ブルースマンと赤ん坊
森新児
ブルースマンと赤ん坊
一九三八年二十七歳の若さで亡くなったロバート・ジョンソンは伝説のブルースマンだ。
若きローリング・ストーンズやエリック・クラプトンに大きな影響を与えるなど、その名は今や神格化している。
ロバート・ジョンソンは「悪魔に魂を売った男」という異名がある。
ロバートが活動していたアメリカ南部はかつての奴隷文化の名残りでブードゥー教を信仰する者が多かった。
ブードゥー教にクロスロード伝説という神話がある。
真夜中の十字路でギターを弾いていると悪魔がやってくる。
その悪魔に自分の魂を売って契約を結ぶと、超人的なギターのテクニックを身につけることができる。
それがクロスロード伝説といわれるものだが「ロバートはそれをやった」と人々は確信した。
ロバートは二年ほど仲間の前から姿を消していた時期がある。
ようやく仲間のもとへもどったロバートがギターを弾くと、それまでたいしたことなかった彼の腕前が、神業といっていいほど進化していた。
人々は驚愕し「ロバートは悪魔に魂を売ったんだ」とうわさしあった。
ロバートはそのうわさを否定しなかった。「悪魔に魂を売った男」というおどろどろしい言葉が自分のいいキャッチコピーになると思ったのだ。
もちろん真相はちがう。
人々の前から姿を消していた二年間、ロバートは悪魔ではなくアイク・ジマーマンという四つ年上のブルースマンのもとでギターの修行していたのだ。
これから語るのはそのアイク・ジマーマンがロバートと出会う前の若き日に体験した、ある奇妙なできごとである。
一九二六年の夏。
まだ十代の若者だったアイク・ジマーマンはアーカンソー州のリトルロックに住んでいた。
南部の町だが彼が長くここにいたのは黒人でもあんがい暮らしやすかったからだ。
そのころアイクは昼は農場で働き、夜は墓地でギターの練習をするという日々をすごしていた。
真夜中の墓地はギターを弾くのにうってつけの場所だ。
墓石に反響するギターの音がさえざえと美しいし、うるさいと文句をいう隣人もいない。
アイクはその夜もお気に入りの「E.G」とイニシャルだけ刻まれた墓石の前に折り畳み式の椅子を置き、そこでギターを弾いた。
今夜は満月だから手もとがよく見える。
アイクは勝手にE.Gはエリー・ギルモアのことだろうと思っていた。
エリーはアイクが子どものころあこがれた近所の雑貨屋の娘だ。
十六歳で結婚したエリーは亭主のトミーに浮気しているところを見つかり、間男と一緒に亭主にショットガンで撃たれて死んだ。
エリーは二十歳になったばかりで、すでに三十歳になっていたトミーもその場で自分を撃って死んだ。
ギターを弾きながらアイクは墓石に語りかけた。
「どうだいエリー、おれのギターは? 今夜も最高だろう。ていうかおまえ本当にエリーだよな? まさかエルモア・ジャガーとかじゃねえよな? そういうのかんべんしろよ。おれは男に聞かせるためにギターは弾かねえ、女のために弾くんだ……」
と、そこでアイクは急に鼻をくんくん鳴らした。真夜中の墓地になんでこんな甘い香水の匂いがたちこめているんだ? と不審に思っていると
「こんばんは」
「わあ!」
とつぜんの呼びかけにアイクは悲鳴をあげた。
毎日真夜中の墓地に通っているのに、アイクは異常なまでのこわがりなのだ。
彼に声をかけたのは白いドレスを着た白人女性だった。
若くて髪が黒く美しい。
アイクはとっさに顔の前で十字を切った。
「か、神さま、お助けを」
「いやあねえ、わたしお化けじゃないわ。グラディウスっていうの」
そういって月明かりを浴びた白人女性が華やかに笑うと、彼女が抱いている白い布から泣き声がもれた。
「グラディウスさん、あんた赤ん坊を連れてるのかい?」
アイクは仰天したが若い母親は、ええそうよ、とケロッといった。
「なかなか眠ってくれないの」
「だからってこんな時間に墓地に赤ん坊を連れてくるなんてむちゃですよ……へえ」
アイクは母親が抱いた赤ん坊の顔を見た。思わずアイクは笑った。白い布の中に
「なんてキュートなんだ……女の子ですか?」
「ええ」
「名前は?」
「ノーマ・ジーン」
「おお、いいお名前でちゅねー、ノーマちゃん」
「キャッキャッ」
「本物の天使だ。神さま、どうかこの子を末永くお守りください」
アイクはそういうと顔の前で十字を切り、胸の前で手を組んだ。それからなぜだかわいてきた涙をそっとぬぐった。
「……グラディウスさんはこの町のお人で?」
「ううん旅の途中。旦那がビール飲んで寝ちゃって退屈してたらギターの音が聞こえたの。それで赤ちゃん連れてきたの。ねえ吟遊詩人さん、わたしのお願い聞いてくれる?」
「なんです?」
まさか自分の旦那を殺してくれなんていいだすんじゃないだろうな、とアイクが身構えているとグラディウスはいった。
「わたしの赤ちゃんのために一曲歌ってくれない?」
「オウ、そういう願いはお安いご用でさ」
アイクはそういうとギターを弾き、歌を歌った。赤ん坊はにこにこ笑いながら、まるで手拍子のようにアイクの歌声に合わせて手を叩いた……
曲が終わるとグラディウスは熱烈に拍手した。
「ブラボー! すてき! 歌もギターも最高よ!」
「どうも」
アイクは照れて意味もなく額をかいた。
赤ん坊もキャッキャと笑って喜んでいる。
「ねえ、なんて曲なの?」
「え? アドリブだから名前なんてないですが……『リトルロックからきた娘』ってのはどうです?」
「あら、それってわたしの赤ちゃんのこと?」
「そうです。あなたの赤ちゃんを見て思いついたメロディです」
「まあよかったわね、ノーマ」
グラディウスはそういうと赤ん坊の頬にチュッと音立ててキスし、赤ん坊がまたキャッキャと笑った。
アイクは母子のそんな光景が、どんな名画よりも清らかで尊く見えた。
最後にその夜のあと、三人がどうなったのかを書いておこう。
若い母親グラディウスはその後精神を病んで病院に入った。
母親と別れた赤ん坊は孤児院に入れられ、複数の里親を転々とした。
成長した赤ん坊はすれちがう人がみんな振り向く美しい娘になり、やがてハリウッドで女優になった。
芸名をマリリン・モンローという。
マリリンの姿はフィルムに焼きつけられ、その美しさは永遠に輝き続けることになった。
それとは対照的に、アイクの曲は一曲もレコーディングされていない。残っているのは彼の名前と伝説だけ。
熱心なブルースファンは今もささやいている。
アイク・ジマーマンはどんな声で歌ったんだろう? それにどんなメロディを奏でたんだ?
あの夜墓地にいた若い母親と赤ん坊、そしてE.Gとイニシャルが刻まれた孤独な墓石だけが、その秘密を知っている。
その秘密は、もはやだれにも解くことができないのだ。【完】
ブルースマンと赤ん坊 森新児 @morisinji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます