1話 青年
いつの記憶だろうか。
まだ若い一本の枝垂れ桜の隙間から、柔らかな光が降りそそぎ、自然のスポットライトに変わって、箏と向き合う一人の青年を照らしていた。
青年の細く色白な指で優しく弦を撫でると、長風が柔らかな風へと変わり、桜とともに暖かな音を運んでいた。その移ろいゆく音は四季を感じさせるような豊かさがあった。
懐かしく感じる後ろ姿。繊細だけれど全てを跳ね除けれるような芯の通った箏の音色。
───ああ、彼だ。
身体が青年と空間全てに包み込まれている様な安心感に溺れてしまいそうだ。
「おいで小百合、一緒に弾こう。」
青年は振り向き、私に手を差し伸べた。
「サッーーーー。」
目の前をかき消すかの様に、風が吹き荒れ、木々達をざわつかせた。桜が舞い散り、辺りが白くなっていく。
「小百合!大丈夫!?」
耳に刺さる様な声で呼ばれ、はたと我に返る。どうやら、男子が遊んでいたバスケットボールが小百合の頭に直撃したらしい。
「男の子は?同い年くらいの」
友達が「ここにいるじゃない」と言いたげな顔で不思議そうに私を見つめる。
「いや、ごめん。なんでもない」
笑って誤魔化しているつもりが、余計に心配されてしまった。
「保健室までついてくよ?」
「ありがとう、でも大丈夫だよ」
立ち上がり歩き出そうとした時、小百合はふらっと目眩がして倒れかけた。
友達が咄嗟に小百合の腰を持ち、支えた。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
―――大袈裟だよ。お節介さん。
「全然平気!大丈夫だよ」
上手と評判であろう私の苦笑いは役に立つ。
それよりも夢とは違う、余韻が残っているこの身体に動揺が隠せなかった。
―午後。
教室の窓から見える黄色味が混ざってきた空に、桜で埋め尽くされたコンクリート。背景に合わない鳥の声を聞きながら、小百合は青年の姿を思い出していた。
短く切り揃えられた黒髪に、シワひとつない藤納戸色の羽織が少年の凛とした雰囲気に良く合っていた。白い靄が掛かっていて鮮明には思い出せないけれど、優しい眼差しと微笑みにどこか懐かしさを感じた。
記憶を探ったが、思い当たる人はいなかった。私の単なる想像で作り上げた人なのだろうか。
「一体誰なんだろう...。」
疑問だけが小百合の頭の中を駆け回った。
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