終章『あの夏の日の青』
君がいた、ひと夏だけの永遠を
勤め先で
日の出とともに起床しては満員電車にすし詰めにされ、自宅から三十キロも離れた都心のオフィスに通勤していたのが、遥か昔の出来事のように感じられた。
十数人からが出席する会議に、下半身は
飽くなき進化の末に人類がたどり着いた終着点とは、まさに今いるこの場所のことなのではないか?
もっとも、それにより新たに生み出された弊害もあったのだが。
例えば今日のように、休日であっても時間があればパソコンの画面を開き、もしそこに簡単なタスクを見つけでもしようものなら、給金が支払われるわけでもないのにやっつけてしまう。
そんな昭和時代を彷彿とさせる悪しき働き方が、いつの間にやら身についてしまっていた。
それは、決して私が仕事人間だからというわけではなく、むしろ家族と過ごす大切な時間を捻出するための手段だった。
……が、当の妻と娘の理解はまったく得られていなかった。
「あー! お休みの日なのにまたお仕事してる! ママに言いつけてもいい?」
今もこうして、その悪癖を娘に
「今日、あっちに行ったら好きなもの買ってあげるから。だからママに言うのだけは、ね?」
娘はその言葉を聞くや否や、への字に結んでいた口を
「ホントに? じゃあねじゃあね! わたし、新しいお帽子がほしい!」
身から出た錆とはいえ、随分と高い代償を支払う羽目になってしまった。
「……ところでその洋服、君にすごく似合っていて素敵だね」
茶を濁すために咄嗟に絞り出した言葉ではあったが、その評価の正当性には並々ならぬ自信がある。
彼女ほど白色のワンピースがよく似合う女性を、私は人生のなかでたったの二人しか知らない。
「ずっとまえから思ってたんだけど、パパってちょっと……ヘンだと思うよ」
赤らめた頬に手をあてそう言った彼女は、スリッパの音をパタパタと立てながら廊下を走り去って行ってしまった。
きりのいいところまで仕事を片付けたかったのだが、今度はそれを妻に見られでもしたら、せっかくの買収工作が無駄になってしまう。
それに今日はこのあと、親子三人で外出する予定が控えている。
なんだかんだで、丁度いい頃合いだったかもしれない。
パソコンの画面が消えるのを見届けたあと、デスク脇に置かれたワゴンから
毎年たったの一度だけ、八月の今の時期に行うこの儀式は、妻と娘にはずっと秘密にしている。
封筒から取り出した写真をデスクの上に置き、椅子の背もたれに体重を預けて目を閉じる。
すると、まぶたの裏のスクリーンにあの日の光景が、まるで昨日のことのように鮮明に浮かび上がる。
柔らかな潮風に揺れるハマゴウの花畑と、その只中で微笑みを浮かべて佇む、麦わら帽子を被った白いワンピースの少女の姿が。
「今年も会いに行くよ。君と出会った、あの夏の日の海に」
儀式を終えてから壁の時計に目を向けると、出発を予定していた時刻が目前にまで迫っていた。
特段に急ぐ旅ではないのだが、うちの女性たちは時間という概念の外側で生きているふしがあった。
彼女らの自主性に任せるがまま放っておきでもしようものなら、私の短い夏季休暇など、あっという間に終わってしまうこと請け合いだ。
「おーい
椅子に座ったまま振り返りそう叫んだ私だったが、自分の荷造りがまだ終わっていなかったことを思い出す。
「ごめん美帆! 僕の靴下の買い置きって、どこに仕舞ってあったんだっけ?」
おそらくはリビング辺りに居るであろう妻子の名を呼びながら、愛する家族と下ろしたての靴下を求めて自室をあとにする。
誰も居なくなった部屋。
開け放たれた窓から吹き込む八月の風が、デスクに置かれたままの写真を軽やかに舞い上がらせる。
それはまるで、あの夏の日の麦わら帽子のようにしばらくのあいだ空中を漂うと、やがてその高度を徐々に落としながらくるりと裏返しになり、ついには白いフローリングの床の上に滑り落ちた。
年月の経過からか、それとも夏生があの日流した涙のせいか。
色褪せた写真の裏側には
親愛なる彼と彼女へ
この写真は お二人への感謝の気持ちで撮らせていただいたものだったのですが 現像をしてみたところあまりのできの良さに お二人への許可も取らずに勝手にコンクールに出させて頂きました
本当に 本当に申し訳ありません
いつか必ず このお詫びとお礼に伺わせて頂きますので 何卒お許しください
末筆ではございますが あなた方お二人の永遠の愛を心よりお祈り申し上げます
第9回中日本フォトコンテスト入選作品
『海の青より、空の青』
完
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