ウォーターサーバーの怪⑧(完)
8
それから数ヶ月が経った。
僕たちの生活には、特に大きな変化はなかった。幸いにも大きな災害はなく、ライフラインがダメになることもなく、いつも通りに過ごしている。
僕が家に帰ると、チラシがいくつか差しこまれていた。
中には、ウォーターサーバーの販促チラシも入っていた。水道が止まってしまうと考えると、取り付けよりも置き型の方が、備蓄としてアリかもしれない。
そんなことを玄関で考えていると、扉が開く音がして、帰ってきた桜井と鉢合わせた。
「ただいま」
「おかえり」
互いに挨拶を交わして、僕たちは部屋の中へ入る。
「檜木、仕事変えたらしいぞ」
夕飯を囲みながら、桜井はそう話題を出した。
「そうみたいだね。とりあえず元気になってよかった」
檜木は退院後、家も浸水でダメになっていたので、部屋を変えるほかなかった。「ちょうどいいわ」と彼は言って、引っ越し先を探す時間を確保するため、仕事も退職したそうだ。彼はズボラだが、相変わらず行動指針を決めると早い。気がかりなことがなくなったからかもしれない。
檜木の、坂尾の墓参りには、僕と桜井も付き添った。——と言っても、坂尾家の墓の下に、彼はいないようだった。
坂尾の実家は海辺が近く、昔から彼も海が大好きだった。家族曰く、遺骨は海へ散骨したそうだ。
僕たちは墓にも手を合わせ、海へ行き、手を合わせた。
そこに坂尾がいるかどうかは、僕にはわからなかった。
どこまでも広く続く海は、やっぱり少し生臭く、あの部屋で嗅いだにおいが鼻をついた。
何はともあれ、檜木は引きずらないようでよかった。
僕は味噌汁の椀に口をつけた。
「けど余島、お前、やっぱり変な体質になってるだろ」
「え、どうして」
桜井の問いに僕は思わず顔をあげ、慌てて味噌汁の椀に視線を落とした。うっすら表面に映った僕は、目が泳いでいた。
桜井の声は続いた。
「いや……あの時急に坂尾の名前を出してきたり、妙に肩入れした言い方をしてたから」
「あ、ああ……そう思っただけだよ。大丈夫」
僕は味噌汁を啜る。あおさの味噌汁は微かに磯の香りがする。
夢は現実ではない。けれどあの夢を見たから、檜木を助けられたのも、違いない。
あの浄水器の故障がなければ、僕たちは駆けつけなかったかもしれない。僕たちがタクシーを捕まえられていたら、警官が早く駆けつけることはなかったかもしれない。
僕は、桜井には夢のことを隠そうと思う。話してしまえば、このお節介な男はどこまでも僕を心配するだろうから。
それに——本当のところ、坂尾の気持ちは、僕の知れたところじゃない。あの視線はどう言う意味だったのか。本当に心配をしていたのか。恨んでいたのか。
多分、一言では言えない。言えないのだ。
だけど、世話焼きの坂尾は——放っておけなかったのだろう。
僕は桜井を盗み見る。もしも、僕が先に死んだとしたら——幽霊になったとしたら、桜井のことが心配になる。もしも気を病むようだったら、立ち直ってほしいとも。
——自分に気づいてほしい、という気持ちもあったかもしれない。
これは僕の推測だけれど、坂尾は、檜木のことが好きだったのではないだろうか。そう思ったのは、女性の霊の夢を見た時と、近い気持ちがしたからだ。
……もっとも檜木も坂尾も、大学当時彼女がいた記憶があるし、この推測は当てにならない。全ては坂尾のみぞ知る——と言うところだ。
「うわ」
僕は椀を慌てて離した。暴れた味噌汁がびしゃりとテーブルにこぼれる。
「どうした? 熱かったか?」
桜井がすぐにティッシュでテーブルを拭く。僕はなんでもない、と返して笑う。
おそるおそる、僕はまた椀を覗きこむ。
一瞬、坂尾の顔が見えた気がしたが、そこには僕の息で揺れる、驚く僕の顔しかなかった。
……これ以上考えるのやめよう。
僕は視線を天井に向け、いきおい味噌汁を飲みこんだ。
【了】
蒐集・怪談BL 塩野秋 @shio_no_book
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