椿の記憶
―これは、僕のシャッターに閉じ込めた、彼女の最後の笑顔―
高校一年の冬。
風が澄み切った午後、放課後の写真部の部室には、わずかに陽の光が差し込んでいる。
誰も居ない部室で1人、僕は愛用のレンズの手入れをしていた。
手は慣れた動きをしていたけれど、頭の中は翌週の撮影計画でいっぱいだった。
作品の構成を考えながら作業を続けていると、小さく扉がノックされ控えめな声が届く。
「失礼します……あの、見学に来たのですが…もう終了の時間ですよね?」
振り返ると、薄桃色のマフラーを巻いた彼女が立っていた。
少し緊張したように瞳を伏せている。
それでも、その表情は冬の日差しのように、どこかあたたかく感じられた。
「まだ大丈夫。他の人は撮影に行ってるから、今は俺1人だけど……。写真、興味あるの?」
「はい。まだカメラとか触ったことないんですけど……見るのが好きなんです」
「じゃあ、これから触ればいいよ。俺も、入ったときは全然だったし」
気がつけば、自然と笑っていた。
彼女の視線が僕のカメラに向く。
「すごい……それで、どんな写真撮るんですか?」
「風景が多いかな。静かな場所とか、光が差し込む瞬間とか」
「……素敵ですね」
その言葉に、ふと胸の奥があたたかくなる。
何故かその時、名前は聞けなかった。
二人で活動する時間が増えていったのは、それからすぐのことだった。
彼女はまだカメラに慣れていない。
けれど、シャッターを切る指先は慎重で、景色を見る目はまっすぐだった。
ある日、二人きりで校舎裏の冬枯れの木々を撮影していたとき、僕は彼女の手元を覗き込んだ。
「うん、いいじゃん。構図、上手くなってきた」
「ほんとですか……? 嬉しいです」
頬が赤いのは寒さのせいだと思ったけれど、僕の胸も同じように熱くなっていた。
沈黙が流れる。
でも、それは居心地の悪いものじゃなかった。
終了時刻が迫り、そろそろ部室に戻ろうかと声を掛けようとしたところ、カメラを抱えた彼女がぽつりとつぶやく。
「……来年の春に、海外に引っ越すんです」
時が止まったような気がした。
「……戻ってくる?」
彼女はゆっくりと首を振った。
「多分、無理だと思います。向こうでの生活が長くなるから」
その時、何も言えなかった。
いや、言いたい言葉はたくさんあったはずなのに、喉に詰まって出てこなかった。
それからしばらく、僕たちは何も話さなかった。
ただ、風の音だけが耳に残った。
あっという間に迎えた二年生の冬。
もうすぐ彼女が旅立つと知りながらも、僕は告白できずにいた。
彼女が好きだ。けれど、未来が見えない恋を語る勇気も、引き止める資格もないと思っていた。
そんなある日。
「今度の週末、寒椿の咲いてる神社に行きませんか?」
と彼女が言った。
部としての活動ではない、ふたりだけの撮影会。
当日、神社の境内にはうっすらと雪が積もっていた。
その中に咲く寒椿の赤が、凛としていて、息を飲む美しさだった。
「ここ、好きなんです。咲いてるのを見ると、なんだか少しだけ強くなれる気がして」
彼女はそう言って、木の前に立った。
「私を、撮ってくれますか? ……最後の思い出に」
「……ああ」
僕は、彼女をファインダー越しに見つめた。
雪が舞うなか、寒椿の下に立つ彼女は、本当に美しかった。
この瞬間を逃してはいけない――そう思った。
カシャ。
シャッターを切る音が、冬の空に吸い込まれていった。
そして、彼女が新天地に旅立つ日。
僕は見送りには行かなかった。
行ってしまえば、想いが溢れてしまうと分かっていたから。
代わりに、あの神社で撮影した写真を封筒に納め、彼女の最後の登校日に机の中に忍ばせた。
寒椿の木の下で笑う、美しいあの日の彼女の写真を。
手紙は書けなかった。
何を言っても、彼女を引き留めたくなってしまう気がしたから。
けれど、それでも何かを残したくて、想いを伝えたくて、僕はその一枚に全てを込めた。
いつか彼女が遠い国でこの写真を見た時、少しでも笑ってくれたら、それだけでいい。
彼女の名前は――
凛と咲く、冬の花の名前。
けれど、僕がその名を口にすることは、きっともう二度とない。
あの別れから数年。
今僕は、プロの写真家として風景を専門に撮影する仕事をしている。
国内外を旅しながら、四季折々の光や風、色彩のゆらぎを写真に収める。
僕の名前を目にする機会も増えた。特に、冬に咲く椿の写真は、多くの人々の心を惹きつけてやまないらしい。
「あなたの椿の写真には、祈りのような静けさがある」
と評されたこともあった。
だけど、僕自身は知っている。
本当に美しかった椿は、もう二度と、僕のファインダーの中には現れないということを。
あの日。
粉雪の舞う境内で、椿の花の前に立つ彼女をシャッターに収めた。
頬を赤らめながらも微笑むその横顔は、今でも、僕の記憶のなかで凍ることなく咲き続けている。
あの時の一枚が、僕の中でずっと一等賞だ。
それを超える写真なんて、これから先も撮れる気がしない。
たとえ世界中の美をカメラに収めたとしても――
……きっと僕は、あの日写した美しい彼女を超えることはない。
寒椿とともに微笑む、あの一瞬の奇跡を。
そんなことを思いながら、今日も僕はカメラを構える。
風の向こうに、赤く滲む椿の姿を追いながら。
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