後輩と家庭

「先輩。物理基礎が分からないです」

「急にそんなこと言われても……」

 放課後。太郎にとっては、不自由な時間が近づいていた。潮が、段々と満ちて行くように、生活というバケツに水が少しずつ足されていく。

 文芸部。下校時間ギリギリになると、太郎の後輩である水田みずた志季しきの二人くらいしか部室には残らない。

「成江せんぱーい。後生です。後生ですから教えてくださいぃ……」

「いやいや、教えるのはいいけどなんでこんな遅い時間になってから言うの……。もうあと二十分くらいで教室閉めるよ」

 太郎の、志季に対する印象は、不思議な子だった。彼女が文芸部に入ってきてから半年くらいになる。この部活では珍しくお喋りな子で、こうやってよく自分に絡んでくるのだった。そのせいで、どちらかというと太郎の執筆速度は落ちてしまったが、持ち帰って家で書くから別に困ってはいない。

 太郎が、なんでもっと早くに言わなかったのか、と問うと、志季は言い淀んで、少し考えてから答えた。

「他の子がいる時に言うと、皆で先輩に教えてもらう形になるじゃないですか。それだと私が分からないとこ、じっくり教えてもらえないから……」

「えー? そんなことないでしょ。他の人も分からないとこあるっていうならちゃんと、一人ずつ教えるよ」

「いやまぁ、そうなんですけど……」

 話が止まった。沈黙が流れる。

 んー、まぁどうであれ、分からない場所があるなら放っておくのはまずいか。ずっと分からない場所を放っておくと、簡単な問題でもいつかは取り返しのつかないことになるかもしれないしな……。

 時間は、時として事態を悪化させることがある。今も動いている秒針は、時として僕達の喉元に向く。

「言ってても仕方がないか。どこが分からないの?」

 太郎は彼女の分からない場所を聞くことにした。

「あぇ? あー、えっと。フックの法則ってやつ、今日習ったんですけど……」

 もうすぐ教室の鍵は閉める。パソコンばかり並べられた文芸部の部室の外は真っ暗で、学校にいるのに外が真っ暗という状況は、まだ中々慣れなさそうだった。

 大急ぎで鞄から取り出した彼女のノートを見つめ、どこが分かってないかを模索する。「時間が無いです」と急かされて「誰のせいだ」と急かし返す。

 たまにはこんな放課後も、良いなと思った。



「先、お風呂入りなさい」

「はい」

 食べ終わった食器をシンクに置いて、自分の着替えを持って浴室の前で服を脱ぐ。

 お風呂は、好きでも嫌いでもなかった。太郎はこの家のお風呂にしか入ったことがなく、お風呂にいると否が応でもこの家の環境音が聞こえてくるからだ。この家にいると自分の体が、もう自動的に反応するようになっている。どれだけ暖かいお風呂の中に心地よく浸かっていても、太郎の母が皿を洗っているときのカシャンという音が聞こえてくるだけで、心臓が緊張を示すのだった。

 もしも自分が一人暮らしであれば、お風呂も安らげるようになると思う。そんなことを思いながら、ぬるま湯に体を浸した。

 小さい頃の、父親と一緒に肩まで浸かって百秒を数える時間。

 そんな思い出は、残念ながら太郎には無かった。

 ゆっくりと、時間が流れていく感覚に身を任せながら、少し冷たく感じるぬるま湯に何分か入り浴槽から上がる。

 寝巻に着替え自分の部屋に向かう時、リビングから声が聞こえた。

「遅かったじゃない」

「仕事だよ」

「あぁ、そう」

 そこにいる人は、他人な気がした。



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