向日葵のまなざし

―これは、僕の遅れて届いた、陽だまりの初恋の話―



大学三年の春。教員免許を目指して教育実習を控えていた僕に、母が言った。


「ねえ、山崎さんのところの娘さん、高校生なんだけど成績が落ちてきたらしくてね。家庭教師をしてくれないかって」


受けた理由は単純だった。教えることに自信を持ちたかったのと、少しでも現場に近い経験を積みたかったから。

でもその日、扉の向こうにいた彼女は、想像よりもずっと「子ども」で、そしてなぜだか「眩しかった」。


「はじめまして。……よろしくお願いします」


礼儀正しいけれど、どこか無防備で、目を合わせると少し照れたようにそらす。

その横顔を、僕は不意に「綺麗だ」と思った。

教える側と教えられる側。

でも、関係性の壁を飛び越えてしまいそうなほどに、いつしか彼女の存在が近くなっていった。


「ねぇ先生、問題集ってほんとに全部解かないとダメ?」


「ダメじゃないけど、やるだけ得だよ。きっと変わる。君も、未来も」


「……そっか。じゃあ、頑張ってみようかな」


そう笑った彼女の瞳が、春の空より澄んでいた。




週に一度の家庭教師の時間は、やがて「日常」になった。

彼女は僕が想像していたよりもずっと素直で、努力家だった。

けれど同時に、どこかで自分に自信が持てないような、そんな脆さも抱えていた。


「ねえ先生、私ってほんとにダメなのかな。将来、なりたいものもないし……」


「君は、まだ知らないだけだよ。可能性も、夢も。きっと見つかる」


「見つけても、届くかな」


「きっと届く。届くまで、俺が手伝うから」


一瞬、息を呑むようにこちらを見た彼女は、そっと目をそらして、小さくうなずいた。


——いつからだろう。

彼女の言葉に、心が揺れるようになったのは。


僕は家庭教師で、彼女は生徒。

この関係は、越えてはいけない境界線の内側にある。

それでも、彼女の頑張る姿や、時折見せる弱さに、どうしようもなく惹かれていた。




季節は巡り、彼女は高校三年生になった。僕は卒論と教員採用試験の準備に追われる日々。


「……ねえ、先生って、何で教師になりたかったの?」


「そうだな……誰かの人生に、少しでも希望を灯せたらいいなって思ったんだ」


「私にも、灯ってるよ。……先生に出会ってから、ずっと」


胸の奥がきゅっと鳴った。

けれど、僕は何も言わなかった。

それはずるさか、誠実さか。自分でもわからなかった。

やがて、僕は試験に合格し、小さな中学校に赴任することが決まった。

一緒に過ごす時間は自然と少なくなり、家庭教師としての契約も終了となった。

最後の日、彼女はノートの切れ端にこう書いて渡してくれた。


「私、先生みたいに教師になってみたい。…いつか同じ場所に立てたら、また会えるかな?」


僕はその言葉に、何一つ返せなかった。

ただ、ノートの紙を胸ポケットにしまって、静かに頭を下げた。


「……頑張れよ。君なら、きっとなれる」




春の光が、窓のカーテンを優しく揺らしていた。


僕は、もうすぐ新年度を迎える教室の整頓を終え、静かな教室に一人佇んでいた。

少し不器用で、理想ばかりを語っていたあの頃より、

今の僕は、少しだけ現実を知り、少しだけ強くなれた様な気がしている。


でも、変わらずに胸にあるのは――


「先生になりたいんです」


あの夜、机越しに向かい合った少女の言葉。

勉強が苦手で、感情が先に溢れてしまうくせに、

誰よりも真っ直ぐで、誰よりも人の痛みに敏感だった子。


僕が初めて、「誰かを育てる」ことを心から信じられた、最初の生徒。

彼女は今、母校の高校で教育実習中だと風の噂で聞いた。

きっと、あの頃と同じように全力で、少し不器用に笑っているんだろう。


そのとき、背後でノックの音がした。


「……失礼します。先生、お時間少しだけ、いいですか?」


振り向くと、そこには見違えるほど大人びた彼女がいた。


白のブラウスに、教育実習生の名札。

肩まで伸びた髪、穏やかに微笑む表情。

それでも、僕の胸は一瞬であの夏の日へと戻される。


「……陽葵。」


「久しぶり、先生。」


そう言って、彼女は静かに頭を下げた。


「先生がいたから、私、ここまで来られました。ちゃんと、伝えたかったんです。」


言葉のひとつひとつが、まるで春の陽だまりのように柔らかだった。

僕は笑った。


「おかえり。」


彼女の目が一瞬だけ揺れた。そして、少しはにかんだように微笑む。


「ただいま。……やっと、同じ場所に立てました」


僕は、何も言えなかった。

伝えたかった言葉は、何年も前から決まっていたはずなのに。

でも今、ようやくそれを口にしてもいい気がした。


「これでようやく伝えられる……。好きだよ、陽葵。君はずっと、俺の特別だ」


彼女は驚いた顔をして、そして――小さく頷いた。


「私も……先生がずっと特別です。」


もう、家庭教師と生徒ではない。

教える側と、教えられる側でもない。

ふたりはようやく、同じ春の空の下、同じ道の上に立てた。

教室の外では、次年度の新しい生徒たちの声が遠くから聞こえてくる。

僕たちは歩き出す。

教師として、人として、そして……の恋人として。


陽のあたる、未来へと。




それから数年後、僕たちは同じ学校に赴任することになった。

教師同士として、職員室で交わす目線。

休み時間、廊下ですれ違うたびにこっそり笑い合う。

生徒たちは薄々気づいているらしいけど、それでもふたりでいる時間は静かに、穏やかに流れていた。


家では、リビングの棚に置いた交換ノートを使って、互いに日々のことを書き合っている。

授業で嬉しかったこと、子どもたちのちょっとした失敗、何でもないことが、宝物みたいになる。

忙しい日々でも、このノートのおかげですれ違うことなく、穏やかに愛を育んでいる。


最後のページに書かれていた彼女の文字を、僕は何度も読み返した。


『先生、私は今、本当に幸せです。

あなたと出会って、信じてもらえて、今日がある。

ねえ、また誰かに、同じ言葉をかけてあげて。

“君なら、きっとなれる”って』


僕はノートを閉じ、窓の向こうに咲く一輪の向日葵を見つめる。


——そう、僕が最初に信じた名前。

あの光にまっすぐ咲いた「陽葵」という花だった。


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