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「ただいまー」

 十一階の家の扉を開けるなり、とりあえず声を掛けてはみたが、いつも通りヒトミからの返事はねえ。手探りで電気を点けたら生活感の薄い居間が黙り込んでた。うちの家はメゾネット形式っつうのか、階段をあがると上の階にも六畳の洋室がひとつだけあって、ヒトミはいつもそこに籠ってる。顔を合わせる機会はメシんときぐらい。年頃の反抗期とかじゃなくて、昔からずっとヒトミは俺に懐かねえ子だった。ヒトミに「ミキオ」って呼ばれるほうが今となっちゃ耳に馴染んじまってるけど、それじゃ駄目だっつうこともちゃんと分かってる。今さら「お父さん」なんて呼ばれてえ訳じゃねえ。けど、俺は……。

「おおおい、ヒトミ、メシ食うぞー!」

 俺は階上に向かって野太い声をざっくりと放り、キッチンに入って手際よく食材を冷蔵庫の中に詰めていった。茄子としめじが余ってて、使わねえとそろそろ痛みそうだな。さっき買ってきた豚バラと混ぜて炒め、袋詰めで買い置きしてある千切りキャベツでも添えりゃ、まずまずの食卓になりそうだ。後は湯を入れるだけで作れるレトルトの味噌汁を合わせて……っつう具合に、俺はいつも思いつきで料理を作る。イズミと暮らしてた頃はまったく料理しねえどころか、家事は風呂掃除とゴミ捨てぐれえしかしなかった癖に。イズミが家を出てってから、俺はあらゆる家事をしなきゃいけなくなった。それを十五年も続けてりゃ、そのへんの主婦ができるようなことなら一通りはこなせるようになる。むしろヒトミがちっちゃい頃は、外注先常駐のデスマーチみてえな忙しさだったんで、今ぐらいの家事は全然イージーだ。

 料理ができて食卓に並ぶ頃、ちょうどヒトミが降りてきた。匂いが階上まで漏れてんのか、相変わらずすげえ勘の良さだな。部屋にいるときのヒトミは物静かだが、足音がなぜかバタバタしてて、どこにいても奴が近づいてくるのは分かる。ヒトミは廊下を歩く流れで風呂場に入り、給湯ボタンを押した。いつもの所作だ。ヒトミは食事を終えるとさっさと風呂を済ませ、そのまま自室にまた籠もる。俺はちょっと冷めた湯に浸かった後、風呂をきれいに磨いて寝る。次にヒトミの顔を見るのは朝食んとき。一日二回、合わせてもわずか一時間にも満たねえような、「親子」だとか恥ずかしくて名乗れねえしらけた関係だ。

「ヒトミ、メシ食うときぐらい、音楽聴くの止めろ」

 食卓に置かれたプラスチックの箸を取り上げ、ヒトミを指して言った。ヒトミは心底嫌そうにくちびるの端を歪め、渋々といった具合にイヤフォンを外した。昨年のクリスマスに俺が買ってやったアイポッドのパチモンでヒトミはよく音楽を聴いてる。

 食卓は団地の青空フリマで買ったちゃちな折り畳み机で、ひどく狭い。俺とヒトミはメシを食うとき、背もたれのないパイプ椅子に腰かけ、並んで座る。いつも俺が右側で、ヒトミが左側。肩がくっつくぐらい近く、いただきますのタイミングはぴたりと合う。仲良いわけじゃねえのに、十五年も一緒に暮らしてりゃくだけるし、似ちゃうのは気持ちわりい。

「ミキオ、もうちょっと早く帰って来れんの? わたし、お腹すいて死にそうだったんだけど」

 ヒトミはすかさず手を伸ばし、小さなプラ容器に入ったフルーツの盛り合わせをごっそり奪う。腹減ってるのは分かったが、デザートから取んなよ。しかも容器ごと。それ、高かったんだぞ。遠慮ってもんはねえのか。

「うるせえ、仕事が忙しいんだ。お前を食わすのにも金がかかんだよ」

 俺は唾を飛ばしながらそう言い返し、さっき作ったばっかの炒め物をさらった。ヒトミは猫舌なんで、熱いもんはいつも後回しにする。

「うわ、出た、ベタな台詞。さすが甲斐性なし。残業代つかないくせに? 昇進試験落ちたくせに? もうちょっとまともな言い訳しろよ。残業時間にいかがわしいサイトばっか観てないでさ」

 ヒトミの見事な切り返し。奴は記憶力がやたら良く、頭の回転も速くて、俺はヒトミと口喧嘩してもいつも負ける。俺はヒトミに勉強を教えたことなんかねえのに。子どもって勝手に育つよな。この心許なさと真っ当な父親はどう向き合ってんだ。

「仕事中にxvideosなんか観てねえよ! そんなに腹が減ってんなら、帰りにコンビニとかで弁当買って喰えばいいじゃん。いつも言ってんだろ」

「観てんのかよ、最低。あんたね、中学三年生のおこづかいが月千円ってどうかと思うわ。毎日牛乳飲んだら終わりじゃん。節約してるわたしの努力も分かってよ」

「ヒトミが自分で決めたこづかいだろ? 別に俺は増やしてもらっても、」

「ちょっと、いい加減なこと言わないでよ。だいたいあんた、今の家の貯金額言える?」

「三マンぐれえだろ」

「それはミキオの残念なお財布ね。家の貯金は桁みっつ多いから。わたしががんばった証なんだから、ちょっとは褒めて欲しいなあ」

「みっつっていくら? 百万? 嘘つけよ。そんなにあるわけねえじゃん。つうか、そんなにあんなら使ったら良くね? なんちゃらってブランドの服欲しいっつってただろ」

「……なんでお金が貯まらないのか、いま分かったわ」

 俺たちの家にはテレビがねえ。イズミと暮らしてた頃、つまりずいぶん前はちっちゃなブラウン管のテレビデオを取っ散らかった和室に置いて、ちゃぶ台でメシ食いながらワイドショーだかアニメだかを笑って眺めたり、巨人戦で長嶋采配を野次ったりしてたもんだけど、夜逃げ同然でこの町にやってきた後は買わんかった。テレビなんか観てるとアホになるしな。それに、あの頃の食卓を思い出すし。そんな感傷もありゃ、リアルな話、NHKに払うような金がねえ。テレビがないからか、ヒトミと食卓を囲むとき、俺たちは仲良しでもねえくせにむっちゃ喋る。なんか喋らんと落ち着かねえんだよな。ちょっと無音が続いたぐらいで息苦しくなんのは他人だからか。マジの家族だったらもうちょっとマシにやれてたのか。ヒトミと過ごしたこの十五年間、俺はちょっとでもマシになることばっか考えてた気がする。それもあと三年ぐらい。三年すりゃ、ヒトミは大学進学して俺から離れ、俺よりかよっぽどよくできた男を捕まえてよろしくやるだろう。そんで、もう俺んとこには帰って来ねえってことぐらい、分かってる。それでいいんだ。ああ、大学、行かせてやりてえな。私立はちょっと無理だけど、国公立ぐらいはヒトミの入れるとこに行かせてやりてえ。バイトなんかしなくていいぐらいの額を仕送りして。つうか、学費ってどんぐらいかかるんだろう。授業料と、家賃と、生活費と、月五マンもありゃ足りんのかな。いま住んでる家の家賃と駐車代が確か合わせて七マンちょいだから、俺が町外れにある狭い文化住宅にでも引っ越しゃ、なんとか、捻出できるかもな。ひとりなら車も要らねえし。うん、三年経ったらここを離れよう。ヒトミの知らねえ家に引っ越して、仕送りだけするATMマシーンになろう。

「高校受験のほうはどうなん?」

 俺は味噌汁にごはんをぶっかけたものを啜りながらヒトミに尋ねた。俺は胃腸が弱くって、大人の男にしちゃメシを食うのがかなり遅いほうで、いつもヒトミのが先に食べ終わる。一応、ヒトミは俺の食事が終わるまで待っててくれる。頬杖をついたままそっぽを向き、手元のアイポッドもどきを聴きたそうに弄りながら。

「いや、余裕。わたし、生徒会やってるから内申点高いし、テストの成績も良いし。つーか成績表渡したじゃん。見てなかったの? 大丈夫、三者面談?」

 ヒトミはイヤフォンの先をひとさし指にぐるぐる巻いて言う。口調には相変わらず毒気があるけど、照れると手元が落ち着かなくなんのはヒトミの癖だ。

「そっか」

 頑張ってるヒトミを褒めてやりたかったけど、俺みてえなだらしないおっさんに褒められても嬉しくねえだろうから、止めといた。そもそも、うちにちゃんと金がありゃ、ヒトミは地元のしみったれた公立校じゃなく、もっと良い私立に行ける筈なんだ。俺から離れ、オシャレな学生寮で楽しく過ごし、勉強やら部活やらにきらきら勤しんで、良い大学に行き、良い企業に就職するっていう、ヒトミなら本来手に入れられる筈の幸せを俺が邪魔してる。子は親を選べねえっていうけど、実子じゃなくて養子だったんだから、もっとできた親に貰ってもらえりゃ良かったのにな。それは僻みじゃなくて、ガチでそう思う。いつも思ってる。

「ごめんなあ、私立行かせてやれなくて」

 食事はもう終わってる。そろそろヒトミは風呂に入る頃合いだったけど、なんか寂しくて、俺はヒトミに絡んじまった。最近、いつもそうだ。ヒトミもこの遣り取りにはいい加減うんざりしてんのか、困ったように眉尻を下げて苦笑した。まだ中学生の子に、こんな大人びた表情をさせなきゃいけねえ俺はほんとクソだ。

「いいよもうその話は。それより早く病院行きな」

 ヒトミはそう言って、机のしたで俺の右足を蹴りつけたことは動きで分かったけど、感触はほとんど無かった。

「もうお風呂入るね」

 俺は一体どんな表情をしてたのか、ヒトミは逃げるように去っていこうとした。

「おい、イヤフォン、置いたままやぞ」

 食卓の脇にとぐろを巻いてるピンク色のイヤフォンを持ち上げ、ヒトミの背中に向かって声を投げた。それとも、ただ呼び止めたかっただけなのか。ヒトミといるとき、俺はいつも自分の気持ちが分かんなくなる。俺は父親じゃなけりゃ何になりてえのか。ミキオと呼ばれる俺は、ヒトミにどんな存在だと思われてんのか。

「それ、右側が聞こえないんだよね。直しといてくんない? 彼氏とふたりでバンプオブチキン聴くとき、わたしだけ聴けないと困りますので」

 ヒトミはそう言って去っていった。俺は手のひらのなかのイヤフォンをじっと見つめる。百均で買ってやったしょぼいイヤフォンだからな。スピーカーとケーブルが断線してるように見える。軽く半田付けすりゃ直せるだろう。左側も接着が甘くなってそうなんで、ついでに半田を当てといたほうがいいかもしんない。俺は何度かヒトミのブラウスの胸ポケットにイヤフォンを入れたまま洗濯したことがあり、ヒトミにだいぶ叱られたんで、それが原因で壊れたのかもしんないと思えば申し訳ねえな。

 けど、「彼氏がいる」っつったのは嘘だ。ヒトミ、学校があるとき以外はだいたい家に籠もってんじゃん。部活も遊びも金かかるからな。なんせ、こづかいも少なけりゃ、スマホもねえ。悪いけど、いったいどこに彼氏を作れる要素があるっつーんだよ。まあそれも俺のせいだけど。ヒトミに彼氏ができるぐらいの甲斐性は持ちたいもんだが。

 ヒトミはよく嘘をつく。しかもすぐバレるようなしょうもねえ嘘を。昔からずっとそうだった。学校でうまくやれてんのか心配にもなったけど、先生とか数少ない友だちの評判を窺うかぎり、普段は全然嘘なんかついてないらしい。ヒトミの周りからの評価を挙げれば、第一に「正直」が来る。それから「素直」「真面目」「優しい」「一生懸命」「誠実」などなど。俺からすりゃ「まじか!?」って感じだけど、それとも、俺の前でだけヒトミが嘘をつく理由があんだろうか。俺がこれまでヒトミにさんざん嘘をついてきた、その仕返しなのか。ヒトミが実の子じゃねえことは言ってないし、母親は死んだことにしてある。そもそもイズミを「母親」って呼んでいいのか分からんけど。けどな、「ヒトミ」って名前を付けてくれたのは、イズミなんだぜ。だからイズミがヒトミを捨てて逃げたなんて思って欲しくねえし、イズミをちゃんと母親だと思って、好きでいて欲しい。だって家族がいないなんて寂しいじゃんか。正しいことが全てじゃないと俺は思うんだ。少なくともヒトミが結婚するまでは。俺はヒトミには幸せになって欲しい。イズミが与えてくれた「ヒトミ」って名前は、イズミが俺に残した宿題って感じがする。俺はちゃんとヒトミを幸せにしなくちゃいけねえ。いつかイズミが俺の人生を採点してくれる、そう信じてる。

 ヒトミのイヤフォンを耳に挿してみた。右側だけ動かねえイヤフォンは俺に似てる。音楽は聴こえねえ。イズミの声が右側でわだかまる。家族、って、なんですか。

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