第30話 トレード戦線

 どちらにとっても痛すぎる結果となった。

 もちろん戦力的に見れば、アナハイムの方が絶対に痛い。

 試合自体は最後のスリーアウトを、内野ゴロで取ってアナハイムの勝利。

 しかし樋口は左の肩を脱臼し、靭帯も一部損傷。

 全治まで三ヶ月といったところで、完全に今シーズンはアウトとなった。

「一ヵ月半ぐらいで治らないか?」

「無茶を言うな」

 大介ならやってくるかもしれないが、樋口はあくまでもただの鬼畜メガネである。

 

 この怪我についての責任は、基本的には進路をふさいだ樋口の方にある。

 ただ一瞬の時系列を見るなら、ミットでキャッチした後に、進路をふさいでいる。

 つまり進路妨害にはならず、普通のアウトである。

 それでもトローリーズはヒールの役割を押し付けられた。

 大介を離脱させた後に、樋口の離脱。

 これは相手の主力を削っているように思われても仕方がない。

 もちろん今回のことに関しては、ラフプレイでもなくクロスプレイで、どちらが悪いかと言うと送球が逸れたアナハイム側が悪い。

 怪我をした方が勝ちの日本と違って、アメリカではルール上の合理的な解釈が求められる。

 アナハイムは樋口の離脱という、自分たちのミスによるペナルティを支払っている。

 トローリーズに対しては、特にペナルティがないのは当然であった。


 ただそれは、あくまでも合理的な思考での話。

 事実だけを見れば、アナハイムは中核打者でもある正捕手を潰されている。

 これが右肩であったら、選手生命の危機ですらあった。

 樋口としてはあの場面、アウトを取れなくても自分の身を守るべきであった。

 チームにおける優先度を考えれば、さすがに正捕手が離脱する方が痛い。

 ターナーの抜けた穴の埋まらない現在、直史の神話的幻想に、樋口の方が囚われてしまっていた。

 常に最も冷静でいなければいけない、キャッチャーというポジションであるのに。


 翌日、直史は入院する樋口を見舞った。

 靭帯が断裂していたので、完全に固定された状態である。

 普通なら腫れが引くまで少し待ってから、手術は行われるらしい。

 だが幸いにも処置が即座になされていたため、手術も即座に決行。

 治癒すること自体は、おおよそ二ヶ月ほど。

 そこからの一ヶ月は、癒着した部分を動かしていくリハビリである。


 そしてキャッチャーとしての技術、肉体の衰えは、さらにそこから回復期となる。

 実際には三ヶ月では戦線復帰は不可能であり、来シーズンまで出番はなし。

 するとアナハイムはキャッチャーがいなくなって、さらに二番を打っていた好打者もいなくなるというわけだ。

 手術後の熱を持った状態でも、樋口は冷静であった。

 激痛が心臓の鼓動と共に走っているはずだが、表情には全く出さない。

 そして直史も、樋口のそのやせ我慢を尊重した。

「チーム解体になるかな」

「どうだろうな。お前はトレード拒否権を持ってるしな」

 ここで厄介な扱いなのが、直史なのである。


 ターナーと樋口が離脱して、樋口は今季絶望、ターナーはまだ復帰の見通しが立たない。

 本来なら今年はもう諦めてしまって、今年限りで契約の切れる選手は、トレードに出すというのが普通のチームのパターンだ。

 だがその中でも、最も重要な今年でいなくなる戦力の直史は、トレード拒否権を持っている。

 まだわずかに、アナハイムにはポストシーズンを目指せる力が残っているのか。

 もしもそうならむしろここで戦力を補強し、直史のラストシーズンにワールドチャンピオンを目指していく。

 トレードデッドラインまでには、まだ20日以上の時間がある。

 なのでフロントがそれを判断するのは、もう少しだけ時間の余裕があるかもしれない。


 樋口の家庭は、子供が四人もいる。

 一番大きな子供は、真琴よりも二歳上の女の子だ。

 これが弟妹たちの面倒を見て、嫁さんは樋口の面倒を見る。

 アメリカでは通常、手術後のわずかな運動は、それがすぐにリハビリになる。

 なのでこういう系統の怪我は、すぐに退院となるのも珍しくないのだ。

 だが樋口は一刻も早い復帰を考えて、入院を選択した。

 今年中の復帰は無理だと、医師からは言われている。 

 だがそれでもぎりぎりまで粘ってみるのが、樋口という人間であった。


 


 アナハイムのフロントは、間違いなく動く必要があった。

 積極的に動くか、消極的に動くか。

 いや、ここではどう動いても、積極的に動くことには変わらない。

 判断のタイミングの問題だ。今日を勝ちに行くのか、明日を勝ちに行くのか。

 つまり無理にでも戦力を補強し、ポストシーズンを目指すかと、今年は諦めて戦力を放出し、来年以降のために若手を獲得するかだ。


 幸いにもアナハイムは、ターナーやボーエン、それにアレクとも長期の契約を結んでいる。

 なのでここで戦力を放出しても、また来年か再来年にはある程度のチームは作れる計算だ。

 ただ直史との契約が切れるので、ワールドチャンピオンを目指すのは、しばらく難しいかもしれない。

 ポストシーズンに進出するかも、ターナーの復帰が可能かどうかによる。


 チームを作るのはGMの仕事である。

 ただしそのGMを雇用するのはオーナーであるし、今年はどういうチームを作るかというのを、年俸を出すオーナーが口にしないはずもない。

 アナハイムのフロント陣は、基本的にはモートンの意見が通る。

 他の人間はだいたい、モートンへの助言者という形が多い。

 チームが勝利することより、利益を出すことが重要。

 ワールドチャンピオンへのわずかな関心はあったが、それは既に果たしている。

 それでも出来ることなら、ポストシーズンには進出しておきたい。

 そこまで進出するかどうかで、興行収入は大きく変わるのだ。


 トローリーズとの三連戦の後、アナハイムはホームゲームでシアトルと対戦した。

 そしてその三連戦のカードを全敗している。

 レナードやボーエンは悪いピッチングはしていなかったが、それ以上に打線が機能していなかった。

 二点や三点は取れても、相手がそれ以上に取ってくるなら仕方がない。

 シアトルとの三連戦を終えた時点で、アナハイムは49勝45敗。

 判断するにはもう、最後のタイミングである。


「今年はもう、諦めることにする」

 モートンはそう言って、GMのブルーノの方を見た。

「いいんですか? トレード要員によってはまだポストシーズンの可能性が」

 ブルーノとしては基本的に、チームを強くするのが楽しみなのだ。

 なのでモートンに関しても、一応は翻意を促してみる。

「可能性はあるが、それは小さいものだろう。ならばそれより、売れる選手を確実に売っておきたい」

 選手を商品と見るような言葉だが、実際に選手は商品であるのだ。

 選手自身も、自分の能力を売っているのだから。

 一つの球団にずっととどまるというのは、MLBではかなり珍しいことだ。

 それにアメリカにおいては、キャリアはステップアップするという意識がある。

 同じ会社にずっといるのは、ステップアップする能力がないと思われかねない。


 日本はそのあたり、やはり保守的であるのだ。

 FA権の扱いにおいても、MLBだと条件を満たせば、自動的にFAになる。

 だがNPBの場合は、FA資格を得ても宣言しないとFAにはならない。

 そして選手のレベルにもよるが、FAを取っても行使しない者も、それなりに多いのだ。

 なぜならFAになっても、年俸が大きく上がるとは限らないから。

 また高年俸の選手であると、それを獲得した時に、人的保障で代わりの選手を取られることがある。


 MLBにおいてもFAの折に、全く何もそういった制限がないというわけではない。

 その選手が必要だと思えば、上位の選手たちの人数から平均を出して、その年俸を提示することがある。

 それに満足しなければ、選手はFAになればいい。

 ただしその選手を取った場合、獲得した球団は元のチームに対して、何らかのものを提供する必要がある。

 このあたりは割りと頻繁に変わるが、主力選手が抜けてしまっても、ある程度は埋める要素はある。

 FA権はMLBにおいて、選手が長年かけて獲得してきた権利だ。

 これの獲得で選手の年俸は大幅にアップするので、FA権を獲得してからが本物の、アメリカンドリームの始まりだという人間もいる。


 今年のポストシーズン進出を諦めるなら、まず手放さなければいけないのは、ピアースにシュタイナー、そしてマクヘイルである。

 間もなくFAになる選手と、契約が切れる選手。

 特にピアースとシュタイナーを手放すことにより、アナハイムの年俸総額は大幅に減少する。

 マクヘイルもFAになれば、普通に需要はあるだろう。

 これからポストシーズンを目指していくチームにとっては、どの選手もそれなりにほしい選手のはずだ。

 特に勝ちパターンのリリーフで使われる二人、中でもクローザーのピアースは、絶対に必要な存在だ。

 これらの選手と引き換えに、アナハイムは金銭を得るか、あるいはプロスペクトを得るか、他にも色々と交渉をしていくのだ。


 地元で大人気のスタープレイヤーであったら、どうにか慰留のために資金を捻出する。

 しかしリリーフピッチャーに、四番を打つとはいえターナーほどではない成績のシュタイナーは、球団の顔とまでは言えない。

 ここはビジネスライクに、二人を放出する。

 マクヘイルもセットアッパーとしては優秀であるが、このレベルなら若手の成長を待っても充分だ。

「サトーはどうなのです? 契約の延長には応じなかったようですが」

 詳しいことを知らないスタッフからは、そんな言葉も出てくる。

「彼はトレード拒否権を持っている。それに彼のみのピッチングでも、客は呼べる」

 苛立たしそうにモートンは言ったが、本音を言えば放出したいのだろうとは感じられた。


 直史のピッチングだけで、確かに客は呼べる。

 記録が続いていく限り、それは確かにそうなのだ。

 だがモートンは、出来るものなら放出して、引き換えに何かを得たいと思っている。

 それならば交渉は可能だ。

「放出する気ならば、私が交渉しましょうか」

 セイバーはしらじらしくも手を上げて言った。

「このままならワールドシリーズ進出は絶望的だとすれば、トレードの相手チームによっては充分に話をする価値はあるかと」

 この提案は、かなり微妙なものである。

 直史のピッチングだけで、アナハイムは客を呼べる。

 それに主力二人が抜けて、かなり問題のある状態とは言え、直史までも放出してしまえばファンからの反応も悪くなるだろう。

 そういったことを言う人間もいたが、モートンはビジネスライクだと、自分で思いながらも判断を下した。

「来年以降のために、戦力は必要になるからな」

 直史の契約は、インセンティブの部分が巨大だ。

 これを含めて売り払えるのならば、それだけでも年俸を払う必要がなくなる。

 モートンは冷静なように振舞っていたが、根底にあるのは直史との契約延長の交渉の失敗だ。

 明らかに利益のある間は、それでも普通に使えば良かった。

 だが完全にぜいたく税を消すためにも、直史は放出する。

 この判断に私情が混じっていることを、彼は己の損得勘定で合理的だと判断した。

 実際にはそうではなかったのに。




 セイバーが任されたのは、直史に関することだけである。

 ただ選手のトレードなので、GMのブルーノとは当然ながら話し合う。

「ピアースをメトロズに売り込んでみようかな」

 彼は当然ながら、その選択肢を持っていた。

 今一番クローザーを欲しがっているチームは、確かにメトロズだろう。

 なにせ今年から売り出したアービングが、今シーズンは絶望。

 来シーズンも終盤に間に合うかどうかといったところなのだ。


 聞かされたセイバーは、確かにありうるのだろうな、とは思う。

 だがピアースではおそらくワールドチャンピオンには届かない。

 大介が完全復活するまでに、まだしばらくはかかるだろう。

 それでもワールドシリーズには間に合うだろうし、メトロズはチームとしても勝率はそこそこ余裕がある。

 しかしア・リーグからミネソタが上がってきたら、ピアースはそれを抑えられるだろうか。

 去年、アナハイムはリーグチャンピオンシップでミネソタと対戦した。

 試合自体は四連勝で終わったが、緊迫した場面では直史がリリーフ登板している。

 アナハイムにとってみれば、ピアースではミネソタを相手にするのは、難しいと判断したのだ。


 クローザーはどのチームでも、なかなか判断が難しいポジションだ。

 五枚から六枚で固定されている先発のローテよりも、よほど適性を持つ者は少ないだろう。

 メトロズは切実であるが、他のチームもクローザーはほしいと思っている。

 ただ今年で契約の切れるクローザーなら、また話は別となる。


 今年限りのクローザーを獲得するなら、それは今年ポストシーズン進出を目指すか、ワールドシリーズ制覇を目指すか、一年で結果を残そうと考えているチームである。

 そう思うとやはり、ピアースを欲しがるのはメトロズにも思える。

 だがセイバーは、他の考えを持っている。

 自分の思惑通りに動くために、まず直史の意思を確認する。

 樋口の離脱により、アナハイムはポストシーズン進出も危うい。

 さすがに複雑な表情をする直史である。


 トレードというのは、悪い話ではない。

「ボストンですか?」

「それも悪くはないけれど」

 直史もまた、ある程度の展望は抱いている。


 樋口の欠けた三連戦、シアトルに全敗した。

 キャッチャーとしての技術もだが、それ以上に高打率の二番バッターが抜けたのが大きすぎる。

 先発が三点とか二点しか取られていないのに、負けていてどうするのか。

 リリーフ陣も放出すると聞いて、完全にアナハイムはチーム解体に走るのだと分かった。


 もし直史が投げて勝つにしろ、勝ちパターンのリリーフ陣まで放出するなら、さすがに負ける試合が圧倒的に多くなるであろう。

 打線の援護も少なくなるわけだから、レギュラーシーズンを戦っていくのは難しい。

 これがまだ短期決戦なら、可能性はあったろう。

 しかしまだ丸々二ヶ月を残していては、無理だとしか言いようがない。

 トレードで出せる選手は、出来るだけ高く早々に売る。

 選手はスーパースターで、同時に商品でもあるのだ。

 選手たちも己の腕を、商売道具として売って生活をしている。

 直史としても、アナハイムでは今年はもう勝てないことは理解した。


 セイバーは自分と大介のために、また自分自身のためにも、色々と動いてくれるだろう。

 そして彼女の経歴を考えると、ボストンを第一候補にしてくるはずだ。

 ア・リーグで一番強いのは、今の時点ではミネソタと言える。

 ミネソタは去年の敗北を機に、クローザーも補強している。

 ヒューストンかシアトルというのは、ちょっと考えにくい。

 同じ地区で随分と争っていて、直史に対する反発もあるだろう。

 数字どおりの結果が出るとは楽観的過ぎる。


 ならばやはり地区優勝が狙えて、直史を受け入れやすいボストンかラッキーズになるのか。

 あるいはトロントやタンパベイという選択肢もあるのかもしれないが、チームの総合戦力では劣っている。

 ワールドシリーズは諦めて、リーグチャンピオンシップなら、投手をほしがっているサンフランシスコなどもいいだろう。

 だがセイバーとしては直史と大介の姿は、ワールドシリーズで見たいと思っているのだ。

 そのためには、確実なのはミネソタである。

 問題なのはミネソタに金がないということだ。

 去年の敗北から、今年はかなりの資金を投入し、さらなる強化をしたチーム。

 直史を入れてしまえば、ぜいたく税のラインをオーバーしてしまう。

 なのでミネソタとしては、直史を獲得はしにくいのだ。


 直史からすると諸条件を考えると、ボストンしか選択肢はないと思っていた。

 だがセイバーはそうは言ってこない。

 もっともそのあたりの事情は、少しだが分かる気がする。

 大介や直史以外にも、セイバーは日本人選手に接触している。

 その中でボストンに入ったのは、リハビリ目的であった上杉だけである。

 なんらかの確執が、生まれたのだと想像するしかない。


 無失点で完投する先発など、どのチームでも欲しいのは当たり前だ。

 なのであとは、チーム事情などが関係してくる。

 ミネソタが獲得に乗り出さないのは、ほぼ確定とする。

 そしてボストンもダメならば、あとはラッキーズだろうか。

 ニューヨーク決戦となれば、それはそれで面白いものになるだろう。


 いずれにしろ、直史はセイバーに頼るしかないのだ。

 ワールドシリーズ進出が充分に望めるチーム。

 その条件を限定して、直史は移籍を許諾する。

 そしてその前に、トローリーズとの二度目の対決が待っているのであった。




 直史はトレードに応じた。

 しかし成立がいつになるのか、それは知らされていない。

 また相手も、代償として何を求めるかも、聞かされていない。

 それはアナハイムというチームが、己の利益のために決めることだからだ。


 実際に移籍するまでは、まだアナハイムで試合をすることになる。

 今度のトローリーズとの対決は、あちらでのアウェイゲームとなる。

 三連戦となるが、戦力差は大きい。

 トレードの噂が出回っていて、チーム全体としての士気は低い。

 ただそんな状態でも、自分のキャリアは残していかなければいけないのがメジャーリーガーだ。

 一回の表から、アレクはヒットで出塁する。

 そして初球からスチールをしかけて、得点圏に進むことになった。


 一点取ればなんとかなる。

 アレクはそれを体験している。

 たとえ相棒がいなくなっていても、直史ならばどうにかするだろう。

 それは絶対的な信頼によるものだ。

 さすがの直史も、一人で組み立てていくのは難しいのだが。


 内野ゴロの間にホームを踏んで、先取点を取った。

 敵地とはいえアナハイムからは、ロスアンゼルス大都市圏として一緒にされる距離。

 アナハイムからのファンは、それなりに客席を埋めている。

(因縁がなかったらトローリーズでも良かったな)

 ロスアンゼルスは治安が、安全なところと危険なところで大きく違う。

 もちろん球団が用意してくれるのは、治安の保障された場所になるのだろう。


 どこに行くにしても、直史は目の前の試合に集中するだけだ。

 樋口がキャッチャーでないので、基本的には今日のコンビネーションは直史が考える。

 もっともMLBでは、そちらの方が主流である。

 キャッチャーに求められるのは、何よりも壁としての機能なのだ。


 一点を取ってもらった直史は、試合前のミーティングの通りに、トローリーズ打線に対処することを考える。

 ただキャッチャーの思考が柔軟でないため、首を振ったりすることが多くなる。

 どのチームに移籍するにしても、キャッチャーが優れたチームがいいな、とは思う。

 その点ではミネソタも、キャッチャーは悪くないのだ。


 キャッチングをそこでしっかりと止めず、流してしまうキャッチャー。

 直史ほどに精密に投げるピッチャーであると、ボール半個分のフレーミングが重要となる。

 外角のボールを、被せるようにストライクにする。

 そういった技術を持っていないと、直史の変化球も宝の持ち腐れだ。

 まずは初回、三者凡退にしとめる。

 ただ12球も使ってしまったのは、直史としてはかなり球数が多い。

 

 ボールを受けて、しっかりとそこで止める。

 日本では基礎とされていることが、アメリカでは常識ではない。

「キャッチング、流さずに出来ないのか?」

 自分のピッチングをキャッチャーのせいにはしない直史だが、これは質問しておくべきだった。

「気にするならこの試合の終わりまでには出来るようになっておくさ」

 そんなことを言われても、どうにも信頼できないのだが。


 直史は失点どころか、敗北の兆候さえ感じている。

 だがそんな流れさえも、止めてしまうのが直史だ。

 二回の裏は、11球で三者凡退。

 コースよりは緩急で、上手くスリーアウトを取った。




 打力のあるキャッチャーである樋口が抜けたため、今のアナハイムは打力のあるキャッチャーをスタメンで使っている。

 だがそれも比較的、という話であって樋口には及ばない。

 それなら直史の場合、一点さえ取ってくれるなら、守備力特化のキャッチャーの方がいい。

 しかしアナハイムは今、ベンチにはキャッチャーは二人しかいない。

 交代してそこで負傷でもされたら、もうキャッチャーがいなくなるのだ。


 無失点記録が、無敗記録が、いつ途切れてもおかしくない。

 そんな緊張感の中、実際の試合は淡々と進んだ。

 1-0のまま、試合は中盤から終盤へ。

 そしてその間、直史は一本のヒットも許さない。

 樋口がいない現在、得点の可能性は高くなっている。

 そんなことを言われていたのだが、実際はどういうことなのか。


 間違いではない。得点の可能性は高くなっている。

 ましてやこの試合は、リードが一点だけなので、野手にもプレッシャーがかかっているだろう。

 それでも直史は、パーフェクトピッチングを続けている。

 キャッチャーとしての樋口の力は、間違いなく直史のピッチングのクオリティを上げている。

 だがそれは、0.1%であった可能性が、せいぜい0.2%に上がったというもの。

 得点の可能性が倍になったとしても、そもそもの可能性が小さすぎる。

 するとこういうことになるわけだ。


 樋口以外のキャッチャーでも、パーフェクトピッチングは可能だ。

 だがこの試合は、球数がかなり増えてしまっている。

 直史をレギュラーシーズンで有効に使うには、優れたキャッチャーが必要だ。

 ボール球を上手く、ストライク判定させるような。


 セイバーは直史のピッチングを見ながら、果たしてどうするべきか、ということをずっと考えている。

 正直なところどのチームに直史を連れて行っても、それだけで一気に勝率は上がる。

 だが大介との対決という面では、やはりキャッチャーの力も必要なのだ。

 ただでさえ直史は、大介との勝負を回避しないという、絶対的なハンデを背負って戦っている。

 セイバーの冷静な目から見れば、これは対等な勝負ではない。

 もっとも野球はチームスポーツなのだから、対等な勝負などは絶対にありえない。

 限定された状況の中で、どちらのチームが勝つのかというのが、野球というスポーツだ。

 ただしピッチャーとバッターの対決は、確かに勝負に見えなくはない。


 バッターは三割打てれば好打者。

 だが直史相手に、三割も打てる者がいるのか。

 防御率が1のピッチャーなど、常識的に考えて最高のピッチャーである。

 ただそういうピッチャーであっても、全ての試合で勝てるわけではない。

 直史は全ての試合で勝利を目指した。

 だからチームを勝たせるのが、エースであるのだろう。

 バッターとしてはホームランを打てることが、何より大事だ。

 だから直史からホームランを打ったので、あの打席だけに限れば、大介は勝っていたのだ。


 セイバーはプランを持っている。

 これは自分自身が最大の利益を上げるためのプランであるが、おおよその人間にも損はないプランだ。

 ただしこれを納得するかどうかは、直史と大介の心情的な問題だ。

 あの二人は利益ではない部分で、野球をやっているのだから。

 精神的な充足という点では、確かに利益を求めてはいる。

 もっとも単に勝つだけでもなく、金を稼ぐだけでもなく、魂の燃焼を求めているのだ。

 そのために必要なのは、どういう舞台なのだろうか。

 少なくともミネソタに移籍して、大介と対決するというのは、違うように思える。

 ミネソタとしても直史に対しては、去年から続けて確執を持っていてもおかしくない。

 フロントは冷静に判断しても、現場の選手たちはそうではない。

 アメリカはビジネスライクナところも多いが、そうでないところも多い。

 下手な伝統への固執などは、その一つと言えるだろう。


 単純に二人が対決する回数だけを増やすなら、アトランタあたりに移籍すればいい。

 ワールドシリーズはともかく、対決の回数は増えるから、そこで決着をつければいいのだ。

(これで二人が、果たして納得するかどうか)

 計算高いセイバーであったが、さすがにここだけは自信がない。

 彼女はプレイヤーではないのだから。

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