十六章
若芽の青々しい草原、野花が小さな蕾を膨らませて揺れる。側には澄んだ紫水を
それらを
野原に降り立てば
「
構わない、と手を振り、明るい声を上げている子供らを見た。小さな幼子が水溜まりに浸かり、摘んだ花を撒き散らしている。花弁と共に水を
「娘御は大きくなったね」
「はい。もう字も書けるようになりました」
「それは優秀だ」
主人は頷く。童女が無邪気に笑いながら少年に抱きつき、それを軽々と拾い上げた彼はやっとこちらに気がついた。
「崔遷!おかえり!」
「うん。皆元気にしていたかな」
美貌の少年は、はい、とはにかんで笑う。その後ろ、共に駆けてきたが隠れたほうは母親に
「
「……おかえり、なさいませ」
蚊の鳴くようにそれだけ言うと俯いてしまう。崔遷は微笑む。
「最近ずっと留守にしていたからね。人見知りがぶり返してしまったようだ」
「申し訳ございません。
「家のことを全てお前と
「務めですから、当たり前でございます」
「崔遷、ぼくもちゃんと姫のお世話が出来てるよ」
「じじ、すき!」
少年と童女が顔を見合わせて幸せそうに笑う。それにも頷き、女を促した。
「
「また八泉へ行ってきたよ。相変わらず海が素晴らしかった」
「懐かしい。ぼくと崔遷が出会ったのもあそこだったよね。たしか今回は泉主直々のお願いだったとか?」
「うん。
歩が止まった。「……そう、なの」
ほんの少し硬い表情で黒髪をなびかせる姿を崔遷は下から仰ぎ見、涼やかな
「言うてみなさい。なにが不安なのか」
「……すべてが」
憂鬱げに川辺まで下り、
「ぼくは、今とても幸せで……でも、すぐに過ぎ去ってしまう。崔遷も皆も、瞬きのあいまに消えてしまうから……それがたまにすごく悲しくて」
「誤魔化すのはよしなさい」
ぴしゃりと感傷を断ち切られて目を見開いた。慌てて振り返ると、主人はまだそれほど歳を重ねてはいないのに後ろ腰に手を当てたまま老父のように続ける。
「私はずっとお前が思い悩んでいるのを知っているよ。お前が存外嫉妬深いのも、一度好きなものができたら諦められない性分なのも分かっている」
「まるで人みたいに、って?」
自嘲してバツ悪く俯く。
「そうは言っていない」
「あなたも気味が悪いでしょ。邸の下仕えが噂してる。人もどきの化物だって。ぼくもそう思うよ」
「歳をとらないだけでお前はなんの害悪にもならない。しかしお前がいったい何なのか私にも分からず手に余るゆえ、共にここへ来た。お前が気にするべきは噂話などよりもその醜い嫉妬心で他者を掻き回してしまうことだよ」
崔遷は溜息をついた。
「あの二人を仲違いさせようとするのはもうおやめなさい」
「ぼくは、そんなつもりはないよ。ただ、
「
名を呼ばれて押し黙る。崔遷がそう呼ぶのは怒っている時だけだ。ぽろぽろと雫をこぼした。
「神無はぼくが変でも大事だって言ってくれるもの。好きなんだもの」
「主水もそうだろうに」
「でも、だけど、だって………主水といるときの神無は、嫌だ」
「あの二人はもう夫婦なのだよ。聞き分けなさい。神無はたしかに分け隔てない
「……っ。ぼくはどうして、人じゃなかったんだろ………」
水の中で
「それは言うても仕方のないことだ。それぞれに考えて感じ、誰かを愛すかぎりは、万人が真に満足して幸福になれることはない。必ずどこがで何かを諦め、妥協して、辛い気持ちを乗り越えて生きて行くものだ。そうしてきたろう?」
「ぼくは、今までこんなに幸せなことなんてなかったもの。あったとしても、忘れてしまった。
こんなぼくは、と自分を抱く。「気持ち悪くて当然だ。でも、神無はそれでも綺麗だと言ってくれた。転んだら足を洗ってくれたし、怪我をしたら布を巻いてくれた。――――ぼくのほうが、主水よりも神無のこと知ってる!」
苦しい、と胸を押さえた。何も悪いものを食べていないのにしくしく痛む。
「たとえそうでも、二人を傷つけて良い理由にはならない。その辛さは甘んじて受け入れなければならないもの。誰かにぶつけて良いものではない」
崔遷に手を引かれて歩み出しながらぼんやりと虚ろに上向いた。放心した頭で愛する彼女の顔を思い浮かべた。彼と一緒にいるところを見ると身を切られるほど泣きたくなるのに、幸せそうな姿にこちらまでほっとした。ずっとそのままであって欲しいと、信じもしていない神に祈るほどに大切な
はた、と突然、脳裡が明瞭になり、別の面影が重なった。先ほどまで抱いていた温もりがまだ腕に残っている。
(…………人ってふしぎ)
残像を追って黒い
(…………姫は神無にそっくりだな…………)
娘は難なく期待に
一族は悲しみに暮れ、せめても丁重な葬儀を望んだがしかし、くまなく捜索すれども
(
聖胎王母 上 合澤臣 @omimimi
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