第22話 アリア・ドルミエス・アストレアの理解者

 深夜のヴェルリア、寝静まる住宅街の一角でレティシア・オルブライトは暗号理論の参考書を読み解いていた。

 時刻は午前一時、魔力灯をともして勉強している。明日のことを考えれば、あまり夜更かしをするのは賢明といえないが、レティシアはその参考書に釘付けになっていた。

「う〜ん……」

 アリアが持ってきただけあって、歯応えのある文章。本人からすれば難しくないのだろうが、初学者であるレティシアにとっては理解するのに苦労する部分も多々ある。ただ、手が届きそうで届かないむず痒い感じがして、どうにもその参考書から目を離せずにいた。

「アリアくんはどうやって勉強しているんだろうなぁ……」

 常々思う。あの優等生、もとい規格外の生徒は一体どうやってあれだけの勉強をやりこなしているのだろうかと。食堂に来てまで勉強している六年生もちらほら見受けられるが、そういうわけでもないし、第一必死に勉強している姿を見たことがない。自然というか、さも当然といったふうにいつも参考書を読んでいて、いつの間にか読んでいる本が変わっている。もしそれが読破したのだということなら、あれだけの分厚い本をあんなペースで読み進められるにはどんなカラクリがあるのだろうか、といつも不思議に思っていた。

「う〜ん……」

 やはり頭を書く。頭の中で疑問が溢れてきて、それ以上進まない。自分でも考えてみるが、どうしても辻褄が合わず、参考書が間違っているのではないかと何度も疑う。しかし、アリアが解説するとたちまち疑問が氷解してしまうのだから、結局今自分がつまづいているのも自分の無理解によるものなのだろうなと直感した。

「……いけない、集中しすぎた」

 手元にある小型時計を見て、おおよその時間を把握すると参考書を閉じて、眼鏡をしまう。いつもはかけていないが、少しだけ目が悪いのだ。

 明日、アリアに聞いてみようと思いながらベッドに入る。結局、勉強はアリア頼りになってしまうことにレティシア自身も引け目を感じていた。少しぐらい自分で勉強できるようになりたいと思って参考書を借りてみたはいいものの、結局今度も教えてもらうことになりそうだ。

 つきっきりで教えてもらわないと自分の中の疑問は氷解せず、先に進めない。面倒な性格だとはわかっている。しかし、どうしても性分というものはあるのだ。昔から自分の中の疑問というものをそのままにして置けないたちで、そのせいで向こう見ずなことをしてきた覚えがある。その性格は大人になっても変わらないかもしれないと自分でも思っていた。


 ◇


「──で、公開鍵を受け取って、それを使って送信側が送信内容を暗号化するから、送られてきた情報を受信側が秘密鍵で符合するって仕組みだ」

「そういうこと!」

「秘密鍵は使用者自身が覚えておくことで符号は本人しかできなくなり、完璧な暗号化が完成ってわけだ」

「でも、それなら最初から直前に前提命題を構築すればいいだけじゃ?」

「それも一つの手だな。わざわざ暗号化しなくてもシンプルな魔術ならさっさと発動した方がよっぽど妨害されない。暗号化の保安構造を構築するにも時間がかかるからな。けど、必ずしも魔術発動の時に目的の領域を魔力で支配して情報を得られるわけでもないし、何より魔術を連続使用するならやはり暗号化したほうがいい。発動の直前以外にも情報取得のチャンスがあるっていうのは実戦において魔術師にとっても心強くあるし、暗号化には、それだけの利点があるんだ」

「へー……」

 レティシアは簡単する。側から聞けばおざなりな返事だが、それだけ集中しているということだ。アリアもそれを分かっているから、参考書に目を落とすレティシアを黙って見守っていた。

「……アリアくんってさ、普段どうやって勉強してる?」

「ん、俺か?」

「うん、どうしてるのかなーって」

 放課後の図書室で、手元の参考書に目を落としながらレティシアが尋ねる。アリアは困ったようにうなった。

「うーん、普通に勉強してるからなぁ……」

「どうやったら、アリアくんみたいになれるだろう」

「俺みたいに?」

「うん」

 レティシアは小さく首肯した。

「アリアくんって凄いじゃん? だから、どうしたらアリアくんみたいになれるんだろうって」

「俺が凄い?」

「だって、ワイバーンを追っ払えるぐらい強いし、アリアくんが望んだことじゃないんだろうけど、魔力も魔術回路も強くて、当然魔術の知識もあって、センスも技量も、私が勝てるところは何一つないから」

「……」

「エンマさんも魔術の成績いいし、法律についても知ってるし、私、二人にあるようなものが全然ないなーって」

 何のこともないようにそう言った。しかし、アリアはその言葉に少し辛そうな顔をした。

「強くなんてないよ」

「そんなこと──」

「ないよ」

 振り向く。

 アリアの方を見ると、彼は少し困ったような笑顔を浮かべてレティシアの方を見ていた。

「っ……」 

 その笑顔に、レティシアは動揺する。幾度となく見覚えがある顔だったからだ。

 自分は、思い違いをしていた。いつの間にかアリアを超人か何かだと思い込んで、自分の中で神格化してしまっていた。

 忘れていた、アリアも同じ人間だと言うことを。自分たちと何も変わらない単なる学生だ。年齢に見合わぬ数々の偉業と功績でそれが覆い隠されて、まるで鉄の人のように扱われているけれど、決してそんなことはない。彼は紛れもなく、ただの15歳の学生だった。

 レティシアは幾度も見たことがある。辛さを覆い隠したような愛想笑いを、困ったような苦笑いを。自分の体調を隠して、自分の本心を隠して、周囲と自分を傷つけないために沈黙を貫く彼があみ出したのがそれだった。それを自分がわかっていたはずだ。

 彼の心は無敵ではない。魔力や魔術回路は人と異なっているけれど、頭を打てば血が出るし、ひどいことを言われれば傷つく。アリアが他者から酷いことを言われる時、自分を守るために心を閉ざすか、受け流すための笑顔を浮かべるかのどちらかであることをレティシアはちゃんと気づいていた。気づいていたのに、忘れていた。心に痛みを抱えたような笑み、それはアリアがちゃんと傷ついている証拠だった。

 だから、レティシアは放っておけなかったのだ。このずぶ濡れになった小狼のことを、誰も助けてあげない狐狼のことを。嘘をついたわけでもないのにオオカミ少年のように扱われる彼を、自身もまた差し伸べられた手を振り払うようになっていた彼を、ひどくたすけたいというしょうどうにかられ

 けれど、自分には何もない。

 アリアに何かを教えてあげられるような知識も、守ってあげられるような力も、支えてあげられるような精神も持ち合わせてはいない。

 エンマのように法律を知っているわけでもなければ、魔術が優れているわけでもない。彼女が積み上げてきた努力に見合う何かを、してきたわけでもない。

 だから、コカトリス事件の時も足手纏いで、ワイバーン事件でも役に立つどころか足を引っ張り、アリアが倒れた時さえ何もできなかった。自分に何ができるのか。アリアを助けたいと思ったけれど、そんなの烏滸がましいのではないか。力不足で、エンマと役を交代した方がいいのではないか。そんな思いがどこかにちらついた。

 否、そうに決まってる。その方がいいことは分かりきってる。なのに、心のどこかでそれを拒絶した。いつも痛みを誤魔化すような笑みを浮かべる彼を見ているのに、何もできないなんてどうしても嫌だった。

 どうしていいか分からない。無力な自分が、それでも何かできないのかと思案して、アリアの参考書を借りてみたけれど、彼の見えている世界が少し見えてくるんじゃないかなんて考えるのは浅はかだった。結局、アリアに教えてもらわないと満足に読み進められやしない。自分に自信を失いかけて、投げやりに「アリアは根本的に違うのだ」と、そう思いかけた。

 それじゃあ、ダメだ。それは自分がしたいこととは違う。それでは今までと、アリアを取り囲む周囲の人間と何も変わらない。

 アリアは積み上げただけだ。苦しくて、悩んで、自分の体と向き合う方法を探して、当たり前のように道を進んできただけだ。その証拠に、アリアの言う勉強のカラクリには何も特別なことは存在しない。普通にやるだけなんだ。普通のことを、ただやってきただけ。カラクリや裏道なんて存在しない。

 何も変わらない。アリアがやっていることも、やってきたことも。だから、自分たちと何一つ変わらない。

「──ねえ、アリアくん」

「どうした?」

「勉強、教えてくれない?」

「いいけど、どうした?」

「……」

 それなら、自分にもできるはずだ。どれだけ時間がかかるのかは分からない。どれだけ努力を要するのかも分からない。それでも、アリアができたのなら自分にも同じ景色を見ることができるはずだ。

「アリアくんみたいに、なりたいから」

「……何だそれ」

 アリアは何も言わず、困ったように笑う。レティシアもまた、そんな彼を見て笑い返した。

 いつの日か理解者になるために。彼の隣に立つために。それが自分にできることだから。

「まあ、勉強を教えてくれって言うんなら、別に構わないけど」

「今まで以上にいっぱい聞くことになりそうだけど、いい?」

「そうなると定期的にどこかに集まった方が良さそうだが……どうする? どこで集まる?」

「そうだね……ウチ、とか?」

 少しだけ勇気を出して、レティシアが聞く。伺うような視線をアリアに向けた。

「あー、それもいいかもな」

「本当⁉︎」

「互いの家とかだったら話してても邪魔にならないし、近くの喫茶店とかでもできそうだな」

「なら、私の番の日はそれでいい……⁉︎」

「あ、ああ……だが、急にどうした?」

「あ、えっと……んーん、何でも」

 レティシアはノートで口元を隠す。その仕草に、アリアは不意にどきっとした。

「ん? どうしたの?」

「ああ、いや……」

 咄嗟に背を向ける。

「ねえねえ、どうしたの?」

「何でもない」

「えー、本当に?」

「……本当だ」

「またアリアくん嘘ついてそう」

「俺がいつ嘘ついた」

「んー、分かんない」

「お前なぁ……」

 呆れるアリアに、ご機嫌そうに笑うレティシア。二人の小さな囁き声が学園の大図書館にこだまする。

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嫌われ者の最強魔術師に理解者はいるのだろうか? どうも勇者です @kazu00009999

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