藤の灯

―これは、僕の進む道に咲いた、再会の物語―



僕の家は、代々続く小さな旅館を営んでいる。

海と山に囲まれたその土地は、季節ごとに色を変え、訪れる人々を迎えてきた。

僕は物心つく前から、宿の暖簾の奥にある日常に触れ、当たり前のようにこの場所で育った。


両親からは、自分の好きな事をしないさい、と言われていたけれど、幼い頃から過ごしたこの旅館が好きだったから、僕は自分の意思で家業を継ぐ事を決めていた。

癒しの空間としてこの旅館を選んでもらいたい。

両親が築いたこの旅館を沢山の人に利用してもらいたい。

僕の思いに、両親は嬉しそうに「一緒に頑張ろうな」と笑ってくれた。




そんな旅館に、小さな頃から出入りしていた花屋の娘がいた。淡い栗色の髪をひとつに束ねて、花束を抱える姿がよく似合う幼馴染だ。

最初の記憶は、小学校の時。

夏休みに玄関先で遊んでいた僕に、彼女は手に抱えた小さなブーケを差し出して「これはね、お客さま用」と言った。

仕事の真似事が楽しかったのだろう。

あの時から、彼女の花は僕の暮らしの中にずっとあった。


彼女――紫乃は、季節の移ろいとともに変わる花を届けてくれた。

春はチューリップ、夏はひまわり、秋はリンドウ、冬はカサブランカ。

僕は帳簿の整理や館内の清掃を覚える一方で、彼女の持ってくる花に名前を訊くのが密かな楽しみになっていた。


高校に入ってからは忙しくなって会う機会も減ったけれど、ふとした時に顔を合わせれば、昔と変わらず「元気にしてた?」と彼女は笑った。

だけど、それがいつからか、ほんの少し気まずくなったのは――多分、僕の方が彼女を意識しはじめたからだったと思う。


気持ちを言葉にすることもできず、ただ日々を過ごしていたある日のこと。


「大学、受けるんだって?」


父に言われて志望校の資料を取り寄せ始めていた頃だった。

うなずく僕に、彼女は少しだけ笑って、「そっか」と言ったあと、静かに視線を逸らした。


「うん。でも……ちゃんと帰ってくるよ。俺は、旅館を継ぐつもりだし」


「そうだね。……知ってるよ」


それきり、彼女はそれ以上何も言わなかった。

僕も、何を言えばいいかわからなかった。

ただ、彼女の髪が陽に透けて淡く揺れていたのだけ、妙に印象に残っている。




春。合格通知を受け取った僕は、家族に見送られて旅館を出た。

彼女にだけは、出発の前夜、こっそり手紙を渡した。あの頃のように、きれいな紫のリボンを添えて。



『紫乃へ


明日、出発します。

大学卒業できたら、親父の知り合いの旅館で修業して、またこの旅館に戻ってきます。

家業を継ぐって自分で決めたことだから、妥協したくない。

ちゃんと胸を張って帰ってきたいんだ。


……ここに戻ってきたら、ひとつだけ君に聞いてほしい話があります。


今はまだ、言葉にできないけれど――

きっとまた会えるから、そのときに伝えさせてください。


それじゃあ、行ってきます。』




年月が流れた。


大学を卒業し、父の知り合いの旅館での修業を終えた僕は、数年ぶりに旅館に戻った。

父の代の業務を受け継ぎ、副支配人として多くの責任を背負うことになったけれど、それを苦だとは思わなかった。

むしろ、自分の道がようやく形になったことが嬉しかった。


戻ってきたばかりの頃は、とにかく毎日が慌ただしかった。

お客様の対応に、帳場の管理、仕入れの手配――慣れない業務に追われ、気づけば一日が終わっていた。

そんな日々に飲まれるように、僕は大切なことを一つ忘れていた。

紫乃に、戻ってきたことを伝えること。それを思い出したのは、ある日のことだった。


帳場での仕事を任されるようになり、本日の宿泊帳簿の入力をしていると、いつの間にか季節の花が変わっていることに気づいた。

初夏を知らせる芍薬と、柔らかな色のデルフィニウム。

戻ってきてから今まで、本格的に始まった引き継ぎに追われていて、活けられている花を眺める余裕もなかった。


ふと、その花を見て懐かしさが胸をよぎる。そうだ、これを届けてくれていたのは――紫乃だ。

そのとき、ようやく気がついた。

僕は、あれだけ「また会おう」と言っておきながら、彼女に何の連絡もしていなかった。

気になっていたはずなのに、まっすぐに再会を願っていたはずなのに……

胸の奥がわずかに痛んだ。


そんな想いを抱えたまま、ふと顔を上げたそのとき。玄関の扉が開いた――。



「いつもありがとうございます。本日分を届けに来ました」


その声に振り向くと、そこには、変わらぬ笑みを浮かべた彼女がいた。

いや、少し違う。

あの頃よりずっと大人びて、凛とした気配をまとっていた。


「紫乃……」


「おかえり、副支配人さん」


そう揶揄うように笑った彼女は、母親から正式に店を引き継ぎ、店を切り盛りしているという。

旅館への納品も、ずっと彼女が続けてくれていたそうだ。


再会は、思ったより自然だった。僕たちは少しずつ、また距離を縮めていった。

彼女が届けてくれる花に「ありがとう」と言い、彼女が「今日のお花はね……」と話してくれる声に、僕はいつの間にか心を預けていた。


言葉の端々に懐かしさと新しさが混ざっていた。

幼馴染という枠を越えて、今の僕たちは、もう少しだけ大人の距離を歩いている気がした。


ある雨の日のことだった。

帳場で書類の整理していると、濡れた傘を片手に紫乃が入ってきた。


「今日はちょっと早めに持ってきたの」


彼女が抱えていた花は、白と紫のトルコキキョウ。繊細で、でも芯の強さを感じさせる花だった。


「きれいだね」


僕がそう言うと、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。


「……今朝、自分で選んだんだ。今日のあなたに似合いそうだなって」


不意に胸が熱くなった。

あの時渡せなかった言葉が、何故か今なら言える気がした。


「紫乃」


「うん?」


「俺、ずっと、伝えたいことがあったんだ」


彼女がこちらを見る。優しい目をしていた。

僕は深く息を吸い込んでから、まっすぐに言った。


「もう一度、ちゃんと会えてよかった。……これからは、毎日でも、紫乃に会いたい」


「……それって、告白?」


「うん。俺、君が好きだ。あの時、言えなかった気持ちの続き」


一瞬の沈黙のあと、紫乃はふっと笑って、トルコキキョウを僕の胸元にそっと差し出した。


「じゃあ、これは、再会のお祝い。……私もね、待ってたよ」


その瞬間、花の香りと、雨上がりの風がそっと吹き抜けた。


――これは、僕の進む道に咲いた、優しい再会の物語。

そして、これから咲いていく未来の、最初の一輪だった。




再会の日から数ヶ月が過ぎ、僕たちの未来は静かに、でも確かに動き始めていた。


まず、旅館では小さな変化が積み重ねられた。

紫乃が選ぶ花々は、これまで以上に季節の移ろいを際立たせ、ロビーだけでなく、客室の窓辺や廊下の衝立にもそっと彩りを添えるようになった。彼女が手掛ける生け花コーナーには「花しずくコーナー」の名札がつき、宿泊客が気軽に花言葉を楽しめるよう、さりげなくひと言メモも添えられている。


僕は副支配人として、集客や企画に新しい視点を加えた。

「花と湯めぐりプラン」を立ち上げ、紫乃の花屋とコラボした体験型イベントを開催。旅館の庭で紫乃が講師となり、宿泊客が自ら花を活けるワークショップを催し、そのまま温泉に浸かる流れが好評を博した。

参加者は出来上がった自分だけの一輪を、夕食会場へ持ち込んで飾ることもでき、思い出に残ると喜ばれた。


日々の業務も、僕と紫乃は肩を並べてこなしている。

朝は玄関横の小さなガラス棚に今日の一輪を飾り、その下で僕がチェックインの準備をしながら、彼女は花の水替えをする。

昼食後には一緒に館内を巡回し、掃除や点検の合間に次の季節に咲く花の相談を交わす。

夕暮れ時には二人で帳場に戻り、客層や花の評判を話し合い、明日への改善点をメモする。


週末には、宿泊客向けの「花咲く旅館ガイド」を作成。

僕が文章を考え、紫乃が写真と見どころをまとめて、ロビーに常備するミニパンフレットとして提供している。

地元の生産者とも連携し、旅館で使うハーブや山野草を自社栽培するプロジェクトもスタートした。


そんな毎日の中で、僕たちの距離はより自然に、より温かくなっている。

朝のわずかな時間に交わす「おはよう」の声や、夜のラウンジで小さな白ワインを口にしながら語らう夢譚は、ビジネスの枠を超えた二人だけのかけがえのない時間だ。


これからもこの旅館を、訪れる人の心にそっと花を咲かせる場所にしていく――。

そう誓い合いながら、僕たちはこれからも共に歩み続ける。


僕たちが紡ぐ、新しい旅館の物語は、まだ始まったばかりだ。

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