第12話 針
悲鳴とともに、人波が揺れる。
我先にと逃げ惑う人々の怒号。
街は、さながら地獄の様相を呈していた。
だが、その流れに一人、逆行する男がいた。
誰もがそれから一歩でも離れようと、遠ざかろうと必死で逃げる。その恐怖の根源に、自らの意思で近付いていく者。
それは、この国の希望の象徴。
王と国を守る、一振りの剣。
騎士だった。
「私は騎士だ」
ユリウスは叫んだ。
「信じよ。道を開けよ。魔人は私が討つ」
だが恐怖に駆られた群衆にはユリウスの言葉は届かなかった。
ユリウスの長身も、押し寄せる人波の中で埋もれてしまう。
こうなると、山の麓に愛馬を預けてきたことが悔やまれた。
まさか、魔人がもう街へ降りてきていたとは。
“沼”より現れた魔人が、そこを離れて人里を襲うまでにはしばらくかかる。
魔人は最初、沼の近くに踏み込んだ者を襲って、喰らい、力を蓄える。
やがて、十分に瘴気が蓄えられれば、それを撒き散らしながら人里へと歩を進めるのだ。
だが、たいていはそうなる前に騎士が現れて、魔人は討たれることとなる。
……なるのだが。
群衆をかき分けてユリウスは進む。
この街に到着した時には、すでにこの有様だった。
魔人の動きが、速い。
もう何人が犠牲になっているか分からぬ。
人に溢れた狭い道を、ユリウスはなおも進んだ。
一歩一歩がじれったい程に遅い。
それでも、周囲に漂う瘴気が濃くなってきていた。
近い。
やがて、ユリウスの目がそれを捉えた。
“蜘蛛”。
それが、地元の人間たちがその魔人に付けた名だった。
確かに、下腹部の妙に膨れたその男は、まるで直立した蜘蛛のように見えた。
「“蜘蛛”よ」
ユリウスは叫んだ。
「私が相手だ。こちらを見よ」
だが、魔人はユリウスの方を見ようとはしなかった。
あらぬ方向を見やったまま、ぶつぶつと何か呟いている。
その足元には、既にいくつもの無残な死体が転がっていた。
ユリウスは怒りに歯軋りして歩を進める。
ようやく、人の群れを抜けた。逃げ遅れた老人が一人、転がるようにして走ってくるのを庇うようにして、ユリウスは前に出た。
「騎士ユリウス、見参」
その声に、初めて魔人がユリウスを見た。
濁った、汚泥のような黒い目。
口が裂けるように開き、甲高いちぐはぐな声を発した。
「夢に見た……灰の中にちょうどそれが屹立していた」
「それとは何だ」
言いながら、ユリウスは魔人の足元の死体に目を走らせる。
男も女も、大人も子供もいた。
もう少し、私の到着が早ければ。
すまぬ。
「風は動かぬのだ。水が凍るようには、風は澱まぬ」
魔人は言いながら、ゆらりと前に足を踏み出す。
「なぜ、なぜ、なぜ。問うばかりでは石も磨けぬ」
「何の話をしている」
そう言って、ユリウスは剣を構える。
「それが汝の見た夢か」
「星だ。結局は、星が握っている」
魔人が上半身をぐっと屈めた。
次の瞬間、耳をつんざく音。
膨らんだ下腹部が内側から弾けるように破裂した。
そこから飛び出したのは、無数の鋭い針だった。
ユリウスは剣を振るい、それを弾く。
弾ききれない針は、鎧で防いだ。
乾いた金属音を立てて、ばらばらと針が地面に落ちた。
“蜘蛛”という名は、所詮は人間が勝手に与えたものだ。
恐怖に怯えた人間が付けたその名が、魔人の本質とかけ離れていることは珍しくない。
「“蜘蛛”というよりは、蠍だな」
言いながら、ユリウスは前に出た。
魔人の足元の死体も皆、この針にやられていた。歴戦のユリウスの目は、それを見逃さなかった。
この魔人の得物が針であると、瞬時に見抜いていた。
犠牲を悼む気持ちは人一倍ある。だが、彼らの死すらも勝利に役立てるために、悼んでいる暇はない。
騎士とは、因果な道だ。
「行くぞ」
「その言葉は暴論か。いや、空論に過ぎぬ。いつか、あの湖の乙女もそう言っていた」
喋り続ける“蜘蛛”の下腹部が、しゅるしゅると音を立てて元に戻っていく。
また針を撃つつもりなのだ。
ユリウスはそれ以上距離を詰めず、その場で腰を落として待った。
うかつに近付いて、近距離でまともに針の爆発を喰らえば、いかなユリウスといえど防ぐことはできない。だが、この距離ならば。
「百人をひと塊に、首をすげ替えよ。千人をひと塊に、腕を入れ替えよ」
言いながら、“蜘蛛”が低く呻いた。それと同時に、爆発。
無数の針が舞う。
その瞬間、ユリウスは剣を振るった。
「ぐぎっ」
“蜘蛛”が奇妙な悲鳴を上げた。
ユリウスの剣が打ち返した幾本もの針が、正確に“蜘蛛”の身体を貫いていた。
ユリウスが一気に距離を詰める。
それでも“蜘蛛”は喋り続けた。
「夜か。そこまで明るくても、それは夜か。それならば、夜とは何だ」
「伝わらぬ」
ユリウスの剣が一閃する。見慣れぬ色の血を噴き上げて“蜘蛛”は倒れた。
「汝の言葉では、誰にも、何も伝わらぬ」
ユリウスはそう言うと、そのままとどめの剣を突き立てる。
「次に生を受けた時は、手紙を書く練習でもせよ」
「手紙を書く」
“蜘蛛”は最後にユリウスの言葉を繰り返した。
それが最期だった。
魔人の死とともに、瘴気が薄れていく。
逃げ切れずに遠巻きで戦いを見ていた群衆から、歓声が上がった。
一足違いで多くの犠牲を出してしまったことを悔やみながら、ユリウスは山の街を後にした。
魔人を討てば、あとは領主の仕事だ。騎士には、次の戦いが待っている。
ユリウスは、足早に山道を下っていた。
馬で通行するのには向かないこの道を半日も下れば、麓の街だ。
愛馬もそこに預けていた。
宿に戻れば、王都から次の指令が届いているかもしれぬ。
しかし、ユリウスは己の身体の異変に気付いていた。
左腕が、燃えるように熱い。
確かめると、腕は真っ赤に腫れていた。その中心に、一本の針が刺さっていた。
“蜘蛛”の針。
鎧に当てたもの以外は、全て打ち落としたつもりでいたが。
怒りに剣が鈍ったか。
己の不覚を悔やみながら、ユリウスはその針を抜いた。
どろり、と緑色の粘液のようなものが針から垂れた。
瘴気の毒だった。
ユリウスは常に携えている清浄水を口にして毒と戦いながら、身体を引きずるようにして山を下りた。
視界は霞み、全身が火のようだった。
ようやく麓の宿にたどり着いたユリウスは、そこで崩れるように倒れ、意識を失った。
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