第3話


 エロ本というものの極意は捨てることにある、と黒鉄鋼は思っている。


 保存することが邪道だ、とは言わない。

 すべてを保管し、ジャンルごとに分け、手に取りやすいよう工夫し、すべてにビニールカバーをかけることも悪いことではない。それは人の趣味嗜好の範囲だし、自分がとやかく言って直させるようなことではない。

 それをわかっていてなお、鋼はエロ本を捨てる。

 ひとつのダンボール箱に保管できるエロ本はおおよそ三〇冊。

 そこから溢れたものは必ず捨てなければならない。

 三一冊目はないのだ。

 それがルール。

 

 エロ本を捨てる時はいつも悩む。

 一度読んで満足したものは次の週にでも古紙回収に出してしまうが、残しておきたいものは秘蔵の三〇冊のどれかと交換しなければならない。

 鋼はいつもダンボール箱の中から一冊一冊を丁寧に取り出して、万年床以外にはなにもない六畳間に丸く並べる。そうして殿堂入りのエロ本と、膝の上に置いた新入りを火が点くほどに見比べるのだ。

 そうしていると鋼はいつも、途方もない充実感の中で、いいエロ本とはなんだろう、という思いに囚われる。

 それは、好みの女の子が表紙を飾っている号か。

 それとも連載されている官能小説が伝説的な盛り上がりを見せた号か。

 あるいは特定のシチュエーションに凝った特集が組まれた号か。

 それともいっそ初恋の女の子が成長したようにしか見えない素人娘を集めた増刊か。

 いつも悩む。

 そうしているうちにだんだん悩みが細分化されていって、いいシチュエーションとはなんだろう、自分が一番グッと来る髪形やスタイルはどれだろう、読みやすい文章だが作者とは絶対に酒を飲み交わせないだろう官能小説と、読みにくくハードで吐き気すらするが絶対にこいつは天才だと思える官能小説どちらが「いい」ものなのか、ここまで来るともはや答えの出しようがなく、鋼はいつも最終的には気分にすべてを任せてしまう。

 直感で、ただし目をつぶることだけはせず。

 一冊選んで、それを捨てる。

 殿堂入りの中から選ぶこともあるし、新入りを諦めることもある。

 そうして大抵の場合、どっちを選んでも後悔する。

 かけがえのない宝物を持ち去っていく冷酷非情な古紙回収車を裸足で追いかけようとしたことさえある。

 失ったものの大きさに身もだえして頭を抱えていると、生意気な後輩からは、そんなに苦しいなら全部取っておけばいいのに、と冷め切った目を向けられる。

 確かに理屈ではそう。

 鋼の部屋は安普請とはいえエロ本ごときで床が抜けることはないし、部屋にはテレビもゲームもパソコンもない。布団と、そしてひとつの黒いダンボール箱があるだけ。あとはせいぜいその日その日に食い潰したコンビニ弁当の容器やティッシュの空き箱が転がっているのみ。とっておこうと思えばできる。

 だが、鋼はそうしなかった。

 そうしてしまうと、途端にエロ本への情熱が薄れていってしまいそうな気がした。

 そして鋼が恐ろしいのは、いまや自分の人生の目的となったこのエロ本の蒐集と廃棄をやめた後に残る、死ぬまで続く倦怠の方だった。

 それに比べれば捨てたエロ本の中身を思い出そうと深夜の二時に頭抱えて悶々としている方がずっとマシだった。

 鋼はなにも思い出したくなかった。自分がボクサーだったことも、自分の右腕がもう無いことも。

 何も考えたくなかったし、何もやりたくなかった。


 ◯


 新しい人生へと踏み出した黒鉄鋼の一日は、驚くほど虚しい。

 カレンダーを見てエロ本の発売日なら昼過ぎに近所の書店へいってその日に出たエロ本を全種類買う。

 最初は冷徹な目を向けてきた女子大生らしきバイトの女の子も、いまではなかば尊敬の眼差しを向けてくるようになった。

 周りに子供がいようが人妻がいようがお構いなしに真昼間からエロ本コーナーに突撃して堂々と女子店員のレジにお目当てのブツを置く姿はかえってなにがしかの使命感すら覚える。

『エロ本しか買わない片腕の兄ちゃん』と言えばその界隈の小学生なら知らないやつはいない。

 一時期は鋼の尻を後ろから蹴っ飛ばす遊びがガキどもの間で流行したこともある。

 鋼はそれでみんなが楽しい学校生活を送れるならそれでもいいかと思って黙って蹴られていた。少し効いた。

 一年もそんな日々が続くと、もうずっとそんな暮らしをしてきたような気がする。

 もう朝早くからロードワークに出ることも、

 ひたすらにサンドバッグを殴り続けることも、

 汗臭いヘッドギアを着けて数階級上の先輩とスパーリングして顔面を腫らすこともない。

 大の苦手だった縄跳びなんぞはみじん切りにして捨ててやった。

 もうボクシングなどしなくてもいいのだ。そうとも。

 したくても、できない。


 ◯


 夜、ふと夢の名残を嗅ぎながら目を覚ますことが今でもある。

 布団の中、鋼は全身汗だくで、闇の中を凝った目玉でぎしっと見つめている。

 木目も見えない闇の向こうにさっきまで見ていた夢が浮かんでくるような気がするのだ。

 そうしてだんだんと聴こえてくる。

 本当にリアルなほどにハッキリとした、雨のような拍手と、

 自分の名を呼ぶ歓声が。



 トレーナーにならないか、と白石会長には薦められた。

 なにせ事故に遭ったとはいえ元・国内チャンピオン。

 その教えを請いたがる後輩は多かったし、仮に多少の含むところがあったとしても、誰もまだ生きている鋼の左を前にして偉そうなことなど言いたくても言えなかっただろう。

 ミット持ちも口先だけのヘタクソに任せるくらいなら片腕でも元王者の方がよっぽどいい、などと言って慕ってくれるやつもいた。

 だが、鋼は首を縦には振らなかった。

 

「いい、やめとく」

「先輩……でも、せっかくですから、受けてみたらどうですか?」

「俺は感覚だけでやってたから。お前らに変なクセつけさせちゃ悪いよ」

「そんなことないですよ。先輩のボクシングには華があった。みんな、先輩に憧れていたんです」

「いい」

「先輩……」

「気にするなって。俺はべつに、困ってるわけじゃないから」


 しかし本当はそれも建前で、鋼は心の底ではこう思っていたのだ。


 ――楽しそうに右腕を振っているやつをずっと見ていたら、きっと、俺は我慢できなくなる――


 恩に着ているジムの床を汚すわけにはいかない。

 鋼はトレーナーを辞退し、右腕を売って得たような、障害者年金を食い潰す生活を始めた。

 最初は頻繁にお見舞いに来てくれた後輩たちも、日を追って顔を出さなくなっていった。

 たぶん、それには鋼の大事な大事な黒い段ボール箱も無関係ではないだろう。

 誰だって憧れていた人間の落ちぶれた姿なんて見たくはない。ましてやボクサーの。

 十八歳の日本王者も、たった一年で、ただの無職に成り果てた。

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