セ・ラヴィ ~C'est la vie~
篝 帆桜
序章
序の門
あの日の出来事を、どう呼べばいいのか。
今でも、オレには分からない。
燃え盛る炎の向こうに立つ人影と、足元に崩れ落ちる二つの影。
息を吸うたびに、焦げた臭いが、喉の奥にまとわりついた。
『あれは事故でもなければ、事件でもない』
少なくとも、周囲の人間はそう扱った。
ただ、オレは確かに、それをこの目で見ていたんだ。
目を逸らそうとしても、できなかった。
足が、地面に縫い留められたみたいに動かなかった。
これは夢じゃない。何度も、そう言い聞かせた。
――なのに、誰一人として、信じてくれなかった。
あの光景が、最初からオレの人生にあったわけじゃない。
ほんの少し前まで、オレはまだ正しさが報われると、どこかで信じていた。
今のオレから見れば、あの頃の自分は、ひどく鈍くて、驚くほど『まとも』だったように思う――
――中学の頃、オレには親友が二人いた。
一人は、本当はオレより強いのに、優しすぎるせいで何もできない奴で、だからこそ、放っておけなかった。
そいつがクラスでいじめられ始めた時、オレは迷わなかった。庇うのが当然だと思ったからだ。
だが、結果としてオレはやりすぎた。
相手が何人いようが関係なかったし、止まれなくなった結果、後遺症が残った奴もいると聞いた。
もう一人の親友は――彼女は、それを咎めた。
正しいことをしたつもりでも、やり方を間違えれば、同じだと。
オレには、その言葉が理解できなかった。
殴られる理由のない人間が殴られていて、それを止めたら、責められる。
どう考えても、筋が通らない。
正しさっていうのは、人が傷つくことを黙って見過ごすことなのか――。
けれど、その問いに答えが出るよりも先に、世界は取り返しのつかない形で変わってしまった。
あの日のことは、あまり覚えていない。
思い出せるのは、空気がやけに冷たかったことと、足が震えて、上手く立てなかったこと。
声を上げたはずなのに、自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
――見間違いじゃない。
――確かに、そこにいた。
そう何度も説明した。
必死に言葉を選んで、オレは訴えた。
けれど返ってくるのは、困ったような顔と、同情とも呆れともつかない沈黙だけだった。
証拠がない。確証がない。信じるには足りない。
要するに、『なかったこと』にされた。
その時、オレは初めて思い知ったんだ。
ああ、この世界は、正しいかどうかじゃないんだ――と。
信じたいものだけが信じられて、都合の悪いものは、最初から存在しなかったことにされる。
それでも最初は、オレは心のどこかで期待していた。
いや、そう思いたかったんだ。
時間が経てば、誰かが気付くんじゃないか。
何かが、明るみに出るんじゃないか。
だが、待てど暮らせど、結局、何も起きなかった。
日常は続いた。世界は、何事もなかったかのように回り続けた。
――オレだけを置き去りにして。
高校に進学してからも、似たような光景は、いくらでもあった。
声の大きい奴が正しくて、弱い奴は黙るしかない。
守られるべきものほど、簡単に切り捨てられる。
そのたびに、胸の奥が冷えた。
何かが、少しずつ、確実に、削れていく感覚。
気付いた時には、オレはもう、世界に期待するのをやめていた。
代わりに考えるようになった。
――だったら、どうすればいい?
正しさが守られないなら、誰かが代わりに、手を下すしかない。
それが、善でも、正義でもなくても。
オレは、自分のやっていることを、正しいとは思っていない。
犯罪だと言われれば、確かにその通りだ。
だからこそ、名前を付けた。
――『無力化』
そう呼ばなければ、自分が何になってしまうのか、分からなかったからだ。
それでも――それでも、だ。
あの日、誰も信じてくれなかったあの瞬間を思えば、立ち止まる理由なんて、
どこにもなかった。
怒りと無気力だけが、心の原動力であり、同時に人としての大切な何かを奪っていく病にも思えた。
けれど、オレはそれを異常だと感じることにさえ、疲れるようになっていた。
そんな想いが心の片隅をよぎる時、どうしてか、同じ言葉を口にしてしまうんだ。
「C’est la vie」
――人生なんて、そんなもんさ。
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