マリンスノウ

日比 樹 / Sabi

マリンスノウ

 人間の嫌いなところ。

 蛆虫みたいにいっぱいいるところ。

 

 人間の嫌いなところ。

 自分達が一番賢いと思っているところ。

 

 人間の嫌いなところ。

 この世のどんな物よりも醜いところ。



 ▼



 とあるビルの屋上。


「死神さんの髪は綺麗だねぇ」


 髪を梳かす千雪の言葉が、頬を撫でる風と共に軽やかに僕の耳に届く。

 

 かれこれ一時間ほどはこうしているだろうか。僕は大方の時間をされるがままにじっと座って、しかし時折暇を持て余してゆらゆらと体を前後左右に揺らしてみる。すると千雪は「動いちゃだめだよ」と言って後ろからぎゅっと僕の頭を抱き込み頬を擦り付けた。するとせっかく長時間かけて整えられた僕の髪は滅茶苦茶になり、このくだらない美容室ごっこはまた初めから仕切り直しになるというわけだ。


「さらさらで、ふわふわで、柔らかいね」


 まるで子供をあやすような、大好きなペットを愛でるような、そんな声色でそう言う千雪は、きっと無防備に笑っているのだろう。背後の千雪の姿を想像して僕もまた微笑む。


「白く光って綺麗だね」


 雪みたい、鏡みたい、月みたい、刃物みたい。思いつく限りの銀色が順番に並べられてゆく。


 人間は、言葉遊びが大好きだ。

 特に日本人という人種は、自分の本心を隠すことを美徳とする。自ら進んで窮屈になる。だからこそ長年蓄積されて腹の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合って熟んだ感情はより強い念を作り出す。

 これは想像の話ではない。だって、そうして僕が生まれたのだから。


 退屈な日々の暇つぶしに触れてきた書物の内容を、ゆっくりと思い起こしてみる。


 夏目漱石の「月が綺麗ですね」の逸話を知った時は、どう思考を繋げればそのような全く違う言葉に変化するのかと三日は悩んだし、明治の小説家二葉亭四迷が、ツルゲーネフの片恋の一文「Yours(私はあなたのものよ)」を「死んでもいいわ」と訳したと知った時には、どう咀嚼してみても彼の心情が何一つ理解ができなかった。

 もしも僕が同じことを言われたならば、言葉通り受け取って本当に殺してしまったことだろう。

 

「はい、完成」


 そんな言葉と共に僕はようやく自由の身となった。

 髪に少しの重みを感じながら少し後ろへ重心を傾けて見上げると、僕を見下ろす千雪と視線が交わった。


「綺麗だねぇ、死神さん」


 先ほど想像していた通りの、満面の笑顔が零れ落ちてくる。


「私が大好きなお月様のヘアピン。死神さんによく似合ってる」


 そう言って千雪は僕の体に腕を回す。


 千雪が纏う包帯の、消毒液の臭いが鼻を刺激する。

 嫌な気はしなかった。今日みたいに爽やかで澄んだ空気よりも、陰鬱な感じがしてよっぽど気持ちがいい。


「千雪もすごく可愛いよ」


 そう返すと、千雪は僕から体を離してはにかんだ。しかしすぐにぎゅっと目を瞑って眉を寄せる。すると千雪の口元にうっすらと血が滲んだ。僕は千雪の額にかかる前髪を少しよけて、ガーゼの上から目をそっと撫でる。


「ここ、痛いの?」

「うん」

「人間って酷いもんだね」


 人間は己の魂の形を全く理解していないから、一度壊れたらもう二度と戻らない。だから僕は人間が嫌いだ。我が物顔でこの世の全てを掌握した気分になっているくせに、実際は驚くほど脆く、地球上のどんな生き物よりも愚劣で醜い。


「死神さんは痛いの分からない?」

「うん」

「……そっか」


 先日、深海についての本を読んだ。その本によると、深海とは何も見えず音も聞こえずただただ圧迫された空間らしい。人間は、遥か遠い宇宙へ行くよりも、下へ潜るほうが難しいのだという。それは人間の魂の脆さが関係しているのではないかと僕は考察した。外部からの刺激に弱く、己の形を保つことができないのだ。


 光の届かない海中では、全ての物が青く見え、更に深く沈んでゆくと人の目で見える世界はかなり暗くなり、次第に色を感じられなくなる。そして400メートルを限界に、人間の視覚では知覚できない世界になるらしい。

 つまりそこまで行くと、人はただ無の中に漂っているだけということになるのだろうか。それは母親の腹の中にいる胎児のようなものだろうか。

 千雪の魂はまるで深海のようだと僕は思う。水面で何が起ころうとも、光りも喧騒も千雪の魂までは届かない。代謝は限りなく穏やかで、僕に向けられる眼差しはいつでも仄暗い虚無感を湛えていた。


「死神さんは、まだ子供だからねぇ……」


 人間の外見的判断基準で見るならば、僕の姿は青年と言ってまず間違いない。だが死神としてなら、確かに僕はまだ発生して間もない。人間でいう子供のようなものだ。だからこそ知的探求心に溢れ、好奇心の赴くままに日々新しいことを学び、触れて、壊して、成長する。

 千雪はそれを感じているというのだろうか。だから千雪の目には、僕は幼く映るのだろうか。人間なのに、魂の形を知覚しているのか。


「興味深いね」


 僕は呟いた。


 傍らに座った千雪は、ポケットから取り出した小さな入れ物を手にして何やら黄色いストローのような物を口に含む。するとその棒の先から透明で丸い球体が生まれた。


「何それ、すごいね」

「シャボン玉だよ。死神さん知らない?」

「へぇ……。知らないよ。初めて見た」


 鳥肌が立つほどの無数の小さな泡沫が宙へ放たれる。それはまるで、街を埋め尽くす程に増えた人間のようだと思う。


「……人間はなんでそんなもの作ったんだろう?」


 千雪の返事はない。ただその球体に空気を送り込むことだけに神経を集中させていた。黄色い吹き具の先、生み出されたものがゆっくりと膨れていく。

 僕は考える。人間もこんな風に大きく膨らますことはできないだろうか、と。ゴミみたいな人間をたくさん集めて一つに固めたら、一体どんな形になるんだろう。


 千雪が慎重に育てた一際大きな泡沫。憎悪に肥えた人間の魂に酷似している。宙に放たれたそれは危なっかしく震えながらよたよたと宙を漂い、僕の目の前でぷつんと弾けた。千雪は酷く冷たい目でそれを眺めていた。



 ▼



僕は千雪に問いかける。


「どうして千雪の家族は千雪を殴るのかな?」


 シャボン玉の吹き具を液体に浸しながら千雪は数秒何かを考えるように間を置いて、抑揚のない声で答えた。


「多分、私が悪いから」

「どうしてそう思う?」

「さあ……どうしてかな。人は特に理由がなくても他人に悪意を向けられるものだから、理由を探しても意味がないよ」


 千雪はそう言って今度は注意深く笑顔を作ると、青黒く変色した腕を宙にかざした。


「人間じゃないみたいだ」


 僕は思ったままを口にした。人間は多少の差こそあれ、みんな何パターンかの配色に振り分けられ、同じ形、同じ手足の本数、同じところに口があって、同じように気持ち悪い。

 しかし目の前の千雪はどうだろう。腫れて開かない片目は眼帯で覆われ、口角は痛々しく裂け、袖から覗く細い腕にはいくつもの殴打痕がある。その姿は人間というよりはどちらかというと死神の僕に近い。

 死神の僕が人間を殺すのは簡単だ。跡形もなく潰すなんて一瞬あれば事足りる。窒息させることも、切り刻むことも容易い。

 けれど、一体どう力を加えれば人間は青くなるのだろう。それが僕には分からない。殺しもできない弱い力のくせに、他人に暴力を振るい殺意を抱く。


「人間ってほんとに気持ち悪いね」


 千雪に向けた言葉ではなかったが、千雪は自分へのものとして受け取ったようで、薄っすらと笑った。


「私も、そう思う」


 千雪の声とほぼ同時に僕はポケットに手を入れた。しっくりと右手に馴染む感触。白く光るそれは刃物と言って差し支えない形状をしている。なるほど、これが殺意の形か、と思う。

 僕が刃先を向けるよりも早く、驚くほど滑らかに千雪が僕の手を取った。ぷつりと皮膚が裂けて、千雪の指先から赤い血が滴る。千雪から恐怖は感じられない。千雪の魂はどこまでも安らかで乱れがない。

 

 僕はまた千雪に問いかける。


「自分と同じ目に遭わせたいとは思わない?」

「何のために?」

「おかしなことを言うね。それは僕よりも千雪のほうがよく分かってるはずだろ」

「……」

「千雪も人間なんだから、同じ人間を傷つけることなんて容易いはずだ」

「誰かを傷つけるために生まれて来たわけじゃない」

「じゃあなんで僕を呼んだのさ」 


 千雪は一瞬間を置いて。 


「……ただ、寂しかったから」 


 ぽつりとそう呟いた。 


 誰かに悪意を向けられたとき、人間の魂は可笑しいくらいに歪になる。憎悪に溢れた本心を偽り言葉を発するとき、人間の顔は驚くほど醜い。しかし今、千雪の魂は全く動いていなかった。


「へぇ……」


 本心なのか、と僕は小さく感嘆の声を上げた。このような人間もいるのかと改めて感興を覚える。ただ殺してしまうのは勿体ない。どうやって遊ぶのが一番愉しいだろう。想像を巡らせるとゆるゆると口角が上がる。

 僕の視線に気づいているのかいないのか、千雪は静かな声で言葉を続けた。


「誰かが憎いわけじゃない。傷付けたいとも思わない。……だけど、確かにここに積もってく」


 沈むように目を伏せて、胸の辺りをぎゅうっと握る。


「ずっと前から、ここが苦しい」


 千雪の魂はまるで深海のようだと思った。水面の光も喧騒も千雪の魂までは届かない。有機的活動は限りなく穏やかで、僕に向けられる眼差しはいつでも仄暗い虚無感を湛えていた。

 僕は千雪の表情、そして魂を観察する。そうしてあることに気が付いた。どうやら千雪は全く怒りを感じていないわけではない。負の意識はゆっくりと、しかし確実にその内側へ降り積もっている。

 空から雪が舞うような、という比喩を思い浮かべてみたが少し違う。


「海中に降る雪——マリンスノウってところかな」


 まだ見ぬ深海に思いを馳せる。

 それはとても心地よさそうに感じられた。果てしない虚無の中は、きっと僕に安らぎを与えてくれる。もっとそれを感じるにはどうすればよいのだろうか。ついこの間見た下らない恋愛映画のように、その手を取って、唇を食み、自身を捻じ込んでみれば、その感覚をもっと深く得ることができるのだろうか。

 千雪の体の中は温かいだろうか。


 千雪が僕に問いかける。


「死神さんは人間が嫌い?」

「もちろんさ。……ああ、でも千雪は別かな」

「私も人間だよ」

「確かにそうだね。でも、千雪のことは結構気に入ってるんだ。この感情を言葉で表すとしたら、好き、かな。うん。間違いないね」


 千雪はたくさんいる人間の中でも、救いようもない馬鹿だから好きだ。


 僕の軽い告白を受けた千雪は曖昧な反応を示し、遠くのほうを見つめる。それは何かを大切なものを捨てようとしているような、越えてはいけない線の前で耐えているような葛藤の眼差しだった。

 千雪の魂が今までで一番大きく揺れている。愛の告白というものが人間にとって特別であることは書物や詩集、映画などから学んだ。しかしその概念を理解しているかと言わればそれは違う。


「もう……死にたいな」


 ぽつりと千雪が呟いた。


 初めて目にする表情だった。

 死神としての僕の感性は、おそらく人間の美の物差しとはかなりずれているだろう。しかし今、僕は思う。きっと人間はこういう女のことを美しいと言うのだ。いつだったか、暇つぶしでぶらりと立ち寄った映画館。そこで観た映画に今と似たようなシーンがあった気がする。その光景を思い起こし、まるで自分が主人公であるかのように、僕は表情を作って口を開く。


「嬉しいよ、千雪。僕たちは両想いだったんだね」


 堂々たる声だ。僕はゆっくりと千雪に歩みより背後から腕を回してその身を抱く。


「命に価値も重みもない。人間なんて腐るほどいるんだから、もうこれ以上生まれなくていいと思うんだよね」


 耳元へ唇を寄せて熱を込めて囁く。


「それでさ、すごく良いことを思いついたんだ」


 僕は目一杯の微笑みで口元を歪め、継ぎ接ぎだらけの手をそっと千雪の下腹部へ滑らせて、ゆるりと撫でた。


「子供を作ろう」


 千雪の魂が揺らめいた。


「死神の種が人間の腹で成長する。そうして産まれてくるそれは、人間なのかな? それとも死神なのかな? 結構、興味あるんだよね」

「……その相手は、別に私じゃなくてもいいんじゃない」

「あれ、不満? 告白の仕方が違ったのかなあ」


 千雪は少しだけ首を動かして僕を見やると、僅かに眉を顰めた。


「死神にだって美の基準はある。それでいったら千雪は僕の好みだよ。僕と千雪の子供なら死ぬほど可愛いに決まってる。だから——」


 千雪のような人間の魂と、死神が混ざり合ったらどんなものが出来上がるのか見てみたい。

 千雪が人を傷つけたいと思わないのが本当ならば、死神と交わることは水と油を無理やり混ぜるようなものだと思う。それがまた僕の好奇心を掻き立てる。死神と人間の混血なんて、愚かな人間が考えた創作物の中にしか存在しないはずだ。それを現実で生み出したらどんなに面白いだろう。

 救いようもない馬鹿な千雪から、人間以上の存在が生まれる。その存在を目の前にしたとき、千雪は本当に今と同じことが言えるのだろうか。誰かが憎いわけじゃない。傷付けたいとも思わない——なんて、クソみたいな戯言を。


 何も無茶をしようというわけではない。僕は人の形をしているのだから、人間と同衾することは自然なことなのではないかと感じられた。


「——ねぇ、試してみようか?」


 そう問いかけると、千雪は目を細めて僕の顔を眺めた。

 

 清白な言葉の下に隠した狂気。千雪の深い胸の内に静かに積もり積もる怨恨の情。「傷つけたくない」なんて言葉は、笑えるほどに嘘だと分かる。何千何万と人を殺しては産み出してきたドブみたいに濁った魂だ。そんな人間共の念から生まれた僕と交わるなんてことは、人として決して侵してはいけないことだろう。

 千雪は巡り巡って自分自身の子と体を重ねるのだ。


 そうして、応えるように千雪の唇がゆっくりと弧を描く。


「……ん、いいよ」


 一体何をどう考えたらそんな答えを導きだせるのか僕には到底理解できない。

 

 しかしそれは確かに美しく、眩暈がするほど醜穢な、人間そのものだった。


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