいだけだったりして。
翌日の朝礼で澤田所長が内容を発表した。以外にも皆が奇声を上げていた。もしかして一応所長に合わせて喜ぶふりかも知れない、なんて思っていた。
結果は予想以上の盛り上がりで全社の中でダントツの総合第一位の営業所となり、10口以上が五名。そのうち15口以上の表彰者が三名。驚いたのは企画した武井本人だ。どうやら、新しいディズニーランド・シーには行きたいけど、一緒に行く人とか、行くチャンスが無い。ご主人とか子供達と一緒に行く場所では無いようだ。連日テレビで放送されていて話題性は抜群である。そこで会社が連れて行ってくれると言うのがビンゴだったらしい。
そして内勤5名とご褒美に外勤2名を連れて夢の国ディズニーランドへGO。
おそらく武井を除けば平均年齢五十五歳以上だと思う。武井の車には乗り切れないので電車で行くことにした。
その日は駅に集合。全員切符を購入して乗車。
「所長、切符無くさないでよ。なんでも無くすんだから。」
「大丈夫、ここに入れたから。それより今日は“所長”はやめて、みんな郁ちゃんって呼んで。」
「はぁ?」
その日はみんな所長の事を「郁ちゃん」と呼んでいた。武井以外は。
かなり上機嫌ではしゃいでいる。この人はおおらかと言うか無頓着と言うか、よく細かな物を無くして騒いで部下を困らせるのだ。車のキーを無くした、財布を無くした。と騒いで、結局置き忘れ程度。そう、自宅で通帳を仕舞い忘れたなんて事もあった。細かなことを気にしない性格なのかも。
電車が舞浜駅に到着。
「さぁ舞浜駅に着いたぞぅ。」
「ここからまだ結構歩くんだよね。」
「ねぇポスター見て、かわいい。」
心は夢の国一色である。みんな駅の出口を目指して生き生きと歩き出した。
一行は細長く改札を出て行った。最後に澤田さんがごそごそとやりながら歩いてきた。武井より3メートル程後ろ。そして改札の警報音がビービーと鳴り始めて、振り返ると澤田さんが扉に塞がれて出られないでいた。なんと、切符を右手に掲げている。
「所長、その切符を改札の機械に入れるんだよ。」
なんと、澤田さんは無理やり扉をこじ開けて改札を出た。そして次に隣の改札から再び改札をこじ開けて入っていった。当然再度警報音が鳴る。全くお構いなしに無理やり入っていった。そして再び元の改札から今度は機械に切符を入れて出てきた。
「できたぁ~。みんな待ってぇ。」
にこやかに手を振りながら走ってきた。子供か?駅員さんが、事務所から顔を出してクスクス笑っている。武井は知らない人を装いたかった。
お昼の時は大騒ぎである。
男性は武井1人で女性が7人。この組み合わせも珍しいだろうけど、更におしゃべりである。普段からおしゃべりが売りの中高年のお母様の集団である。広くて賑やかなレストランでもピカイチ賑やかな集団だった。武井はたまに「声が大きいよ。」とクギをさした。
アトラクションはほとんど澤田さんのご指定だ。下調べでポイントになる所をリサーチしていた。ある意味、悩まないで済むので楽なのだが、地図は武井の役割。とにかく広い。それでも閉演ギリギリまで遊びまくった。何はともあれ楽しい一日だった。今日一番の話題は、駅の改札口だったかもしれない。
後日談である。駅の改札が機械化されてから、一人で改札を通るのは初めてだったらしい。大学を卒業してからは、電車に乗る時はいつも誰かがそばにいて一人で改札を通った事が無いらしい。
学生時代は定期券を見せての通学だったとか。だから定期券を見せる感じで切符を右手に掲げて駅員さんに見えるように改札を出ようとしたと言っていた。それも真顔で言っていた。
お嬢様と言うより・・・。そう、天然。
翌日は招待されなかった他のスタッフにお土産を渡して楽しかった話でお昼休みは大盛り上がりとなった。これが意外な効果があった。翌年には鎌倉旅行のイベントを打ち出した。イベントと言っても7000円の素泊まり料金と交通費を武井が負担するだけのイベント。しかし楽しい旅行に行けないでいたら嫌なので、みんなが頑張るのが効果覿面だった。
それから数年後、やはりおかしな話がある。
澤田さんが部下の堀内さんと都内に買い物に行った。堀内さんはスイカのカードをいち早く入手していた。
堀内さんがスイカのカードをタッチして改札を入る。澤田さんは切符をタッチして入ろうとして警報を鳴らしたそうだ。
三流のお笑いネタのような話だが、一緒にいた堀内さんは笑うと叱られるので我慢するのが辛かったと言っていた。おそらく、これから向かうお買い物と楽しい会話に夢中で、手元のことはほとんど感で動いているような人だ。
なんともおかしな天然キャラである。
こんな話がある。
澤田さんの車(その時はBMW)に外勤を乗せて営業に行った。とてもお金に困っているお宅で、貧乏で貧乏でと、嘆いていたらしい。
澤田さんは「わたしも貧乏なんですよ。こんな風に働かないと大変なんです。」といつものパターンでお客様に会話を合わせていた。
澤田さんは、派手な指輪とかブレスレットをこたつの中で秘かに外してバックに入れようとしたが、指輪がひとつ転がってしまった。話の途中でこたつを捲り上げて指輪を探し始めた。
お客様が。「どうしました?」
「最近ちょっと痩せちゃって指輪がはずれちゃいました。あった。大丈夫です。」
流石である。
節約の話題なんかをテレビで見た知識で話し、お客様の共感をよんだ。そうとう気にいられたらしく、契約をもらうことができた。ところが、家を出るときにお客様が、わざわざ見送りに外まで出てきてしまった。
貧乏で頑張ってお仕事していると言った手前、更に節約の話題で盛り上げた手前、ちょっとBMWを見られるのは困る。しかし車に乗らない訳にもいかず、車のドアを開けた。その家の奥様が。
「すごいお車に乗っているのね。」
BMWである。一般的にすごい車に乗った人と言われるだろう。さすがに慌てたが回転のいい澤田さんは。
「今日は会社の上司、武井の車を借りてきました。」と言ったそうだ。
なんでそこで人の名前を出すかね。武井の車はキューブだけど。
そして事務所に帰ってきた。
同行した外勤が言った。「とても真似できません。もうドキドキものですよ。でも一緒に仕事に行くと楽しい。」
「どうして?」
「何を言い出すかわからないからおもしろい。」
澤田さんが何か言い返していた。何を言っていたのか知らないが、またはしゃいでいる。
確かに、事務所でも何を言い出すかわからない不思議なところがある。
全社的にも澤田さんの仕事は高く評価され始めた。営業所を見学に行きたいと言う問い合わせがあった。
澤田所長はいいとして、内勤の人が嫌がるのではと、ちょっと心配だった。普段から電話の仕事は集中力が大切と武井は言っていた。お客様の後ろの音を聞いて雑談のネタを探り、共通の話題を見つけるのも集中していないと聞き取れないなんて指導をしていた。ペットの鳴き声、テレビの音、家族の声など話しのネタ探し。商品説明だけが営業ではない。程よく雑談ができないと良い仕事はできない。
そんな職場に知らない他所のアポインターが見学に来たら、集中できずに良いところは見せられないのではないか。そうは言っても頑なに断れないのも事実。
試しにある営業所の見学を承知してみた。当日、その営業所の責任者がパートさん5名を引き連れて見学に来た。うちの事務所は、入り口のドアを開けると右側がずらりと電話が並んだ仕事をしているスペースで、ホワイトボードを境に左側が食事とかミーティングをする大きなテーブルがあり、その奥が事務スペースになっている。皆が大きなテーブルに座り挨拶を交わした。挨拶だけ済ませると澤田所長が。
「マネージャーは出かけるんでしょ。」
確かに本社に行く用事があるのだが。
「そんな急き立てる事も無いでしょ。」
澤田さんは小さな声で。
「ごめん、でもマネージャーがいないほうがやりやすいの。」
「なんで?」
「いいから、いいから。」
よくわからないまま、武井は事務所を後にした。
午後になって、本社での用事を済ませて事務所に戻った。
扉を開けると勉強に来ていた人達が涙ぐんでいた。そして真剣な眼差しで澤田所長の話を聞いていた。叱られた涙ではない。感動の涙。
いったい何事かと思ったが、後でその理由を聞くことができた。どんな仕事でも辛い事はある。たとえ電話での仕事でも色々ある訳で、外勤営業には分からない事も沢山あるようで、そんな時の考え方とか対処法などの話しをしていたらしい。
見学に来た営業所の責任者も涙ぐんでいた。仕事の研修で涙ぐむって、ちょっと信じがたい光景だが目の前で起きている。
澤田所長は入社した頃の一年間は、いつ辞めても、辞めさせられてもおかしくない人材だった。二年目からはちょっと同僚とは違った味を出してきた。営業と言う職種で、あたりまえな勤務が普通にできるようになるのに、こんなに永い時間を要する人も珍しいが、ここまで大きな人材に変化するのも珍しい。
その後、頻繁に他所の営業所から見学・研修の依頼がきた。
会社の上層部から。
「武井、いっその事、澤田所長の研修会を式場でやってみたらどうだ。」
「まぁ、本人に聞いてみますけど、みんな集まりますか?」
「結構俺のところにも要望がきてる。結構集まるぞ。」
結局、県南地区と県北地区で二回実施される事になった。それぞれ結婚式場のパーティー会場を押さえての実施である。
当然武井は運転手として連れて行く事になるのだが、いずれも最初の挨拶、澤田所長の紹介と研修会の趣旨なんかを話したら会場を退席した。よく分からないが、武井には聞かれたくないらしい。時間を見計らって会場に戻ると研修が終わっているのに澤田所長の周りには人だかりができている。涙ぐんでいる人もいる。事務所での研修の時と同じだ。
いったいどんな話しをしているのだろう。澤田所長を入社から知っている武井にはピンとこない。しかし受講したパートさんとか所長クラスの人から感謝されているのは分かる。人一倍契約を挙げられる人は人一倍断られた経験のある人。皆の悩みとか苦しさとの戦いを理解できるスーパーレディーなのかもしれない。
帰り道、国道を南下していた。信号で止まっていた時に。
「ねぇマネージャー、反対車線見て、すごいたくさんのトラックで混んでる。どこに行くのかなぁ。栃木かな?マネージャーの故郷。」
「所長さぁ、故郷なんて言葉使ってカッコつけてるでしょ。よく見て、あれね、道路沿いのトラックターミナル。信号待ちじゃないよ。」
「あら、また間違えた。こう言う所知られてるからなぁ、マネージャーには研修会場にいてほしくないのよね。」
「何それ。」
「どんなに格好付けても見透かされてるから嫌なの。」
「あぁ、そう言う事か。みんなから絶賛されるような研修をされるお方が、実は天然だなんてね。そんなの知っているのは僕と地元の仲間だけだろうな。」
「研修でね、自分でもなかなかいい事言うじゃないって思うんだけど、マネージャーの顔見たらバカにされるなって想像しちゃうから。いやなのよ。」
「そう言う事ね。バカになんかしないよ。心で笑うかもしれないけど。」
「もう、くやしいけど、絶対勝てないなぁ。」
(そんなことは無い、本当はもう笑ったりできない。)
その後頻繁に営業所には見学・研修の申込みが入るようになった。内勤の人達も慣れてきて、逆にいいところを見せたくて頑張ったりして以外に悪くなかった。
ある日、他県の営業所から研修の依頼が入った。噂を聞いて武井の知っているマネージャーが自分の部下を一日面倒見て欲しいとの要請だ。道のりだけで2時間はかかる。
遠い所からはるばる所長とパートさん4人で勉強に来た。少し早めに到着したので、お茶を飲みながら雑談でくつろいでいた。
10時からの勤務と言っても、5分前には朝礼を始める。チーフが声を掛けて、整列が始まった。研修に来たパートさんは雑談を止めないでいた。2回目の声が掛かっても最後の雑談の一言を言い終わらせたその瞬間。澤田所長が言い放った。
「茨城から来た人達は帰ってください。」
言われた本人達は何事?と言った顔をしていたが茨城の所長はすぐに理解した。立ち上がり。
「澤田所長、申し訳ありません。」
「もう遅いわよ。あなた達は何をしに来たの?話だけなら録音テープで十分でしょ。何かを見に来たんでしょ。何を見に来たの?」
「すいません。」
「いいから帰って。」
茨城から来た4人は何もできずにたたずんでいた。何度も謝りながら茨城の所長が武井に助けを求めてきた。
しかし、こうなると澤田所長を懐柔するのは難しい。そう、さすがに武井でも無理だ。
結局4人は朝礼にも参加せずにまた、2時間の道のりを帰って行った。
澤田所長は意外に取り組む姿勢にはうるさかった。本人が入社した頃とは雲澱の差であると思うが、それはもう言わない。
茨城のマネージャーから武井の携帯に電話が入った。とにかく平謝りの電話である。どうやら同行していた所長から連絡が入ったらしい。
後日、茨城のマネージャーが手土産を持ってお詫びに現れた。
「先日はうちのスタッフが大変失礼な態度で申し訳ありませんでした。」
武井は茨城のマネージャーに。
「いやいや、そこまでしなくても、こちらこそ遠い所から来た人を帰らせてしまって申し訳ない。」
「マネージャー、何言ってるの。あたりまえでしょ。学ぶ気の無い人来させるほうが悪いんじゃない。うちのスタッフだって他所から人が来れば真剣にお世話するんだから。」
「その通りです。ほんとうに申し訳ありませんでした。もう一度チャンスを下さい。しっかりと言い聞かせてよこしますから。」
「全然かまいませんよ。いつでも来てください。ちゃんと覚悟してきてください。真剣に教えますから。マネージャーのお友達だし同じグループ企業の仲間ですからね。」
「ありがとうございます。」
翌月に茨城から、同じメンバーが勉強に来た。事務所に入るなり。
「先月は申し訳ありませんでした。」と。挨拶より先にお詫びの言葉だった。
そうとうマネージャーに言い聞かされてきたようだ。荷物を降ろすと、一切雑談なしでノートとペンを手にしていた。顔に緊張が張り付いている。
ところが澤田所長は。
「おはよう、遠い所よく来たわねぇ。何時ごろ家出たの?」
4人は相当緊張している。
「ろ、6時半です。」
「わぁ、大変ねぇ。私なんかそのころまだ寝てたかな?」
全く先月のことは忘れているかのように明るく出迎えた。これが澤田所長だ。
そしていつものように武井は追い出されてしまった。
午後、事務所に戻るといつもの風景である。所長に握手を求める姿、涙ぐむ姿が不思議でならない。
ある日、武井は専務と部長と雑談をする機会があった。
専務が。
「武井さぁ、澤田さんみたいな営業マン、あと一人でも二人でも育てられないかなぁ」
「あの、あんな人が二人も三人もいたら、僕死んじゃいますよ。」
お二人が大笑いした。
「確かに、あんなに一生懸命仕事してくれる人、なかなかいないよなぁ。サポートも大変だろうな。」
「ありがとうございます。」
ひとつお仕事で記憶に残っているお話を紹介したい。
ある日、お客様が澤田さん本人に来て欲しいという訪問カードだった。よくある事なので、いつものように出かけていった。その日はひとりで。
「ごめんください。テレマライフの澤田です。」
「どうぞ、お上がりになって。」
澤田さんは靴を揃えてリビングに入って行った。すると右側に日当たりの良い小さなお部屋があった。
そこには小さな女の子が横になっていた。眠ってはいない。おそらく寝たきりの子なのだろうと想像できた。
その枕元に“20歳の誕生日おめでとう”と書かれたプレゼントが置かれていた。一見中学生位にも見える小柄なお嬢様だ。澤田さんが。
「お誕生日なんですね。おめでとう。」と言って、布団の端に手を添えた。
お母様が澤田さんの隣に座った。
「お母様、お嬢さまのお名前は?」
「陽菜です。」
「陽菜ちゃん、お誕生日おめでとうね。」
澤田さんが陽菜ちゃんの胸元まで手を伸ばして挨拶をしたが、無反応だった。
「陽菜は生まれたときから寝たきりでお話が出来ないの。お耳も聞こえないし、だから昼間はわたしとずっとこうして一緒に過ごしているのよね。」
陽菜ちゃんに話しかけるように説明してくれた。
「陽のあたる、とってもいいお部屋ですね。それに可愛い。」
「陽菜が6歳の時、小学校に入学する頃にはどんなお部屋が好みかな?とか想像して、12歳の時、中学に入学する頃にはどんなカーテンが好みかなって想像して、昨日は20歳の誕生日だから、もうちょっと大人っぽいお部屋にしようかな、なんて今相談しているのよねぇ。」
相談と言う言葉に心がちょっと動いた。
「そうなんですか、陽菜ちゃんは天使ですね。」
お母様が怪訝な顔で澤田さんを見ながら。
「天使?」
「だって、今の世の中は誰かが騙された・傷つけられたとか、誰かを恨んだり、嫉んだり、戦争で国同士の醜い争いとか、テレビなんかで嫌な話が沢山聞こえちゃうでしょ。陽菜ちゃんはそんな嫌なお話を聞く事もなく、お母様と2人で、こんな暖かな可愛いお部屋で愛情いっぱいに包まれているんだもの。天使みたいな誰よりも清らかな心のまま成人したんじゃないかしら?ねぇ陽菜ちゃん。」
「・・・・・」
お母様が布団を握る手に力が入る。
お母様の横顔、かすかに目が潤んでいるように見えた。かすかにすすり泣く声。
しばらくすると、お母様が話し始めた。
「陽菜を褒めてくれたのはあなたが始めてだわ・・・。陽菜が産まれてからずっと一緒。だから、ウィンドウショッピングなんて行けないし、旅行なんて20年以上どこにも行ってない。出かけるのは、せいぜい近所のスーパーと病院位。たまに主人の車で病院に行くのにちょっと遠回りしてお花畑を見たりする位でどこにも行ってない。みんな、大変ねとか頑張ってねとか言ってくださるけど陽菜を褒めてくれた人はいないわ。そうなの、私にとって陽菜は天使なの、大変なんかじゃないし、頑張ってなんかいないの・・・初めて陽菜を褒めてもらえた・・・。」
お母様の目からポロポロと涙が流れ落ちた。
澤田さんは言葉が見つからなかった。
「ごめんなさい、お茶も煎れないで、初めて会う人にこんな話ししちゃって、こちらにいらして。」
お母様は立ち上がりリビングへと招いた。
澤田さんは掛ける言葉もなく、席に座った。
お母様がお茶を持ってテーブルに座った。
「本当にごめんなさい。おかしな話しちゃって。」
「イイエ・・・。」澤田さんは涙で話せなかった。
「あらあら、澤田さん、本当に優しい方ね。何か書くものがあるんでしょ?」
「えっ」
「営業にいらしたんでしょ。」
「まだちゃんと説明を・・・」
「説明なんかいらないわ、あなたみたいな人がいる会社ならきっとよくしてくれるでしょ。結婚式でもお葬式でも任せられるわ。」
このお話は事務所の皆に話すことはなかった。武井が過去の営業で印象に残る出来事を聞いたときに初めて聞かされた。天然でお嬢様育ち。世間知らずのように見える澤田さんの奥の深さを感じたお話だった。
現在、彼女は七十を過ぎてどうしているかと言うと。現役を退いて長野に引っ越した。
春から秋は軽井沢で生活している。持ち前の人懐こさで早速友達ができて趣味のパン作りやドライブやショッピングなんかで楽しんでいるようだ。毎年十一月下旬から二月ごろまでは台湾と沖縄で数ヶ月間を過ごしている。武井の趣味のスキューバ・ダイビングを真似してダイビングにチャレンジした時の写真がラインで送られてきた。たとえ体験ダイビングでも七十を過ぎた人が機材を背負って海中にチャレンジするのは凄い。綺麗な海と魚の写真。「うらやましいでしょ。」と書いてきた。そして一緒に潜った人との写真。横に写っている大阪の40代女性と友達になったらしく、今度一緒に飲もうよなんて書いてきた。飲めないくせに。キラキラの笑顔が現役の頃と変わらない。全く歳を感じさせないパワフルな人。
了
お嬢様育ちの奥様がトップセールス @isasa130
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