第9話 多様性とは

「同性婚を導入したら国を捨てる人もいると思う」


 発言は撤回したらしいが、政治の中心にいる人間の発言だ。思うことは自由だけれど公言するほど先見や深みのある言葉ではない。東京大学よりも海外の有名大学に進学する若者が増えつつあり、捨てられているのは自分たちといった状況だと思うのだけれど、自覚がなければ傷つくこともないのだから、羨ましい感性だ。もっともそれぐらいでないと様々な思いが渦巻く政治の世界で働くことができないのものなのかもしれない。


 政権・与党の中で、マイノリティーの要求は際限がない、だから無視するべきだ、そういわんばかりな言葉遊びの議論をしている間に、新興勢力がわずかではあるが支持を得て議席を得ている。第二次世界大戦が始まる前のドイツで何があったか、歴史は単純にループするものでもないし何か悲惨な結果になるとも思っていないけれど、ポピュリズムがドイツを混乱に落し入れたことを考えると、古参の政治家にもう少し危機感があっても良いと思う。


 とはいえ目指すべきはこんな発言をする人達も含めて、いろいろな生き方の人達と共存できる社会だろう。そんな時には「多様性を認める社会を目指す」といえばそれで終りだ。とても便利で共感を喚起する言葉だ。けれど、実際には多様性を認めていくということは、やっかいで難しく苦しい作業だと思う。


 マイノリティーの代表を自認しているかのような発言をする人達も、それでも進めなければいけないという覚悟を持って発言しているとは思えない。最近の政治家の言葉はとても軽い。夫婦別姓や同性婚といった権利の拡大はともかく、差別やいじめにどう対応するかといった、双方に何かしらの制限を伴うであろう対応について具体的に考えていけば、最後には自分の主義主張と真っ向から対立するような人とどうやって共存できるかという問題に行き当たるはずだ。


 共存できる社会といいながら快楽のために殺人を行うシリアルキラーと共存する社会など誰も望まないだろう。そうであれば私たちの社会はどこまでが許容できるのだろうか。マジョリティーが気にいらない人達を刑務所に入れてきた国がどうなったかは歴史から学ぶことができる。自分が理解できない人達と共存していく時には、双方に譲歩が必要だけれど、最近の事象からは感情を表に出すことに躊躇がなく、相互理解の考えが難しくなっていることを感じる。


 僕にだってこれまでの人生で生理的に受け付けない、絶対に仲良くできない、と思った人がいないわけではない。だいたい、そういう人は自分の考えを押しつけてきて、こちらの話だけでなく、誰の話もほとんど聞こうとはしなかった。それでも、そんな人とどうやって共存できるのか。できるだけ関わり合いにならないようにするしかない。


 宗教的な信仰に支えられた柔軟性のない画一的な信念であっても、それを信じる事は自由だ。悲しいけれど無条件に信じている相手の内心を変えようなどとすることはただの精神的陵辱に過ぎない。残念だけれど話し合いで解決できないことが世の中にはあると認めなければいけない。しかし問題はその信念が意図的に悪意を持って植え付けられている場合だ。現在ではその手前で対象を保護することが十分にできない。これについては本当に答えがない。


 僕がこれまで勤務してきた会社の米国の社屋では雇用形態に応じてある種の棲み分けが行われていた。米国西海岸といえば多様性を尊重する社会というイメージがあるけれど、みんなで仲良くする部分と、生活習慣が違うグループ同士で一線を画す部分がそこにはあった。


 相手を尊重する気持ちを持ちながら、理解できない相手の行動を許容するには正面から対峙しないように工夫するしかない。共存を望むのであればゆずり合いが唯一の解決手段だ。異なる意見が正面から対立する政治という世界は厳しいものだとは思うけれど、そんな世界の住人がゆずれないほど同性婚が根源的な論点なのかは疑問だ。


 ただ、そうだとすればこの人達にとって家族の定義をいくらか拡張するということは生存が脅かされてしまう国防並みに深刻な課題ということなのだろう。個人的には憲法に規定されている幸福追求権を不当な理由で妨げているだけに思える。様々な問題があるなかでこれだけを個別に取り上げていいのかという疑問はあるものの、包括的に取り組めないほど複雑な問題であれば、個別テーマを解決しながら継続して漸進的に対応を進めていくしかない。


 多様性についてはSDGsをテーマに高校生に話す機会があった時のことを思い出す。SDGsは遠く離れて住む人達も自分たちの生活圏の一部として包摂(inclusion)し、自分たちの延長線上にあるものとして考えていこうという思想を含んでいる。これはSDGsの大きな柱の一つだ。そして、一方的な搾取はもちろんだめだけれど、賃金を払って作物や商品を受け取ればあとは関係ないということではなく、相手側が持続的に生活できる環境をどうやって整備するか、それを僕たちの生活とどうやって折り合いつけていくのかという複雑な問題もテーマに含んでいる。コーヒーなどの食料品でみるレインフォレスト・アライアンス認証のような取組みは良いと思うけど、そういう仕組みで全ての問題に対応できるわけではない。最終的には自分達の生活スタイルもいくらか変化させていく問題を含んでいる。


 それなのにSDGsについて日本では単純なエコ活動や、貧困救済、といった古い考え方の延長線上で受け入れられているところがあるように感じられる。自分たちの生活スタイルは変えないけれど地球環境や貧しい人達のために何かをという意識が垣間見られることだってある。けれどそういった意識では冷静な対応はできず長続きもしない。そして生活に余裕がなくなれば他者に対する感覚はどんどん鈍くなっていく。


 他者に対するは、時には面倒な問題を引き起す。遠い異国で戦争や災害があった時に日本から大量の物資を送ることは現実的な対応ではない。一時的には周辺国の混乱もあるだろうから必要な時期もあるかもしれないし、医薬品や精密機器など価値の高いものであれば日本から送る価値はあるだろう。けれど多くの場合、現金があれば、より早く、より多くの要求に対応することができるはずだ。


 東日本大震災でも送付された物資の保管だけでなく、品物毎に分類することに多くの労力が割かれていた。結果として物資が人々の手に届くまでには時間がかかり、一部は破棄された。現金を相手に直接渡すということにはがないようで、抵抗を感じる国民性はあるかもしれない。けれど自分の思いや面子よりも大切なことは必要な支援が必要な人々に届くかどうかだ。善意だけでは工夫が足りず現実の問題に十分に対応できないことがある。


 善意では解決できない問題が紛争やSDGsの背景には大量に含まれているのに、いまだに人々のマインドは善意があれば後の事は考えなくても良いと考えているようだ。しかしSDGsが求めていることは、周辺に与える影響を考えて自分自身の行動を変えていこうという点にある。自分を変えることに抵抗のある人が本当に多いのだなということを政治の空転ぶりや関連する議論を聞いて感じる。


 人間の有り様を否定して憚らない冒頭の発言も、後先を考えずに物資を大使館に送るマインドとつながっているよう思える。いずれも持続的ではないし、自分の満足を最大化することに執心している。若者が閉塞感や絶望から海外に脱出するのではなく、この国の未来を明るく感じながら自分の自己実現のために積極的に若者が海外に出ていく、そして将来、成功して戻ってこれるような社会であって欲しい。

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