第5話紅くなければ辛くもない

 今時珍しく、手紙が届いた。

 アヒルのチャイニーズ風コンフィの完成から、数日後のことであった。

 手紙というものは、バーチャルなものを呼ぶ場合と物質的なものを言う場合がある。古来手紙といえば後者を指したものだが、現在においては前者を指す。そのために、物質的な封筒に包まれたものを目にすると物珍しさを覚えるのであった。

 速達便で宇宙船内部のポストへと届けられた古風なそれを、みらいは裏返してみる。差出人はヤンとなっている。

「ヤンさんから……?」

 封蝋がしっかりと押された封筒を手に、ヤンのことを思い出す。

 ヤンは、トウガラシ専門家である。銀河一辛いトウガラシを作り出したその道の専門家であり、かなりの天邪鬼とも言われる。この前、ブラックナイトメアの種を分けてもらったのが、このヤンという還暦の男性であった。

 ヤンはみらいと同じように、いや、みらいが住んでいる星系よりももっと辺鄙な場所に住んでいた。太陽よりもずっと熱量の強い、白色矮星のある星系で生活しているのである。星は赤いほど温度が低く、白いほど温度が高い。といっても、人間にとってはどちらにしても身を焼くほどの高温には違いないのだが、星系の惑星の居住可否に関わってくるので大事な要素である。

 白色矮星のある星系は、どうしても高温になりがちである。高温だと植物が育たないから空気もない。そうなると、人類種が生息するには不適ということになるのだ。最近では、みらいのように宇宙船に居を構える宇宙生物もいるが、地球型惑星と比べると見劣りするし、大地を踏みしめるのは気持ちがいい。

 そのトウガラシマスターは、みらいと同じように宇宙船内で生活している。買い占めた惑星に宇宙船を着陸させているという点も同様だ。違うのは、その惑星が地球型惑星とほとんど同じで、気温が地球における熱帯雨林気候よりも温度が高いということくらいだろう。地球型惑星は多くの生物にとって理想といえる環境だから、買い占めるにはかなりの金額を積まなくてはならない。その惑星は、チリヘイブンと名付けられ、トウガラシ専門家たちの共同出資によって購入されたらしい。といっても、出資の半分はヤンさんが出しているそうである。

 チリヘイブンでは、トウガラシの研究が盛んにおこなわれている。複数の専門家が研究者を雇い、一スコヴィルでも記録を更新しようと、日夜トウガラシとにらめっこしているのだ。

 ヤンもその一人ではあった。一スコヴィルでも記録を更新しようと、昔ながらの方法で、トウガラシを栽培していた。しかし、ヤンのやっていることは、他の専門家とは真逆の方向への努力だ。

 ヤンの目標は、トウガラシを甘くすることであった。

 そんなことを思い出しながら、みらいはペーパーナイフで封筒を切る。中に入っていたのは便せんであった。開くと、銀河共通語が草書体で書かれていた。達筆すぎて、何と書いてあるのかよくわからないほどだ。インクが赤黒いのは、トウガラシのエキスが混じっているからだ。鼻を近づけると、かすかにスパイシーな香りがする。

 スマートグラスを翻訳モードへと切り替える。そうすることで、目に映る文字を認識し、宇宙船のコンピュータへと転送する。解読された文章がスマートグラスへと送り返され、それが表示されるという仕組みであった。

 解読され、ゴシック体へと変換された文章はかなり読みやすい。その文章を要約するとこのような感じである。

『FFS研究者としての知恵を借りたい。近々こっちへこられないか』

 そのようなことが、礼儀正しく書かれていた。

 もう一度だけ文章に目を通す。

 スケジュールを確認すると、空白だらけである。銀河ネットワークで有名になったものの、取材がやってくるとかそんなことはなかった。料理家兼研究者といっても、どこかに雇われているわけではない。自営業である。動画をつくらなければ収入はないのだがそういう気分ではなかったし、先日のFTC殺人事件でもらったお金がまだ残っていた。

 それに何より、動画のネタになるような気がした。

「よし行ってみよう」



 チリヘイブンは、その六割が緑に覆われている。残りの四割は水である。その水の上に、人工的な浮き島があって、そこに港はあった。宇宙船をパーキングに泊めて、小型艇をレンタルする。研究者はたいてい浮き島の上の研究室に引きこもっているが、トウガラシ研究者は密林の中に宇宙船を着陸させている。そのため、上空から探すのが手っ取り早い。

 百メートルも上昇すると、木々よりも高くなる。高いところからだと、鬱蒼とした森が地平線の向こうまで広がっているのがよく見えた。森を這うヘビのように見える青い線は、川である。チリヘイブンに東西にある山を水源にもつその川は、広く長大だ。衛星の重力の影響を受けて、川の流れが逆転することもあるらしい。その様子が見られるかと思って、みらいは地上を食い入るように見つめていたが、残念ながら目撃することはかなわなかった。

 十分ほど飛行していると、ヤンの宇宙船が見えてきた。退役することとなった銀河連邦軍の戦艦を買い取ったというその船は、地上に建設された城を思い起こさせる。軍艦であるから、他の宇宙船と比べると一回りも二回りも大きかった。艦橋は木々から頭を出していたから、遠くからでもよく見える。近づいていくと、金属の集合体は非常に威圧的である。武器は撤去されていたが、ラムアタックで、大抵の宇宙船は致命傷を負いそうだ。

 おっかなびっくり小型艇を近づけていくと、戦艦から炎の弾が撃ちあがった。攻撃かと思ったが、よくよく見てみるとそれは信号弾であった。こちらを歓迎するかのようにくるくる回転する火の玉に、極彩色の鳥が驚き、木々から一斉に飛び出していく。

「すぐに来てくれるとは思わなんだ」

「暇だったので。今は大丈夫ですか」

「大丈夫だ。しかし、格納庫の前に唐辛子を並べていたから、それを退かすまで待っていてくれ」


 旧式のガイドビーコンに従い、格納庫へ小型艇を着艦させる。

 キャノピーを上げて、コックピットから降りる。

「よく来た」

 向こうから、立派な白髭を蓄えた男性がやってくる。その人こそ、今年で七十歳になったというヤンだ。

 差し出された手を、みらいは握り返す。がっしりとした手には力がみなぎっている。体つきも七十歳には見えないほど筋肉質だ。というのに、何も特別なことはしてないそうだ。特別なことをしていないというのにマッチョマンなら、銀河中の還暦を迎えたおじいちゃんはみなマッチョマンということになってしまう。

「それで、わたしの力を借りたいって本当なんですか? その、自分で言うのはアレですけど、大した力ありませんよ?」

「あるではないか。ほれ、銀河ネットワークで人気だ」

「取材は一向にやってきませんけどね……」

 銀河ネットワークにチャンネルを持っていないヤンではあったが、彼は何度かマスコミの取材を受けている。銀河一の栄誉を手にして、その翌日には奪われた物として、そんな経歴を持っているにもかかわらず、今度は甘い唐辛子というものを作ろうとしている。彼の動向にマスコミは注目していた。

 しかし、みらいはマスコミの影すら見たことがない。自分は人気ではないのだろうか、とみらいは思ってしまうが、そんなことはない。ただ、みらいの居場所をマスコミが知らないというだけであるのだが、それに気がつくのはもっと後のことである。

「まあ、いつかやってくるさ。人気になるためにやってるわけじゃないんだろ?」

「そりゃあそうですけども。やっぱり追っかけられたいじゃないですか」

「追っかけられたことがないからそんなことが言えるんだ」

「追いかけられた経験でも?」

「ああ、ある。熱狂的なファンに、求婚されたこともある」

「その人は……?」

 さあな、とヤンは呟いた。何かよく出来事でもあったのかもしれない。

「まあ、そんなことはどうでもいいことだ。それよりも、わしがつくっている唐辛子を食べてみてもらいたくて、わざわざ呼びつけたんじゃからな」

「味見ってことですか。でも、それならほかの人でも良かったでしょうに」

 チリヘイブンには、多くの研究者が在住している。トウガラシ専門家の舌が麻痺していうことを危惧するのであれば、彼らの舌を利用すればいい。人間以外の宇宙生物もいたが、研究者の大部分は人間だ。辛さを楽しむ宇宙生物の半分は人類種で、唐辛子という香辛料を研究したいという人間は思いのほか多いのである。

 しかし、ヤンは否定する。

「おぬしは変なものを食べているのだろう?」

「……あのですね。変なものを食べるのは、FTSでわたしがやっているのは新しい料理法を――」

「変なことをしていることには変わりない」

「…………」

 客観的に見ると、両者には違いはない。みらいは、自分がやっていることには危険がない、と思っているかもしれなかったが、なかったことになったギャラクシードリップは宇宙を崩壊させてしまったし、キャンディーハウスでは小麦色のおかしとともに、黒焦げになるところであった。危険性という意味ではどっこいどっこい。それどころか、他人に迷惑をかける分、厄介だと後世のファンは口をそろえて言うのだった。

「とにかく、一口食べるだけでよい。たぶん、害はないはずじゃ」

「たぶんて」

「わしは食べたがピンピンしておるぞ」

 年寄りが食べても平気というのは、唐辛子の辛みがそこまで強くないことを示す。……通常であれば、そういうことになるのだが、相手はトウガラシマスターである。トウガラシを育て、辛みの頂点という無駄なものを極めた人間である。そんな彼のぴんぴんしているという言葉ほどあてにならないものはない。

 危険なトウガラシを食べさせられてしまうのではないか――そのような不安を抱えながら、みらいは首を縦に振るのであった。

 

 ヤンが所有する宇宙船、トロイアと名付けられている。これはトロイアの木馬という地球の歴史において有名な話からとられており、その話を再現した戦艦となっている。この宇宙船を敵国に奪取させ、中にいた兵士が内側から破壊工作を行うというのが作戦の一連の流れであった。しかしながら、現在、銀河連邦と敵対している惑星はなく、もっぱら宇宙海賊や宇宙マフィア、宇宙やくざの撲滅のために使われていたといういきさつがある。そんな輝かしい経歴を持った船だったが、結局のところ同じような作戦が何度も通じるわけではなく、それでも十の組織を壊滅させたところでお役御免となった。まさか、個人に買われ、船内でトウガラシの栽培がおこなわれるなどとは、船も船員も想像だにしてなかっただろう。

 兵士が身を隠せるように、トロイア内部はかなり広い。隠れるための仕切りはすべて取り払われ、そこに、水が張られている。ただの水ではない。栄養たっぷりな水である。ヤンは水耕栽培を行っているのだ。水は、山から流れてくる雪解け水を使っている。そうしてできたトウガラシは、ナイフのように鋭い辛さを持っているとして、料理人の間でも人気が高い。鳳凰という翼を広げた鳥類を彷彿とさせるオレンジ色のトウガラシが、有名だ。

「これじゃ」

 取り出したナイフでヤンがトウガラシを収穫し、みらいへと手渡す。

 そのトウガラシは、鳳凰とも、ブラックナイトメアとも違っていた。どちらかといえば、普通のトウガラシに近い。細長く、軽く湾曲した実は、ジャパニーズ料理に使用される鷹の爪に酷似していた。違うのは、緑色をしているところ。

「これが例の?」

「おぬしに食べてもらいたいトウガラシじゃな」

 ひっくり返してみたり、手のひらの上で転がしてみたり。どこからどう見ても、何の変哲もないありふれたトウガラシのようにしか見えない。しかしながら、そのようなものをヤンがつくるだろうか。

「滅茶苦茶辛いとか」

「そういうのは止めたっていうのは知っておるじゃろうに。それに、前に来た時どうなったのか覚えておらぬのか?」

 みらいは目をそらす。ブラックナイトメアの種を分けてもらった際、他のトウガラシも見て回ったのだ。その時に収穫してもいいといわれて、みらいは収穫することにしたのだ。しかし、ハイパーホットと呼ばれる品種を収穫する際は、最低でもゴーグルの着用は行った方がよい。ヤンが忠告する前に、みらいは収穫を開始していた。その結果どうなったのかといえば、瞼を中心とした目の周りが、大きく腫れてしまった。涙はしばらくの間、止まらず、ボクサーにでも殴られてしまったかのような有様であった。刺激臭とともに、トウガラシの成分が粘膜に付着してしまったために起きてしまった現象である。みらいとしては思い出したくもない。思い出すだけで、目の周りがヒリヒリしてくる。

「これはそうならないの」

「カプサイシンが全くないから、辛みを感じないようになっておる……はずじゃ」

「……はず?」

「シシトウガラシという品種をもとにしておるのじゃが、たまに辛い個体が生まれてしまうのじゃな。そもそもシシトウガラシはアオトウガラシを品種改良したものであるからして」

「トウガラシの歴史はいいですから、辛いんですか辛くないんですか」

 ぞんざいな聞き方に、ヤンの眉間にしわが寄る。それでも、辛くない、とヤンは言った。

 本当ですか。本当だ。本当の本当に。だから、本当だと言っておる。

 そのようなやり取りを行ってやっと、みらいは踏ん切りがついた。

「名前はなんていうんです」

「シュガーチリペッパーというのはどうじゃ?」

「砂糖のトウガラシですか。安直ですけど、わかりやすいです」

「だろう?」

 ほれ、と差し出された緑の果実をみらいは受け取る。まじまじと見つめると、やはりトウガラシにしか見えない。これが完熟したピーマンや、パプリカならわかるのだ。彼らもトウガラシ属であるにもかかわらず辛さとは無縁の存在であることは、子どもたちでも知っていることである。しかし、目の前にあるそれは、ピーマンやパプリカとは形が違う。その細長くて小さな果実はトウガラシに特有のもので、連鎖的に思い出されるのは、程度に差はあれど辛いという痛みであった。

 手にしたそれを半分に折る。目は痛くならない。

 目を閉じて、口の中へと放り込んだ。一刻も早く呑み込もうとして、でもそれでは味の感想を答えることができないから、みらいは嫌々咀嚼する。

 シャクシャクとした食感は、親戚のピーマンのものを思い出させる。しかし、生のピーマンにありがちな青臭さはそこにはない。むしろ――。

「甘い」

 そのトウガラシは、ヤンの言う通り、甘かった。それも、ほんのり甘かったり、オレンジ色をしたあのせり科の野菜とは違って、癖もない。本当に、佐藤のような甘さがするのである。自分の味覚がおかしくなってしまったのだろうか。それとも、ヤンが何か仕組んだのだろうか。いや、彼に限って、それはなさそうである。なぜならば、ヤンは職人気質で、そういった小手先のことを何よりも嫌うのだから。それに何より、騙して何になるのかという話であった。

 ということは、みらいの味覚はどこもおかしくないということになる。

 このシュガーチリペッパーは本当に甘い。

「甘い」

「おお、やはり甘いか。わしも甘みは感じていたものの、それが正しいかどうかはちと自信が持てなかったのじゃな」

「これは、どうやって?」

「そうじゃのう」

 ヤンは、目の前のハウスを眺める。ハウスでは、水耕栽培が行われている。トウガラシに用いられることは少ないが、別にハウスも水耕栽培も行われないわけではない。宇宙船内で水耕栽培を行っているというのは珍しいかもしれなかったが、変わったことといえば、そのくらいのものである。だというのに、トウガラシからは辛みが失われ、代わりに甘みが現れている。これは一体どういうことなのか。

「実はじゃな」

「はい」

「遺伝子組み換えの際に、重ね合わせを用いたのじゃ」

「重ね合わせっていうと量子論の?」

 重ね合わせとは、Aという状態とBという状態とが同時に存在する状態のことを指す。箱の中にネコがいて、そこに毒ガスを入れる。ネコは死んでいるはずだが、その死を観測するまでは生きているネコと死んでいるネコの二つの状態があると言っているのだ。もっといえば、両方の確率が半々ありますよっていうことでもある。よくわからないかもしれないが、よくわからなくていい。理解できる存在の方が少なく、理解できると公言している存在はたいてい嘘つきである。ちなみに、ネコの例えは大昔の量子学者が実際に出したもので、生きてもいるが死んでもいるネコなんてそんなのあり得るわけがないだろう、ということらしい。確かに。

 重ね合わせの状態では二つの可能性が存在している。これを利用することで量子コンピュータは高速演算を可能としているわけだが、ヤンはそれを遺伝子組み換えに利用した。

 まず、遺伝子を量子化する。マクロなものをミクロなものにする技術自体は存在している。ただ、変化量が大きければ大きいほど変換した際にロスが発生する確率が上がるし、ロスする部分も大きくなる。その点で、遺伝子組み換えに利用するのは問題ないといえる。遺伝子は目に見えないほどには小さいから、ロスが発生しにくいと考えられるからだ。誰も試したことがないのでよくわからないが、実際に甘いトウガラシができているということは成功しているのだろう。

 植物の遺伝子組み換えは、人類種が宇宙に出る前から行われていたことだ。ただ、そこに量子技術を導入するというのは今までなかった。実際はあったのかもしれないが、そうすることができるほどの技術はなかったのだろう。突然変異の際、遺伝子で量子のジャンプが行われていたことまではわかっていたようだが。

 量子を用いることで、遺伝子組み換えの速度は大幅に向上することとなる。重ね合わせを利用することで、複数の組み合わせを同時に生成することができるからだ。組み替えられてできた種は、ネコの例えでいう二つの可能性を持っていることとなる。育つまではどのような形質が発現するのかはわからないが、確率的には二分の一となる。Aという変化とBという変化の二つの状態が、種の中にはあるからだ。

「――あとは、別々に育てて、甘い種を特定するだけというわけじゃ」

「ちっともわからないんですけど」

「人工授粉の速度が上がった」

「遺伝子組み換えでいいじゃないですか」

 遺伝子組み換えなら、甘くなる遺伝子をトウガラシの遺伝子に入れ込むだけでよい。人工授粉と違うところは、そのようにほかの植物もしくは動物から遺伝子を持ってくることで、狙った形質を発現できるところにある。

 みらいの言葉に、ヤンが指を振る。

「遺伝子組み換えの問題点は社会問題になっているはずじゃぞ」

「健康被害ってやつですね。定期的にオーガニック野菜が流行る理由になっている」

 遺伝子組み換えを行った際の健康被害については、人類種が宇宙へ出る前から散々言われてきたが、ついぞ解決することはなかった。過酷な環境に適応する食料をつくるというのは急務であった。誰だって発がん性のものを食べたくはない。さりとて、飢え死にしたくもないのである。

「それに、自然に反する」

 ヤンは神様や運命というものを信じている。みらいにはよくわからない考え方であったが、それを口にすると口論になってしまうので、口にはしない。

 いつの時代も、宗教と政治と野球の話はしないほうがいいのだ。

「自然はいいんですけど、これ、本当に何もないんですよね?」

「ない。長期的な視線に立った際、どのような影響が出るかは確認のしようがない」

「……わからない?」

「遺伝子組み換えだってわからないだろう」

「そりゃあそうですけど」

「一応、成分分析は行ったが、異常はなかった」

「体が量子化したりとか……」

「お前さん、シュレディンガーコーヒーを飲んだことは?」

 シュレディンガーコーヒーとは、火星のオリンポス山で収穫される量子的なコーヒーだ。飲む人によって味わいが変わるという、変幻自在のコーヒーは火星に多く生息する量子猫の影響を受けて、常にピーベリーが収穫できるという稀有なものとなっている。しかし、一番の特徴は味わうまで風味が確定しないことにある。流通しているSコーヒーは、カップテイスターの手によって、味が観測されている。致命的にマズイ味――血の味であったり、ラフレシアの臭いであったりだ――にならないようにしているのだ。最高級のものであっても、確定させているものがほとんどで、されていないものが市場に出回ることはほとんどなかったりする。

 みらいもそのことは知っているし、Sコーヒーによって、体が量子になってしまったという人間がいるとは聞いたことがなかった。

「体が量子化したか?」

「してないですけど、やっぱり不安ですよ。トウガラシなのに、甘いんですから、何か裏があるんじゃないかって」

「そんなことを言われてもな。何も使っていないのは事実だ」

 ふうむ、とヤンが立派なあごひげをさする。彼が思考する際の癖であった。

 その手が不意に止まった。ヤンの目は、みらいのことをマジマジと見ていた。

「な、なんですか」

「いや、おぬしは料理人だったよな?」

「料理界の末席ではありますけど」

「末席だろうが関係ない。お前さんの人気とクレイジーなところを見込んで頼みたいことがある」

 ヤンに頭を下げられたみらいは、イヤな予感のようなものをひしひしと感じていた。

 だって、この状況で頼まれることなど一つしかないのだから。



 カメラが回り始める。

 その先にはエプロン姿のみらいが立っている。

 いつものスタジオ、いつものキッチン。そこで行うのは、動画のための料理だ。これもいつも通り。

 いつも通りの挨拶を行い、笑みを浮かべる。

 いつも通りではないのは、みらいの目の前に置かれた緑の山である。カメラが、その山へとズームしていく。広告収益で買い換えたカメラは、スマートグラスから操作ができた。手を動かさずとも視線だけでカメラが動くのだ。

 緑の山はトウガラシである。ただのトウガラシではない。

「今日はこのトウガラシを使ったレシピを紹介したいと思います。このトウガラシはシュガーチリペッパーって言うんですけど、その名前の通り、トウガラシなのに甘いんです、これ」

 今頃、動画を視聴している人は驚いているに違いない。――そのような視聴者の反応を想像しながら、みらいは次の言葉を発する。それだけの余裕がみらいにあるのは、やはり、二つの動画――並行世界のみらいの動画をカウントするなら三つ――をアップロードして、多少なりとも緊張しなくなってきたからかもしれない。

「これはヤンさんという人から頂いたもので。ヤンさんってご存じですか? トウガラシのすぺひゃりすとの」

 緊張しなくなってきたといった矢先にこれである。みらいは取り乱したけれども、すぐに舌を出した。

「とにかく、そのヤンさんって人から頼まれたんですよ。はじめてですよ。人から頼まれて、料理を作るなんて」

 みらいは料理家でもあったが、その実、誰かに料理を振舞ったことはない。レシピ集を出したことはなく、レシピを考えたことだって、先日のレシピが初めてだった。それにしたって、存在していたものを流用したもので自作料理とはいえない。

「甘いから、お菓子にでも使ってくれって言うんです。これをですよ?」

 みらいはとうがらしをつまみ上げる。どこからどう見ても、シシトウガラシないしはアオトウガラシのようにしか見えない。でも、どれもシュガーチリペッパーには違いないのだ。

 みらいはそのつまんだトウガラシを、かじって咀嚼する。細胞壁が破壊され、中の液体がほとばしる。口の中を甘みが蹂躙していく。糖度にして、五十。これは焼き芋と同等であり、野菜ではトップクラスの甘みといってよい。それをお菓子にすること自体は容易い。しかし――。

 みらいは、手に残っているシュガチリの半分を見る。歯形の残る断面は、肉厚だ。ピーマンというよりは、パプリカのそれに近いかもしれない。だからこそ、ぱきっとした食感があるのだが、それが邪魔になる可能性は大いにある。ショートケーキの上に主役たるシュガチリが乗っていたら、その特徴的な姿だけでなく、食感も浮いてしまう。

 そうなると、食感を感じさせないような形にするほかない。

 例えば――ペースト状にするとか。

 それじゃあ、クッキング開始。

 そう言ったみらいは、まな板と包丁を取り出し、その上にシュガチリを置く。ヘタを切り落として、下処理を終わらせる。

 みらいはフードプロセッサを取り出す。ディジェシリーズ第三弾は、ディジェジュニアといい、つまりは無駄に力の強いフードプロセッサであった。ここまでくるとくどいと思われるかもしれないが、ダイヤモンドのように硬い鉱石であってもたちどころに粉砕してしまうほどの力を持っているこれらは、鉱石を主食にしている層に一定の需要があって、売り上げはそこそこあるのだ。そのきっかけとなったみらいには、新商品が出るたびに無料で届いた。

 シュガチリはダイヤモンドのように硬くはないので、一瞬にしてペースト状になる。小さなものでもこのようにできるのは、ディジェジュニアのいいところといえるが、別に他のフードプロセッサも同じである。

 緑色の液体と化したシュガチリスープをスプーンですくう。匂いは、ピーマンに近いがピーマンよりも主張していない。

「青臭いので、念のため加熱しておきましょう」

 ピーマンの青臭さは加熱することである程度軽減される。シュガチリスープのそれはわずかなものだ。鍋に移し、牛乳を注いで加熱する。体積が半分になるほどまで煮詰めると、青臭さはまったく感じ取れなくなった。

 さらりとした緑色の液体を、パットへ移し替えて、冷蔵庫で冷やす。

「生地を作りましょう」

 卵、牛乳、蜂蜜、常温で溶かしたバター、薄力粉。これらは通常のものを使用する。黄金の蜂蜜酒や、黒仔ヤギのミルクを使ってしまうとシュガチリのよさをつぶしてしまう可能性があった。両者ともに濃厚すぎるので、今回の採用は見送った。

 卵を混ぜ、蜂蜜を入れる。よく混ざったら、牛乳をちょっとずつ入れていく。ペースト以外の材料は、すべて1パウンド入れると覚えておけばいい。

「ここらへんで何をつくっているのかわかった人もいるかもしれませんけど、言わないでくださいね」

 通常であればここでふるいにかけた薄力粉を投入するのだが、今回はシュガチリペーストを入れる。黄金色の液体に緑色の液体が混ざりこみ、マーブル模様を形成する。むらができないように少しずつ投入していく。

 すべてを投入したら、薄力粉を入れてさっくりと混ぜる。練りすぎてはいけない。焼きあがったときに堅くなってしまうから。

 生地が程よく混ざったら、クッキングシートを入れた型へ、生地を流し込む。全部入れたら、型をキッチンテーブルへ何度か落とす。こうすることで、空気を抜くのだ。小さなことではあったが、出来上がりで差が出るポイント。

「オーブンはあらかじめ温めてあるので、あとは焼くだけです」

 オーブンへと型を入れ、扉を閉める。後は、待つだけだ。

 二十分後。

 ミトンを手にしたみらいが、オーブンの扉を開く。途端、甘くて香ばしい香りが熱気を帯びて漂ってくる。お菓子作りのこの瞬間が、みらいは何よりも好きだ。

 やけどしないように注意をしながら、型を取り出す。茶色を濃くしたクッキングペーパーを引っ張りながら、型の底面を叩くと、表面を茶色くさせたそれが転がり出てくる。

 それこそは、パウンドケーキだ。

「おおいい焼き色ですね」用意していた竹串を中心へ刺して抜く。「生地もついていないので、生焼けでもなさそうです」

 クッキングペーパーをまとったパウンドケーキを金網の上に置いて、粗熱をとる。それほど長い時間、待つ必要はない。

 粗熱が抜けて、直に触っても火傷しないほどの温度になったら、クッキングペーパーを剥がし、そのウグイス色の体を露わとさせる。

「綺麗な色ですね。これならマーブル模様にしてもよかったかも」

 うっとりとした調子で、みらいは言う。渾身の出来栄えであった。

 スンスンと匂いを嗅げば、甘ったるく香ばしい。

 包丁で切り分けていく。その手つきが急いでいるのは、早く食べたかったから。他に何があるというのだ。

 切り分けたそれらを、皿へと並べる。

「シュガーチリペッパーのパウンドケーキ。完成です」

 カメラを皿へと向ける。緑と茶色のケーキは、しっとりとしており、食べ応えがありそうだ。見ているだけでよだれが垂れてしまうが、料理は見た目よりも味が大切だ。

「いただきます」

 カメラが皿から、みらいへと向き直る。彼女はフォークを手にしており、パウンドケーキの一つへとその切っ先を刺そうとしているところであった。

 パウンドケーキを口元へと運ぶ。漂う匂いは強さを増し、みらいの空腹を強める。

 大きく口を開き、一息に頬張る。咀嚼する。

 シュガーチリペッパーという新種のトウガラシを使用しているこのパウンドケーキ。通常であれば――そうではないことは生のシュガチリをかじったみらいにはわかっている――激辛だったり、青臭いのではないかと考えるだろう。

 しかしそうではない。咀嚼すると、口いっぱいに甘みが広がる。それは人工甘味料に代表されるくどいくらい強烈なものではない。あくまでも優しく、舌を満足させる。そして、野菜だったということを忘れさせるほどに、舌触りがいい。ふわふわとしていて、舌の熱で溶けているかのような感じさえあった。

「すっごくおいしいですっ!」

 いや、なにこれっ!?

 そう言いながら、次なる一切れをフォークは探し求めている。

 みらいはあっという間に、すべてを食べ切ってしまう。

 翌日が不安になってしまうほどの食べっぷりは、これほどまでにおいしいものになるとは考えてもいなかったからであった。

 感想を述べて、いつものように動画が締めくくられる。

 ――はずだった。


 シークバーにはまだ一分ほど続きがあった。

 おまけ、と黒背景に白字で書かれた文字。

 パッと場面が切り替わり、生足が現れる。ほっそりとしたともすれば華奢な脚は降り注いでくる声――恐らくマイクが床に置かれているのだ――巣からして、みらいのものらしい。

 脚の前には、体重計が置かれていた。乗っただけで、内臓脂肪から水分量、肌年齢といったものまで、何から何までわかるという最新機種である。乙女が買いたいものランキング一位に一年間君臨し続けている、乙女が知りたくない情報を教えてくれるものであった。

 爪先から乗ったって何も変わらないとはわかっていても、心情的にはそうしたくなる。みらいの足が、金属製の測定器の上に乗ること十秒。ピピっと音がした。待つ間の時間は十秒であったが、みらいにとっては永遠のようであった。

 どうしてそんなにびくびくしているのかといえば、昨日食べたパウンドケーキのせいである。それがなんだ、と思うかもしれないが、乙女、ことに人間という種の乙女という限られた時間の存在は、体重というものをひどく気にするものなのである。

「えっ……」

 困惑の声が聞こえた。

 パウンドケーキは基本的な材料を1パウンド用意する。そのために、ブラックホールができてしまうほど、とは言わないもののずっしりとしていて、カロリーもそれなりにある。まるまる一個を食べてしまえば、乙女の天敵である体重は増加するのは明らかであった。なればこそ、みらいはbくびくしていたし、どこかで諦めていた部分もあった。運動しなくちゃな……なんて悲観的ながら現実的な計画を立てていたのである。

 しかし、その計画は破綻してしまった。

 前日計った際には、体重計の表記はX5.9kg(本人からの強い要望があったため一部伏せさせていただいています)だったのだが、この時数値はX5.1kg。800gの現象であった。たった800gじゃないか、と考える人間は乙女ではない。ちょっとでも軽くなりたいのだ。

 とにかく、よっしゃー、という雄叫びとともに動画は終了したのであった。

 このおまけ部分が、銀河に偏在するといわれる乙女たちをどのように駆り立てたのかは言うまでもない。

 その日以来、シュガーチリペッパーは甘味料の一つとして人気を博するようになったそうな。

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