第2話

 2030年5月31日。私たち天文学ゼミのメンバーは、准教授の清水先生と共に札幌まで2泊3日の合宿に来ていた。


 お目当ては、明日の午後からの金環日食。日本で見られる金環日食は、前回は2012年だったから、18年ぶりだ。


 22歳の私は当然、その時の記憶はない。だからこの合宿をすごく楽しみにしていた。


「それで先生は、その人を追いかけて研究者になったんですか」

「いやー別にそれだけじゃないけどねー」


 お酒を飲んですっかりヘロヘロになった清水先生は、昔の甘酸っぱい初恋の話なんてしてくるものだから、こっちはどういう反応をすればいいんだか。


 普段はしゃきっとした美人で、よく通る声で講義をする清水先生は、まだ30歳という若さで天文学の准教授をしている。


 美人なのに誰に対しても親しみやすい雰囲気があって、講義もわかりやすくて、いつ質問に行ってもにこやかに答えてくれる。それもあってか学生からも人気がある。


 正直なところ、私も清水先生に憧れているうちの1人だった。


「もしかして、それが先生の初恋?」

「そうね……って、なに言わせるの!」

「ごめんごめん。……それで、それをずーっとこじらせてるから、いまだに独身なんですねー?」

「うるさいなあ、もう。どこかで待ってるかもしれないでしょ、あのお姉さんが」

「ほーんと、先生はロマンチストなんですね」


 准教授という、本当は偉ーい立場の先生なのに、清水先生にはつい弄りたくなってしまうような可愛さがある。ゼミ生だけがそれを知っている。でも、テンション的に、もうそろそろ潮時かな、と思う。


「はいはい、明日もあるんだから、そろそろお開きにしましょうね」


 私はそう言って先生の肩を抱いて、既にお布団を敷いてある別室に連れて行ってあげた。全くもう、世話が焼ける。


 清水先生の身体からは、優しい、お花みたいな石鹸みたいな香りがする。一度、なんの香水を使っているのか尋ねたら教えてくれたから、私もこっそり同じものを買って使ってみたのだけど、どうも私の香りとは違う気がするから不思議だ。


 清水先生は『もう眠いから寝る』と言って、歯磨きもせずにそのままお布団で眠ってしまった。


「おやすみなさい」


 そう言って布団をかけてあげる。いくら先生とはいえ、こんな男だらけのメンバーの中で酔い潰れちゃうなんて、無防備にも程があると思うのだけれど。


 ……まあ、私がいるからいいか。


 まだ盛り上がっている宴会場の音をBGMにそんなことを思って、私も寝支度を始めたのだった。



 翌朝になれば、清水先生はいつものしゃっきりとした様子で、合宿の行程を進めていた。


 午前中はゼミ合宿らしいことも申し訳程度にしつつ、基本的には親睦を深める会ということで、札幌観光をした。午後からは、事前に観測場所に決めてあった天文台へ移動した。


 みんなで施設内でお茶をして、15時半が近くなったところで、一旦お手洗いに立つ。


 しかし、用を済ませて出てくると、なぜか皆がいない。どうしたのだろうと思ってうろうろとしていると、中学生くらいの女の子が、グラスもかけずに太陽を睨んでいるのが見えた。


 なんて危険なことをしているんだ。


「こらっ、何やってるの!」

「うわああ、すいませんすいません。サボってごめんなさい」


 思わず後ろから小突くと、振り向いたのは、小柄な女の子だった。


「学校サボっちゃったの? ……いや、そうじゃなくて、太陽を肉眼で見たらダメでしょ。学校で教わらなかった?」

「いやー、どうだろ、授業なんかろくに聞いてないし……」


 ひとが注意してやっていれば、そんなことを言う。


「最悪の場合、失明することもあるんだよ! そんなことになったら困るでしょ」

「はーい。……でも、せっかくの金環日食だし、見てみたかったんだもん」


 あ、そっか。やばい、もう始まっちゃう時間だ。


「そんなに見たかったのに、日食グラスも持ってこなかったの?」

「だって、お小遣い少ないんだもん」


 その寂しそうな顔をみて、ちょっとだけ迷ったけど、私はその子に日食グラスを貸してあげることにした。


「はい、これ、日食グラス。使っていいよ」

「いいの?」

「うん。……ほら、そろそろ始まっちゃうし。一つしかないから、交互に見よ」


 顔にグラスをかけてやる。モチモチのほっぺたが憎らしい。


「あー、でも、私も最初の瞬間、見たいなあ。……貸して」


 結局自分が見たい気持ちには勝てず、私は日食グラスをぐっと変形させて、たまたま出会ったその中学生と、仲良くシェアすることにしたのだった。


「片目ずつ、見よ。絶対、もう一個の目、開けちゃだめだからね」

「は、はい」


 グラス越しに太陽を眺める。月の影が少しずつ太陽を侵食していく。思っていたよりも早いスピードでそれは中央に到達し、太陽と月は共同作業で金色の環を作り出していた。


『次の金環日食は、好きな人と見たかったなぁ』


 昨日の夜、眠る直前に発せられた、清水先生の言葉が蘇ってくる。確かに、そう思うのもわからなくはない。私だって、もし好きな人がいたら、きっとそう思ってしまう。


「金環日食って、どうしてああいう形になるんだろう」


 中学生は、すっかりこの天体ショーのとりこになってしまったみたいだった。ついつい、私も色々と解説をしてしまう。これでも一応大学生で、お姉さんなのだから、若い子には親切にしてやらねば。


 勉強したそうだったから、中学生向けの本のタイトルをいくつか教えた。


「お姉さんは将来、なんになるの? 宇宙のことを勉強してどうするの?」

「内緒」

「えーっ」


 急に訊かれたその質問を、つい誤魔化したくなってしまったけれど、別にもう彼女に会うこともないだろうと思うし、ちょっと照れちゃうけど口に出してみることにする。彼女は私の話を、興味津々といった顔で聞いていた。


「お姉さんって、名前なんて言うの?」

「私は、葉月だよ。あなたは?」

「私は風香。……ねえ、葉月さんって、何歳? どこに住んでるの?」」


 風香ちゃんは札幌に住んでいる中学1年で、まだ12歳。今好きなことは、ゲーム。なにをやっているのかと尋ねたら、随分と昔のゲームの名前を言うので、驚いた。


「そろそろ行かなきゃ。先生たちが待ってるから」


 しばらく話したところで、みんなのところに行かなきゃ、と思い直す。


「それ、あげる。もう、太陽を直に見たりしちゃだめだよ」


 用も済んだし、せっかくだから、日食グラスもあげてしまう。


「勉強、がんばってね」


 そう言って、いいお姉さんの顔をしながら、私は彼女と別れた。


 直後、スマホが鳴り出した。清水先生だ。


「小山さん何やってるの? もう始まっちゃうよ! 早く早く!」


 え、始まるって、何がだろう。金環日食ならさっきもう、終わったのに。そう思いながらも、先生の道案内によってなんとか私は、みんなと合流することに成功した。


「ほら、もうすぐだよ」

「え、嘘。金環日食ってさっき終わりましたよね?」

「何言ってるの? これから見るんだって、楽しみにしてたじゃない」

「いや、でもさっき、確かに」


 混乱している私の肩を清水先生が抱いて、太陽の見えやすい位置に誘導される。


「日食グラスは?」


 目を細めて太陽を見ようとする私に、先生がツッコミを入れてくる。


「あ、忘れてた」

「なにやってるのよ。ほら、貸してあげる」


 清水先生が取り出して来たのは、随分とボロッボロになった日食グラスだった。


「なんでこんなにボロッボロなんですか?」

「ああ、これね。昨日話した、例のお姉さんにもらったものなんだ。18年前にね」


 清水先生はちょっと恥ずかしそうに言う。


 そこでようやく私は思い至る。さっき起こったことと、それから、今目の前で起きていることに。


「先生って、下の名前なんでしたっけ」

「え、何、今更。『風香』だよ、ちゃんと覚えときなさい」

「ですよね」


 18年か。……長かったよね。


「風香ちゃん、勉強頑張ったんだね」


 私は誰にも聞こえない声で言う。先生は気づかない。


「始まるよ。……あー、やっぱり私も、最初の瞬間、見たい。こうしよ」

「片目ずつ、ですか」


 大人同士でやるのは、ちょっと、恥ずかしいなあ。そう思うけど、別に嫌ではない。


 むしろ胸の奥に渦巻いてくる、この熱い気持ちを、どうしたらいいものかと、悩ましかった。


「綺麗だね」

「好きな人と見られたらよかったですね」


 金環が生まれる。もう一度。 


 誰にも言えない恋が、始まった。

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金の指環に魅せられて 霜月このは @konoha_nov

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