邂逅

yaasan

邂逅

 このページをめくったら、泣いちゃうかもよ。


 机の中に置いてあったノートの表紙には、そんな文字が大きく書かれている。


 まるで無形のナイフが私の胸を無慈悲に突き立ててくるかのようだった。ナイフはとても冷たくて、心の奥底まで冷えてしまう気がした。


 二日ぶりに登校した中学校。でも授業が始まる前から、これは相当つらいなと私は思う。


「あれ? 今日は来てるんだ」


「来なくたって、誰も困らないのにね」

 

「え、ガチ? マジ無理なんだけど」


「ゴミだよ。ゴミが来たよ」

 

「は? 来るとか、終わってんだけど」


 周囲からそんな声が容赦なく漏れ聞こえてくる。わざと私に聞こえるように言っているのが明らかだった。


 でも、私は聞こえていないふりをする。必死で聞こえていないふりをする。それが私に残された唯一の抵抗だった。


 ノートの表紙に書かれていた文字には見覚えがない。だけれども丸みを帯びたその文字は、明らかに女の子の文字だった。その文字を見ていると、喉の奥がきゅっと締まる感覚がしてくる。


 だったら、見なければいいのに。


 そんな自分の声が脳裏で聞こえた。でも、その声に反して私はノートのページをめくった。ページをめくる指先が少しだけ震えていたかもしれない。


 みんなの幸せのために、この世から消えて下さい。

 お願いだから死んで!

 ゴミ!

 死ねよ! バーカ!

 うざっ!


 想像していた通り、ノートはありとあらゆる悪口で埋められていた。筆跡はどれもこれもが違っている。ご丁寧にノートを回して、きっとクラス全員で書いたのだろう。


 これを書いた人たちは、私がこれを見て何も感じないと思っているのだろうか? 

傷つかないと思っているのだろうか?


 いや、きっとそうなのだろうと私は思う。何も考えていないのだ。これを書かれた人が何を思うかなんて。書いているその時が楽しければよいのだ。

 

 私もそうだったはずだ。こうして踏みつけられる側になるまでは……。


 どうして虐められるようになったのだろうかと、考える時がある。

でも何度考えても、そこに明確な理由を見つけることはできなかった。それまで私が虐めに加担していた子に、虐められる理由なんて特になかったことと同じだ。


 くやしくて悲しいけれど、これはきっと順番なのだ。今は椅子取りゲームで、たまたま私が椅子に座れなかっただけなのだ。


 だからそこに明確な理由なんてあるはずもない。それが私の出した結論だった。ならば、この虐めはいつ終わるのだろう。


 明日か? 

 一か月後か?

 それとも半年後なのだろうか?


 視界がぼやけて、涙がこぼれそうになる。泣いては駄目だ。私は涙をこらえて立ち上がった。そんな私の様子を見て教室内に緊張が走る。


 緊張……。

 周囲は真冬の湖面みたいに静まり返っている。これから何が起こるのか。みんなは期待しているのだ。私が泣き喚くのか。それとも怒り狂うのか。


 無言で立ち上がった私の片手には、あらゆる悪口が書いてあるノートがある。これを破り捨てることができるのなら、クラスの皆に投げつけることができるのなら、どれだけすっきりするだろうか。


 でも……。


 泣きたくなんかない。

 こぼれようとする涙を堪えるため、私は目尻にさらに力を加えた。そして鞄を持つと、逃げ出すようにして私は教室を後にした。





 勢いで教室を飛び出したものの、このまま家に帰ることはできそうにもなかった。学校を早退したことに対する母親への言い訳が思いつかない。


 昨日まで二日も既に休んでいるのだ。体調が悪いはもう使えない。だからといって行くあてもない。そんな状況に私は軽く溜息をついた。


 結局、私は学校の近くにある小さな公園に足を向けた。きっと公園には乳幼児を連れた母親などがいるのだろうと思っていた。だけれども、予想に反して公園には誰の姿もなかった。


 午前中の早い時間に中学生が一人で公園にいれば、不審がられて声をかけられるかもしれない。それが面倒だなと思っていた。それだけに私は拍子抜けしたような気分だった。

 

 私は一人、誰もいない公園のベンチに座った。今頃は学校から私の姿が見えなくなったと、家に連絡が入っているのだろうか。


 そう考えると、やはり学校を抜け出した言い訳を考えなくてはいけないようだった。どうやって母親に言い訳をしようか。そう思うとさらに気分が重くなっていく。


 静かな公園だった。街の喧騒もどこか遠くに聞こえていた。私は街のどこかにあるとても大きなスポンジを想像する。そのスポンジは街の喧騒を少しずつ吸い取っているのだ。


 とても大きなスポンジなのに、その存在は誰にも知られることがない。だからそのスポンジは誰かに気づかれることもなく、街の音を少しずつ吸い取ることができるのだ。

 

 誰にも気づかれないまま、ゆっくりとそれでいて確実に街から音が失われていく。


 そんなことを想像すると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなるのを私は感じる。公園の静けさが私を優しく包み込む毛布のようで、少しだけ心の痛みが和らいでいく気がした。


 静かで寂びれたような小さな公園。そこに一人でベンチに座っていると、世界から自分だけが取り残されてしまったような気がしてくる。


 もしかすると、世界で生きているのは私だけかもしれない。そんな他愛もない考えが私の中で浮かんでくる。


 そんな思いに対して、だったらいいのになと素直に私は思う。友だちだと思っていたクラスメイトも、両親でさえも消えていなくなれば、自分の心はもっと軽くなるはずなのに。


 そう。街の音と一緒に、何もかもが消えてしまえばいいのだ。ついでに自分自身も消えてしまえばいい。


 ……死にたいな。

 

 私はその時、生まれて初めて死にたいと思った。

 駄目だ。涙がこぼれそうだ。そう思った時だった。


「お姉ちゃん、どこか痛いの?」


 まるで許しを請うかのように、ベンチで頭を下げて身を屈めていた私の頭上から声がした。


 急に頭上から声をかけられて驚いた私は勢いよく顔を上げた。

 さっきまでは誰もいなかったはずなのに、私の視界には五歳ぐらいに思える男の子が立っていた。黒目がちな瞳で、なかなか可愛らしい顔をした男の子だと頭の隅で私は思う。


「どうしたの? どこか痛いの?」


 男の子はもう一度、同じ言葉を繰り返した。私はそれには答えずに、この男の子はどこから来たのだろうかと周囲を見渡した。しかし、男の子の親らしき姿はどこにも見当たらない。


「どこか痛いのなら、パパとママに言った方がいいんだよ」


 男の子は私の顔を覗きこみながら心配そうに言う。


 パパとママに。

 両親は私が学校で虐められていることなんて知らない。もっと言えば、私はそれを知ってほしくなかった。そんなことで私は両親に心配をかけたくはなかった。


 いや、違うのか。

 心配をかけたくないということも確かにあるのだけれども、もっと大きな理由があった。両親に知られるのが格好悪くて嫌なのだ。


 両親には、私が元気で楽しく学校生活を送っていると思っていてほしかった。多分、それが虐められている私に残された最後のプライドなのだ。


 私は少し溜息を吐き出すと、心配そうな顔をしている男の子に向けて口を開いた。


「どこも痛くないんだよ。大丈夫。それより、どこから来たのかな? パパとかママは?」


 私の問いに男の子は少しだけ首を傾げて、あっちにいると言って公園の外を指差した。まだ小さいのに一人で公園に遊びに来たのだろうか?


「お姉ちゃんは小学生なの?」


「違うよ。中学生だよ」


「そっか。中学生なんだね。大っきいんだね!」


 意味が分かっているのかどうなのか。でも、なぜか男の子はとても嬉しそうだった。その場で嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねている。


「ねえ、名前は?」


 私の問いかけに男の子は首を傾げるだけで答えようとしない。

 いずれにしても、小さな子をこのまま一人で置いていてはいけないのではないか。私はそう考え始めていた。


 でも、近くにこの子の親と思しき人もいない。一体、どうすれば……。


「お姉ちゃん、本当に大丈夫?」


 私の何を心配しているのかは分からない。でも、この男の子は、さっきから私の心配ばかりをしているようだった。


「ん、大丈夫だよ」


 私は頷いて少しだけ笑ってみせた。私の笑顔を見ると、男の子も嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。瞳もきらきらと輝いている。


 私の笑った顔につられるようにして笑顔を浮かべた男の子を見て、そうなのかと私は思う。少しだけだったけれど、私が笑ったことなんていつ以来だっただろう。

 

 家でも暗い顔ばかりをしていたはずだった。だから何度となく、両親からは何かあったのかと訊かれていた。


 私は思わず男の子に向かって呟いた。


「ありがとう」


 自分で口にしてから、この言葉は何に対する礼なのだろうかと私は思う。


 駄目だ。今度こそ涙がこぼれてしまう。


「無理しちゃ、駄目なんだよ」


 男の子は黒目がちな瞳を私に向けている。その顔にはさっきと同じ心配げな表情が再び浮かんでいた。

 

私は涙がこぼれないようにと、目尻に力を込めて頷いた。


「ありがとう」


 もう一度そう言って、私は男の子の少し茶色がかった柔らかな髪の毛に片手をそっと置く。


 そうやって撫でられたことが嬉しかったのか、お礼の言葉が嬉しかったのか。再び男の子は満面の笑顔を浮かべてみせた。


「ほら、もうパパとママのところに帰らないと。パパとママ、心配するんだよ?」


「ん、そっかあ。そうかなあ?」


 男の子は首を何度か左右に傾げてみせた。


「そうだよ。きっと、凄く心配していると思うよ」


「そっかあ。そうだよね!」


 両親のことを言うと、男の子は途端に嬉しそうな表情を浮かべた。


「じゃあお姉ちゃん、ぼく、行くね。ぼく、一人で帰れるんだ! お姉ちゃん、無理しちゃ駄目なんだからね。痛かったら、絶対にパパとママに言うんだよ!」


 どうも男の子は、私のことを病人か何かだと思っているようだった。


「絶対に無理しちゃ駄目なんだよ! ばいばい、みーちゃん!」


 男の子は笑顔で私に手を振った。


 ……え?

 

 気がつくと男の子の姿はどこにもなかった。そこにあるのは私以外に誰もいない公園と、街の喧騒だけだった。


 私は自分でも気づかない内に寝てしまっていたのだろうか。


 夢、幻……。

 そんな言葉が私の頭の中に浮かんでくる。

 先程まではあまり感じられなかった街の喧騒が妙に耳障りだった。


 みーちゃん。

 男の子は確かに私のことをそう呼んだ。そして、その言葉が私の古い記憶を呼び覚まそうとしていた。


 ずっと忘れていた。思い出すことがなかった。いつから思い出すことがなくなったのかも分からない。それらの事実に気がつくと、何で今まで忘れていたのだろうかとさえ思う。


 ……まーくん。

 

 私が幼稚園の年中だった頃、同じ歳で一番の仲良しだった少しだけ小さな男の子。通っていた幼稚園の中でも、幼稚園から帰って来てからも近所の公園でいつも一緒に遊んでいた。


 まーくんは私のことをみーちゃん、みーちゃんと呼びながら、いつも私の後ろをついて来た。


 でも年長に上がる前に、まーくんは亡くなってしまった。後日、私が小学生になってから聞いた話では、先天性の病気をまーくんは抱えていたらしい。だから、そもそも長く生きられる運命ではなかったようだった。


 当時の幼かった私には死ぬことの意味も、病気の意味さえもよく分からなかった。ただ、まーくんともう会えないことだけは分かって、それだけは凄く理解できて悲しくて、とても悲しくて両親の前でわんわんと泣いたのをよく覚えている。


 そうか、そうなのかと私は思う。


 私が死にたいなんて思ってしまったから、きっと心配して来てくれたのだ。

彼のことなんて、私はすっかり忘れていたというのに。


 まーくん。

 まーくんは言っていた。痛かったら絶対にパパとママに言うんだよって。絶対に無理しちゃ駄目なんだよって。


 私は涙がこぼれないようにしながら決意する。

 

 とても格好の悪いことなのかもしれない。情けない子だと思われてしまうかもしれない。この事実が両親を心配させて、悲しませてしまうかもしれない。


 両親に言ったところで、何も解決することはないかもしれない。学校を転校することになるかもしれない。


 それでも両親に言ってみよう。


 両親ならばどのような結果になっても、必ず私に寄り添ってくれるはずなのだ。今まで何でそんなことに気がつかなかったのだろうか。


 私はそれまであの男の子がいたところに、ゆっくりと片手を伸ばした。そこに温かさを感じたのは気のせいだったろうか。穏やかな風がベンチで片手を伸ばす私の周りを駆け抜けていく。


 そうだよね、まーくん……。

 私は心の中でゆっくりと呟いたのだった。

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