Chapter4
―怜二―
歩きながら何度も深呼吸して落ち着いたつもりでいたけれど、営業フロアに戻って自分のデスクの椅子を引こうとして思い切り手が滑った。フロアに派手な音が響く。隣の席のナベさんが驚いてこちらを向いた。
「何やってんだよ佐伯、大丈夫か?」
「…すんません。」
咳払いして椅子を引き直し、腰を下ろす。手に持っていたファイルをそっと置いたつもりが、手汗で滑って足元に落ちて来た。
「…何やってんの?」
訝し気にファイルを拾いながら俺の顔を覗き込んだナベさんが、びっくりした様に目を見開く。
「どした、そんな赤い顔して。」
何でもない、と言おうとして声が上擦ってしまった。
「何でもないようには見えないんだけど。」
「…頼むからナベさん、それ以上突っ込まんといて。」
「何だよ気になるな…お、三浦やっと戻って来た。」
上げかけた顔を、さっと背けてしまう。あんなに時間をかけて宥めた心臓が、慌てた様に激しく波打ちだす。
「遅くなりました。これで良かったですか。」
「おお、さんきゅ。何だ、結局三浦が探してくれたんだ?」
三浦から資料を受け取ったナベさんの訝し気な視線が、明らかに俺の方へ向いているのを感じる。目を背けて気づかないふりをしながら、自分で持ってきたファイルのページをめくった。
「先輩に探し物させて、知らん顔で戻れないですから。」
いつも通りの淡々とした低い声に、ナベさんが応じる。
「へえ、えらいじゃん。」
「佐伯さん先に戻っちゃったから、聞く人いなくて探すのに多少手間取ってしまったんですが。」
「何だよ佐伯、ちゃんと教えてやれよ。」
冗談ぽく絡んでくるナベさんに、すみません、と謝る声が尖ってしまう。
「…三浦お前、何か怒らせたの?」
「あー…その…」
「佐伯怒らせるなんて、なかなかすげえぞ。」
ファイルから外した資料を手に持って立ち上がった。傍に立っていた三浦が、思わずと言った感じで後退る。
「怒ってへんから。」
自分でも分かるくらいムキになった声で言った後、困惑した表情のナベさんに「コピー取ってきます」と言い置いて、再び営業フロアから足早に出た。
***
車のダッシュボードの中をまさぐる。目当ての小箱を手にしてドアを閉めると、周囲に人がいないことを確かめて一本取り出して口にくわえた。
「悪いなー、お前。」
火をつける直前、掛けられた声に驚いて煙草を手に隠し振り向く。
「びっくりするやないですか、ナベさん。」
「車ん中で吸えばいいのに。あ、匂い気にしてんの?」
笑いながら自分の車の助手席に鞄を置き、こちらに近づいてくる。
「帰宅前に、会社の駐車場で隠れタバコかー。佐伯のこと『可愛い』って騒いでいる子達が見たらびっくりだな?」
にやにやしながら言うナベさんに、げんなりした視線を向ける。
「何か聞いたんですか、三浦から。」
「何が?」
「…や、別に。」
吸います?と箱を向けると、ナベさんはためらいなく一本抜きとって自分の懐からライターを出し、さっさと火をつけて吸い込んだ。
「吸わねえの?」
「吸いますよ。」
くわえ直し、火をつける。メントールの効いた煙を喉深く吸い込み、ため息とともに白い
「…で?やっぱり三浦と何かあったわけだ。」
興味津々と言った体で聞いてくるナベさんの方を見る。
「からかいに来たんですか?」
「違うっての。帰ろうとしたら珍しくタバコくわえてたからさ。お前がタバコ吸うって、何かやってられないことがあった時だろ。」
「…さすが、よお分かりますね。」
片手に持った携帯灰皿に灰を落とす。
「ナベさん。」
「ん?」
「俺、そんなに『可愛い』かな…?」
口にしながら、また頬に熱がこもるのを感じて恥ずかしくなる。
「佐伯が可愛いかって?」
俺の手の灰皿に灰を落としながら、ナベさんは事も無げに言う。
「可愛いんじゃない?」
「…顔ですか。」
「顔もそうだけど、その反応とか。」
含みのある笑みを俺に向け、ナベさんはからかうように俺の頬を指でつついてきた。
「三浦に言われた時も、そんな反応したわけ?」
「?!」
不意打ちを食らって動揺してしまう。ナベさんは半分くらい吸った煙草をくわえ直すと苦笑した。
「あいつ素直っつーか、正直だからなー。思ったまま口から出ちゃったんじゃない?」
「思ったままって…」
「そんな意識して、避けたりしてやるなよ。あいつ、あれからずっと気にして佐伯の事見てたじゃん。気づいてたんだろ?」
「それは…。」
あの後、資料のコピーを取り終えて戻ってきてからずっと視線は感じていた。会議資料を作成し終えた後は外出していたので、同じくらいの時間から外回りに出て直帰したらしい三浦とはそれから会っていない。
「ま、向こうに悪気は無いんだから許してやれば?」
これさんきゅ、とナベさんは短くなったタバコを灰皿に押し付けて火種を消した。
「怒ってるならそう言ってやらないと。無視はよろしくないだろ。」
「俺別に、怒ってるわけやないんですけど。」
「そうかー?『怒ってない』って席立った時の佐伯、珍しく怖い顔してて俺びびったんだけど。」
「絶対嘘やん…」
「まじだって。…じゃ、俺帰るわ。」
ナベさんは軽く俺の背中を叩くと、おつかれーと言って自分の車に乗り込んだ。
俺は軽く息をつくと、溜まった灰を落としてから煙草の火を消して携帯灰皿の蓋を閉めた。
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