二章 投打の極み

第32話 お引越し

 トレードデッドラインまで、おおよそあと四時間。

 直史はここでセイバーに、詳しい事情を聞いておくべきだったのかもしれない。

 だが心情的にはまず、瑞希と大介に話すべきだと思ったのだ。

 そして優先したのは大介であった。

『…………なんで?』

 大介としても、寝耳に水といった反応である。

 当たり前だ。直史もそうであったのだから。

 メトロズは確かに、現在クローザーを欲している。

 だから取るならピアースであろうと思っていたのだ。


 確かに直史は、クローザーも出来なくはない。

 だが適性で言うならば、やはり先発の方がいいのだ。

 もちろんそれは、他の人間が100と99を話しているところに、桁の違う数字を出すようなレベルであったのかもしれないが。

 どうしても三振を取らなければいけない場面は、直史は苦手なのだ。

 もちろんそれは、他のどのクローザーよりも得意で、しかし試合を完封するよりは苦手だというレベルだが。


 直史も大介も、セイバーのことは基本的に信頼している。

 彼女は経済の徒であるからして、WIN-WINの関係を重んじるからだ。

 そう思えばこのトレードは、それに当たるのか。

 裏切りは、最後の最後で一度だけ。

 そのためにそれまでの全てを、正直者で通してきたのか。


 もちろんセイバーはかなり、手段を選ばないところはある。

 直史がレックスに入った経緯なども、その一環ではあった。

 ただ二人の希望を、上手くかなえてくれるのがこれまでのセイバーであったのだ。

「まだリミットまで時間はあるだろうから、セイバーさんに詳しく聞いてみてくれ。俺は瑞希に連絡して、あとはチームからの連絡も待つ」

 そもそもこの時点で、直史のトレードは成立しているのだろうか。

 直史はトレード拒否権を持っており、まだ行使していないというだけだ。


 そのあたりの確認の前に、直史は瑞希に電話する。

 向こうでも驚いていたようであったが、それよりは戸惑いが大きいだろう。

『確かトレードした選手を、すぐにまたトレードするということもあるんじゃないの?』

「それはそうなんだが、メトロズにならともかく、他の球団にまで俺の情報が回っていると思えない」

 直史もトレード拒否権。

 メトロズもそこは承知しているのだろう。

 それにメトロズの補強ポイントである、クローザーというポジション。

 直史にはクローザーの適性が充分にある。


 だから大介との対決という点を除外すれば、メトロズで投げるというのはいいことなのだ。

 直史は先発として投げるために、ホールドやセーブについてはインセンティブが発生する契約をしていた。

 ここから直史が取れる選択は、それほど多くない。

『トレード拒否権を使ったら?』

「それもあるが、アナハイムにいる限りはもう、ポストシーズンには出られないだろう」

 いくら直史が頑張っても、シュタイナーもマクヘイルもピアースも放出したのだ。

 完全にリリーフ陣が崩壊している。


 選択するのは直史ではない。

 直史にプロに来いと言った大介だ。

 それが共に戦いたいというなら、それはそれでいいのだ。

 別に直史は、ワールドチャンピオンになりたかったわけではない。

 沢村賞もいらなかったし、サイ・ヤング賞もいらなかったし、MVPもいらなかった。

 そもそもプロの世界に興味がなく、ただ大介が望んだから。

 あとは強いて言えば、上杉とは投げ合ってみたいなとは思ったのは確かだ。




 大介からの連絡があり、直史はあとは、メトロズのフロントから、電話がかかってくるのを待っていた。

 本当のデッドラインぎりぎりで、トレードが成立するのか。

 ただ直史のトレード拒否権は、トレード先でも生きている。

 メトロズからの連絡はなかった。

 つまりこれで、直史はメトロズの一員となったわけだ。


 レギュラーシーズン残り二ヶ月。

 まさかと思っていたが、樋口が離脱し主力が放出されつつあった中、直史は万一のことも考えてはいた。

 時期的に子供たちと共に、瑞希も引っ越すことは了解していた。

 彼女の仕事は基本的に、ネットがあればある程度の都市ならどこでも出来る。

 なんならニューヨークなら、大介のところに数日は泊まってもいいかもしれない。


 幸いなことに、トレードすればどうするのかは、身近なトレードを見てきて知っている。

 アナハイムもトレードデッドラインで、数人は動かしているのだ。

 直史の場合は、深夜にトレードデッドラインが切れて、直史側からトレード拒否もなかったため、この時点でメトロズへの移籍が成立した。

 普通の選手であれば、翌日には新チームへの合流を期待される。

 だがこの日、直史は完封をしている。

 なのでどうせ次の日には使えないと、メトロズのフロントも分かっていたのだ。


 さすがにまんじりともせず、翌日の朝を迎えた直史。

 かかってきた電話はメトロズの旅行担当者からである。

 八月二日、つまり明日のアトランタ戦までに、チームと合流するようにという命令である。

 ちなみにこれはかなり温情的な措置であり、状況によっては六時間以内に合流とか、今戦っているチームのベンチに行けとか、日本的常識で考えなくてもかなり無茶なものがある。

 現在タンパベイにいる直史は、メトロズの取ったチケットで、空港に向かってニューヨークに行くわけだ。

 この時、旅行担当者は直史を移動させることだけが役割であり、何かの相談に乗ってくれるなどということはない。

 不親切というわけではなく、その人物の仕事は、直史を移動させることだけだからだ。


 いつの試合で登板するのか、ということも言われない。

 それについては直史が、ホテルから出てタクシーに乗っている間にまた連絡があった。

 なおアナハイムのメンバーとは、昨日のロッカールームで別れを告げている。

 急なことだが珍しくない。

 ちゃんと挨拶をしていった直史は、むしろ逆に珍しいものだ。


 直史にメトロズのマネージャーは、待遇などを説明する。

 このあたりはチームによって、また選手によって違うため、一概には言えない。

 とりあえず直史には、ニューヨークのホテルが用意される。

 住居は希望するかという質問に対し、直史はもちろんイエスという。

「妻の仕事の関係や、あとは引越しの準備のため、数日はアナハイムにいてもいいのか?」

『アナハイムに対してはこちらで交渉する』

「家族は妻と子供二人で、シッターなどを雇っているがそれを紹介してもらえたりはするのか?」

『OKだ。具体的には他の者からまた連絡する。数日はホテル暮らしで構わないか?』

「構わない。いつぐらいまでになるか具体的に分かるか?」

『球団の所有しているマンションのデータを送るから、そこから選んで欲しい』

 なんともせわしないことであるが、一日でも早く合流して欲しいというのは当然なのだ。

「私は先発で投げるのか? それともリリーフ?」

『それは現場のFMが決めることだから分からない。だが憶測でいいならクローザーだと思う』

 MLBではこのように、フロントと現場の権限がしっかりと分かれている。


 一週間はホテル暮らしが許可される。

 ただこれも選手によるし、球団のフォローにもよる。

 どちらかと言うと選手よりも、家族の方が大変なのだ。

 なにしろトレードというのは望まれていくことだから、球団もベストパフォーマンスを発揮してもらうため、最大限に協力するからだ。

 タクシーの中でも電話をあちこちから受けて、そして空港ではファーストクラスのチケットを受け取る。

 瑞希にはトレードの可能性は充分に話していたから、それ自体は驚いていなかった。

 ただトレード先がメトロズというのが、最も意外ではあった。

 一番ありえないだろうと思えるものだったからだ。


 子供たちの環境を急に変えてしまうことは、あまりいいことではない。

 だが元々直史は、東京からアナハイムにやってきたし、そしてシーズンが終われば千葉に帰る。

 だいたい九歳前後に、子供の母国語は脳内に定着するとも言われる。

 それまでにあちこちを連れ回すのが、果たしていいことなのか。

 しかしそれはそれとして、家族が離れて暮らすというのはありえない。

 直史自身が寂しくて死んでしまう。




 マネージャーには住環境については、瑞希に連絡してもらうように伝える。

 直史はトランクを持って、ホテルに行けばいいだけだ。

 そして余裕があると、少し考えてしまう。

 今回のトレードを画策したのは、誰なのかということだ。


 ピアースのトレードも、直前まで決まらなかった。

(ひょっとしてノートレード条項に引っかかったのか?)

 直史はそうも思ったが、もしもメトロズが最初はピアースを望んでいたのなら、おそらくそれは成立したと思うのだ。

 ノートレード条項というのは、MLBに10年以上在籍し、かつ現在同じチームに五年以上所属している選手が持つ権利である。

 ピアースは確かにこれは持っているはずだ。

 確かMLBで12年、アナハイムに六年はいたはずだからだ。

 しかし移籍先が優勝を狙えるメトロズであるなら、普通にトレードにも頷いたと思うのだ。

 それがどうして成立しなかったのか。


 ピアースは今年で契約が切れるので、また新たな契約を結ぶ必要がある。

 そのためにはメトロズに移籍するのは、悪いことではなかったはずだ。

 新たな契約の条件は、当然ながら実績がものをいう。

 メトロズの強力打線ならば、援護は大きいはずだ。

 クローザーはかなり特殊な評価のされ方をし、一点を取られただけでも一気に防御率は悪化する。

 だがランナーを出しても、その状態から失点さえ防ぐなら、いいクローザーと評価されるのだ。


 もちろん諸々は、直史の憶測である。

 メトロズはクローザーとして頭角を現してきていた、アービングがトミージョンで離脱した。

 おそらく復帰は来年の終盤、間に合うかどうかといったところだ。

 リハビリも考えたら、来年は丸々休むと考えた方がいい。

 なので今年で契約の切れる、ピアースを嫌ったというのなら分かる。

 しかし今年で契約が切れるのは、直史も一緒なのだ。


 直史は本職のクローザーではない。

 ランナーがいる状況からでは、それなりに点を取られる可能性はある。

 先発として使うならともかく、メトロズは今、クローザーを必要としているのだ。

 もちろんある程度は出来なくはないが。


 メトロズのことだから、オーナーの意向が働いたのかもしれない。

 MLBのオーナーというのは、ある意味においては名士の中でも代表的なものだ。

 その中でもメトロズのオーナーのコールは、ひたすらチームのために金を使う。

 いまどき珍しい、ベースボールで自分のチームを勝たせたくて仕方ない、そういうオーナーであるのだ。


 ワールドシリーズ連覇という、メトロズもアナハイムも不可能であった称号。

 ワールドチャンピオンになったコールとしては、ぜひともほしいものであったのだろう。

 大介が来た一年目に、ワールドチャンピオンにはなった。

 しかしシーズン後のエキシビションとはいえ、直史のいたレックスに完敗している。

 その直史が入ったアナハイムに、去年は勝ったのだ。

 それでも直史に対しては、恐怖を感じていたのかもしれない。


 恐れられるというのはある意味、最も素晴らしい勲章であるかもしれない。

 逆に言えばこのカードだけは、なんとしてでも手に入れれば、絶対に勝てるとも思えるのだ。

 レギュラーシーズンの間は、クローザーとして使えばいい。

 そしてポストシーズンは、先発として相手を完封してもらう。

 いや、そんなに先発とクローザーを、行ったり来たりは出来ないぞ、と常識的な人間なら思うだろう。

 だが直史には実績があるし、何より常識では計算出来ない。


 何はともあれ、今はまずニューヨークへ向かうことが重要だ。

 そう思って飛行機に乗る。

 メトロズのスケジュールを確認すると、アウェイのワシントン戦の後、ホームでアトランタとの対戦になる。

 四連戦で首位攻防。

 先発で使われるのか、リリーフで使われるのか、現場の判断することではある。

 だが先発で使うつもりなら、いっそピアースまで取ってしまっていただろう。

 ピアースはミネソタが取って、中地区首位の座を不動にしようとしている。

 ならばやはり直史は、クローザーとして使われるということだ。


 過去のクローザー経験を思い出す。

 高校時代から、試合の終盤のみに投げるということはあった。

 特に二年生以降は、白富東には充分エースクラスと言えるピッチャーが大勢いたので。

 高校野球でも継投が主流。

 直史は精神的に苦しいところを、平然と乗り越えていったのだ。

 ワールドカップでも、二年生ながらクローザーとして12イニングを投げた。

 あれが本格的なクローザーとしての資質の開花であったかもしれない。

 大学でもそれなりに投げたが、基本はやはり先発であった。

 プロ入り以降も国際大会以外では、ほとんどが先発である。

 しかし去年のポストシーズンで、そのリリーフ適性をはっきりと示した。


 31日に先発完封し、2日以降の試合に投げる。

 直史はメトロズの先発カードを確認したが、第一戦を投げるのはジュニアである。

 アトランタ相手の四連戦、先発のローテは既に公開されている。

 なので少なくとも最初は、リリーフでの登板となるだろう。

 一試合完封してから、次はリリーフで投げる。

 直史は出来なくはないが、普通のピッチャーを運用するにはやや危険である。

 もちろん直史が普通扱いされるはずもない。

 ニューヨークへのフライトの中で、トレード関連のニュースを見る。

 直史を放出したことに抗議して、アナハイムのファンが球団本部を取り囲んだりしていた。

 いや、さすがに今年はもう、ポストシーズンは狙えないはずなのだが。


 心配なのは瑞希と子供たちのことだ。

 もっともマンションは球団の所有であり、家具なども一式は設置されていたものだった。

 荷物はある程度まとめ始めていたし、瑞希のことだからすぐに準備は整えるだろう。

 おそらく、という予想はしていたのだから。

 どこに引っ越すか、は分かっていなかったが、荷物の輸送は面倒なものである。




 ニューヨークに到着した直史は、球団本部のビルへと向かった。

 そこでGMと握手してから、英語と日本語二枚の契約書を渡される。

 通訳はメトロズが用意してくれたもので、もちろんアナハイムの若林とはさよならだ。

 条件については特に問題がない。

 一週間はホテル暮らしで、そこからは瑞希の選んだマンションに移る。

 アナハイムでも使っていた車は、球団が運んできてくれるらしい。

 売却してこちらで新しく買う、というスタイルの選手も多いらしいが、慣れた車の方が事故の可能性は低い。

 ぽんぽんと車を買い替えるほど、直史の庶民感覚は鈍っていない。


 チームに合流するのは、明日の試合からとなった。

 今日はワシントンでアウェイの試合を行っており、明日のアトランタ戦から合流だ。

 どういう役割で使われるのか、と尋ねてみたが、やはり断言はしない。

 おそらくはクローザーだろう、とGMのビーンズは言ったが。


 MLBは本当に、基本的にGMとFMの役割が違う。

 GMは現場には口を出さず、それでもFMが気に食わなければ、クビにしてしまえばいいのだ。

 そうやってイエスマンのFMを据えることもあるが、基本的には勝てるFMならいいのだ。

 GMとFMは同じ勝利を目指す立場にはあるが、意見が衝突することはある。

 チームを作るのがGMで、勝利を掴むのがFM。

 ただし長期的に考えて、GMがFMと話し合うというのは、普通に行われることなのだ。


 チームがニューヨークに戻ってくるのは明日で、そのまま試合が行われる。

 とりあえずホテルに戻った直史は、瑞希と連絡を取る。

 明日にはこちらにやってきて、荷物は明後日には用意されたマンションに入る。

 荷解きはそれからになるが、直史が手伝っている暇はないだろう。

 まったくもってシーズン中のトレードというのは、選手にかかる負担が大きい。

 直史の場合は肉体ではなく、精神状態にかかる負担の方が心配だ。

 もっともメトロズであると、キャッチャーが坂本になる。

 それは直史にとって、数少ない安心できる材料だろうが。


 ノートPC一式は持ってきていたので、ホテルの回線につないで、直史はトレードの全体像をつかんだ。

 主に強力な補強をしたのは、サンフランシスコにヒューストンの2チームであろうか。

 元チームメイトであるピアースは、なんとミネソタに行っていた。

 あそこは充分に強いクローザーを抱えているが、さらにリリーフ陣を充実させたということだろうか。

 サンフランシスコは投手陣を補強、ヒューストンは打線陣を補強。

 なおシュタイナーはボストンに移籍している。

 補強されたサンフランシスコには、マクヘイルが移籍している。

 どのチームもやはり、本気でポストシーズンと、その先のワールドシリーズを目指しているわけだ。


 これがトレードか、と改めて直史は思った。

 NPBでは現在、ドラフトと育成が主な戦力補強となっている。

 FA移籍もあるが、これは金満球団が圧倒的に有利だ。

 トレードは最近では、あまり行われていない。 

 対してMLBでは、トレードはオフもシーズン中もとても積極的なのだ。


 職場を変えるということが、ステップアップだという意識があるからだろう。

 日本人は基本的に、仕事を変えるということにも保守的だ。

 かつては就職は一生を会社に捧げるものという意識もあったが、現代ではもう一生を同じ会社で過ごす人間は、せいぜい一割とも言われている。

 必要とされるから、トレードの対象となる。

 もっともどれだけ必要とされても、今年の大介などはトレードの候補にも上がらない。

 メトロズがワールドチャンピオンを目指していて、大介の契約も残っているからだ。

 またファンもそれを許さないだろう。

 アナハイムからの直史の移籍は、SNSなどでもかなり球団を叩いていた。

 贔屓の選手が放出されれば、それは当たり前のことなのだ。

 直史の契約だけでなく、プロ生活が今年限りと知らなければ、いくら金を積んででも、残しておけとファンは騒ぐだろう。

 ただこれがちょっと、洒落にならない状況になりつつある。


 アナハイムのオーナーであるモートンは、球団経営のみならず、観光やエンターテインメントの分野で、幅広く事業を展開している。

 その彼の事業全体に、ヘイトが集まっているのだ。

 不買運動などを呼びかける発信もあり、直史も眉根を寄せる。

 また彼の持つ会社の株価が、全体的に下がっていたりもする。

(これはひょっとして……)

 直史はやはり、この動きにはセイバーが絡んでいるのではと思った。

 野球の動きだけを見ていたら、分からなかったことだろう。

 セイバーはおそらく、本当に直史のトレードはどこでもよく、ボストンやラッキーズとも接触したのかもしれない。

 だが本当の狙いは、アナハイムというチームそのもの。

 モートンの資産価値を落とせば、彼はある程度の財産を整理しなくてはいけなくなるのだろう。

 そこに彼女のつけいる隙がある。


 今のアナハイムは、完全にストップ安が続く状況だ。

 引きずられてモートンの資産の価値も減っていっている。

 そこでセイバーがアナハイムを買うのか。

 もちろんこれは憶測と言うより、邪推に近いものであろうが。


 アナハイムは確かに今年、チームを解体した。

 しかし高年俸選手を放出し、樋口やアレクはまだ数年戦力になる。

 ターナーが来年戻ってくれば、充分にポストシーズンは狙えるチームが作れるだろう。

 彼女が目指すのは、MLBのオーナー。

 あるいはターナーの状態についても、彼女は自分のところで情報を止めているのではないか。


 経済と数字の悪魔。

 直史はセイバーの脅威を、良くも悪くも正しく評価していた。




 翌日、直史はメトロズのクラブハウスで、FMのディバッツをはじめとした、首脳陣と対面した。

「クローザーを頼むぞ」

 予想していた通り、クローザーとしての起用である。

 直史が最後のぎりぎりまでアナハイムで投げていたため、数日は肩肘を休ませる、とディバッツは言った。

 確かに現時点で、メトロズはまだ勝率は軽く五割をオーバー。

 直史を休ませてから、ちゃんと使っていっても大丈夫だ。


 七月が終わった時点で、メトロズは59勝46敗。

 七月に限れば11勝13敗と負け越していた。

 しかしその負けた内容を見れば、一点差で負けたのが九試合もある。

 特にリリーフが逆転負けされたのが四試合。

 直史ならばどうにかする。

 この認識はアナハイムだけではなく、対戦した他のチームにとっても同じ認識であった。


 実はこの時点で、メトロズは雨天中止もあったため、消化した試合が105試合。

 対してアナハイムは、既に110試合を消化していた。

 つまり直史は、よりたくさんの試合に投げることになる。

 残り57試合。

 ホールドやセーブを、どれだけ積み重ねることが出来るのか。

 もっとも本番は、ポストシーズンになるのは分かっている。


 直史は今日から、ベンチに入ることになる。

 もちろんまだいきなり試合に使うつもりはないが、いるだけで脅威になるピッチャーというのは、存在するのだ。

 直史としては昨日は休んでいるので、別に投げられないこともない。

 ランナーがいる状態からでは厳しいが、イニングの頭からなら投げられるだろう。

 1イニングだけ投げて、その日の仕事はおしまい。

 最高かよ。


 メトロズのロッカールームに入ると、視線が集まってきた。

 おそらくこれが転校生の気分なのだろうな、などと直史は思ったものだ。

 去年もその前も、圧倒的なピッチングでメトロズの前に立ちふさがり続けたピッチャー。

 それがこうして、今は味方となって目の前にいるのだ。


 一番小柄な人影が、真っ先に近づいてきた。

「なんだか妙なことになっちまったな」

「仕方がない。世の中全て、思う通りにはいかないさ」

 そして握手をしあう。

 続いて手を差し伸べてきたのは坂本であった。

「また組むことになるとは、思うちょらんかったぜよ」

「因縁は色々と絡むものだな」

 武史はひらひらと手を振ってくるが、わざわざ握手を求めたりはしない。


 武史はなんだかんだ言いながら、厚みのある体格をしている。

 それに比べると直史は、身長もメジャーリーガーとしては低めであるし、体格も筋肉が薄い。

 だが実際に投げれば、誰にも真似の出来ないピッチングをする。

 新たなチームメイトと、次々と握手をかわしていく。

 ほぼ全員が直史によって、きりきり舞いさせられてきた選手である。

 もちろんピッチャーは除くが。


 今年のシーズンが始まるまでは、メトロズの連覇を阻む、最大の敵になると思っていた。

 しかし今はその目標を達成するための、最大の味方となっている。

 これがMLBと言えば、そうなのである。

 フロントは本気で、今年もチャンピオンを狙うつもりだ。

 選手たちも多くは、去年の優勝を経験している。

 だがどうせなら、連覇してみたい。

 ワールドチャンピオンの栄光は、何度味わってもいいものだと思うのだ。


 メトロズフロントは勝利するための、最大限の努力をした。

 これであとは主力が故障しない限り、ポストシーズンは確かに狙える。

 しかし現時点で最多勝を取れそうなピッチャーを、クローザーとして起用する。

 そのことに関しては、多くの者が疑問に感じていた。

「ホールドとセーブは、別に一つごとにインセンティブがつくからなあ」

 後に坂本にそう言った直史は、守銭奴ではないが金銭の価値を知る、全うな金銭欲を持った人間であった。

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