第13話 宿
ユリウスがようやくベッドから起き上がることができたのは、宿の前で倒れてから三日も経ってからだった。
それまでの間、宿に寝かされたユリウスは高熱に浮かされ、朦朧とした意識でわずかな清浄水だけを口にし、身体の中に入り込んだ瘴気の毒素と戦い続けていた。
だが、その勝負は終わった。
魔人との戦い同様、瘴気との戦いにも、ユリウスの騎士としての気高い精神は打ち克ったのだ。
やつれた顔で上半身を起こしたユリウスを見て、宿の女中が慌てて主人を呼びに走った。
すぐにやって来た主人は緊張に強張った顔で、部屋の外からおそるおそるといった態で呼びかけた。
「もし、騎士様」
ユリウスが主人の顔をゆっくりと見る。
主人はごくりと唾を飲み込んだ。
「お目覚めになりましたか。具合はいかがですか」
主人の言葉に、ユリウスはわずかに頬を緩めて答える。
「すっかり世話になったようだな、主人。心配はいらぬ」
そう言って、左腕を上げてみせる。
腕の腫れはひき、“蜘蛛”の針の刺さった後はもう跡形もなかった。
「瘴気は去った。私は魔人になっておらぬ」
「おお」
主人は安心した顔で息をつくと、ようやく室内に足を踏み入れた。
「騎士様。ご無事で何よりでございます」
「迷惑をかけた」
「いえ」
主人は首を振り、外の女中を振り返る。
「食事をお持ちしましょう。騎士様に食事を」
「はい」
返事をして下がろうとした女中に、ユリウスは声をかけた。
「ああ、すまぬ。ちょっといいか」
「はい」
女中が振り返る。ユリウスは尋ねた。
「私宛ての手紙は届いておらぬか」
「手紙、ですか」
若い女中は目を瞬かせる。
「うむ」
ユリウスは頷く。
「王都からの手紙だ」
三日も床に伏している間に、王都から次の指令が届いているかもしれなかった。
ユリウスの脳裏を、山の街で見た悲惨な光景がよぎる。
魔人を倒すのは当然のことだ。だが騎士は、それを素早く、被害が大きくなる前に成し遂げねばならない。
「どこかで魔人がのさばろうとしているのであれば、行かねばならぬ」
「そのようなお身体で。今ようやっと起き上がったばかりではありませぬか」
主人が眉をひそめてそう言うと、ユリウスは首を振った。
「それが騎士というもの。私の存在する意義だ」
そう言うと、ユリウスはもう一度若い女中を見る。
「頼む」
「分かりました。見てきます」
女中は駆け出していき、しばらくすると一通の手紙を手に戻ってきた。
「騎士様宛のものが、一通だけ届いておりました」
「おう」
ユリウスは手を伸ばす。
「やはり届いておったか」
「はい」
女中の差し出した手紙を手に取り、ユリウスは表情を改めた。
「これは」
王都からの手紙ではない。差出人は妹のルイサだった。
やっと機嫌が直って、手紙をまた兄の旅先に出すようになってくれたのか。
「王都からのものではなかったな」
ユリウスはやつれた顔を綻ばせて、主人に封筒を振ってみせた。
「妹からであった」
それを聞いて、主人はほっとした顔をする。
「それはようございました。そのお身体で、魔人との戦いなど……騎士様がいくら我々とは鍛え方が違うとはいえ」
「明日には指令が来るかもしれぬ」
ユリウスは言った。
「騎士とはそういうものだ。別にそなたが気に病むことではない」
そう言うと、ユリウスは少し表情を緩めて微笑んだ。
「だが、主人。その心遣いには感謝する」
「騎士様はこの国の希望でございますゆえ。どうかゆっくりとご静養を」
主人はそう言うと、女中とともに食事の準備のため、部屋から出ていく。
一人になったユリウスは、ルイサからの手紙を改めて眺めてから、その封を切った。
中には、もう一通の手紙が入っていた。
それを見て、ユリウスは目を細める。
期待していなかったと言えば、それは嘘になる。
何度も繰り返し読み直したその字を、見間違えるはずはなかった。
か細い繊細な文字から、書き手の可憐な姿が透けて見えるかのようだった。
それは、シエラのカタリーナ嬢からの返信であった。
手紙は、前回のもの同様、丁寧な時候の挨拶で始まっていた。
それによれば、シエラはこれから冬に向かい、ますます寒くなってきているという。ユリウスが武術大会であの国を訪れたのはもうだいぶ前、徐々に暑くなり始めた季節だった。
ユリウスはシエラの風景を思い出す。記憶に残るそれらの景色も、きっと今はまるで別の顔を見せていることだろう。
手紙には、カタリーナの素朴な驚きと喜びの感情が溢れていた。
まさかユリウスから返事をもらえるとは思っていなかったこと。
手紙が届いた日はどうしてよいか分からず、一晩、封筒を開ける勇気が出なかったこと。
読み始めてからも、ユリウスの温かい言葉に何度も涙で手紙が読めなくなり、中断しなければならなかったこと。
二人の出会ったあの夜のことを思い出すと、今でも胸が高鳴ること。
そして、いつかお会いする機会があれば、その時こそあの夜のお話の続きをしたい。手紙にはそう書かれていた。
そうか。
ベッドの上でその手紙を読みながら、ユリウスは思った。
私の手紙は、きちんと役目を果たせたのだな。
文章に込めた私の気持ちは、確かにカタリーナ殿の心に届いたのだ。
ユリウスは、自分の書いた手紙を読むカタリーナの笑顔を想像した。
一度しか会っていない彼女の控えめな笑顔を、ユリウスは今でも鮮明に思い出すことができた。
苦労して書いた甲斐があった。
カタリーナ殿の心を救うことができた。
そう思うと、手紙を書き上げた時以上の満足感が胸にこみ上げてきた。
ルイサに感謝せねばならぬ。
同封されていたルイサの手紙の、前回と変わらぬそっけない文面を見ながら、ユリウスは考えた。
やはりきちんと返事を出してよかった。
それから、カタリーナの手紙の最後の文面を読み返す。
いつか会うことがあれば、その時はあの日の会話の続きを、か。
それもよい。その思いを互いに抱き続けることができれば、再会した時の喜びは何にも勝るだろう。
だが、それまで待たねばならぬのだろうか。
カタリーナ嬢のことを知るためには、いつとも知れぬ再会の時を待つしか術はないのか。
ユリウスは、手紙をじっと見つめた。
いや。
ユリウスは首を振ると、ベッドを下りた。
歩くと、足が少しふらつく。
瘴気には打ち克ったとはいえ、身体が万全の状態を取り戻すにはまだしばらくかかるようだ。この状態で魔人と戦うとなれば、死を覚悟して剣を振ることになるだろう。
次の指令がいつ届くのか、それは分からない。だが、まだ少しは時間がある。
ユリウスは部屋の戸口から、主人を呼んだ。
直ぐに姿を見せた主人に、ユリウスは頼んだ。
「手紙を書きたいのだ。封筒と便箋を用意してくれぬか」
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