椛の余白

―これは、キャンバスの余白に重ねた、ふたりだけの物語―


秋の初め、柔らかな光が差し込む大講義室。僕は、少し緊張した面持ちで席についた。大学での初めての授業。芸術学部の共通講義だったが、僕の専攻とは異なる分野の講義で、どこか場違いな気もしていた。


そんなときだった。数列後ろに座っていた彼女のキャンバスを、ふと目にしたのは。


大きな葉を紅く染めた木々が、細やかな筆致で描かれていた。派手さはないのに、目を引いた。まるで風の音や乾いた空気までが絵から伝わってくるようで、気づけば僕は振り返って声をかけていた。


「すごいね、それ。……紅葉?」


一瞬、彼女の手が止まった。視線だけを上げてこちらを見た彼女の目は、どこか冷ややかで、警戒心の色が濃かった。


「……見ないで」


小さく、けれどはっきりとした声だった。


「えっ、ごめん。いや、すごく綺麗だと思って……」


「……椛(もみじ)」


彼女は短くそう言って、また絵筆を走らせた。


「名前。椛。……この木の名前と一緒」


それ以上の言葉はなかった。

壁を感じる態度に、僕はそれ以上踏み込めなかった。

けれど、不思議とその背中が気になった。触れたら壊れてしまいそうな繊細さと、それでも自分の色を描こうとする強さが同居しているようで。

それからの講義でも、彼女はいつも同じ席に静かに座っていた。僕も、気がつけば自然と近くに座るようになっていた。

何度か、同じように話しかけてみた。最初は頷くだけだった彼女が、少しずつ短い言葉を返してくれるようになり、ある日の講義終わり、とうとうこちらを向いてこう言った。


「……よく話しかけてくるね」


「だって気になるし。椛の絵も、君自身も」


そのとき、彼女は初めて目を伏せて、少しだけ肩を揺らした。


「……変な人」


でも、その声には少しだけ、棘が抜けていた。




それからも、彼女とは講義で何度も顔を合わせた。席が近いこともあり、時折言葉を交わすようになった。


「……あの時、いきなり話しかけられて、びっくりした」


ある日、授業後の構内でそんなことをぽつりと言った彼女に、思わず笑ってしまった。


「そうだったんだ。ごめん。でも、気になったんだよ。君の絵」


そのとき、彼女はほんの少しだけ笑った。

秋風に揺れるような、やさしい笑みだった。

彼女は日本画を専攻していた。木々の移ろいや風の音、水面の揺れや山の静けさ――そんな自然の一瞬を、彼女の絵は美しく閉じ込めていた。


「昔は絵本作家になりたかったの。でも、絵と言葉を一緒に扱うのが、難しくて」


「それでも、ずっと絵は描いてるんだね」


「うん。絵なら、言えなかったことも残せるから」


そう語る彼女の目は、どこか遠くを見ていた。




秋が過ぎ、冬が来て、やがて大学生活の残りもわずかになった頃。

彼女とは、特別な言葉を交わすことも、明確な関係を持つこともなかった。

けれど、僕にとって彼女は、確かに心に残る人だった。


卒業が近づいたある日、最後の講義の帰り道、彼女はふと立ち止まり、こう言った。


「今日の空、絵に残したいくらい綺麗だね」


「うん。君が描いたら、きっともっと綺麗になる」


そのとき彼女が返した小さな笑顔が、僕の心に残った最後の風景だった。




それから数年が経った。


僕は出版社に就職し、美術関係の専門誌を扱う編集部に配属された。

日々届く展覧会の案内や招待状を整理していると、ある封筒が目に留まった。


――彼女の名前が、そこにあった。


「……個展?」


信じられない思いで封を切り、日付と場所を確かめる。

その日、僕は担当の先輩に頭を下げて、休みをもらった。


会場は、こぢんまりとしたギャラリーだった。秋風がそっと吹き込むような静かな空間に、彼女の描いた作品が並んでいた。

絵は変わっていなかった。

いや、変わっていないようで、確かに深みを増していた。

紅葉の葉が風に舞う絵、川面に映る夕暮れの山、雪解けの森。

どれも彼女らしくて、どれも新しかった。


その奥の壁に飾られていた一枚の絵が、僕の足を止めた。


そこには、あの日、椛と見上げた空が描かれていた。

冬の終わりの淡い夕空。

絵の片隅に小さく描かれた影が、まるで誰かと誰かが寄り添うようで――


「来てくれたんだ」


その声に振り返ると、椛がいた。

ギャラリーの光の中、あの頃と同じようでいて、どこか遠くなったような、凛とした気配をまとっていた。


「……まさか、本当に来てくれるとは思わなかった。というか……出版社の人だって、知らなかった」


彼女が少しだけ目を見開いた。


「卒業してから、美術系の出版社に就職したんだ。たまたま、招待状が会社に届いて、君の名前を見て……どうしても、来たくなった」


「そうだったんだ……」


椛はそう言って、目を伏せた。その仕草には、どこか安心したような、懐かしさに触れたような空気があった。




それから二人で、並んで作品を見て回った。語る言葉は多くなかったけれど、間を繋ぐ沈黙さえ心地よかった。

大学時代の話。卒業の頃の、少し苦くて、それでも大切な時間。今の仕事のこと。


そして――あの頃、伝えそびれた気持ちのこと。


それは、口に出すには少しだけ遅すぎたし、沈黙の中にそっと染み込ませるには、あまりにも大切すぎた。


けれど、彼女がひとつの絵の前で立ち止まり、僕を振り返らずにぽつりとつぶやいた。


「……あの頃の色、まだ忘れてないよ」


その背中に、何かを返したような気がした。

言葉ではなかったかもしれない。

でも、あのとき僕の胸の奥からふっと立ち上った想いは、たしかに彼女に届いていた気がした。


あたたかな沈黙と、紅に染まったキャンバスに包まれながら、二人の間には静かに何かが流れ始めていた。

まだ名前もつけられない、けれど確かに存在する、再びめぐってきた季節のようなものが。




その日、別れ際に、椛は一冊の小さな画集を僕に手渡した。


「来てくれてありがとう。また、どこかで」


ページをめくると、最後に小さな絵があった。紅い葉が舞う中、並んで歩く二つの影――その一つが、僕に似ている気がした。


あれは、ただの絵かもしれない。

想いを込めたものかもしれない。

でも、それを確かめることは、今はまだできなかった。


けれど、あの時の空の色と、彼女の絵の温度だけは、胸に確かに残っている。


きっとこれからも、季節が巡るたび、あの紅葉を思い出す。


そして、またどこかで、彼女に会える気がするのだ。



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