1話 - Ⅲ
冬の寒空の下、学校を終えた黒斗は、一人あてもなく自転車を漕ぎ続けていた。母親には早めに帰って来いと言われたものの、素直に真っすぐ帰宅する気にはなれず、どこに行くわけでもなく、ぶらぶらと町の景色を眺めていた。多分、伊藤の話を聞いたからだ。
無力化などという犯罪行為を繰り返していると、いつの間にか現実から目を背けて、何もかも手放して忘れ去ってしまいたい、という衝動に駆られることがある。
なんの変哲もない町の風景。住宅街に、スーパーマーケット、田んぼに、畑、川のせせらぎと、風に舞う草花。
(俺は、俺はあと何回、何回やれば――)
分かっている。終わりなんてないのだ。けれど日常を保ちつつ、異常を続けるためには、こういったことが必要なのだと、黒斗は十分すぎるほどに理解していた。
その後も彼は、ただただ自転車を漕ぎ続けた。地元を少し離れて、うろ覚えの景色を横切る。正面には、田園地帯が景色の奥までずっと伸びていて、さらにその一帯を跨ぐように大橋が掛けられていた。かつてこの辺りでは、海軍の関連施設として、飛行場や航空関連施設があったそうだ。
黒斗はぼんやりとした瞳でそれらを見つめた。特に考えることを必要としないこの行為は、余裕のない心の息抜きにはちょうど良かった。車でドライブ息抜きする人も、ひょっとしたらこんな風に、心に空白を与えたいのだろうか。反対側に目をやれば、片側二車線の道路。コンビニにファミレス、おしゃれなレストランや、ちょっとした公園が見える。哀愁の中に漂う既視感の気配。霞んでは消えていく記憶の断片を拾い集めながら、彼は何かを思い出そうとしていた。
(…………ん?)
何か些細な違和感を感じた。気のせいだと思い、黒斗はそのまま無視しようとした――だが、
(――っ!?)
違う。あの声だ。あの声が心に振動を送っている。
得体もしれない謎の声。ここ何日の間、快眠を妨げている元凶は、今までのものよりも圧倒的に鮮明で、脳内に囁くような声でありながら、しかしはっきりとした思念を訴えかけるような強制力も伴っていた。
『Fakar quor rek’tum esth, dikar quor verum esth!』
(なんだよこの言葉。くそ、耳障りだ)
いよいよ頭痛まで引き起こされ、とても安全運転できるような状態ではないと判断した黒斗は、ややよろめきながら自転車から降りた。ふらつく視界で、どこか適当に休憩できるスペースがないか探したが、こういう時に限ってどこにも見当たらず、彼は車体を支えにしながら歩くことにした。
そしてこの時、石杖黒斗は妙な感覚に見舞われていた。
(呼ばれている、のか? 誰にだよ?)
無知な理性は置いてけぼりにされ、本能だけは行き先を知っているかのように、彼の歩は勝手に進んでいく。一抹の不安を抱えながら、それでも逆らう意思もない彼は、その本能に従った。
何か巨大な意思によって突き動かされているような浮遊感は、ただひたすらに、黒斗という人間を現実世界から遠ざけた。朧げな意識の中で、それでも何とか周囲に目を向けると、どうやら川沿いを歩いているらしい。ちょうど川と道路がクロスする交差点に、お地蔵さんが佇んでいて、ふとそれを視界に収めた刹那、黒斗の脳裏で何かが爆ぜた。
(……そうだ、この道、思い出した。爺さんの墓参りに行く時、いつも使ってた道だ……)
線香花火のように、電流が目まぐるしく頭の中を駆け巡っていく。
『おじいちゃんはね、黒斗が生まれる少し前に、死んでしまったの』
いつの日だったか、祖父について自分が質問したとき、もうすでにこの世にいないと母から聞かされたのだが、それを不憫に思ったのだろうか、母は毎年、自分をここに連れて来てくれた。
といっても、母と一緒に行ったのは、せいぜい指で数えられる程度で、一番新しい墓参でさえも、かれこれ十年近く前にまで遡ってしまう。
(うろ覚えなのも、納得だな)
毎年、墓参の日が近づくにつれ、母は憂鬱そうな面持ちに沈んでいった。
祖母に理由を尋ねても、的を得た返事はくれず、祖父についてもほとんど喋ってくれなかった。父に関しては、そもそも一度も会ったことがないの一点張りで、いつも上手い具合に話題を変えられていた。
どうやら、祖父についてあまり触れてほしくないらしい。幼心にそう感じ取った黒斗は、母子家庭になって以来、墓参りに行きたいとは言わなくなった。
『Deus vidar’te non senthian! 』
黒斗は思わず、耳を押さえた。
しかし、この脳に直接響くような声は、耳を塞いだところで無意味に終わる。無駄な行動をしたと悔やみ、彼はとにかく前進することに神経を注いだ。なぜだか分からないが、祖父の墓に行くべきなのは分かっていた。
さらにまっすぐ進むと、雑木林で生い茂った空間の中、訪問者をひっそりと迎え入れるような佇まいで、霊園の入り口である石階段が見えてきた。
『Súperandra om’nis fortuná feréndo esth! 』
投げ捨てるかのように自転車を放置し、黒斗は石階段を一歩ずつ上り始めた。中腹まできたあたりで下を見下ろすと、横倒しされている自分の自転車が、だいぶ小さくなっていた。普段なら訳ないはずの長さなのに、今の彼にとって、祖父の墓というのは、途方もなく遠い場所に思えて仕方がなかった。
上に近づくほどに、頭蓋が揺れ、視界が乱れていく。死に物狂いで手摺を握り、 階段から転げ落ちそうになる自分を何度も支える。不意に西日が差し込み、思わず目を細めると、冬の黄昏時に影を落とすように、霊園の門が静かにそびえていた。
果たして、黒斗は最後の段差を踏み抜いた。祖父の墓石の位置は、完全に忘れていたが、もはやそんなことに憂う必要もなかった。
(――多分、あっちか?)
――ドッ、ドッ、ドッ
心臓の鼓動かと思った。しかし、これは違うと、即座に黒斗は否定した。
もっと大きい振動だ。内から外に、自分の魂が出入りしているような、自分という存在自体が揺れている感覚。
気付けば、目の前には、祖父の墓があった。
会ったこともない。思い出もない。
血の繋がりしか知らない、祖父と呼ばれる人物。
「なんでこんな場所に」
虚ろな目つきだった。
優しく、そっと、黒斗は墓石に触れた。
『Vithia erun’dra don’nek hominés!』
「なんだ!?」
突如、彼の立っている地面が光りだした。
光はやがて地表を飛び抜け、瞬く間に彼の体を包み込んでしまった。
「う、動けねえっ!?」
身体の自由が凄まじい勢いで失われていき、次いで意識までもが徐々に薄らいでいくようだった。何もかもが途切れる寸前だった。身の回り取り囲んでいた周囲の現実が、トリップする――暁の空、暮石の黒光り、仏花の花びら――その一切が、光に侵食されてしまった。
「ち、く、しょう」
やり残していることなんて、まだ沢山あるのに。
裁かなきゃいけない悪が、山積みなのに。
なんでこんなところで、こんな訳もわからない理由で、死ななければならないのだろうか。
悔しさが溢れる自我に反して、自己との繋がりはどんどん失われ――とうとう、石杖黒斗の意識は、完全に堕ちた。
地面から湧き出した一条の光が収束したとき、墓前にあったはずの彼の姿は、まるで初めから何もなかったかのように、静けさのみが漂っていた。
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