黒ユリシリーズ

茅河臨

第1話

2018年5月7日月曜日


 太陽がちょうど一番高くなる時間帯の午後一時前。

 百合一夏は屋上へ続いている、薄暗くて人気のない階段を、一段一段ゆっくりと登っていく。

 一夏が通っている、小中高一貫の松徳学園の中で一番高い場所。そこは、普段一夏の過ごしている小学棟の屋上ではなく、隣にある中高生の居る中高棟の屋上。

 普段なら三十秒ほどで登りきれる階段を、一分以上掛けて登った先には、荷物置きにも活用できない申し訳程度の広さのフロアと、生徒立ち入り禁止の看板が張り付けられているボロボロのドア。そのドアに付いているガラスを通り過ぎた日光が、薄暗いフロアを照らしている。

 一夏はドアに近づくも、どうせ鍵が付いているだろうと、半ば諦めながら右手でドアノブを時計回りに回し、左手でドアを押す。すると、ドアはギイギイと悲鳴を上げながら屋上への道を開く。

「え?」

生徒立ち入り禁止と書いているのなら、鍵くらい閉めればどうかと思うが、今の一夏にはありがたい。

 誰も居ない、何もない屋上は陽光が燦燦と降り注いで、ベージュ色の地面を輝かせている。

 一夏は屋上に足を踏み入れるなり、濡れたブレザーを脱ぎ捨てる。下に着ているワイシャツも一緒に脱ぎたいが、五月の気温は許してくれない。掃除の時間からずっと肌にぴっちり付いていてとても気持ちが悪い。

 そんなのも、あと数分の辛抱だと自分に言い聞かせ、一歩ずつ端へと歩いて行く。地面の終わりが近づくにつれて、心臓の鼓動が早くなり、呼吸も規則性を失っていく。深く呼吸をしても口の中に広がるのは、どろどろとした血の味だけ。今の一夏は、随分毒々しくて血生臭い臭いがしているのだろう。

 そういえば、と思って黒いズボンのポケットを探る。

「あった」

 取り出したのは、小指の爪くらいの大きさの白い薬たち。医者をしている父親から、何かあった時のために渡されていた。とはいえ、実際に何かあったことも無いので一回も飲んではいない。

 そんな薬も、ブレザーと同じように投げ捨てる。

 あと段差一つ登れば、その先は空中。

 一つ深呼吸をして段差に立つと、眼前には青く澄みきった空と一直線に伸びる飛行機雲。家々を縫うように走る線路と住宅街の奥に連なっている深い緑の山々。真下を向けば、十数メートル先に広がる灰色のアスファルト。グラウンドで遊んでいる子供たちは、豆粒のように小さく見える。

 さて、この景色ももうじき幕引き、お別れだ。

 そっと、瞼を閉じると、今までのいろんな出来事が脳裏によぎる。

「お前の髪の色、変」

「一夏って髪の毛の色と目の色可笑しいよな」

「君、本当に日本人なの?」

 そう言われて、笑われながら髪に黒い絵の具を塗られた。

「心が読まれてるみたいで気持ち悪い」

「人の匂い嗅いでるなんて、最低」

「何で男なのに女の子みたいな恰好してるの?」

「ずっとチビだけど、成長してるの?」

「化け物」

 そうやって罵られて、次第に周りから人が居なくなり、避けられるようになった。

 他にも、油性ペンで机や椅子に落書きをされたり、体育着だって何度隠されたか分からない。上履きは黒ずんでシワシワ、ボロボロになり、足の甲にある帯が切られている。

 今日だって掃除の時間に、トイレでバケツいっぱいの水を何度も掛けられた。キモイだとか死ねなどの罵詈雑言と共に。

「最期くらい、楽しかった思い出とか出て来てくれても、罰は当たらないんじゃない?」

 あまりにも酷い思い出に、苦笑いが漏れる。

 一夏の呟きも、苦笑いも五月の爽やかな風に吹かれて、どこかへ飛んでいって消えてしまう。

 五限目開始五分前を告げるチャイムが鳴り響いて、グラウンドに居た子供たちが、走って校舎の中へと入って行く。

 授業開始のチャイムも一夏にとっては終わりのチャイム。

「さようなら、理不尽で憎くたらしくて忌まわしい世界」

 体の重心を前に倒した時、ふっと、桜の香りが一夏の体を包み込む。

今は五月の初めで、ここは北海道の札幌ではなく埼玉の所沢だ。桜なんて、とうの昔に散ってしまっている。明らかに季節違いだ。

しかし、この桜の香りが、本物ではない事なんて一夏は分かっている。それに、この香りを感じることが出来るのも、もうこの世には一夏一人しかいない。

 先程歩いてきた、鍵の開いているドアの方に振り返る。

 開け放たれたドアの前に立っていたのは、一人の女子。中学生の制服である、黒いセーラー服とスカートに身を包み、胸の白いリボンと、肘くらいまで伸びている黒い髪が風に揺らされている。

 彼女は微笑みながら、けれど、無言で一夏に近づいてくる。

「人はお空を飛べないよ」

 意外にも、彼女が最初に発した言葉は切羽詰まった様なものではなく、こんな風に冗談のような、当たり前の事だった。

 一夏は彼女から目を離して、また正面に広がる世界を見る。

「もうそろそろ、五時限目の授業が始まっちゃいますよ」

 彼女の言葉には答えず、ぶっきらぼうに言い放つ。

「私なんかが授業受けても意味ないからいいの」

 何もおかしい事では無いのに、彼女はフフッと笑い、

「というか、君の方こそ早く教室に戻りな。小学生がここに来ちゃいけないよ」

 と続ける。

「ここは中高生も立ち入り禁止ですよ」

 一夏が指摘すると、彼女は痛いところを突かれたという表情をするが、

「だって君を見……鍵と扉が開いてたから一応安全確認としてきただけよ」

 といういかにも苦しい言い訳に苦笑いを付けて強引に押し通そうとする。

「安全確認が済んだなら、もう帰ったらどうですか?」

「私もそうしようとしたんだけど、柵の無い屋上の端に佇んでる小学生を見つけちゃったらそうもいかなくてね」

「……」

 一夏が黙り込むと彼女はため息をついて額に手を当てる。それでも、おもむろに話し出す。

「……君に何があって、どんな理由でそうしてるのかは分からないけど、私も君のその気持ちだけは分かるよ。けど、もうちょっとだけでもいいから生きてみない?あと一か月でも半年でも一年でも。そうすれば死にたくないって思う理由も見つかると思うの」

「生きる理由なんて一つも無いし、もう見つけられない」

 一夏のか細い呟きに彼女は間髪入れずに言い返す。

「それじゃあさ、私が君の生きる理由になってあげるよ」

 たったそれだけの言葉は春を告げる暖かい風となって、一夏の心を取り巻く真っ黒の雲を散らし、色を失った心の中に彩を与える。そして、ずっと蕾のままだった花が開き始める。

 この暖かくて染み渡る気持ちが恋なんだと、一目惚れと言うのだと、一夏は初めて自覚した。

 その途端、深緑の色をした瞳から、一粒の涙が頬を伝いポツリと地面に落ちる。

 一度涙を流してしまえば、堰を切った様にどんどん溢れてきて、湿っている制服のシャツで拭こうとしても拭いきれず、勢いが増していく一方だ。

「こっちにおいで」

 優しく呼びかける彼女へと、涙でおぼろげになっている視界でヨタヨタと力なく歩いて行く。

 一歩一歩近づいていくにつれ、桜の香りは強く濃くなっていく。

 十歩くらい歩いたところで急に視界が真っ暗になり、柔らかい人の体が顔に触れる。百三十センチしか身長の無い一夏は、彼女の体にすっぽりと収まってしまう。体全体の力が抜けかけて膝から崩れ落ちそうになったところをギュッと強く抱きしめられる。心地良いほどゆっくり動く心臓の音だけが頭の中に響く。

「どうして……どうして、こんな最期に……。覚悟だって決めたのに……なのになんで!」

 それまで仲の良かった友達に突如捨てられ、大人に助けを求めても誰かが振り返ることは無く、見放された。それに追い打ちをかけるように、目の前で母親が車に轢かれ帰らなくなった。とうとう神にも捨てられたのだと気づいた時、世界が黒に塗りつぶされ、自分の生きる意味が分からなくなり、それからはただ機械的に毎日を彷徨うようになった。

 そんな日々も今日で終わり。何を捨てられようとも、誰一人として触らなかったもの。最後に、冷え切ったこの命を自ら捨て、黒い呪いから解放されよう。そう思ってここへ来たのだ。

「なんで……なんで……」

 一夏のやり場のない怒りも、彼女の温もりによって段々と崩れ落ち、なくなっていく。

 瞳の奥にある涙の泉が枯れ果て、呼吸も大人しくなってきた頃、

「少しは落ち着けた?」

 先程と同じ優しい声色。

「……うん」

 彼女は一夏の背中をしっかりと捉えていた腕を解き、一歩後ろへ下がる。すると、ポケットに手を入れてガサゴソと何かを探し始め、ピンク色のハンカチを取り出す。広げたハンカチを濡れている一夏の頭の上に置くと、撫でるように拭き始める。

「そう言えば!」

 急に何かを思い出したのか、拭いている途中のハンカチを一夏の頭の上に乗せたまま手を離す。少し膝を曲げて一夏の目線と同じ高さまで来ると、ニコッと笑う。

「私の名前は寒桜雪、中学二年生。冬に咲く桜と冬に降る雪。美しい名前でしょ。君は?」

「百合一夏。百合の花に一つの夏って書いて百合一夏。小学六年生」

「六年生⁉ほんとに?」

 雪は目を丸くして驚いている。雪がこんな反応するのに無理もない。年齢の話をすれば大抵の人がこうなるのだ。けれど、紛れもなく一夏は小学六年生なのだ。保険証でも母子手帳でも見せて構わない。

「うん」

「三年生くらいだと思ってたのに……。年はまあ……いいや。もう一つ聞いて良いかな?」

 一夏はこくりと頷く。

「男の子か女の子どっち?」

 年と共に初対面の人を戸惑わせる問題でもあり、一夏自身を長年苦しめてきた問題でもある。

「お姉さんはどっちだと思う?」

「一人称は僕で制服は男の子なのに、髪の色も髪型も顔も声も女の子で喉仏も出てない……しかもスカートが凄く似合いそう。……ああ駄目、私には分からない」

 雪は頭を押さえて嘆いている。一夏本人からしたら、今なんて性別はどちらでも良いのだが。

「お姉さんはどっちが良い?」

「どっちが良いって言われてもね……君が生きていてくれるのなら、私は君が男か女かなんてどっちでも良いのよ」

 雪は自分でもかっこいい事を言ったと自覚しているのか、決め顔をかましている。その一方で一夏は驚いていた。男か女かどっちでも良いなんて言って来た人に産まれて数人しか出会ったことが無かったから。大抵の人は一夏をどちらか片方でしか見てくれない。男と女二つだけの選択肢だけを提示してくる。みんな他の人の顔を伺ってどちらか片方を選び、必要であるならば自分でも他人でも躊躇なく押し殺す。日本人の得意技である同調圧力だ。

「もし僕がどっちでも無いって言ったら?」

「私はそれでも何にも構わないけど」

「他の人と違っても?」

「他の人と違うのは何にも悪い事じゃないよ。誰だって人と違う部分はある。君は偶々それが大きかっただけ。正直、他の人達と合わせすぎるのも良くないと思うの」

 ずっと一夏を悩ませてきた問題をいとも簡単に解いてしまう雪に一夏は唖然とするしかない。

「あ、さっきの訂正。君が生きていてくれるんじゃなくて、君が君らしく生きていてくれるなら私は何でも大歓迎。分かった?」

「うん」

「良い子だね」

 雪は長い間一夏の頭の上で放置されていたハンカチをつまんでポケットに戻すと、右手を握って小指だけを立て一夏に向けてくる。一夏が怪訝そうにそれと雪の顔を行き来していると、雪は左手で一夏の右手を包み同じように小指を立てる。

「私は君の生きる理由、死なない理由になる。その代わり君は自分らしく生きる。約束だよ?」

「うん」

 二人は互いの小指を結んだ。

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黒ユリシリーズ 茅河臨 @kayakawarin

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