十六章



 若芽の青々しい草原、野花が小さな蕾を膨らませて揺れる。側には澄んだ紫水をたたえた小川がさやさやと流れ、空は抜けるように青く薄い白雲がゆったりと浮いていた。

 それらを軒車くるまの窓からのんびりと眺め、そうしてどこからか聞こえてきた声に顔をゆるませる。


 野原に降り立てば糙葉樹むくの大木の下で座っていた女が気がつき近づいてくる。

主公だんなさま」

 構わない、と手を振り、明るい声を上げている子供らを見た。小さな幼子が水溜まりに浸かり、摘んだ花を撒き散らしている。花弁と共に水をすくい、向かい合う兄と少年にかけた。まともに浴びた一方は渋い顔をし、もう片方は嬉しげに幼子に返す。それでまた大きな歓声が起きた。

「娘御は大きくなったね」

「はい。もう字も書けるようになりました」

「それは優秀だ」

 主人は頷く。童女が無邪気に笑いながら少年に抱きつき、それを軽々と拾い上げた彼はやっとこちらに気がついた。

「崔遷!おかえり!」

「うん。皆元気にしていたかな」

 美貌の少年は、はい、とはにかんで笑う。その後ろ、共に駆けてきたが隠れたほうは母親にたしなめられた。

ぼう、主公さまにご挨拶は」

「……おかえり、なさいませ」

 蚊の鳴くようにそれだけ言うと俯いてしまう。崔遷は微笑む。

「最近ずっと留守にしていたからね。人見知りがぶり返してしまったようだ」

「申し訳ございません。しつけが足りず」

「家のことを全てお前と主水モンドに任せてしまってすまないね」

「務めですから、当たり前でございます」

「崔遷、ぼくもちゃんと姫のお世話が出来てるよ」

「じじ、すき!」

 少年と童女が顔を見合わせて幸せそうに笑う。それにも頷き、女を促した。

神無カンナ、先に子供たちとやしきへ帰っておおきなさい」


 下僕しもべたちを乗せた軒車を見送り崔遷は彼を坂の下にある湖畔へと誘う。


「また八泉へ行ってきたよ。相変わらずが素晴らしかった」

「懐かしい。ぼくと崔遷が出会ったのもあそこだったよね。たしか今回は泉主直々のお願いだったとか?」

「うん。波人はじんの伝聞をいろいろと聞いた」

 歩が止まった。「……そう、なの」

 ほんの少し硬い表情で黒髪をなびかせる姿を崔遷は下から仰ぎ見、涼やかな縮緬皺ちりめんじわを絶え間なく揺らす水面に目を細めた。

「言うてみなさい。なにが不安なのか」

「……すべてが」

 憂鬱げに川辺まで下り、すねまで水に浸る。蒼穹を見上げた。

「ぼくは、今とても幸せで……でも、すぐに過ぎ去ってしまう。崔遷も皆も、瞬きのあいまに消えてしまうから……それがたまにすごく悲しくて」

「誤魔化すのはよしなさい」

 ぴしゃりと感傷を断ち切られて目を見開いた。慌てて振り返ると、主人はまだそれほど歳を重ねてはいないのに後ろ腰に手を当てたまま老父のように続ける。

「私はずっとお前が思い悩んでいるのを知っているよ。お前が存外嫉妬深いのも、一度好きなものができたら諦められない性分なのも分かっている」

「まるで人みたいに、って?」

 自嘲してバツ悪く俯く。

「そうは言っていない」

「あなたも気味が悪いでしょ。邸の下仕えが噂してる。人もどきの化物だって。ぼくもそう思うよ」

「歳をとらないだけでお前はなんの害悪にもならない。しかしお前がいったい何なのか私にも分からず手に余るゆえ、共にここへ来た。お前が気にするべきは噂話などよりもその醜い嫉妬心で他者を掻き回してしまうことだよ」

 崔遷は溜息をついた。

「あの二人を仲違いさせようとするのはもうおやめなさい」

「ぼくは、そんなつもりはないよ。ただ、主水モンドはいつも自分のことばかりで神無カンナの言うことを聞かないんだ。あれじゃ神無が可哀想でしょう。神無はとても優しいから我慢してしまうの。だからぼくが代わりに言ってあげてるだけ。ぼくは間違ってなんかないよ。だって、」

瑾孳きんじ

 名を呼ばれて押し黙る。崔遷がそう呼ぶのは怒っている時だけだ。ぽろぽろと雫をこぼした。

「神無はぼくが変でも大事だって言ってくれるもの。好きなんだもの」

「主水もそうだろうに」

「でも、だけど、だって………主水といるときの神無は、嫌だ」

「あの二人はもう夫婦なのだよ。聞き分けなさい。神無はたしかに分け隔てないい人だ。だけれども、お前は彼女の特別ではない」

 てのひらで拭いきれないものが後から後から落ちてゆく。

「……っ。ぼくはどうして、人じゃなかったんだろ………」

 水の中でうずくまれば、崔遷の腕が頭を包んだ。

「それは言うても仕方のないことだ。それぞれに考えて感じ、誰かを愛すかぎりは、万人が真に満足して幸福になれることはない。必ずどこがで何かを諦め、妥協して、辛い気持ちを乗り越えて生きて行くものだ。そうしてきたろう?」

「ぼくは、今までこんなに幸せなことなんてなかったもの。あったとしても、忘れてしまった。おぼえてなんかない。毎日、毎晩、男や女に人形みたいにいじくられた。見世物小屋で裸で歌って、踊って…………。悲しくて、寂しくて、つらくて寒くて。でも死ねないの。誰も殺してもくれないの」

 こんなぼくは、と自分を抱く。「気持ち悪くて当然だ。でも、神無はそれでも綺麗だと言ってくれた。転んだら足を洗ってくれたし、怪我をしたら布を巻いてくれた。――――ぼくのほうが、主水よりも神無のこと知ってる!」

 苦しい、と胸を押さえた。何も悪いものを食べていないのにしくしく痛む。

「たとえそうでも、二人を傷つけて良い理由にはならない。その辛さは甘んじて受け入れなければならないもの。誰かにぶつけて良いものではない」


 さとされながらも身を焦がす不思議な気持ちに混乱する。なぜこんなにも切ないのだろう。神無が笑いかけてくれるだけで嬉しいのに、言葉を交わすだけで浮き足立つのに、もっともっととまるで喉が焦げつくよう、彼女の無防備な肌をちらと見ただけで燃えたのかと錯覚するほど体が熱くなり、心の中に沸き立つ何かがどうしようもなく抑えられずに破裂しそうになるのだ。同時にとても嫌な苦いものが渦巻いて、そうして必死に目を閉じる。忘れなければと息を吸う。それが、とてもつらい。


 崔遷に手を引かれて歩み出しながらぼんやりと虚ろに上向いた。放心した頭で愛する彼女の顔を思い浮かべた。彼と一緒にいるところを見ると身を切られるほど泣きたくなるのに、幸せそうな姿にこちらまでほっとした。ずっとそのままであって欲しいと、信じもしていない神に祈るほどに大切なひと。怒らせると怖いけれど、いつもは優しくていい匂いがして――――。



 はた、と突然、脳裡が明瞭になり、別の面影が重なった。先ほどまで抱いていた温もりがまだ腕に残っている。


(…………人ってふしぎ)


 残像を追って黒いひとみは瞼のなかへ消えた。


(…………姫は神無にそっくりだな…………)







 可敦カトンの彼女が二度にわたる叩扉こうひに失敗して数年後、北の一族の族主は病により殂落そらくした。『選定』の成功者を見い出せないまま王を失い、大会議はかねてより刹瑪シャマの強い後押しのあった可敦の娘をついに承認した。戦士でも男でもない者が『選定』に挑むことは過去になかった。

 娘は難なく期待にこたえ、そして熱願していた最大の奇跡までをも授かる。影で支え続けた母はそれら全てを見届け、後の全てのことを託すと、突如として姿を消した。霧界で大規模な地滑りに巻き込まれ、二度と帰って来なかったのである。



 一族は悲しみに暮れ、せめても丁重な葬儀を望んだがしかし、くまなく捜索すれどもしかばねは見つからず、霧ののなかにのこっていたものといえば、土にうずもれた柳の枝にただ唯一、あかい髪の一房だけがまるで蜘蛛の糸のように絡まって揺れているのみだった。





聖胎王母しょうたいおうぼ 下 に続く)




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聖胎王母 上 合澤臣 @omimimi

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