幽世の花嫁

さざれ

雨夜の妻問

 世界を塗り替えていくかのように、激しく雨が降っている。

 雨粒が間断なく瓦屋根を叩き、屋敷にむっとするような湿気が立ち込める。時は水無月――水の月だ。

 田畑を豊かに潤し、山々の緑を育てる恵みの雨。しかしそれも、死の気配が充満した屋敷にあっては、肌に纏わりつき、振り払っても振り払いきれない淀みとなって夏の夜をいっそう陰鬱なものにしていた。

 広い屋敷に、人の気配はほとんどない。少女――沙羅(さら)は、息をひそめるようにして、今しも死出の旅に立とうとしている祖母を見守っていた。

 物が多く、人の出入りもある屋敷であるから、普段は通いの手伝いを何人も雇っている。だが沙羅は、数日前から全員に暇を出していた。屋敷にいるのは沙羅と、祖母の芙美(ふみ)だけだ。

 芙美は数か月前、病に倒れた。ここ数日などは床から起き上がることもできない。

 沙羅は多少、薬などの知識はある。しかし医師ではなく、薬師を名乗れるほどでもなく、看護の技も経験も持たない。芙美の病が伝染するものではないと医師から診断が下された後、伝染しないのだから人の手を借りることに躊躇う理由はないだろう、芙美さんにはお世話になったのだから、何か手伝わせてほしい――と、何人もから親身な言葉を貰った。

 しかし、沙羅は首を横に振り、言葉少なに謝絶した。芙美さんは自分が弱っているところを他人に見せたくないのだろう、他人がいると却って落ち着かないのかもしれない……などと納得して皆は引き下がったが、そんな理由ではなく……

 うつむいて芙美の病み寠れた顔を見つめていた沙羅は、不意に走った稲光にびくりと顔を上げた。灯りを最小限に絞った室内が、突如として不穏な明るさに包まれる。間を置かず、低い雷鳴が屋敷を震わせた。落雷だ。かなり近い。

 雨はいっそう強まり、風は荒れ狂う。その中に、誰かの呼び声がかすかに混ざり始める。

『――……。――――……』

 何を言っているのだろう、誰が来たのだろうと耳を澄ませ、その声が大声でもないのに風雨にかき消されずに届くのに気付き、沙羅は顔を強ばらせた。

(ああ……)

 無念とも諦念ともつかない吐息を漏らし、沙羅は静かに覚悟を固めて目を閉じた。

『――で…………。……て……い…………』

 少しずつ、少しずつ声が明瞭になってくる。近付いてくる。――気配も伴わずに。

 「その時」はもう、すぐそこだ。最後に祖母の顔を見ようと目を開いた沙羅は、芙美の目がまっすぐに自分を見据えているのに気付いて目を瞠った。瞼を動かす力もないほどに弱っていたはずの病人だが、その眼差しは沙羅をたじろがせるほど強く鋭かった。

 芙美の唇がかすかに動く。声を出すことまではできないが、彼女が何を言わんとしているのか、沙羅にははっきりと分かった。

 子供が嫌々とむずかるように、沙羅は首を振った。

「でも、おばあさま……わたくしは……」

 芙美の目に、自分が死ぬことへの恐れは微塵もなかった。強い眼差しが訴えかけるのは、ひたすらに沙羅のことだけ。諭し、叱咤するような眼差しから目を逸らし、沙羅は小さく呟いた。

「……わたくしは……」

 何を言いたいのか沙羅自身にも分からないままに零れた呟きは、轟く雷鳴にかき消された。ごく近くに落ちたらしい雷が屋敷を震わせる。

 芙美の枕元に置かれていた洋燈の火がふつりと消え、代わりのように青白い雷光が室内の様子を浮かび上がらせる。沙羅は洋燈を点け直そうと、燐寸を仕舞った逗子棚に手を伸ばしたが、棚がじっとりと湿りを帯びているのに驚いて手を引っ込めた。再び恐る恐る手を伸ばし、燐寸を手探りで探り当てたが、やはり湿っている。使い物にならない。

 逗子棚だけではなかった。気付けば畳も、おそらくは芙美の横たわる布団や細々した物なども、一様に冷たく濡れている。風雨を防ぐために部屋を中庭から隔てる引き違いの硝子戸も木戸も閉まったままなのに、夏の木々の匂いを含んだ雨の気配が、部屋の中に充満している。――明らかに、異常だ。

「おばあさま!?」

 はっとして、沙羅は芙美の手を取った。手に力を込めるが、握り返す反応はない。手首に脈を探るが、血の巡りが感じられない。口元に手をかざしても、息が通っている気配がない。

「ああ……」

 沙羅は力なく項垂れた。祖母は、旅立ってしまったのだ。

 確かめる前から、本当は分かっていた。だってこんなにも、雨の気配が――閉ざされた戸に阻まれて届かないはずの雨が――部屋を濡らしているのだから。ありえるはずのない事象、それは――

『―いで、……ら……。か……て…おい………』

 不吉な、しかしひどく誘惑的な声が、さらに近付いてくる。頭は警鐘を鳴らすのに、心は抗いがたく惹きつけられてしまう。良くないものだと分かっているのに、身を委ねれば甘美だろうと思ってしまう――幽世からの呼び声。かつて自分を生み出して、やがてはそこへ還るはずの世界からの声。

 いや、すでにここは半ば、幽世だった。

 髪を濡らし、頬に弾ける雨粒に、室内に雨が降っているという異常に気付き、沙羅は戦慄した。芙美の死によって現世と幽世とが重なり合い、沙羅をも――幽世を見聞きし、幽世に引き寄せられる魂を持つ少女をも――招き寄せようとしている。

(駄目……抗えない……)

 抗おうという気力すら持てない。唯一の肉親である芙美を亡くした沙羅には、現世に寄る辺などない。芙美は最後に視線で沙羅を叱咤し、生きろと促したが、その心に沿えそうになかった。やるべきことはある、役目がある、理性はそう判断しても、魂が言うことを聞かない。

 もともと、分かっていたのだ。不安定な沙羅は、芙美の死を乗り越えられない。一緒に、幽世へと引きずられてしまう。だからこそ手伝いの皆に暇を出し、屋敷を無人に近くしたのだ。巻き込むわけにはいかないから。

『おいで、……らへ……。か……て…おいで………』

 呼び声に誘われるまま、沙羅は立ち上がった。濡れそぼつ畳から一歩ごとに水が染み出す。体が重い。足を引きずるようにしてゆっくりと歩を進め、戸を開けて廊下に出た。板敷の廊下も濡れており、すでに水を含んだ足袋の足元が今にも滑りそうだ。着物も湿って重く、しかしそんなことで歩みは止まらない。

 風が沙羅の長い黒髪を乱し、雨が視界を遮る。もはや屋敷は家屋としての用を果たしておらず、虚空から降りしきる雨にずぶ濡れになりながら、沙羅は声に導かれるまま足を進めた。

 硝子戸を引くと、見慣れたはずの中庭は様相を一変させていた。木々の黒々とした枝が生き物のように蠢き、かと思えば茂みは風雨にも微動だにせず不気味に硬直して沈黙し、波のように闇が濃淡を変えて押し寄せてくる。

 沙羅は茫洋とした表情で虚空に右手を伸ばした。芙美の魂と一緒に、自分はこのまま幽世へと消えてしまう。戻って、こられなくなる――

 わずかな躊躇いが心にきざした瞬間、手が強く引っ張られた。

 後ろから。脇に垂らしていたはずの左手を。

「行くな!」

 切羽詰まった男性の声がして、辺りの空気がぴんと張りつめた。

 沙羅が驚いて振り返ると、見知らぬ青年が険しい表情で沙羅を見据えている。

 風が唸りを上げて青年を襲った。獲物を横取りされた獣のような獰猛さで風が吹き荒れ、青年はたまらず廊下に引き倒された。それでも沙羅の手は掴んだまま離さず、沙羅も折り重なるように倒れ込んだが、青年の体が沙羅を受け止めた。

 混乱して、沙羅は物も言えずに青年の顔を間近で見つめた。背後で稲光が閃いて、周囲を一瞬あかあかと照らし出す。

 沙羅は思わず息をのんだ。青年の瞳は不思議な、美しい紫紺の色をしていた。

 高貴な紫と夜の闇を溶かし合わせたかのような瞳が近付いてくる。吸い込まれそうだ、と沙羅は思った。

「行っては駄目だ! 君は、生きているのだから!」

 青年の言葉を理解するいとまもなく、沙羅は頭を強く引き寄せられ、青年の唇に唇を重ねていた。


 沙羅と芙美は、広いが古い屋敷に二人で暮らしていた。とは言っても通いの手伝いが何人もいた上、芙美を訪ねてくる者は引きも切らなかったので、女性の二人暮らしにありがちな心細さなどとは無縁だった。

 芙美はまじない師で、失せ物探しをしたり、作柄を占って農事についての助言をしたり、疫病の流行を言い当てて対策を講じたり、とにかく手広くいろいろなことをしていた。

 中でも得意だったのは人探しで、評判は遠くにまで届いていたらしく、何日も、ときには数十日以上をかけてはるばる芙美を訪ねてくる者もいたほどだった。

 屋敷のある黒須平(くろすだいら)は、京に続く街道に程近く、辺りは開けて豊かな田畑が広がっている。近隣にある宿場町で消費される穀物や野菜はこの一帯で獲れるものが多い。人の行き来も多く、芙美のもとに相談に訪れる者も途切れることがなかった。

 沙羅は芙美の仕事を手伝って学んだり、書物を読んだり、機を織るなどの手仕事をしたりして日々を過ごしていた。

 芙美は交友関係が広かったが、沙羅はあまり社交的な性質ではない。人に会うよりも、山に入って薬草や鉱石を採取したり、各種の記録を突き合わせて分析したり、物を作ったり、そうした作業のほうが好きだった。

 だが、そういった孤独な作業ばかりを続けようとする沙羅を、芙美はつとめて人々の側へと引き戻した。

 沙羅が芙美以外に家族を持たないから、祖母がいなくなっても社会の中で生きていけるように。それもある。年頃なのに碌な交友関係のない沙羅を心配して。それもある。

 だが、より切実な理由は、沙羅の体質にあった。

 沙羅は――幽世に近いのだ。


 人々の生きる現世と、神々がお隠れになった幽世とは、幽明の境を曖昧にしたまま連続し、重なり合い、影響を与え合っている。

 ときおり向こう側に――幽世に――迷い込む者がおり、神隠しに遭ったなどと噂される。あるいは仙境に遊んだとか、英知を得たとか、金銀財宝を持ち帰ったとか、夢のような話もある。

 芙美のまじない師としての力も、幽世に由来するものだ。芙美や沙羅の名乗る壬堂(みどう)の家は、先祖代々、そのようなあやしの力を用いて世を渡ってきた。

 その中にあっても、沙羅は特異だった。

 なにしろ、幽世のものをのべつ幕なしに見てしまう。聞いてしまう。触れて、匂いや味さえ感じて、しかもそれを現世のものと区別ができない(・・・・・・・)。

 普通の人には感じられない、霊能のある者には違和感を伴って感じられる、そのようなものが沙羅にとっては現世のものと何ら変わらないものとして「在る」のだ。それを幽世のものだと判別するには、頭で理解するほかない。池もないのに波音がするのはおかしいとか、雪が積もり続けているのに足跡が消えないのはおかしいとか、そうした不自然に気付かなければそうと分からない。感覚はあてにならず、理性を働かせるしかなかった。

 壬堂の家にとって沙羅の資質は貴重なものだが、それも、家が途絶えては意味をなさない。かつては宮廷に伺候する者も輩出した一族だが、いま壬堂を名乗るのは芙美と沙羅の二人だけだ。帝の禅譲によって明治から宝天(ほうてん)へと時代が変わって既に三年、外国(とつくに)の文物や風習がいよいよ盛んに流れ込みつつある今、幽世に関わる事柄はたとえば平安の世のようには注目されない。そのようなものは人々の意識の裏へ、見えにくい暗がりへと潜り込み、息を潜め……しかし、決して無くなりはしないのだと、芙美は沙羅に教えた。

 芙美は沙羅を、血の繋がりという確かな絆で現世に繋ぎ留めた。多くの人に引き合わせたのも、これからの生活のためというばかりではなく、人々との関係によって不安定な沙羅を現世に留め続ける意味があった。

 沙羅が機織りなどの物作りを教えられたのも、それが古から巫女たちの神聖な役目かつ修行の一環として行われてきたことだからだ。精神を集中させ、平常心を保つ修練。また、形ある物を生み出すことを身過ぎ世過ぎの術とするのと同時に、現世との繋がりを強くする意図が込められていた。

 だが、どんなに押さえつけても、宥めても、沙羅の心は時折、どうしようもなく暴れだしそうになる。尊いけれども卑しくて、崇高なのに俗悪で、この上なく貴重なのにありふれている、この世のもの全てから逃げ出したくなる。恐ろしくも懐かしい幽世に身を浸して、溶け切ってしまいたいと願ってしまう。

 沙羅にとって幽世はいつもそこにあり、一歩踏み出せばもうそこはこの世の外だった。季節も、天気も、地形も、何一つ定まったもののない幽世。現世を鏡写しに――金属の鏡ではなく、揺らいで不定形の水鏡に――映したような世界。その中ではすべてが定まらず、雨が降っているかと思えば花が降り、冬になったかと思えば夏に巻き戻る、そんなあやふやな世界。しかし、融通の利かない「現世」の方が「映し世」であるとされているのだ。映し、写し、遷し、移ろっていく、仮初の世界であるのだと。

 しかし、現世で移ろっていくのは世界ではなく、人の方ではないかと沙羅は思うことがある。そして、その中にあって自分は果たして……人として、移ろっていくことができるのか。

 まさか、思わなかった。絶えず不安定な沙羅を引き留めてくれていた芙美の方が、先に幽世へと旅立とうとしてしまうだなんて。

 芙美が病に倒れ、それがどうやら手の施しようのないものであることは、幽世に関わる二人には自然と分かってしまった。芙美はまじない師として数多くの病人を見てきており、沙羅は経験こそ少ないものの感受性は芙美以上に強い。二人とも言葉にはしないものの、互いに気付いていることは察していた。

 それでも芙美の病状をどうにか持ち直させようと、沙羅は看病の傍ら身を入れて学び、さまざまな療法や薬を試した。むしろ芙美自身の方が達観していたようだった。沙羅が芙美を案じるのとは逆に、芙美は沙羅のことを案じていた。

 芙美がいなくなれば、沙羅を直接的に現世に引き留めている家族がなくなる。そして、芙美が幽世へと片道の旅をするときは、沙羅もまた同じ道を辿るだろう。

 そのことは沙羅も分かっていたが、嫌だ、という気持ちがどうしても湧いてこないのだった。ゆるやかな諦念と――安堵。

 現世は素晴らしいところだし、生きていることは尊い。だが、それが何だ、と心のどこかで思ってしまっているのだ。生きたいとそれこそ必死になって求める人を数多く見てきたし、彼ら彼女らを心から応援して力添えを惜しまなかったが、それが我が事となると途端に現実味を失う。幽世が恐ろしいところだとは重々承知しているのだが、それが余人の言う「恐ろしい」とは何か違うことのように思えるのだった。

 そんな沙羅に、芙美は繰り返し諭した。言葉で、態度で、行動で、生きろ、と。

 おばあさまの仰ることだから従おう、そう思ってはいたものの、家族とはいえ他者からもたらされた思いと、自分の中から湧き出る思いとでは、後者に天秤が傾いた。

 抗えないまま、ふらふらと幽世へと引き寄せられた沙羅を引き留めたのは――


 気付いた時、沙羅は見知らぬ部屋に寝かされていた。

 まだ青々と新しい畳敷きの床に、白く清潔な寝具が整えられ、おろしたてと見える襦袢を着せられて横たわっている。体も拭き清められているらしく、泥まじりの雨を浴びた後ととは思えない。水を含んでずっしりと重かった髪も乾かされ、緩く束ねられて体の横にさらりと流れていた。

 沙羅はおそるおそる身を起こした。

(わたくし……生きている。まだ、現世にいる……)

 それが歓迎すべきことなのかはかりかねて、沙羅はつかのま安堵と失望が混ざった気持ちを味わった。

 畳の匂いも、寝具の手触りも、すべて現実のものだった。周りを見回せば、歳月を経た調度が上品に配されている。手入れの行き届いた部屋だ。

 祖母につられて自分も幽世へと行き、今度こそ戻ってこられないだろうと思っていた雨の夜が遠い。いま、この部屋は穏やかな光に満たされており、おそらくはまだ昼前だろう。

(ここは……どこ? わたくしは何故、ここに……?)

 荒れ狂う雨と死の気配のなか、沙羅は自分がたしかに幽世へと囚われたと思った。

 それを引き戻したのが――

「お目覚めになりましたか? 入ってもよろしいでしょうか」

 部屋の外から声をかけ、からりと襖を引き開けて入ってきたのは、柔和な印象の美しい女性だった。

 十七歳の沙羅よりも二回りほど上だろうか。淡い色の着物と目を引く大胆な差し色の帯の合わせ方も、小粋な形に纏められた髪も、洗練されていて趣味がいい。白い前掛けと丁寧な口調がなければ、ここの女主人かと思うところだった。

 目覚めた沙羅を見て、女性は何故だかはっとしたような顔をした。

「……あの、わたくし」

 沙羅は口を開いたが、何を言えばいいか分からない。女性は気を取り直したように微笑み、言葉を引き取った。

「壬堂家のお嬢さま、沙羅さまでいらっしゃいますね。急なことではございますが、上ノ杜(かみのもり)にある楠乃瀬(くすのせ)家の別邸、東鶯邸(とうおうてい)においでいただいております」

 上ノ杜――というと、黒須平を流れる左陣川(さじんがわ)の上流にある、深い森が広がる一帯だ。劫背連山(ごうぜれんざん)を構成する背立山(せたてやま)の裾野にあたる。沙羅もときどき足を運ぶ地域だ。建物を注意して見たことはなかったから心当たりはないが、場所が分かるとほっとする。

 そして楠乃瀬家は、芙美の商売相手だ。薬種商を営む一族で、京にある楠乃屋(くすのや)では和薬、漢薬、洋薬に加えて呪薬も扱っている。芙美のもとには主に呪薬を買い付けに来ていた。

「楠乃瀬の方でしたか。いつもお世話になっております。あの、わたくしは一体どうしてこちらへ……?」

 芙美を看取ったことは覚えている。だが、風雨に記憶までかき消されたように、寝起きの頭はまだきちんと動いてくれない。

 女性は目を見開いた。

「ご存知ない……? いえ、まさか……」

 信じられないような表情をして沙羅を見るが、心当たりのない沙羅は困惑の表情を浮かべて見返すしかできない。

 沙羅がいよいよ何も知らないと悟った女性は、表情をやや険しくした。何か怒らせてしまったかと思った沙羅だが、それは沙羅に向けたものではないらしかった。

「ご存知ないとなると、これは大変なことです。沙羅さま、具合がよろしければお召し替えを。そのあとで何か軽いものでも差し上げて、坊ちゃまのところにお通しします。坊ちゃまには何としてでも、この状況を説明していただきますわ」


 女性は多鶴(たづ)と名乗った。楠乃瀬家の使用人として、当主の次男――坊ちゃまと呼ばれていた人だ――と共に少し前から東鶯邸に来ているのだという。いま屋敷にいる楠乃瀬の一族の者は当主の次男ひとりだそうだ。

 次男、という説明をしたところで多鶴は沙羅をちらりと見たが、やはり心当たりがない。困惑顔の沙羅に首を振り、「お嬢さまではなく、こちらの問題です」と多鶴は目を伏せた。

 話を聞きながら、多鶴は慣れた手つきで着物を沙羅に着せ付けてくれた。吉祥文様の美しい、上質な薄物だ。自分でできると申し出ようとしたが、多鶴の手つきが堂に入って淀みないので、ついついそのまま任せてしまった。自分で着れば倍くらいの時間がかかっていたはずだ。

 着付けが終わると、多鶴は戸を開けたまま部屋を出ていった。何気なく外を見ると、庭木の上に鮮やかな梅雨晴間が広がっている。昨夜の嵐が嘘のような晴天だ。黒須平と上ノ杜はそこまで距離が離れておらず、このあたりも大荒れであったに違いないのに。

(ううん……もしかして、それほどでもなかったのかも)

 沙羅は緩く首を振った。昨夜の雨がどこまで現世のものだったのか、沙羅には判断がつかないのだ。雨だったとは思うが、小雨だったかもしれない。もしかしたら晴れですらあったのかもしれない。分からない。

 ほどなく多鶴がお盆に軽食を整えて戻ってきた。熱い重湯の椀を受け取って少し口に含むと、とろりとした舌ざわりにかすかな塩味が口の中に広がった。気を失っていた沙羅に消化のいいものを、という心遣いだろう。眠って回復したとはいえ、昨夜の雨の冷たさを覚えている体に、熱い重湯が嬉しい。そのあとで熱く香ばしい麦茶で口の中をさっぱりさせると、体中に温かさと水とがめぐって人心地つくようだった。

 一連のもてなしにお礼を述べると、「もったいないことです」と多鶴は目を細めた。そのあとで、「これはますます坊ちゃまには、きちんとご説明いただかなくては」と目を据わらせて呟くが、沙羅には意味が分からない。

 沙羅が寝かされていたのは一階の客間だったが、この屋敷は二階建てらしい。和洋折衷の様式で、内装も趣味良く整えられていた。洋式の部屋や調度などは宝天の世にあってすでに珍しいものではないが、沙羅の目には目新しいものに映った。黒須平の屋敷は和国(わこく)古来の様式で、調度も代々伝えてきたものが多い。あまり観察しては失礼だと自戒するものの、ついつい視線があちこちを彷徨ってしまう。

 多鶴に案内され、沙羅は二階の部屋に通された。広々とした空間で、屋敷の南東の角にあって和室と洋室が継ぎ合わさっている。二方が開けて眺めがよく、沙羅は思わず外の景色に目を奪われた。

 なだらかに下っていく左陣川のきらめき、緑まぶしい森、人里の家屋。沙羅が住んでいる黒須平はあのあたりだろうか。

 洋室の方に通されて席を勧められ、沙羅は多鶴にお礼を述べた。先に卓についていた人が立ち上がる。沙羅はお辞儀をして顔を上げ――


 ――骨ばって大きな、温かい手だった。

 行くな、と叫び、命を吹き込んだ口だった。

 通い合う息が、折り重なる体が、温かかった。幽世の雨に濡れた体がいつしか熱を吹き込まれ、現世に呼び戻された。

 小さいときならいざ知らず、芙美とすら触れ合うことなど日常生活ではあまり無かった。看病をしたり、手を取ったりしていた最近の方が普段通りではなかっただけだ。

 だから知らなかった。若い男の人の体がこんなに大きくて、熱くて、力強いものだとは。


 沙羅の表情が凍り付いた。目の前に、昨夜――もう遠い昔のように思えるが、まだ一晩しか経っていないのだ――沙羅の唇を奪った青年がいる。

 記憶が一気に蘇ってくる。芙美を看取った後、呼び声に誘われるままふらふらと導かれて、中庭の虚空に手を伸ばした――その、後のことも。

 青年の唇を凝視し、自分の口元を押さえた沙羅を見て、多鶴が静かな迫力をにじませて青年を問い詰めた。

「坊ちゃま。説明してくださいますね? お嬢さまに何をなさったのか。お嬢さまは楠乃瀬の次男と聞いても何の心当たりもないようでしたわ。まさかとは思いますが、名乗りもせずに無礼を働いたのではございませんわね? そんなふうにお育てした覚えはありませんが」

「いや、そんな……」

 青年は分かりやすく狼狽した。だが、焦って困ってはいても、後ろめたそうな様子はなかった。

「名乗るいとまもなかったんだ。無礼をしたのは事実だが、彼女を助けるためだ」

 とくに高くも低くもない、柔らかい印象の声だった。夜に聞いた緊迫した声とはだいぶ印象が違うが、たしかにこの声だ。

 沙羅は改めて青年を見上げた。二十代の前半くらいだろうか。やや長めの髪には少し癖があって、柔らかく額にかかっている。顔立ちは整って、どこか中性的で異国めいた雰囲気だ。洋装と、枠の細い眼鏡がよく似合っている。洗練されているのは、京の人だからだろうか。

(……? 瞳の色が、違う……?)

 間近で見たからよく覚えている。昨夜の青年の瞳は紫紺の色だったはずだ。だが、目の前の青年の瞳はごく一般的な色だ。黒というには少し色が淡いようだが、それでも違和感を与えるほどではない。

(眼鏡に色がついているわけでもないし……別人ではないと思うのだけど……)

 まじまじと見つめると、青年は困ったように苦笑した。はっとして無礼を詫び、たがいに席について挨拶を交わす。

「失礼いたしました。わたくしは壬堂芙美の孫、沙羅と申します。御厄介をおかけして申し訳ありません」

 先方はどうやら沙羅のことを知っているようだが、他に名乗りようもない。状況も今一つ分からないが、多鶴によくしてもらったのは事実だ。沙羅は頭を下げた。

「あの……祖母のお知り合いでしょうか?」

 尋ねると、青年は頷いた。

「芙美さんは僕の恩師です。最近はご無沙汰していましたが。知り合いどころではない、僕からすれば命の恩人……その御恩は君に返すつもりです」

 とつぜん言われて、沙羅はいっそう困惑した。芙美が手広く色々なことをしていたのは知っているし、人にものを教えることもあったと聞いている。青年の話も頷けるのだが、それにしても唐突に過ぎる。

(おばあさま……説明してくださってもよかったのに……)

 病に倒れる前から、芙美はさまざまなことを沙羅に教え、引き継がせていた。その内容の中には芙美の豊富な人脈についてのこともあったが、この青年のことを聞いた覚えがない。楠乃瀬の人々の作り話だとは思えないのだが、それにしても解せない。

「おばあさまを恩人とまで言ってくださる方なのですから、疑いたくはないのですが……昨夜の、その、あれは、どういう……」

 青年は少なからず、幽世に関する知識のある人なのだろう。幽世に囚われかけた沙羅の状況を理解していただろうことは疑いない。だが、それなら手を握って引き留めるだけでよかったのではないだろうか。

 沙羅が口ごもると、卓の横に控えていた多鶴が眼差しを険しくして青年を見た。青年は少したじろいで多鶴に目をやり、沙羅に向き直って口を開いた。言いにくそうに、しかし真面目な表情で説明する。

「口は息が通う場所、魂が通る場所です。たとえば、くしゃみをすると魂が抜けてしまうなどと言い伝えられているでしょう。医術で、息の止まった人の口に息を吹き込み、蘇生させる方法もあります。口付けにもそのような意味が……」

「坊ちゃま!」

 沙羅が顔を赤くして俯くのと同時に、多鶴がたまらずといったように声を荒げた。

「坊ちゃまはよしてくれ」

「いいえ、女性の心を慮ることもできないお子様など、坊ちゃまで充分ですわ。充分すぎるほどです。ぼく、いくつになったの?」

 多鶴は使用人ということだが、雇い主側の者に対してあまりにあまりな言い草だ。だが青年は咎めることをせず、それどころか苦虫を噛み潰したような表情で恨めしげに多鶴を見やった。そのやりとりだけで多鶴と青年の力関係と関係性――母や姉といった家族のような――が垣間見え、沙羅は思わず吹き出した。同時に、吹っ切れた。

「お話は分かりました。助けてくださって、あらためて有難うございます。お年ではなく、お名前を伺っても?」

「名乗っていませんでしたね。失礼しました。僕は楠乃瀬雪斗。ついでに言うと、二十九歳です」

 沙羅は少し驚いた。二十代前半くらいに見えていたが、二十九歳とは。十七歳の沙羅よりも一回り上だ。

 それでは確かに、口付けひとつにいちいち動揺したりはしないだろう。釈然としないが、それを訴えても仕方ない。

 沙羅は頭を下げ、この場を辞することにした。

「本当にありがとうございました。あいにく立て込んでおりまして、お礼は追ってお送りさせてください。不祝儀の後ですから、少し遅れてしまいますが……」

「待った、ちょっと待ってもらえませんか」

 雪斗に引き留められ、沙羅は上げかけた腰を下ろした。早く屋敷に帰って片付けをし、祖母を弔わなければならないが、別に一刻を争う急用ではない。祖母を放っておいたままなのが心苦しいが、世話になった人たちを無下にはできない。

 腰を下ろし、話の続きを待つが、雪斗は何やら言いあぐねているようだ。多鶴の心なし冷たい声が横から飛んできた。

「まずはお詫びをおっしゃい。理由はどうあれお嬢さまに無理強いして、事務的な説明で済ませようとするなんて……男の風上にも置けませんわ」

「あー……それは……申し訳ありませんでした」

「何のことで謝っているのかはっきりさせなさいな。行為に対して謝るのは重ね重ね失礼ですわ。説明を怠ったことについて謝るべきです」

 多鶴の言葉に遠慮がなくなってきている。沙羅は思わず同意して頷きそうになるのを堪えた。

「すみませんでした。最初からきちんと説明すべきだったのですが……」

 雪斗が物言いたげに多鶴を見る。話が初っ端からおかしくなったのは多鶴の問い質しのせいだと暗に非難しているようだが、多鶴は視線を真っ向から受け止め、目を眇めて見返している。雪斗は諦めたように息をついた。

「いろいろと説明しなければならないのですが、その前に沙羅さん、お体の具合は大丈夫ですか?」

 沙羅は頷いた。

「ええ。よくしていただきまして」

「大丈夫ならよかった。多鶴、お茶の用意を頼む」

「……かしこまりました」

 なにか言いたいことを呑み込んだようだったが、多鶴は言い付けに従って部屋を出た。


 多鶴が少し戸に隙間を開けたまま部屋を出たところで、雪斗は懐から何か小さなものを取り出した。沙羅はそれを見て、思わず声を上げた。

「それ、おばあさまが持っていたはず。どうしてあなたが?」

 雪斗が卓の上に置いたのは、胡桃大の鈴だった。上部の穴に組紐が通されている。沙羅には見覚えがあるものだ。

 紐は稠密に組まれているが薄汚れており、鈴自体も変色して黒ずんでいる。銀製だと知らなければ、道に落ちていても小石と見間違いそうだ。

「芙美さんから預かりました。〈音無しの鈴〉というものだそうですね」

 沙羅は頷いた。名前も知っているのなら、たしかに祖母が預けたのだろう。

「あっ……もしかして、あの場にあなたが来てくださったのは」

「そう。この鈴が鳴って、君の危機を教えてくれました。芙美さんのことは……本当に……」

 雪斗は目を伏せてお悔やみの言葉を述べた。胸が詰まったが、沙羅もなんとかお礼を返す。

 鈴は、雪斗に取り出されたときも、卓に置かれたときも、少しも鳴らなかった。彼がことさらに振動を抑えようとしていたわけではない。この鈴はもともと、中に玉が入っていないのだ。

「よろしければ、君が持つ〈みたまの緒〉も見せてくれませんか?」

 鈴のことを知っているなら、当然そちらのことも知っているだろう。沙羅は頷いた。呪具であるから、おいそれと人に見せるものではない。だが、祖母が鈴を渡した人、さらに言えば危ういところを助けてくれた人の求めとあれば否やはなかった。

「分かりました。これです」

 沙羅は少し袖を引き、左の手首に結わえ付けていた組紐を取り外した。

 紐には銀製の小さな玉が付けられている。玉の端の方が平たくなって穴が開けられており、ごく小さなその穴に、途中で二股に分かれた組紐の細くなった部分が通されていた。

 〈音無しの鈴〉と並べると、対になっていることがよく分かる。玉は鈴に入るとちょうど良さそうな大きさで、組紐の模様も対称だ。本来なら鈴の空洞の中に入るべき玉が外に出て、二つで一対の呪具を構成しているのだ。

「なるほど、これが……。持ってみても?」

「ええ。どうぞ」

 雪斗は玉の紐部分を手に取り、しげしげと眺めた。

 何の変哲もない腕飾りに見えるが、〈みたまの緒〉は来歴も分からないくらい古い呪物だ。幽世に関わりがあるということしか伝わっていない。持ち主が幽世に足を踏み入れるとき、玉は警告を発するように震え、〈音無しの鈴〉が鳴り響く。あるはずのない出来事が起きるとき、鳴らないはずの鈴が鳴るのだ。

 芙美に言われて肌身離さずにいる〈みたまの緒〉だが、沙羅自身にとってはあまり意味のないものだった。多かれ少なかれ常に幽世と関わり続けているような沙羅だから、多少の震えは日常茶飯事、まったく気に留めなくなっていたのだ。昨日の夜など震えに気づきさえしなかった。激しい風雨の中でそれどころではなかった。

「……うるさかったでしょう?」

 沙羅は思わず雪斗に聞いた。雪斗は苦笑して答える。

「うるさいというか……どきっとしますね。預かった当初はいちいち慌てて芙美さんに連絡を取ったものです」

 沙羅も苦笑した。それは申し訳ないことをした。

「でも、どうしておばあさまは、楠乃瀬さまに鈴を預けたのかしら……」

 沙羅は呟いた。独り言で、答えを期待したわけではなかったが、雪斗は身じろぎして口を開いた。

「そのことですが……君は芙美さんから、本当に何も聞いていないのですか?」

 問われて思い返してみるが、まったく覚えがない。鈴を預けたなどという話は初耳だし、その相手が楠乃瀬家の次男だという話もそうだ。そもそも、雪斗の名前すら知らなかった。鈴は芙美の枕元にでもあるのだろうと思っていた。沙羅は首を振る。

「心当たりは何もなくて……」

 沙羅の返答に、雪斗は長い溜息をつき、頭に手をやって項垂れた。「芙美さん……」と、小声でぼやいたのが聞こえた。

「あの……?」

「……失礼しました。沙羅さんには全く非のないことです。僕たちは芙美さんに、嵌められたようです」

「……嵌められた?」

 沙羅は面食らって聞き返した。雪斗は重々しく頷く。

「そうとしか考えられません。だって君は、僕と婚約していることを知らされていないのでしょう?」

「…………こんやく?」

 雪斗の爆弾発言に、沙羅の頭が真っ白になった。こんやく。こんにゃく、だろうか。まさか。

「こん……こんやく……婚約!? 楠乃瀬さまが、わたくしと!? 婚約、ですか!?」

 沙羅の頭の中で疑問符が渦を巻く。

 寝耳に水もいいところだ。沙羅に婚約者がいるというのなら、それが沙羅自身に知らされていないのはどういうことか。雪斗と面識がないのはまだいいとして――そうした婚約を結ぶのは身分のある人と相場が決まっていそうだが――名前や、まして存在すら知らなくていいなんてわけはない。そもそも、この人は独身だったのか。そこからして知らなかった。

 驚き慌てる沙羅に、雪斗は再び苦笑した。

「芙美さんからの書簡をお見せした方がよさそうなので、持ってきます。少しお待たせしてしまいますが、お茶でもお飲みになっていてください」

 言い置いて雪斗は立ち上がり、部屋を出ていく。その後ろ姿――婚約者だという青年の――を見送り、沙羅はしばし放心した。


 雪斗より先に多鶴が戻ってきて、沙羅に煎茶と半生菓子を出してくれた。菓子はもっちりと柔らかな生地の中に甘い白餡が入っているもので、季節を意識してだろうか、ほのかに梅の香りがする。

 ここ数日は祖母につききりで、まともな食事も取っていなかった。食事をする時間さえなかったというわけではないのだが、喉を通らなかったのだ。だが、先ほどの重湯で空腹感を思い出した胃がきゅうっと鳴って早く早くとせっつく。沙羅は少し顔を赤くして失礼を詫び、ありがたく頂くことにした。

 一つに手を伸ばすと、その甘さがさらに空きっ腹を刺激する。勧められるままに次々と食べて皿を空にしてしまったが、多鶴は喜んでお代わりを持ってこようと申し出てくれた。それはさすがに食べすぎだろうと辞退したが、久しぶりに満たされた心地になってしまう。

(わたくし……生きている……)

 食べ物を腹に収め、沙羅はしみじみ思った。祖母を亡くしたばかりなのに菓子に喜んでしまう自分の身を疎んじてしまいたくなるが、そうやって切り捨てるのも罪深いことのように思う。生きているとどうしたって矛盾だらけだ。

 沙羅が三杯目のお茶をゆっくりと飲んでいるあたりで雪斗が戻ってきたが、お菓子でお腹が満たされたことで気が緩んで、婚約など大したことではないとうっかり思ってしまいそうになる。沙羅は慌てて気を引き締め直した。

 食器を片付けている多鶴に雪斗は声をかけ、

「少し込み入った話をするから下がってもらえるかな」

「…………お嬢さまに失礼のないように気を付けてくださいましね。沙羅さま、何かあったらすぐにお呼びくださいね」

 多鶴は雪斗を咎めるように言ったが、命じられた通りに部屋を出ていった。多鶴の心配は、雪斗が沙羅に不埒なことをする可能性ではなく、無神経なことを言うかもしれない可能性に対してだろうということは沙羅にも分かった。前者の心配はないだろうと沙羅も思う。後者については考えるのを止めた方がよさそうだ。

「信用がないな……」

 雪斗はぼやきつつ、持ってきた書簡を卓に広げた。沙羅の方に向けてくれたので、少し身を乗り出して覗き込んだ。

「拝見します。……確かに、これは……」

 問題の書簡を視線でなぞり、沙羅は呻いた。間違いなく祖母の筆跡だ。字形は流麗なのに、少し字間が詰まってせっかちな印象を与える。性格がよく出ていると思う。

 簡潔な文面も、日付を記すときのちょっとした癖も、祖母らしすぎて疑いようがない。書簡のなかで芙美は、雪斗が沙羅との婚約を承諾したことに礼を述べ、自分に何かあったときには沙羅を頼むと書いていた。日付がきっちり入っているうえに署名もあり、判も押され、正式な遺言状としても通用する体裁だ。

「僕はたしかに婚約を承諾しましたが……まさか、当の沙羅さんが知らされていないとは思ってもみませんでした」

 それはそうだろう。沙羅も、当人抜きで進める婚約話があるなどとは思ってもみなかった。

(おばあさまらしいと言えば、そうなのだけど……)

 決断力も行動力も沙羅とは比較にならなかった芙美は、優柔不断な沙羅をとろいと急かすこともよくあった。どっちが年寄りだか分かりゃしないと言われ、確かにと頷く沙羅に、こりゃ駄目だと言わんばかりに首を振った芙美の表情をありありと思い出す。信頼されていなかったとは思わないが、いつまでもふわふわと頼りない沙羅にしびれを切らした可能性は大いにある。

 しかし分からないのは、雪斗の方だ。

「あの……どうして、楠乃瀬さまはこのお話を承諾なさったのですか? 祖母に恩義を感じていただけるのはありがたいのですが、ここまでのこととなると……」

 沙羅は尋ねずにいられなかった。

 自分で言うのも何だが、訳ありの厄介な娘だ。後ろ盾もなく、見返りが用意できるわけでもなく、面識すらないはずだ。いくら芙美に音があるからといって、二つ返事で引き受けていい話ではない。沙羅の厄介な体質のことは、鈴を預かったからには知っているだろうに。言葉は悪いが、祖母は彼をいいように使いすぎではないのか。

 雪斗は穏やかに微笑んだ。

「確かに芙美さんに御恩があるからですが、それだけでもありませんよ」

 雪斗は沙羅と目を合わせ、おもむろに眼鏡を外した。唐突な行為に昨晩のことを思い出してしまい、どきりと心臓が跳ねる。雪斗の顔立ちが整っていることも意識してしまうが、それよりも驚いたのが、

「色が……」

 雪斗の黒橡色の瞳が、眼鏡を外すと紫紺の色に変わった。秋に色付く山葡萄の色だ。

 雪斗は紫紺色の目で、沙羅の黒い目をまっすぐに覗き込んだ。

「僕の目は、普通の人には黒く見えます。いや、濃褐色かな。まあ、そうした一般的な色ですが、君や芙美さんには……」

 沙羅は悟り、囁くように口にした。

「……分かったわ。あなたのその色は……幽世のものなのですね」

 雪斗は頷き、再び眼鏡をかけた。眼鏡越しの瞳は元通りの黒橡色だ。

「そう。僕のこの瞳は、幽世を見てしまう。芙美さんからこの瞳がどういうものかを教えていただくまでは……大変でした。力を抑える眼鏡を下さったのも芙美さんです。教えを受けなければ僕はとっくに……自ら目を潰していたでしょう」

 沙羅は息を呑んだ。かける言葉が見つからない。祖母に恩があると言ったのは、そういうことだったのだ。

「僕は好むと好まざるとに関わらず、幽世に関わってしまう人間です。普通の結婚はできないと諦めていました」

「それは……わたくしも同じです。結婚など……婚約など、考えたこともなかった」

 芙美はそんな二人の事情を知っているから、婚約を整えたのだろうか。でも。

「あなたとわたくしとでは……危険の度合いが違いすぎます。わたくしは幽世に、つねに引き寄せられているようなもの」

 見るもの、聞くもの、触るもの。沙羅の世界はごく自然に境界をなくしてしまう。まるで、そんなものは最初から無いとでもいうかのように。

 雪斗の瞳のこともそうだ。多鶴のような普通の人なら、紫紺の色が見えない。芙美のように力ある術者なら、紫紺の色を見て幽世との関りを見破るだろう。しかし沙羅は、紫紺の色を見ることはできるが、どちらの世界のものなのか分からない(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。

 沙羅の世界には、いつも不吉な不確実さがつきまとう。自分が触っているこの卓は、本当に現世のものなのか。聞こえている音は、吸っている空気は、感じている気持ちは……。

「おばあさまに恩義を感じてくださっていること、わたくしとの婚約を承諾してくださったこと、本当にありがたいと思っています。でも、昨晩のことでお判りになったでしょう?」

 危険すぎると。いくら恩義のためとはいえ、割に合わないと。

 沙羅の心の一部は確かに、常に、幽世に惹かれている。求めている。そんな心のありさまなど他の人からすれば理解不能だろうし、言語道断だろう。巻き添えになるのは御免だと、誰もが言うだろう。

「婚約の話は無かったことにしましょう。整えてくださったおばあさまには申し訳ないですが、そもそもわたくしには知らされてもいなかったお話ですし。おばあさまもどこまで本気だったのか……」

 沙羅は申し出た。引き受けた雪斗からは言い出しにくいだろうが、沙羅からの提案ということであれば角が立たないはずだ。

 だが、雪斗は首を横に振った。

「芙美さんが君にこの話を知らせなかったのは……理由は多分、さっき分かりました」

「え!? それは、何ですか!?」


 沙羅は驚いて雪斗に問うた。伊達や酔狂とは思い難いが、かといって理由が思い当たるわけでもない。家族の沙羅に分からないことが、教え子だった彼には分かるのだろうか。

 雪斗は言いにくそうに目を伏せた。

「僕は口付けで君を現世に引き留めましたが……君には衝撃が大きかったでしょう。婚約者としても失礼な振る舞いに違いないし、婚約者と知らなかったのなら猶更です。芙美さんはそれを狙ったのだと思うのです。ついさっき思い至ったことですが……」

 口付けは息吹を通わせるという直接の効果だけでなく、衝撃を与えて、心を、魂を揺さぶる効果もあったのだということだ。雪斗は婚約者を守ろうとして口付けし、沙羅は何も知らずにそれを受けて動揺したのだ。

「魂振り、ということですね……」

 沙羅の呟きに、雪斗が頷く。沙羅は瞑目した。

(おばあさま……)

 仕組んだのだとしたら、あまりに性質が悪い。でも、効果があったのだから文句も言えない。幽世にとらわれそうになっていた自分を引き留めるには、たしかにそのくらいの荒療治が必要だっただろう。

「芙美さんは僕に、君の新しい家族になってほしいと書いていました。それが君を現世に留め続けるために必要なことだからと。僕は文字通りに捉えていましたし、まさか芙美さんに代わって家族になるという意味だとは思いませんでした。ですが、芙美さんご自身は、今回のことを予知しておられたのかも……」

 自在に使える万能なものではなかったが、芙美は予知をすることもあった。沙羅に新しい家族を、ということの意味が、幽世に行ってしまう自分に代わって、という意味だった可能性は確かにある。

「家族……」

 沙羅は他人事のように呟いた。

 理由としては納得できる。血の繋がりだけでなく、心の繋がりも、現世のよすがとして大きなものだ。夫婦どうしは同じ血を持たないが特有の結びつきがあるし、親と継子との結びつきも、仲の良い同居人どうしの結びつきも、それぞれに得難いものだ。

 社交的な性質ではない沙羅は親しい友人も持っていないし、芙美以外に強い結びつきを持つ人もいない。沙羅はいわば、一本の糸だけで現世に引き留められている凧のような状況だ。その繋がりが切れてしまえば、いずこともなく飛んでいってしまう。

 だから家族を増やす――この場合は交代のような形になってしまったが――というのは有効な方策だ。納得はできる。できるのだが……

(ちょっと強引すぎませんか!? おばあさま……!)

 唯一の家族である祖母を亡くした途端、強烈な印象とともに婚約者が――新たな家族になろうとする者が――現れる。結婚というものを、新たな家族を作る行為を、意識させられる。――仕組まれていたのだ。

「改めて提案するのだけど、僕は君との婚約を続けたく思います。沙羅さん、どうでしょうか」

 雪斗は卓の上で手を組み、真面目な表情で沙羅を見た。直接的な言葉に、しかし沙羅は照れるより先に困惑した。

「……どうして、とお聞きしても? ……昨夜のことがあったばかりなのに……」

 沙羅は厄介にしかならない。少し訳ありとはいえ育ちのいい青年を、自分に縛り付けたいなどとは思えない。異能についても、彼は眼鏡を使うことで抑えていられるようだし。

「だからこそです。沙羅さん、君は目を離したら、すぐにでも幽世へと攫われてしまいそうだ。黙って見過ごすことなど出来ません」

「え……っと、それは……」

 沙羅は言葉に詰まった。確かに、それは自分でもそう思う。だが、だからといって他人を巻き込むことなどしたくない。自分が逆の立場なら見過ごすことなど出来ないが、かといって自分の立場から何を言えばいいかも分からない。

 沈黙する沙羅に、雪斗は表情を和らげた。

「困らせるつもりはありません。とりあえず婚約は継続しませんか、そう提案しているだけです」

「ええっ……と……」

 沙羅は口ごもりながら、自分に呆れていた。優柔不断で頼りない自分に。たとえ雪斗の言うような理由がなかったとしても、芙美は沙羅自身に知らせないまま婚約を整えたかもしれない。自分では何も決められない――現世への執着が少ないから。そう、自分のことはいいのだ。

(そっか……そういうことか……)

 自分の考えが良くない方向へ行っていることを承知しながら、沙羅は一つの結論を拾い上げた。

「そのお話が、あなたにとって利になるなら、お受けします。あなたの仰る、おばあさまへの恩を返し終えたと思われたら、義理を果たしたと思われたなら、その時に婚約を解消しましょう。契約結婚ならぬ、契約婚約です。よろしいでしょうか」

 真面目な顔で言った沙羅に、雪斗は呆気にとられた表情をした。ややあって苦笑し、前髪をかきあげて手の付け根を蟀谷に押し当ててぼやく。

「沙羅さん……君も大概ではないかと……多鶴が聞いていたら何と言うか……」

 沙羅は首を傾げたが、独り言のようだったので聞き流す。

「では、楠乃瀬さま。それまでよろしくお願いいたします」

「僕のことは雪斗、と。話しやすいようにしてもらって構いません」

 一回りも年上の男の人にそれはどうかと思ったが、沙羅はとりあえず頷いた。ふと思いついて、雪斗の空になっていた煎茶碗にお代わりの茶を注ぐ。雪斗は微笑んでそれを受けた。

 酒杯のように茶杯を交わし、ままごとのような婚約が成る。口付けを済ませてから自己紹介をし、婚約の話はその前から出ていただなんて、順番から何から滅茶苦茶だ。

 成り行きに苦笑しながら、沙羅は何気なさを装って雪斗に問いかけた。

「雪斗さま。おばあさまへの恩だけでなく、この婚約を続けたい理由がおありなのですね?」

「……!」

 雪斗は目を見開いた。素直な反応に、沙羅は少し溜飲を下げる。何かを言おうとする雪斗を制して、言葉を続ける。

「分かっています。だからといっておばあさまへの恩のお話や、わたくしを助けたいというご厚意が嘘ではないことも」

 それと同じだけ、世間一般の婚約のように、家同士の結びつきや相手への恋情を絡めたものではないことも分かっている。相対して話していれば、鈍い沙羅にもそのくらいのことは分かる。そうした理由からでなく、彼が婚約を維持したがっているということくらいは。

「それは……認めます。僕は、僕なりの理由もあって婚約を続けることを申し出ました」

 雪斗は率直に認めた。やはり、と沙羅は彼の鼻を明かして得意げな気持ちになったが、続く言葉に顔を強ばらせた。

「それで、沙羅さん。君が婚約を破棄したがったのにも……理由があるのでしょう?」

「…………!」

 雪斗は少し意地悪そうな表情で微笑んだ。

「他に思い人がいるとか、僕の家が嫌だとか、そうした世間並みの理由ではなさそうです。……合っているでしょう?」

「………………」

 沙羅は沈黙したが、それは雄弁な肯定だった。

「解消前提の話をされれば、それくらいは分かります。でも僕だって、君を困らせたいわけではありません。話を受けてくれたのだし」

「雪斗さま……おばあさまは……」

「芙美さんが、何か?」

「いえ……」

 芙美はあのこと(・・・・)を、雪斗に教えたのだろうか。沙羅が抱える秘密を。――結婚できない理由を。

 確かめたかったが、藪蛇になっては困る。おいそれと明かすことができない秘密だ。

(少なくとも、見せてもらった書簡には、それを匂わせるような記述は無かったけれど……)

 他の手紙やら、対面での会話やらで、どこまで彼に伝えられているのか――いないのか。この秘密を伝えずに婚約を整えるなんて詐欺もいいところだと思うのだが、芙美にはもしかして、他の意図があったのだろうか。

「…………」

「…………」

 互いに秘密を胸に秘め、しばし見つめあう。そして、どちらからともなく表情を崩した。肩をすくめて雪斗は言った。

「ここまでにしておきましょう。なにも敵になるわけじゃなし、たがいに思惑があるなんて当然のことです。押し売りみたいで悪いけど、芙美さんへの恩義の分だけ、沙羅さんを傍で守らせてもらいます。目を離したとたんにいなくなった、なんていうのは嫌なんだ。絶対に」

 きっぱりと言い切り、雪斗は煎茶碗を取り上げて茶を飲み切った。こくりと沙羅も頷き、雪斗に倣って碗に手を伸ばす。

 ほどよい温度で淹れられたはずの高級な茶は、しかし苦みを舌に残して喉を通っていった。

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