十二章
北の泉外人の女が旅に出て
「食糧は
窓辺に腕を預けて小鳥を眺めていた童女は無視する。
「どうしたことか。もしや
うろうろと
「そんなにやきもきしたって死ぬときゃ死ぬわ。とにかくまだ生きてるのは確かなのよ。落ち着いてよ」
「しかし
「あたしの泉主。これは命を懸けた誓いなの。自分で決めたのでしょ。これ以上介入すれば成り立たなくなるわ」
分かっているが、となおも
「それより、孳孳は?」
「姿を見ない。今はまだ寝ているのではないか」
「あれだけ連れ回したらね」
あたしも疲れた、と
「……もう!しっかりして。あなた、あの女に引きが強いって言ったけど、あなただって相当なものよ。自分を信じてどっしり構えてなさい!」
ぺしりと額を叩くと、うう、と謎の悲鳴をあげる。「……だって、心配だ。ああ、やっぱり教えるだなんて約束しなければよかったかもしれない……」
「まあ、
「そんなことをしたら嫌われるだろう!」
「すでに好かれてもないようじゃない。無理もないわあ、だって気持ち悪いもの」
「シンまでそんなことを言う」
いじけた顔を鼻で笑った。彼は己でさえ、一応は人であるという認識が
小石と同じ。稀有な色を見つけて揃えてはしゃぐ。その石がどこで
「……どうしてこんな性格になっちゃったんだか」
それでも、自分の主はいっとう大事で唯一
「ねえ、あたしの泉主。食糧が尽きても由歩ならある程度霧界のものを食べられるわ。気が
「シン……」
主は瞳をうるめかせた。…………ああ、中身が小児に
「ぼくをいつも支えてくれるのはシンだけだ」
「あたりまえ。あなたはあたしのものだもの。誰にもあげない」
優しく言い置き、広い背を撫でる。しかし、突如として襲った悪寒に総毛立ち、逆に
あまりのおぞましさに悲鳴を叫ぶ。
「シン⁉」
嘘だ、と全身を震えさせた。――――近づいてくる。どんどん。
「せ……泉主」
干上がった喉で必死に声を絞り出し、衣を握り締める。闇が。闇が来る。
「あ、あたし……
「どうした……?いったい何が」
「…………あれが、来る」
やっとのことでそう言うと、金の少女は崩れて融解した。目の前で
ふいに突風が打ちつけて顔を庇う。激しさに膝をつく。咲き乱れていた種々の花弁が嵐に巻き上げられ、軒先の
ごつ、と固い長靴の音。静かに近づく
知らないうちに汗が噴き出していた。こんなことはいつぶりか、長らく忘れていた感覚に震えて顔が上げられない。
(
やっと己の状況を把握しかけたが、射した影で我に返る。すぐ前までやってきた見えない何かに、
――――どうした、と呼びかけが降る。
「そんなに
静かに、悠々とさえ聞こえる声は至極落ち着き払い、しかし戸惑ってさえいた。長く、長く息を吐いた。覚悟を決めて目を合わせる。
すぐに飛び込んできたのは鮮烈な赤。炎の
「無事に帰れたら抱擁してやると言ったのを忘れたのか、九泉主」
「…………忘れるはずもない」
胸の奥から歓喜が溢れ、座り込んだまま、待ち侘びていた彼女の手を引く。従って片膝をついた相手は気配に反して穏やかな笑みを浮かべた。
「おかえり。私の
蒼白の顔をごまかして両腕に迎え入れる。
「麗春花?」
「ずっと、考えていたのだ。どう呼ぼうかと」
なんだそれは、と苦笑するのを耳の後ろで聴き、愛しい赤い髪を撫でる。今は埃まみれでくすんでいたが、そんなもの、彼女の美しさを損なう根拠となろうか。
「……まさか。まさかだ。よもやこんなことになろうとは」
呟き、瞼を開く。いつの間にか真横に立っていた
「…………
小童は細い首を傾げ、次いで主を見上げた。そちらはそのまま床に
「ひどく疲れた」
「……
「正直、
「遇った?」
「ああ。はじめは鹿のような姿をしていた」
なるほど、と腕を組む。依然立ち尽くしている妖には視線を合わせず、顎に指を当てた。
「俗に呼ぶ、
「麅鴞?」
「水神からはじめに
「……そうか。お前は麅鴞と言うのか」
幼子は頭を撫でられても顔色ひとつ変えない。「これは人型になるが、話さない。椒図とはやはり違うのか」
「……いや。それはその個体だけだろう」
おそらく本当に天寿を全うする刹那に下されたのだ。もうすでに取り込んだ
「たとえ死に際のものでも九子は九子だ。
「言っていたような武具はもらえなかった…………それに、不可思議な夢を
遠い目をしたのに微笑む。
「それは憶えている?」
「ああ」
「では、やはり汝は特別に力が強いのだろう」
そうなのか、となおも頭が働かず茫洋と空に浮かぶ雲を目で追った。「ひと月は過ぎてしまったようだな。長らく闇にいて時の感覚が乱れて分からない」
「汝が出ていってもう四月と少しだよ。今は夏だ」
驚きで目を剥いた。「…………は?」
「汝はずいぶん麅鴞の結界の中で過ごしたらしい。結界とは異界だ。時の流れは歪み感じ方も違う。昇黎も同じようなものだ。
だがおかげで飢えも渇きもせずに九子を下せた。
「良かった。汝は寡人の予想のとんでもなく斜め上を突き進み心が休まらないが、間違いなく誓いを果たして帰って来てくれた」
教えよう、と手を差し伸べる。
「天門についてを」
「麗春花。前にも言ったが、この大泉地とは閉じられた殻の中だ」
場所を移していつぞやの花咲き乱れる宮、内院を眼前に臨みながら九泉主は世話ばなしよろしく明かし始めた。
「言うなればもうひとつ大きな『世界』があり、その一隅、ずれた大気の彼方もしくは裏側と考えて良い」
「……大泉地以外にもこのような場所があると?」
「でなければ、砂人や波人が紛れ込んでくるのに説明がつかないだろう?彼らは外からやってくるから」
「外には行けないのか」
「残念ながら、彼らも分からないようだ。寡人とてその
「そうか。それで、天門とは何で、
泉主は胸の前に両手を挙げた。
「
「洪水が起きたからだ」
「はたしてそれだけなのか。天帝は水神をしてこの地を
「そのものもそうである?天帝も封じられている?」
「御自らを封じたと言ったほうが正しいやもしれない。……古く、まだ人がこの地上に存在しなかった頃、
「外敵から身を守るために自らを封じたということか」
「そう。つまり黎泉には
手を顎に置いて考える。
「眠る神の……復活の為……」
「寡人はその来たるべき時を
「それで」
「天帝が目覚めたなら、おそらく
確信を込めた泉主の顔はいつになく生真面目だった。
「では、天帝を起こせばこの状況は変わると言っているのか。毒霧は晴れるのか」
「麗春花。その前に、汝は整理できているかな。寡人ら泉民が誰の子孫なのかを」
「さっきから己で言っているではないか、水神の末裔だと」
「その水神とは、どの水神か?」
問われて怪訝に訊き返した。
「どの……?」
創世神話を思い返してみよ、と指を組む。「大多数に信じられている話とはこうだ。天帝がこの地を
言われてみれば、と瞬いた。「ええと、ではお前たちは天帝の末裔ではなく、もう一方の神の子らだということなのだな」
「なぜ天帝は自らではなくその水神に命じて大泉地を
泉主は
「帝陵に常に侍るのは誰か」
「……墓守」
「麗春花はほんに察しが良い。そう、墓には墓守がいなくては盗人に暴かれてしまう。となれば九つの泉は我ら墓守の宿営地というわけだ」
「ふん。泉外人が盗賊だとは言ってくれる」
「ただの
「
「確としたことは分からぬが、水神は大泉地を
「天帝を
そしてその扉が天門ということなのか。
しかしねえ、と泉主は組んだ指の上に顎を乗せた。
「本来、開扉とは外部からどうこう出来るものではないのだ。あくまで内からの号令があって初めて呼応する。その時を待つのが我らの務めであり使命。……まあ、予定の外のことがあったとするならば」
懐古するように目を細めた。
「地に落ちたときに、人と妖に
「……それは想定外だったのか」
「さあ。けれど寡人はそこが
「ちょっと待て」
話し続けようとしたのを押しとどめる。
「お前はいまとんでもないことを言わなかったか?案の定そうなった?王がいなければその国の泉は涸れる。そうだな?」
「左様」
「ならば、すでに王統を断絶し、涸れている泉国があると、そう言ったのか?」
「そう。初めは三泉。続いて八泉だ」
「だが、そんな話は聞いたことがない。八泉は塩の泉があると
「だから涸れていると。――ああ、涸れる、とは必ずしも水が無くなって干涸らびた土しか残らないという意味合いではないのだ。
「………………」
睨み据えた。
「………………それで、泉人の鍵の役割が泉外人の『選定』通過者にも同じく務まり、黎泉をつつくことが出来る。さあ、ではそのやり方だ。天門とは」
「
「外門は鎖定しなければならないのか」
「徳門が開いているというのはつまりは泉主がいるという証。泉根を失えば閉じてしまい、泉の浄化は滞り腐る。
「今世での常の形が不徳門は鎖定されていて、徳門は解鎖されているということは、逆をすれば黎泉を揺り動かせると。そして、私にはそれが可能なのだな」
教えろ、と目で訴えれば泉主は頬を掻く。
「鍵とは、開ける力だ。もう一度言っておく。ひらく為のもの。おそらく来たる時には外門は黎泉によって閉じられる。これが号令。そして九人の泉帝が鍵となりこの地は始祖水神と天帝を迎える祝福に
説明を反芻して、ふ、と笑みがこぼれた。「なるほどな。墓守に扮して
立ち上がる。ゆっくりと卓子をまわって泉主に歩み寄った。
「では、なにか。お前を殺して外門を閉じ、私と私の麅鴞を使って内門を開けば良いというわけだな?」
手頃だ、と腕を伸ばす。試してみるのに丁度よく目の前にいるではないか。対して彼は静かな視線を向けた。
「まあ考え方として手っ取り早くはそうなろう」
「そうして、泉国じゅうの泉主を殺して回ればいいというわけだ」
「無きにしも
伸ばした手が固まった。宙で触れた空気が糊付けされたように、引っ込めようとしても
「……麅鴞」
呼ばわった途端、背から赤い鱗尾が巻きついて来たが、やはり動きを止めた。泉主はひたと見つめている。
「いかな饕餮とてここでは分が悪い。なぜなら、ここはシンの結界内だから」
ぶわり、と髪が巻き上げられ、いつの間にか主人の膝に腰掛けたのは怒り顔の少女。
「
「麗春花、落ち着いてほしい。話はまだ終わりではない。それに、寡人には汝に殺されるだけの理由がない。さらに重ねて確認するが、汝には万民を救う為に力を使うよう申し入れた。だからこうして天についてを暴露している。それは了解してもらえたのだと思っていた。今ここで泉主である寡人を
「泉主、この女をあたしにちょうだい!八つ裂きにして食べてやる‼」
異形の少女が
逸らすことを許さない視線に
「嘘は良くない。本気でなければシンは動かなかった」
「そうよ!」
「まあ、汝に殺されるのも一興かもしれないが……」
「気持ち悪い。やめておく」
そうか、と泉主は名残惜しそうな雰囲気を醸し出し、すぐに下僕に噛みつかれた。
「話半分で手を出すなんて!泉主!やっぱりこんな女信じちゃだめよ!」
「お前がいる限りは安全なのだから、そう怒るでないよ」
「何を甘ちょろいこと言ってるの!だから蛮族に情けをかけるのはおやめなさいと言ったのよ‼」
ぐるり、と大きな眼を向けた。
「饕餮なんて下すようなヒトがまともなわけないじゃないの」
「いい加減黙っていろ小娘。お前とて人の皮を被った
きんきんとした叫び声が耳に
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