現世と幽世

 そうして、二人の奇妙な婚約生活が始まった。

 しかし沙羅は、優柔不断さゆえに押し流されて頷いてしまったものの、この婚約関係に早くも不安を抱いていた。

 〈みたまの緒〉は、震えることで〈音無しの鈴〉を鳴らし、鈴の持ち主を緒の持ち主のもとへと導く。その道程は現世と幽世の境を渡るもので、緒の持ち主に不測のことがあって辿り着けなければ、そのまま幽世に迷い込みかねない。雪斗は危険を冒して沙羅を助けに来てくれたのだ。

 沙羅の傍にいる限り、雪斗はこれからもこうした危険に遭うだろう。本人は幽世に関わることを了解しているが、それでもやはり、巻き込んでしまうという思いが消えてくれない。

 沙羅はそうして雪斗に危険を冒させたのに、彼はその後、気を失った沙羅のために車を呼び、東鶯邸まで連れてきてくれたのだ。重ね重ね申し訳ない。

 上ノ杜にある東鶯邸から壬堂の家までは車で一時間くらいかかるそうだ。沙羅が驚いたことに、東鶯邸には車があり、専属の運転手が雇われていた。楠乃瀬の家は相当裕福なようだ。

 壬堂の家の電話を勝手に使ってしまったと雪斗は詫びていたが、恐縮すべきはもちろん沙羅の方だ。高価な乗り物に、ずぶ濡れのまま乗せられたと聞いたときは申し訳なさで身が縮こまった。もっとも楠乃瀬家の人々は気にした素振りもなく、それが沙羅を気遣ってのことなのか、お金持ちゆえの鷹揚さなのかは測りかねた。

 一通りの事情を聞き、沙羅はその日を雪斗と多鶴の厚意に甘えて東鶯邸で過ごした。その間にも二人はいろいろと手配を進めていてくれたらしく、翌日、雪斗に送ってもらって家に戻ると、楠乃瀬家に雇われたという人が何人も来て風雨で荒れた屋敷を片付けてくれた。雪斗は葬儀の段取りまで整えてくれて、いくらなんでも甘えすぎだと沙羅は恐縮したが、恩を返す機会だからと雪斗は押し切った。

 婚約しただけの相手にここまでしてもらって申し訳ないと負い目を感じていたら、頼ってもいいのだと雪斗から優しく言われ、沙羅は不覚にもどきりとした。その後で「沙羅さんはまだ子供なんだから、大人を頼っていいんだよ」と言われたことで何とも言えない気持ちになったのだが。

 だが、庇護者の存在は確かに有難かった。芙美の喪失を思いきり悲しむことができたし、葬儀という危険な場を幽世の方に引きずられることなく――参列者を巻き込むことなく――乗り切ることができた。沙羅ひとりだったら無事には済まなかっただろう。今更ながら、雪斗がいなければ自分はどうしていたのだろうと沙羅は考え込んだ。

 芙美が沙羅の婚約を勝手に整えたのは、沙羅が頼りないからなのか、そして、それとも……

 沙羅の思考をよそに葬儀は終わり――同時に雪斗が沙羅の婚約者としてお披露目されたような形にもなってしまい――、方々からやってきた客を相手に、芙美が受けた依頼の引き継げるものは引き継いだり、無理なものは心当たりを紹介したりお金で話をつけたりと慌しく過ごし、気付けば梅雨が終わっていた。森の緑がいっそう眩しくなる季節だ。

 そして二人は今日、薬草を採取するために上ノ杜の奥の方へ来ていた。すでに背立山の裾野あたりだ。

「…………」

「……沙羅さん? 何か?」

 じっと見上げると、視線に気付いて雪斗が首を傾げた。沙羅の身長は平均的だが、雪斗は背が高い方だ。しぜん見上げる形になるのだが、身長差や年齢差が何だか悔しくて、視線がじっとりしてしまう。梅雨も終わったというのに。

「……いえ、特には。ただ、雪斗さまがすっかり壬堂家の婿のように扱われてしまっていて、大丈夫なのかしらと思ってしまって」

 婚約は受け入れたが、形だけのものと思っていた。沙羅には結婚できない理由があるのだし、雪斗とて婚姻まで望んでいるかどうかはっきりしない。してもいい、くらいは思っていそうだが、どうなのだろうか。

「楠乃瀬のおうちに、迷惑になっていなければいいのだけれど……」

 忙しさにかまけて、挨拶さえ欠いているのだ。芙美の整えた婚約の非常識ぶりに、沙羅は何度目になるか分からない溜息をついた。

 そもそも、楠乃瀬は名のある裕福な家だ。いくら次男とはいえ婿に出すような形になっていいものだろうか。沙羅が疑問を述べると雪斗はあっさりと頷いた。

「父も母も歓迎していますよ。僕のことを心配していましたから。家は兄が継ぐから、僕は家を出てもいいと」

「…………」

 客観的に見れば、雪斗はかなりの好条件を備えているだろう。幽世と関わりのある者であることは措いておいて、資産はあるが跡継ぎではなく、容姿がよく、性格も穏やかで優しい。

(わたくしに関わらなければ、この人にはふさわしい良縁があると思うのに……)

 沙羅の思考などもちろん知るよしもなく、雪斗はあたりを見回して言った。

「このあたりはもう背立山ですが……沙羅さんはよく来られるのですか?」

「ええ。少し登ることも多いのですが、今日はこのあたりの森で見つかる分だけ採ろうと思って」

 これから夏が本格的にやってくる。食べ物を傷みにくくするものや、消化を助けるもの、食あたりに効くもの、暑気あたりに効くもの……調味料や薬の材料になるものを優先的に採取しておきたい。

 慣れた手つきで薬草を同定し、芽や葉を摘み、枝を伐る沙羅を感心するような目つきで見ている雪斗は、もっぱら荷物持ちになっている。鎌や鋏といった採取道具、薬草を入れる籠、笊、紙包みなどだ。根を採取する予定はないと言いながら円匙なども用意した沙羅に雪斗は不思議そうな顔をしたが、もしかしたら使うかもしれないから、と沙羅に言われるままに袋の奥の方に仕舞った。

 雪斗は薬種商として薬に通じているが、実際に生えている薬草を見分けて採取する機会はあまり無いのだそうだ。

 とくに近年は洋薬の売れ行きがよく、そうした薬についての学びや、外国の人との交渉の比重が高まっているらしい。

「山道からはけっこう離れていますが……沙羅さんはいつも一人で?」

「ええ。おばあさまと来ることもありましたけれど、わたくし一人で用が済むときは」

 屈み込み、株の根元をかき分けて色を確認し、種類を同定しながら沙羅は答える。

 背立山は劫背連山の中でも人里に近い山だから、近隣の人が春には山菜採り、秋には茸狩りにと、なにかと来る機会の多いところだ。

 何気なく沙羅が話すと、雪斗も頷いた。

「たしかに劫背連山の中でいちばん親しまれているし、昔からの言い伝えも多いですよね。昔は背無山(せなしやま)と呼ばれていたのだとか」

「……ええ」

 頷きながら、沙羅の脳裏を疑いが過ぎる。

 芙美がこの婚約を整えたのは、やっぱり……


 そのとき、りん、と小さく鈴が鳴った。〈音無しの鈴〉の音だ。

 雪斗がはっとして眼鏡を外した。屈み込んでいた沙羅は、手元に時ならぬ霜柱が立ち上がっているのに気付き、そこから目を離さないまま、雪斗に声をかけた。

「雪斗さま。円匙を出していただけますか」

 雪斗が袋の底を探り、円匙を取り出す。礼を言ってそれを受け取ると、沙羅は霜柱を剥がすように、地面を掘り始めた。

 雪斗は目を瞠って沙羅の手元を見つめる。沙羅が慎重に掘り出したものをみて、雪斗は息を呑んだ。

「沙羅さん、それは……」

「霜の下(しも)にある、雪の花……おばあさまは〈白雪花〉(はくせつか)と呼んでいました」

 沙羅は掬い上げたそれを軽く擦り、土を落とした。霜柱の根として大きく育っていたそれは、先端が雪の結晶のように六方に分かれていた。有機的な印象はなく、霜柱と同質の筋が走り、見るからに脆そうな見かけをしている。

「……立ち上がった霜柱の下が凍り付いていたとしても、そんな形にはならないはず……」

「ええ。これは幽世のものですから」

 いつしか二人の足元は、初夏の山のそれではなかった。下草は枯れ落ち、冷たい土には這い回る虫の気配もない。

 沙羅は〈白雪花〉を布に包み、大切に籠に仕舞った。

「これ自体に薬効はないのですが、薬を作るときに混ぜておくと長持ちするものが出来るのです。凍らせた食材のように」

「……たしかに、芙美さんから仕入れた呪薬のなかには、期限が非常に長いものもありました。売るときに説明がしにくいけれど、薬効は確かでした」

「確かに、説明には困りますね」

 沙羅は少し笑い、着物の裾を払って立ち上がった。空から雪が舞い落ちてくる。雪斗は睫毛に止まった雪に目を細めたが、擦って取れたそれが雪片ではなく花片なのを見て目を見開いた。

 その様子に思いついて、沙羅は〈白雪花〉を入れた布包みを雪斗に渡した。

「持っていていただけますか? 雪斗さまに持っていただけると、すごく有難いのですが」

「もちろん、構いませんが……」

 何気なく受け取り、雪斗ははっとした。

「触れられる……!? 僕の異能は『見る』だけのものだったはずですが……そうか、ここが既に幽世だからか……」

 現世にあっては「見る」だけであっても、幽世で魂が剥き出しになってしまうと、聞こえ、感じ、味わうことができる。そして、やがては――身体を、忘れてしまう。

 軽く小さな包みを、雪斗はこわごわと見つめている。

 空いた手で、沙羅は雪斗の髪に手を伸ばした。花片を摘み取ると、それは沙羅の指の間で溶けて滴になった。雪斗が目を瞠る。

 雪斗がまだ半ば現世に立っているからだ。定型の世界にいる彼に〈白雪花〉を渡せられれば、形が固定される。

「花片は現世の背立山のものでしょう。それが幽世で雪として融けた。幽世では存在が形を変え、あやふやになり、ときに消えてしまう。呪薬の材料を採取するとき、じつは、いちばん大変なのは持ち帰ることなのです。昔話にもありますよね、金銀財宝を貰って、帰って見てみれば木の葉や石ころで、ああ狐にだまされたのだ――なんていうことが」

 楽しげに言う沙羅が危うく見えたのだろうか、雪斗は沙羅の手首を掴んだ。力は加減されていたが、離すつもりがないらしく、しっかり掴んでいる。

「雪斗さま?」

 物も言わずに雪斗は歩き出した。手を引かれ、強引さに困惑しながら沙羅も後に続く。

 鈴の音が小さくなっていく。辺りの景色がすっかり夏山のそれになり、鈴の音が消えたあたりで、雪斗は沙羅の手を放して眼鏡をかけ直し、深く息をついた。

「沙羅さん……驚かせないでほしい。本当に、君は……」

 当たり前のように幽世へと踏み入ったことに驚いたのだろう。わざとではないが、申し訳ない。

「やっぱり……婚約はやめにしますか?」

「しません。それに、君はそれを狙ったわけでもないでしょう。そのくらいは分かります」

 少し不機嫌そうな口調で雪斗は応える。さらに怒らせるだろうかと思ったが、やはり気になるので、沙羅は〈白雪花〉を出してくれるように雪斗に頼んだ。雪斗はとくに嫌そうな顔もせず、籠から包みを取り出す。

 お礼を言って木陰に移動し、沙羅は包みを開いた。覗き込む二人の前で、先が六方に分かれた形の〈白雪花〉が、そのままの形で姿を現した。沙羅はほっと息をつく。壊れていなくてよかった。

 ひっくり返すと、雪斗が感嘆の声を上げた。〈白雪花〉はその名の通り、雪が凝って花の形を取ったかのような見かけをしている。外側は霜柱と同様に透明で、内側になるにしたがって白が濃さを増していく。六方に分かれて根と見えた部分は、逆さに見ればがくの部分だった。

「根ではなかったんですね……」

「養分を吸い取る部分ではなくて、むしろ逆ですね。この花は空の雪を養分として咲くものだそうです」

「幽世のものは本当に不思議ですね……。しかし、壊れていなくてよかった。もっと柔らかい布で包みなおしますか?」

 不思議な形の花に見とれながら、雪斗は提案する。沙羅は首を振った。

「たしかに貴重なものですが、少しくらい欠けたりしても使うときに困りはしません。そうではなくて、〈白雪花〉が〈白雪花〉のまま持ち帰れたかどうかが気にかかって」

「それは……持ち帰ったら木の葉や石ころだったかもしれない、とか?」

「ええ。単なる氷になっていることが多くて。でも大丈夫、そのままの形で持ち帰れたから、もう溶けないはず」

 沙羅は言って、〈白雪花〉を包み直した。自分の持っている袋に仕舞う。雪斗は持とうと言ってくれたが、このくらいなら採取の邪魔にもならない。

 沙羅は少しためらい、雪斗に提案しようとした。

「家におばさまの残した書きつけがあるのです。こういう特殊なものの……」

 そこまで言いかけて、雪斗が近くに群れ咲いている百合に気を取られているのに気付いた。強い芳香が漂っており、大ぶりの花が白々と夏山の緑に映えている。

「……沙羅さんのお母様の花ですね」

「……ええ」

 沙羅の母親、百合(ゆり)は、芙美の一人娘だ。芙美を恩師と慕うからには、とうぜん百合のことも知っているだろう。花を見て連想したらしい。

「百合さんは……」

 何を言われるだろう、と沙羅は身を固くした。しかし雪斗は躊躇ったのちに打ち消した。

「いや……何でもありません」

 沙羅にも、それ以上この話を続ける理由がない。二人は微妙な距離を保ったまま、夏の山を歩いていった。


「ああ、嬢ちゃん。帰ったか」

「巌(いわお)さん、ただいま。何かあったの?」

 雪斗を伴って壬堂の家に戻った沙羅を出迎えたのは、屋敷の通いの手伝いの一人、普段は農家をしている巌だった。老年の男性で、芙美の昔からの知り合いだ。近所に住んでいるため家の内外で顔を合わせる機会が多く、半ば家族のような存在だ。

「ん、ああ。うちのが腰痛を起こしてな。湿布をくれんか」

「用意しておくわ。それで?」

 まだ何かあるでしょう、と問えば、巌は気まずげに指で無精髭の頬をかいた。湿布のためだけにわざわざ沙羅の帰りを待つ必要がないのは明らかだ。いつでも会えるのだし、湿布がそこまでの急用だとも思えない。

「あー……千和(せんわ)さんとこの倅がな、その……今年の米の出来を予想してほしいと……」

 沙羅は少し困った顔をした。そういった予想――嵐の時期や気候の変化まで含めて――は芙美が得意としていたが、沙羅にはできない。黒須平で一番の地主である千和家の者ならそのことを知っているはずだ。その上で言ってきているのなら、よほど困っているか、もしくは嫌がらせだ。巌の困り顔を見れば答えは考えなくても分かる。

「……巌さん? 他に何て言われたの?」

「……祝言も上げずに男を連れ込んで、その、ふしだらだと……だから予知や何かができないのだと……」

 沙羅は溜息をついた。異性との関わりが霊能に影響しないとは言わないが、この場合は関係ない。芙美は結婚前も結婚後も予知ができたし、沙羅はからきしだ。単なる個人差で、言いがかりに過ぎない。

 ふしだら云々についても言いたいことはあるが、婚約者とはいえ結婚もしていない相手と暮らしているのは確かだ。通いとはいえ巌たちがいるから、二人暮らしという意識はなかったのだが。

 一応、男女間で問題になる様々なことに対応する術や薬も扱っているから、沙羅もそれなりの知識はある。実践が伴っていないのは確かだが、効能については自信を持っている。強制的に相手の気持ちを変えたりその気にさせたりするものは扱わないが――無いとは言わないが依頼主が圧し潰されるほどの代償が必要とされる――、依頼主の魅力を強める香りを調合したり、逆にそうした誘惑に抵抗する力を強める術をかけたり、望まない妊娠に医師とは違った立場から対策を与えたり、そうした仕事もある。

「千和とは、葬儀のときに大勢で来ていた一家ですね? 身なりが特に良かったから覚えています。倅というのは……たしか二十くらいの若者ではなかったかな? 少し日に焼けて、目つきの鋭い……」

「ええ、たぶん雪斗さまがおっしゃる方だと思います」

 千和の家に息子は三人いるが、上の二人は結婚して一家を構えている。倅というのは三男の隼人を指す。沙羅よりも五つ上で、二十二歳だ。

「僕のせいで沙羅さんに不愉快な噂が立つのは申し訳ないですね。かといって離れることもできないし……実家の力を借りるべきところかな?」

 雪斗の表情になんだか不穏なものを感じて、沙羅は慌てて止めた。

「待って、わたくしは気にしていませんから大丈夫。だいたい、夜這いが珍しくない中で祝言を上げないからどうこうなんて、言われる筋合いないもの」

「夜這い!?」

 沙羅の言葉に、雪斗はぎょっとした。京の人はそうした田舎の風習には馴染みがないのだろう。

「いや、ええと……そういうのものだと納得はできるけれど……沙羅さんも?」

「いいえ、うちは無縁でした。多分おばあさまが何かしてくださっていたのだとは思いますが……夜這いでも盗みでも何でも、客としてではなく壬堂家に行くと、化かされてひどい目に遭うと噂されているみたいで」

「ああ……幻術で目くらましとか、芙美さんは得意だったものね……」

 何を思い出したのか、雪斗が遠い目をする。巌は沈黙を守っているが、無言の同意を感じる。

「ともかく、わたくしのことはいいの。雪斗さまも巻き込んでしまって申し訳ないのですが……」

「僕の方こそ、どうでもいいことです。しかしそうか、婚約者として近くにいるだけでは、幽世のことはともかく、現世のことからは沙羅さんを守れないのか……」

「あの、雪斗さま? 充分、よくしていただいていますから……」

 葬儀のことをはじめ、雪斗には本当にいろいろと助けられている。彼が芙美に感じているという恩がどれくらいのものか分からないが、下手をすれば借りが貸しに傾くのではないか。

 婚約とは一時的な状態だ。前提に結婚があり、成るにせよ破れるにせよ、いずれ終わるものだ。沙羅は結婚するわけにはいかないから、雪斗が納得したら破談にしようと思っている。

(わたくしが不安定でなくなって、手を放しても幽世に消えないと納得してもらえれば……それか、おばあさまへの恩を返し終えたと思ってもらえれば……あるいは、わたくしに愛想を尽かすことになったら……)

 この婚約は解消になる。沙羅はそう思っているのだが、雪斗の真意が分からない。彼が何かを抱えていることは分かるのだが、それが何なのか、まったく見当がつかない。

 腕組みした雪斗と、そんな雪斗を見上げる沙羅の様子に、巌はぼやくように言った。

「……壬堂の婿取りは毎回毎回、普通には進まんな……」

 沙羅は苦笑いした。巌は祖母の結婚も、曾祖母の結婚も知っているのだ。べつに女系の家というわけでもないのだが、曾祖母の代から女性の当主が三代つづいている。当主にならなかった百合も含めれば女性が四代だ。一応、そういうことになっている。

 祖母の婿取りについては大騒動があったそうで、巌が酒を飲みながら当の芙美に当時の苦労を訴えていたのを何度も見たことがある。芙美はすげなくあしらっていたが。祖父が他界して長いが、祖母はいつまでも祖父を大切に思っていた。

「芙美さんの時のことは、少し聞いていますが……百合さんは?」

 雪斗の問いに、巌は分かりやすく顔をしかめた。しまった、という表情だ。雪斗はなおも問う。

「気になっていたんです。僕が芙美さんのもとを離れて、遠方の山で修行をしていた頃のことですから。戻ってきたら沙羅さんが生まれていて、百合さんがいなくなっていて……」

 沙羅は少し驚いた。雪斗とはあの雨の夜が初対面だと思っていたが、面識――と呼べるほどではないが――があったのか。

 母の百合は、沙羅が生まれるのと同時に現世を去っている。父のことも、雪斗は――巌も――知らないはずだ。


「俺は知らん。名乗り出た者はおらんし、婚礼の類も一切なかった」

 ぶっきらぼうに言い、作業があるから、と巌は背を向けた。雪斗は面食らったように巌を見送り、沙羅に目を向ける。沙羅は口をつぐんだ。

「……すみません。不幸があったばかりだというのに、配慮が足りませんでした。詮索して申し訳ない」

「いえ……。婚約者として壬堂に関わってくださっているのだから、家のことについて説明を求めるのは当然のこと。義理を欠いているのはこちら、なのですが……」

 沙羅は言葉を濁した。心の中で芙美に恨み言を言う。

(おばあさま……どう説明しろと……)

 そもそも、雪斗は何も聞いていないだろう。同居を始めてからの言動から推測するに。

「おかあさまは未婚のまま、わたくしが生まれました。父親については、とうぜん説明しなければならないのですが……おばあさまからは聞いておられないのですよね?」

 雪斗は頷いた。

「借金を抱える縁者がいたり、問題のある家系であったり、そうしたことは一切ない、とだけ……」

「ええ……。それは確かです」

 祖母は嘘をついていない。そうした世間並みの問題については、本当にいっさい心配いらない。だが、問題はそこではないのだ。――どこまで説明していいものか。

「………………」

「いや、無理に聞こうというつもりはないのです。話してもいいと思ってくれたら、そのときに聞かせてください」

 言葉を探しあぐねる沙羅に、雪斗が助け舟を出した。

「……ごめんなさい」

 きっと雪斗は分かっている。沙羅の父について話せないのは――雪斗を信用していないからだと。

 泣きそうな顔で見上げる沙羅に、雪斗は苦笑した。

「ゆっくり待ちますから。それに……」

 隠し事はお互い様だから、と雪斗が呟いたような気がしたのは――気のせいだっただろうか。


 壬堂の家の表玄関は広く開かれ、店としての体裁が整っている。段差のない土間に白木の長椅子が何脚も用意され、壁際の棚には商品が陳列されたり抽斗に仕舞われたりしている。卓や甕なども並んでいる。

 奥の方は一段高くなっており、その上り口を半ば遮るように、年季が入って黒光りする木の台が据えられていた。勘定や、ちょっとした作業の用に足るくらいの広さがある。奥の方にも売り物やら書きつけやらが仕舞われた棚が作りつけられており、広さの割に手狭な印象を与えた。

 雪斗の婚約者になったからといって、沙羅のやることは変わらない。住まいを移すつもりもない。今日も沙羅は店に立ち、訪ねてきた客の相手をしていた。

「咳で喉が痛い、ですか。でしたら、これとか、これとか……」

 客の状況と要望を聞き、粉状のもの、丸薬、水薬、いろいろな薬を卓に並べていく。客の女性は困った顔をした。

「壬堂さんの見立てだもの、効果は疑ってないけど……どれにしたらいいのかしら。小さい子供にも飲みやすいものってどれ?」

「小さいお子様でしたら、人参が入っているこれは苦手かもしれませんね。粉薬も飲みにくいでしょう。湯に溶かすものとか……」

 思案する沙羅に、後ろから見守っていた雪斗が声をかけた。

「咳止めの飴ならどうです? うちから持ってきたものが何種類かあったはず。喉も保護してくれますし」

「そうですね、飴なら子供に喜ばれそうです。たしかこっちの棚に……」

 瓶入りの飴を持ってきて示すと、女性は値段を見てほっとしたように頷いた。

「思ったより安いのね。いただくわ。ええと、いくつ必要かしら……」

 会計を済ませて袋を受け取り、女性は満足した様子で帰っていった。沙羅はそれを見送り、雪斗を振り返った。

「助け舟をありがとうございます。……それにしても、商売上手でいらっしゃいますね?」

 雪斗は苦笑した。

「割り込んですみません。まだ、ここの商品はあまり把握していなくて。喉飴ならうちでも扱っていますし」

「いえ、言ってみただけです。うちでも薬は扱っていますが、楠乃屋さんの規模とは比較になりませんし」

 まじないと薬は切っても切り離せないし、他所では手に入らない特殊な呪薬もあるが、一般的な薬を幅広く扱う楠乃屋とは勝負にならない。芙美がしていたように店の商品を売り、依頼を受け、まじない師としての仕事を引き継ごうとしているが、沙羅は芙美ほど特化された能力――人探しとか、予知とか――を持たない。方向性を模索中だ。

「婚姻関係を前提としなくても、楠乃屋との提携を考えてみませんか? お力になれると思いますよ。ここでうちの薬を売ってもらえるなら、材料の買取価格も高くできますし」

「それは魅力的な提案ですが……少し考えさせていただければ」

 外堀が埋まっていくような危機感を覚えて、沙羅は返答を保留した。

(おばあさまみたいにあちこちに呼ばれてまじないをするよりも、わたくしは店を軸にした方がいいかもしれない……)

 芙美のような行動力がなく、人間関係を保つのにも苦労しそうな自分は、拠点からあまり動かない方がやりやすいかもしれない。

(薬の他にも売れるものはあるわ。わたくしは機織りや刺繍、組紐などの手仕事ができるから、小物にまじないをかけて売るのに力を入れてもいい。そうなると、材料の仕入れは……)

 いつの間にか具体的な工夫を考えている自分に気付いて、沙羅は少し驚いた。小さい頃から芙美の手伝いをし、そうした生活をずっと続けていくのだろうと漠然と思っていた。そこに自分の創意工夫など入る余地はなかったし、芙美に出来て沙羅に出来ないことはあっても、その逆はなかった。芙美の跡を継ぐ、役目を引き継ぐ以上のことを考えることなどなかったのだ。

 そもそも沙羅は、芙美を失ってなお自分の人生が続いていくとは思っていなかった。自分を現世に繋ぎ止めていた祖母がいなくなる時、自分もまた幽世に還ってしまうのだろうと。

 だが、沙羅はこうして生きている。いまだ不確かだが、歩いていこうとしている。こうしていられるのも、雪斗が助けてくれて、今もここに居てくれているおかげで――


「ところで雪斗さま。わたくし、お店を中心におばあさまの跡を継ぐことを考えているのですが……」

 休憩中に縁側でお茶を飲みながら、沙羅は雪斗に思い付きを話してみた。薄雲が夏の日差しを遮り、風が通って気持ちがいい。

 今日のお茶は摘んできたばかりの新鮮な葉を使った薄荷茶だ。手近なところに植えればいつでも飲めて便利なのだが、薄荷はうっかりすると他の植物を駆逐して蔓延ってしまうので、注意が必要だ。

「なるほどね。芙美さんは昔、あちこちを旅しながらまじない師としての技を使っていたそうだけど、沙羅さんはここで店を継ぐということですね」

 店のことなら教えられるよ、と雪斗が言ってくれるのが心強い。沙羅は京に行ったことがなく、楠乃屋を直接目にしたこともないのだが、支店をいくつも構える大店であることは知っている。薬の材料を買い付けに来たりする関係者も、やり手である印象を受けた。

「薬や、小物ですか……」

 沙羅の話を聞き、そういえば、と雪斗は眼鏡を外してそれを示した。

「これ、芙美さんにまじないをかけてもらった物なんです。他の眼鏡で代用できないことはないのですが、効力が違います。大切に使っています」

「そういえば特別なものでしたね。これに、おばあさまが……」

 瀟洒な造りだが、取り立てて変わったものには見えない。尤も、沙羅には幽世のものと現世のものの区別がつかないから、普通に見たら違うのかもしれない。

「〈音無しの鈴〉や〈みたまの緒〉と比べてしまうと分かりにくいですが、これも立派なまじないものです。ほとんど僕専用みたいなものですが。芙美さんが一から作ったわけではなく、買ってきたものに意味付けをして、まじないを施してくれました」

 興味深い話だ。参考になるかもしれない。沙羅は身を乗り出して眼鏡をじっくりと見る。

「どんな意味付けを?」

「眼鏡は視界を明らかにするものであると同時に、視界を遮るものでもあります。その両義性が、見えるはずのないものを見てしまう僕には助けになりました。『見える』と『見えない』を入れ替える、ということですね。袖のぞきとか股のぞきも同じ意味合いを持っています」

「それって、名所で行う……天橋立の絵葉書を見たことがあります」

 着物姿の女性が袂のかげから、あるいは洋装の男性が体を折って足の間から、砂州を覗き込んでいるものだ。そうすると、砂州がまるで天上に続く橋のように見えるのだとか。

「……そういえば、おばあさまから聞いたことがあります。隠しながら見る行いは、幽世を垣間見ることに繋がると……」

 雪斗の眼鏡はきっと、そうした幽世に関わる理を応用して意味付けられたものだ。見上げた沙羅に、雪斗は頷いた。

「天橋立が有名ですが、観光名所でなくても行われますよ。化かされるのを防ぎたいときなどに。……ああ、沙羅さんは試さないでくださいね。普通の人なら幻想を垣間見るだけでしょうけれど、沙羅さんだと洒落になりませんので」

 雪斗は苦笑の中にも真剣な色を混ぜて忠告した。沙羅も大人しく頷く。

「股のぞきは股眼鏡とも呼ばれる通り、『見る』方法の一つなのです。沙羅さんには必要ないですが……。僕も芙美さんから教わりました」

「そういえば、おばあさまが残した書き付けの中にもありましたね」

 もしかして、と沙羅は思う。雪斗が芙美のもとで学んだのは、沙羅が生まれる少し前のはずだ。

 雪斗は遠方の山でも修行を積んだということだが、その前にある程度のことを芙美から教わっていたはずだ。今の沙羅よりも年少の頃だったと思うのだが、素直にすごいと思う。

(霊能は子供の方が強く出るものだし、小さいころから修行が必要なのはそうなのだけど……)

 芙美は厳格な師というわけではなかったが、ある種の厳しさはあった。子供だからといって甘やかすこともしなかっただろう。幽世に――魂が剥き出しになってしまう世界に――関わってしまう子供であれば、甘やかしは当人のためにならないのだから。

 雪斗はもちろんそれを理解していただろう。そうでなければ芙美を恩師と呼ばないし、こうして無事に成長できたかどうかも怪しい。

 だが、つらくなかったわけではないだろう。親兄弟から引き離されて、裕福な家庭でぬくぬくと可愛がられる暮らしから一転して勉学と修行を強いられ、理不尽だと叫びたくなることもあっただろう。普通、そうした状況で助けを求めたくなるのは母親に対してだろうが……雪斗にも何か、心のよりどころがあったのだろうか。沙羅はぼんやりとそんなことを考えた。

(そういえば。知識の伝授について……)

「あの、雪斗さま。おばあさまから、何か……壬堂のことについては……? この家のことについて、何か……」

 沙羅は慎重に尋ねた。雪斗は思い出すように眉根を寄せたが、ややあって首を振る。

「教えを受けたのは、一般的な……と言っていいか分からないですが、そういう知識だけだったと思います。その中にもしかしたら、壬堂家だけが伝えてきた知識が含まれていないとも言い切れないですが……とくに口外を止められる知識を教わったことはありませんね」

「そう……」

「……あの、沙羅さん。僕が壬堂にふさわしくないと……?」

 雪斗がおそるおそるといったように言う。

「違います! むしろ逆で……」

 勢い込んで否定してから、沙羅は途中で言葉に詰まった。雪斗は面食らったように問う。

「ええと、それは……僕を認めてくれた、って認識でいいのでしょうか?」

「え……?」

 自分の発言を思い返し、沙羅は頬を赤くした。

「あ……違うんです、そういうわけじゃ……」

 焦って弁解を始めるが、雪斗が意地悪げな表情をしているのに気付き、沙羅は言葉を止めた。

「ええ。そういう意味ではないことは分かっています。言ってみただけです」

 揶揄われたのだ。沙羅は先程とは違う理由で頬を染めた。

 しかし、やられっぱなしは悔しい。沙羅は反撃を試みた。

「雪斗さまこそ……本当に、わたくしと結婚したいと思っていらっしゃるのですか?」


 雪斗は目を見開いた。

 言葉にしてしまってから、沙羅ははっとした。雪斗は沙羅と婚約をしてくれたが、実際に結婚するところまで考えているかどうか、実のところかなり疑問に思っていたのだ。そうした現実的で実際的な関係に踏み込むには、自分たちはあまりに浮世離れしている。沙羅にもそのくらいの自覚はあった。

 それを言葉にしてしまった。しかし、出した言葉は引っ込められない。

「それは、もちろん……」

「『したい』ではなく、『してもいい』ではありませんか? わたくしを現世に引き留めて、おばあさまへの義理を果たすこと……それだけなら婚約で充分なはずでは」

「…………」

「詮索するつもりはないのですが……こういうややこしいお話を抜きにして、結婚したいと思われた方がいらっしゃったりしませんか……?」

「…………!」

 雪斗は表情をわずかに崩した。抑えようとしている動揺が伝わってくる。やっぱり、と沙羅は――なぜか少しの落胆とともに――思った。

 雪斗は二十九歳。婚約話の一つや二つは出ていて当然の年齢だし立場だ。幽世を見てしまう厄介な霊能も眼鏡と彼の努力で抑えられているようだし、普通の結婚を望めば出来なくはないだろうと思う。相手や生まれる子供を幽世の危険にさらしてしまう可能性があるが、どうしてもと望む相手がいるなら守る手段を必死に探すだろう。

 だが、彼は、それをしない。誰か心に思う人がいそうなのに、沙羅との婚約を――恋情ではなく、義理からだけでもなく――続けようとしている。

(雪斗さまは、本当に……いったいどんな動機でわたくしとの婚約を続けたがっていらっしゃるのだろう。わたくしを好いてもいないのに……)

 好き合って結婚する者ばかりではないことは分かっている。お見合いなどはその最たるものだ。だが、それにしたって、結婚後の展望というものがあるはずだ。沙羅は自分が雪斗の妻として生きていくことが想像できないし、おそらくは雪斗の方も同じではないかと思う。

(わたくしたちの関係は、歪ね……)

 沙羅は思う。そもそも、婚約者として最初から普通に紹介されていたら、今のように一緒に暮らしていたかどうか。あの雨の夜の口付けで、全部がなしくずしに決まってしまったような気がする。命の恩人なのだし、口付けひとつで責任を取れなどという気はないが……釈然としない。当人たちの気持ちをよそに枠組みだけが出来上がってしまっていた、というような。

 それぞれが考えに沈み、薄荷茶の香りだけが流れる。半ば無意識に、沙羅は盆に手を伸ばしてお茶請けの干菓子を口に入れた。ほろりと口の中でほどける甘さが――妙に味気ない。

「沙羅さん……」

 雪斗が何かを言おうとした。だが、表の方から客らしき人の声がして休憩時間が唐突に終わった。

「お待たせするわけにはいきませんし、休憩は終わりですね」

 続きを聞きたかったような、聞きたくなかったような思いをお茶とともに飲み下して、沙羅は席を立った。


 今年の夏は例年にも増して暑く、黒須平でも暑気あたりで倒れる者が続出した。

 薬師の代わりをしたり、楠乃屋から各種の薬を取り寄せて売ったり、飲み物や食べ物を傷みにくくするまじないをかけたり、水が行き届かない田圃の水脈の様子を見たり、沙羅は忙しく立ち働いた。お盆の時期も休むどころか仕事が増える一方で、初盆だというのに芙美を偲ぶ時間もろくに取れないくらいだった。

 もっとも、それは却って良かったのかもしれない。沙羅が物思いに沈むなら――沈み込む先は幽世だ。たやすくあちら側に引っ張られてしまう。現世の忙しさは確かに沙羅の身を救っていた。

 とはいえ、沙羅は特に体が丈夫というわけではない。心を保つために忙しさに逃げれば体の方が参ってしまう。そんな沙羅を支えたのが雪斗で、ときに窘められて休息を取ることもあった。その諭し方が、いかにも大人が子供に対するときのそれで、沙羅の心はその度に別の意味で波立ったのだが。

 ただ、その雪斗も雪斗で忙しく、楠乃屋に呼び戻されたりもしていた。大店とはいえ呪薬を扱える者が少なく、京は人が多いうえに盆地という地形もあり、猛暑の影響は黒須平の比ではないらしかった。


 暑さも忙しさも盛りを過ぎた八月の下旬、客が捌けて早めに店じまいをした夕方、二人は左陣川の河原を歩きながら上ノ杜に向かっていた。京から走りの秋野菜がいろいろ送られてきたから、地産の獣肉と合わせて精の付く料理を作ると多鶴から晩餐に招かれたのだ。暑さで落ちた体力を回復するためと、精進落としも兼ねて、ということだ。

 四十九日を過ぎたあたりでちょうどお盆が来たのだが、沙羅はその期間、厳密に肉や魚を断っていたわけではない。鰹出汁は普段から口にしていたし、煮干しなどの干物も料理に使っていた。ただ、新鮮な魚介や肉などはなんとなく避けていた。暑かったからというのもあるが、食べたいと思わなかったのだ。

 仏教系の祈祷師などには厳に肉や魚を断つ者もいるそうだが、芙美や沙羅はそうした立場ではなかった。だから実体験としては知らないのだが――そうした食生活にせずとも沙羅は幽世のものを見聞きしてしまう――、芙美の知り合いに聞いた話だと、動物性のものを食べると「気が濁る」のだそうだ。精神を研ぎ澄ませるにあたって邪魔になり、肉体が鈍重に感じられるそうだ。

 肉や魚どころか穀物まで断つ木食の者もいるが、動物の命に加えて、主食として人の命を支えてきた穀物を断つことでより自然に近づき、肉体の軛を逃れやすくする。そう考えると沙羅はむしろ動物性のものを食べた方がよさそうだが、無理をするとそれはそれで歪みが出るので芙美も沙羅に強いることはなかった。

 あまり好き嫌いがなく、食べればたいてい何でも美味しいと思う、だが裏を返せば執着がなく、忙しいと食事を忘れるのが沙羅だった。


 壬堂の屋敷には通いの手伝いが何人も出入りしており、食事の支度も基本的にその人たちに任せている。沙羅も料理をしようと思えば一応できるのだが、芙美に言わせれば「とろくさい」のだそうだ。さやいんげんの筋を丁寧に取ったり鍋をかき回し続けたりしているとぼうっとして時間を忘れてしまう。さまざまなことを考え合わせて段取り良く進めていくのが苦手だ。

 作る方はそんな調子で、食べる方もたいして執着がないので、食事のことは手伝いの人たちに任せることが多い。

 以前からずっとそんな感じで、今年も何も変わっていないと思っていたので、雪斗のこの言葉に少し意表を突かれた。

「沙羅さん、素麺がお好きですか?」

「え……? ええ、好きです」

 好きというより、嫌いではないと言った方が正しい。なんでも好きだというのはなにも好きではないのと同じだろう。

 壬堂家では芙美がいた頃からの習慣で手伝いの人たちと一緒に食べるので、雪斗は最初面食らっていたが、すぐに慣れたようだ。そういえば東鶯邸では使用人の多鶴が雪斗と同じ席につくことはなかった。そちらが普通だろう。

 壬堂家の食卓では最近、素麺が出されることが多かった。誰もが多かれ少なかれ暑さにばてていたので、食べやすいものが歓迎されたのだ。

 つゆに紫蘇や茗荷や葱や生姜などの薬味をたっぷり入れたり、梅干しで香りをつけたり、辛くしてみたり、素麺はいくらでも工夫の余地があるし、飽きずに楽しめる。沙羅ももちろん毎食美味しく頂いていたのだが、その様子が雪斗の目には好んで食べているように映っていたらしい。

「他のものが食卓に出されたときよりも、箸の進みがよかったようなので。一緒に暮らす人の好きなものは知っておきたいですからね」

「え…………」

 思いがけないことを重ねて言われ、沙羅は目を丸くした。箸の進みなんて気にしたことはなかったし、気にされることがあるとも思ってみなかった。                         

 もしかして自分は素麺が他のものより余計に好きなのだろうか。そうだとして、まったく自覚がなかった。他人であるはずの雪斗がそれに先に気づいたこと、彼がそれを知りたがってくれたこと、その二つに困惑する。……悪い気分ではないが、何と言うか、思いがけない方向から見たこともない美しい鳥が飛んできたような驚きだ。

「……雪斗さまのご実家から頂いたので、余計に美味しく感じられたのかもしれません」

 楠乃瀬の人々は沙羅が雪斗の婚約者であることを歓迎してくれているらしく――沙羅のように何も知らされていなかったわけではないから、もしも嫌なら早々に破談になっていたはずだから嫌がっていないのは明白だ――時々、贈り物を頂く。素麺もそうして贈られたものの一つだ。揖保川のあたりから直接送られてきた。

「うちは向こうの方に親戚がいるからね」

 雪斗が相槌を打つ。京だけでなく近辺にも繋がりがあるようだ。当然といえば当然で、とくに驚くようなことでもないのだが、沙羅にとっては新鮮だった。芙美を亡くして他の親族もおらず、ふつりと糸が切れたようだった沙羅が、雪斗を通じて京や、その向こうまで繋がっていく。現世に繋がれていく。

(おばあさま……だからわたくしの婚約者を雪斗さまにしたのかしら……)

 裕福な薬種商の家系で、親戚も多く、地に根を張るように生きている楠乃瀬。そことの繋がりは沙羅にとって――沙羅が現世で生きるなら――非常に心強いものだ。

 それを客観的に――どこか他人事のように――考えてしまうあたりが、今の沙羅の限界だ。心強いと理性は言っていても、そんなしがらみは何の枷にもならないと本能は言う。沙羅はまだまだ、幽世に引っ張られたままだ。

「いろいろ送っていただいて……またお礼状を書きますね」

「適当でいいですよ。沙羅さんに喜んでもらえたならよかったです。沙羅さん、気を抜くと食べるのを忘れますから」

 沙羅は首をすくめた。

 食欲が薄いわけではないのだが、すこんと抜けてしまうことはある。何かを口にすると一気に空腹を思い出して、食べ過ぎてしまうこともあるから困っているのだが。

 沙羅の仕草に少し笑い、雪斗は着物の襟元を少しくつろげて風を入れた。

 このところ雪斗は和装のことが多い。彼曰く、洋装よりも風が通って涼しいのだそうだ。確かに、体にぴったりと沿わせるように裁断されて縫製された洋装は風が通りにくそうだ。沙羅は基本的にいつも和装だから、彼の洋装を見るたびに目新しく感じてしまう。

 晩餐前の運動と夕涼みを兼ねて、二人は乗り物を使わずに川べりを辿っていく。竹藪が茂るあたりにさしかかり、さらさらと鳴る葉擦れの音が耳に涼しい。音のかそけきこの夕べかも、の古歌が思い出される。

 竹藪を抜けた風が川面を渡る。細波が夕日に照り映えてあえかな虹色に輝く。ぼんやりと見つめていると、それは反射ではなく自ら光を放つ輝きに変わってきた。

 いつしか、左陣側は天の川のように星を集めた光の流れになっていた。

 地上に星の川が現出し、きらめきが流れていく。凄絶な美しさの前に言葉もなく、沙羅は息を呑んで光景に見入った。

 そっと、しかし断固として、雪斗が沙羅の肩を掴む。痛くはなかったが、沙羅ははっと我に返った。振り仰ぐと、雪斗が眼鏡を外した紫紺の瞳で沙羅を案じるように見ている。気付けば〈みたまの緒〉が振動し、〈音無しの鈴〉が鳴っていた。その鈴の音を紛れさせるように、さらさらとした現世の竹の葉擦れの音はいつしか幾千万もの小鈴が鳴り響くかのような音に変わって辺りを満たし、この世ならぬ星の夜を彩っていた。

 雪斗が手に力を込める。


 幽世に引き寄せられる沙羅を引き留めるためであることは明白で、こうも容易く揺らいでしまう沙羅を咎める言葉が今にも落ちてくるのではないか、と沙羅は心の片隅で身構えた。

 いけないことだと自分でも分かっている。沙羅の心持ちは、現世の人として生きる上で致命的とさえ言えるようなものだ。芙美はそんな沙羅を叱りこそしなかったものの――叱っても無駄だと分かっていたのだろう、芙美は合理的で割り切った性格の人だった――、歯痒さや苛立ちをいつも隠し切れていたわけでもない。

 沙羅はそのたび、自分を思う祖母の愛情に対する感謝と……正直に言ってしまえば、そうした現世のしがらみの煩わしさと厭わしさを……感じていた。家族が沙羅を現世に繋ぎとめる一方、幽世に逃げてしまいたい思いをも起こさせていた。

 雪斗は何を言うのだろう。沙羅を責める言葉か、諭す言葉か。案じる言葉か。

 しかし雪斗はそうした言葉を発さず、眼鏡を外したまま、滔々と流れ続ける星の川に眼差しを向けた。

「……綺麗だね」

「…………ええ」

 そんな雪斗に心のどこかが震えるのを感じつつ、言葉少なに沙羅は応え、しばし二人でこの世ならぬ美に見入った。


「沙羅さん、鰐の絵か写真を見たことはありますか?」

 幽世の星空の余韻が心に残るなか、歩きながら雪斗は唐突に問いかけた。沙羅は少し考えて頷く。

「写真ならあります。記紀に出てくる和邇は絵で見たことがありますが、それとは別物なのですよね。雪斗さまが仰る方の鰐はは写真で見たことがあります」

 恐ろしげな姿として描かれていて、一見しての印象は鰐と大差ないものだったが、和邇は伝説上の生き物とされているものだ。

「そうですね。和邇の正体については諸説あるみたいですが、記述の上では伝説上の生物です。一方、鰐は水辺に棲む外国の生物です。京の動物園に行けば見られますが、少なくとも現代のこの国では、自然の中には棲息していません。でも、こんな怪物がごく普通に生息している国もあるのです」

 沙羅は頷いた。聞くだに恐ろしいが、そういった場所もあるのは知っている。この国にも毒蛇や毒虫、熊などの脅威はあるのだが、鰐のそれは未知だ。

「鰐は夜目の利く生き物で、かすかな光でも捉える目は闇に赤く光るのだそうです。水の中に潜んでいる姿が昼間には見つけられなくても、夜には光を反射して煌めく赤があるから却って見つけやすいこともあると聞きます」

「漁火のようなものかしら……」

「少し似ていますね。ですが、海に棲む鰐ばかりではなく、川や池、湖に棲むものもいます」

 そして雪斗が話してくれたのは、ある画家の体験談だった。


 ――外国を訪れたその画家は、鰐の棲む湖に小舟を浮かべ、満天の星空の下、夜の中を漕ぎ出した。

 静かに櫂を沈め、ゆっくりと動かす。小舟は水面を滑るように進んでいく。

 漕ぎながら画家は、驚愕し、また感嘆していた。凪いだ湖面は星々を完璧に映し、自分がまるで宇宙の只中を漕ぎ渡っているような錯覚に陥ったからだ。上、横、下、どこを見ても星空しか見えない。櫂を漕ぐときに感じる水の抵抗だけがかろうじて、ここが湖の上なのだということを思い出させてくれるばかり。

 だが、と画家は思う。

 もしかしたらここはもう宇宙のただなかで、櫂の代わりに腕を星空の中に差し入れれば、星空のその向こう側にさえ手が届くのではないか、と。

 暴力的なまでの美しさは魂を強く揺さぶったが、画家は誘惑を振り切った。湖面に映る星々は幻で、その中には捕食者の目が紛れており、手を伸ばせばたちまちに食い千切られてしまうだろうことを辛うじて思い出したからだ。

 そして画家は考える。自然界というものは、圧倒的な美の中に危険を潜ませ、それに抗しきれずに手を伸ばしたものを餌食にすることで成り立っているのではないか、と――


「さっき幽世の星空を見たとき、僕はこの話を思い出しました。きっと幽世とは、そういうものなのだと……美しく誘惑的で……危険きわまりないものなのだと……」

 途轍もなく危険で、途方もなく魅惑的で、人間の本能の根本を揺さぶるもの。引き寄せられて迂闊に踏み込めば囚われてしまい、戻って来られなくなる致死の罠のような夢幻郷。

 そう語る雪斗の声には、紛れもない恐怖と、そして微かな憧憬があった。沙羅は思わず、自分の胸元で両手をぎゅっと握り合わせる。

「…………分かります」

 幽世はただ恐ろしいだけの場所ではない。怖気が走るほどの美しさも、そして、人間には耐えきれないほどの闇も併せ持っているのだ。それを知る者は「恐れる」だけでなく、「畏れる」のだ。

 かつてこの和国を創り給うた神々がお隠れになった世界。人々もそこから生まれ、やがては還っていく世界。この国の人々はうつそみの現世を仮宿に譬え、あるいは泡沫に譬えた。あえかに儚い一時のものとして、無窮の闇にか弱く抵抗するものとして。

 横を歩く雪斗を、沙羅はちらりと見上げた。雪斗が持つ洋燈の灯りが顔の陰影を際立たせるが、表情の細部までは見て取れない。

 見えないのだが……声に、気配に、かすかな熱を感じる。彼もまた、幽世に心惹かれているのだ。

 沙羅ほどではないが、雪斗も危うさを抱えている。そのことに胸騒ぎを感じながら、沙羅は少しだけ足取りを速めた。

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