宝物

「この春にやっと、ずっとそのままだったお姉ちゃんのお部屋を、お母さんと一緒に片付けたんです。その手紙はその時に机の引き出しから出てきたものです」

 いつの間にかまた溢れ出していた涙で濡らしてしまわないよう、細心の注意を払いながら封筒の裏側に目を落とす。

 猫のイラストのシールで封をされたその横に、丸くて可愛らしい字で小さく『夏生くんへ』と書かれており、中には便箋びんせんと一枚の写真が入っている。

 二度、三度と深く呼吸をしてから覚悟を決め、震える手で取り出した便箋に目を向ける。



夏生くんへ


ごめんなさい。

夏生くんと初めて会った日にはもう、私はあの町からいなくなることが決まっていました。

でも、あなたにそのことを言えませんでした。

それはきっと話してしまったら、笑顔であなたと会うことが出来なくなってしまうような、そんな気がしていたからだと思います。


風に飛んだ帽子をびしょぬれになって取ってくれた時、私はすぐにあなたのことを好きになっていました。

夏休みの小学校でデートをして、盆おどりを一緒におどって、山みたいなかき氷を一緒に食べて、それに灯台にも一緒に行きましたね。

私はその一日一日で…ううん、一秒ごとにあなたのことをどんどん好きになっていきました。

夕方の海であなたと別れたあと、私は家に帰ってからいっぱい泣きました。


でも、もう悲しくはありません。

家族にはナイショですが、今おこずかいを貯めてあなたに会いに行く計画を立てています。

来年の夏にはあの海でまた、あなたと一緒に灯台まで歩いて新しい思い出を作りたいです。

そして、高校を卒業するまでにはもっといっぱいお金を貯めて、あなたと同じ大学に通うのが私の夢です。

だから、それまでは絶対に彼女を作らないでください。

絶対に!


あなたと過ごした夏の日々は、私にとって一生の宝物です。

次に会った時には、あの時に言えなかった言葉を伝えたいです。


P.S.


もうひとつだけ、ごめんなさい。

ハマゴウの花言葉を知らないって言ったのはウソです。

でも、はずかしいのでここには書きません。

図書館に行く機会があったら調べてほしいです。


志帆



 便箋を封筒に仕舞い、次に一緒に入っていた写真を取り出す。

 そこには紺碧の海を背景にして真顔でカメラに目を向ける俺と、直後に訪れる別れなど全く感じさせない笑顔で俺を見つめ、その白く細い指を優しく絡ませている彼女が写っていた。

「お姉ちゃんが夏生さんのお話をしてくれる時、いつもこんな顔で笑ってました」


 俺たちは涙を拭うことすらせず、写真の中で幸せそうな笑みを浮かべている彼女のことをずっと見ていた。

 しばらくそうしたあとに顔を上げると、いつの間にか夏の夜空に一番星が瞬いていた。

 志帆ちゃんが行ってしまった遠い場所と比べれば、あの星など少し手を伸ばせば簡単に届いてしまうことだろう。

「俺は……君のお姉さんの、志帆ちゃんのことが、本当に大好きだった」

「お姉ちゃんもおんなじです。夏生さんのおかげでお姉ちゃんは幸せでした」

 彼女はそう言うと先ほどとは逆に、その白く細い指で俺の頬の雫を拭ってくれた。


 茜色に支配されつつある空の下、赤土の畑の間を真っ直ぐに伸びる道を並んで歩く。

 言葉を交わさずに足を動かすこの状況は、あの日の海で彼女の姉と過ごした時とよく似ていたが、目指しているゴールはとても対照的なように思えた。

「……お姉ちゃんに聞いていた夏生さんと、実際に会って話してみた夏生さんって、なんだか少しだけイメージが違いました」

 真横を歩いていた彼女が、ふいにそんなことを言い出す。

 発言の意図を問うために、ちょうど頭ひとつ分だけ低い位置に目を向ける。

 その場所にあった小さな顔が、あまりにも初恋の人のそれと瓜二つで、止まったばかりの涙がまた溢れてきてしまう。

 そのことを悟られないよう、わざとらしく咳払いをして空を見上げると、改めて言葉の意味を彼女にたずねる。

「違ったって? どんなふうに違ってた?」

「夏生さんはヘンな人だって。お姉ちゃん、そう言ってました」


『夏生くんって、ちょっと変わってる』


 確かに彼女の姉にそう言われたことが何度かあった。

 しかし”変わってる”と”変な人”だと、後者の方が随分と印象が悪い気がしてならない。

「変な人じゃないよ。ちょっと変わってるってだけで」

 自分でそう言ってから、どちらにせよ変であることには違いないと気づき肩を落とす。

「でも」

 いつの間にか半歩後ろを歩いていた彼女が呟いた。

「夏生さんは、お姉ちゃんが好きだった人です。だからもしヘンな人だったとしても、それはきっと……」

 頬を赤らめながらそう言った彼女は、まるでスキップでもするかのように軽い足取りで俺の前に躍り出ると、長い黒髪を手で押さえながら勢いよく振り向く。

 そして、はにかんだような笑顔を見せながら、さらに短く言葉を続けた。

「夏生さんは私が想像していた通りで、とってもとっても素敵な人でした」


 そのあと俺と彼女は特段に言葉を交わすようなこともなく、ゆっくりでも急ぐでもない足取りで歩みを進めた。

 そうこうしているうちに、景色はさみしげな耕作地のそれから、温かな人の営みの気配がする小規模な集落へと変移していた。

 窓に明かりを灯す家々が目に入ると、何だか久しぶりに人間の住む世界に戻ってきたような気分になる。

 それと同時に、長かった少年時代が今まさに終わってしまうような、そんな不確かな予感が胸をよぎった。


「夏生さん。うち、もうすぐそこなので」

 こちらに向き直った彼女は、出会った時と同じように手を身体の前に揃えて丁寧にお辞儀をした。

「送ってくれてありがとうございました」

「ううん……。こちらこそ今日は本当にありがとう」

 俺は君のお姉さんと会えたおかげで、人を愛することの尊さを知ることができた。

 そして今日、君と会えたことで、その愛が偽りでも仮初めでもなかったことを知ることができた。

「いえ……あ、そうだ。夏生さん、これ」

 彼女は握った右手をそっと差し出すと、手のひらを上に向けて広げた。

 そこには真夏の透き通った空と同じ色の小さなシーグラスが載せられており、今日という日の残滓であるわずかな自然光を受け、宝石のようにキラキラと輝いていた。

「これは?」

「さっき夏生さんのところに向かっている時にみつけたんです」

 そういえば幼かった頃にも、これと同じような色と形のシーグラスを誰かに貰ったことがあった気がする。

 ただ、その相手が誰だったのかは忘れてしまっていたし、宝物のようだったそれをどこにやってしまったかを思い出すこともできなかった。

「これ、もらってください」

「いいの?」

「はい! 私とお姉ちゃんからのプレゼントです!」

「……ありがとう」


 最後に数秒だけ見つめ合うと、まるで申し合わせていたかのように同時に頷く。

 彼女はそのまま何も言わずに背を向け、まっすぐ西の方角へと向かって歩き出した。

 やがて幼い後ろ姿が夕闇に紛れて見えなくなる、その寸前。

 突如として振り返った彼女は口の横に両手を当てると、驚いてしまうほどの大きな声で、こう叫んだのだった。

「夏生さんにお願いがあります! これからもずっと! ず~っとヘンな人でいてくださいね!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る