第646話

 取り敢えず部屋を出ると、鼻を突くような鉄錆の臭いが強くなった。

 加えて、何とも言えない饐えた悪臭も。内臓と分泌物と、内容物の臭いだ。


 雨戸が閉め切られて暗い廊下には、明かりを持った先客が一人。

 隣室の扉の前で、カイナがフィリップたちを待っていた。


 「遅いお目覚めね、ペットくん。元気なのはいいけど、夜中にあまり騒がないで頂戴ね」

 「え、あ、はい……。そっちには出なかったんですね、お化け」

 「お化けは分からないけれど、もっと恐ろしいものに襲われたヒトは居るみたいよ」


 カイナが示す部屋を覗く。

 廊下に漂う臭気から想像していた通りの光景が、部屋の中に広がっていた。


 ベッド、ソファ、テーブル、旅行鞄、何もかもが赤黒く汚れている。

 人間は二リットルの出血で死に至ると言われているが、そんなことはどうでもいいと、肉袋の中身をどれだけ広範囲に撒き散らせるかチャレンジしたような有様だ。


 フィリップたちの使っている二人部屋より幾分狭く、その分、血で汚れている範囲が広く感じるのもあるだろう。


 「……一応聞きますけど」

 「私じゃないわ。血の臭いがしたから身に来たら、この有様。血の乾き具合からして、昨日の夜中にやられたようね」


 はいこれ、と手渡されたのは小さな鍵だ。

 フィリップたちの部屋の鍵とよく似ているが、普通の鍵より複雑な形だ。聞けば、当初は扉も鍵も開いておらず、一階の受付からマスターキーを取ってきたのだという。


 「メインの鍵は?」

 「さあ? 下のカウンターには無かったわよ」

 「それのどこかに埋まってるんじゃないですか?」


 適当なカノンの言葉に溜息を一つ。

 フィリップは既に乾いた血だまりを踏んで、部屋の中に立ち入った。


 「…………」


 ベッドの上には、赤黒い塊があった。

 

 塊。


 片手で顔を守り、片手で腹を庇い、足をばたつかせて身を捩り、どうにか身を守ろうとしたのだろう。

 そしてその防御と抵抗の全てを無視するかのように、手も、足も、胸も腹も顔も、肉がばらけるくらい滅多刺しにされている。


 腕と腹を一緒に貫かれて肉が絡み合い、捏ね合わせたようにくっついている。


 同じことが顔や脚で、肉と服でも起こっていて、一見して人間の死体だとは分からない。


 骨がそのまま剥き出しになっている部分もあれば、砕け折れて筋肉だけで繋がっている部分もある。


 さながら、包装紙ごと噛んだガムのような有様だ。無事なのは足の先くらい。


 「……カノン、鍵。っていうかマスク貸して」


 フィリップが息を止めて鼻声で言うと、カノンは頬に手を当てるような仕草をした。

 無骨なガスマスクのフィルターが邪魔をして、頬には触れられていないが。


 「え、やだそんな、間接キスになっちゃうじゃないですか。あ、ごめんなさい出します」

 「用意がいいね」


 いつから持っていたのか、給仕は新品のガスマスクを恭しく差し出した。


 そしてもう一つのオーダーを叶えるべく、どろどろのベッドに躊躇いも無く乗っかる。 

 血を吸って乾いたシーツがぱりぱりと音を立て、奥の方から乾いていなかった液体がじわりと滲んだ。


 きったね、と言わんばかりに眉根を寄せるフィリップとアンテノーラ。

 カノンは二人に構わず、甲殻に覆われた手を肉塊に突っ込み、肉の筋を取るように分解していく。


 「……刃物の傷ね」


 カイナが静かに呟き、フィリップは渋い顔になった。


 「……短剣?」

 「ですね。両刃、刃渡りは二十センチ無いぐらい。鋭すぎず、鈍くもなく、その辺で売られてるような一般品かと」


 嫌な話だ。


 昨夜の暫定お化けが持っていたのも短剣だった。

 流石に鋭さまでは分からないが、サイズはそのくらいだった気がする。


 「……賊?」

 「いやあ、昨日のお化けでは? だってほら、こんなに血みどろなのに足跡一つないですし、飛び散った血が遮られた形跡もないですよ。お、鍵ありました」


 カノンが血塗れになった小さな鍵を振って示す。


 服のポケットに入っていたのだろう。

 それが度重なる刺突で服ごと肉の中に埋め込まれ、今に至るか。


 確かに昨夜、鍵や扉の音はしなかった。

 この部屋も、カイナがマスターキーを取ってくるまでは施錠されていたというし、鍵はイザベラが持っていた。死ぬまで──いや、死んだ後も。

 

 フィリップたちの部屋にも、お化けは扉を通り抜けて入ってきた。


 「うーん。足音はしてたのに、足跡は付かないの?」

 「さあ? お化けに聞いてください」


 不思議そうに首を傾げたフィリップに、カノンも首を傾げて返す。

 そりゃそうだと薄く笑みを浮かべたフィリップだったが、その表情はすぐに曇り、不愉快そうな溜息まで漏れた。


 「どうかなさいまして?」

 「……お化けなんだから、もっとお化けらしいことをしてほしいよね。そりゃ、扉を通り抜けるっていうのはそれっぽいけど」


 だが、この殺し方は頂けない。


 些か

 腕と腹の肉が混ざり合ってくっつくまで滅多刺しにすれば、そりゃあ死ぬだろう。だが、そんなのは人間にだって出来る。


 というか、カルトを如何に苦しめて殺すかという探求に余念がないフィリップにしてみれば、この殺し方はだ。


 ここまで執拗に刺突を繰り返すスタミナは大したものだが、傷の九割は死後に与えたものだろう。

 これは惨殺とは言わない。殺した後で死体をぐちゃぐちゃにしただけだ。


 端的に言ってド下手糞。この殺し方をする奴にはカルトを譲れない。


 そんなことを考えているときに、横から「強い恨みがあったんじゃない?」とカイナが言ったことで、フィリップは鼻で笑いそうになるのをぐっと堪える必要に駆られた。


 「いやあ……これで憎悪を晴らせるなら、そいつは運動で気分が晴れてるだけですね。その程度なら肉を食って七時間寝ればすっきりするでしょう。もしくはインターバルランニングでもしてろって感じです」


 本当に強い恨みを持った殺し方というものを、フィリップはよく知っている。


 カルトを殺すという行為を食事に準えるなら、メインディッシュは苦痛と恐怖と絶望だ。

 血の気が失せ老いて見えるほど歪んだ顔や、空気の無い肺から無理矢理に絞り出した呻き声や、乾いた喉が張り裂け血を吐くような絶叫からしか摂取出来ない栄養素がある。


 殺した後で死体を踏みつけにするのは、食後に紅茶を飲むようなものでしかない。


 その例で言えば、これは紅茶をがぶ飲みして腹を膨らませただけ。

 食事をした憎悪を晴らしたとはとても呼べない。

 

 「専門家が素人の稚拙さを嘲笑う真似は如何なものかと」

 「せ、専門家……? 何の……?」


 窘めるアンテノーラに、カイナが困惑の声を漏らす。

 いや困惑どころか、同族が凄惨に殺された現場で「この殺し方は駄目だね」みたいな批評を始めたフィリップに引いてもいた。


 フィリップとアンテノーラがその疑問に答える前に、ベッドの上から大きな溜息が上がる。


 「あー、駄目ですね。手掛かりゼロです。後処理の痕跡なしにここまでクリーンなのは、人間業じゃないですよ」


 感嘆するでもなく、フィリップを脅かそうとするでもなく、カノンは至極適当に言った。

 手を振って付着した血や肉片を落とす様子に、他の三人から「汚いなあ」と不愉快そうな視線が向けられる。


 まあ三人とも乾いた血や肉片の飛沫を踏んで立っているわけだし、今更ではあるが。


 「……どうせ吹雪が止むまでは動けないし、掃除しようか。折角の豪奢なお宿だし、吹雪が止むまで血の臭いを浴び続けるのも不愉快だし」


 ね、と振り返ると、お姉さん二人から冷たい微笑が返された。


 「それより、扉を密閉する方が楽じゃないかしら。この気温だし、窓を開けておけば腐敗も遅いでしょう」

 「用途外ですわ」


 一応は代案のようなものを出すカイナとは違い、アンテノーラの拒絶は取り付く島もない。

 にっこりと笑っているが、これ以上食い下がらせない圧を感じる。


 「えー……。まあ、いいや。じゃあ二人でやろっか」


 人手は多い方がいいんだけどね、としょんぼりしながら言うフィリップ。


 元宿屋丁稚とはいえ血汚れの掃除は初めて……ではない。

 いつぞや公爵邸でやらかした──フレデリカの祖父を模した模造人体の頭に弾痕を刻み、脳漿と血液をお高いカーペットだの壁紙だのにぶちまけた事件──時の経験が生きる。


 と思ったのも束の間、カノンがとんでもないと言うように激しく頭を振った。


 「私がやるので、フィリップ様は一階で朝ごはんでも食べててください! ご用意いたしますので!」

 「そう? じゃあよろしく」


 フィリップは適当に頷く。

 言い出しっぺの身で他人に掃除させ、自分は暢気に朝食を摂ることへの罪悪感は無かった。

 

 それを自覚せず、何故とも思わない程度には、着実に“教育”が進んでいる。

 尤も、相手が人外、特にカノンであることも大きいが。


 結局、それは流石に悪いと、朝食は宿にあった食材を使ってカイナが用意してくれた。

 ……口ではそう言っていたが、魔物の作ったものを食べるのに抵抗があった可能性もある。



 一階の食堂に集まった三人は、そこそこ豪勢な朝食と洒落込んでいた。

 フィリップもアンテノーラも、朝からガッツリ行けるタイプだ。あんな惨状を見た後でも。


 それはカイナも同じで、ルキアやステラに引けを取らない上品な所作と、エレナやカノンの健啖さを足して二で割らない見事な食べっぷりだった。


 「そういえば、ミナのお母さんはどうしてこんなところに? ディアボリカを探しに出かけたって話は聞いてますけど……正直、だいぶ見当違いですよ、ここ」


 食事中の会話に抵抗が無いフィリップは、思いついた疑問を、最低限のマナーとして口の中のパンを飲み込んでから尋ねる。


 見当違いというか、とうに通り過ぎているというか。

 広大な大陸を何の指標も無く虱潰しに探すなんて真似をすれば、そりゃあそうなるだろうけれど。


 「彼が何処に居たかまで知っているの?」

 「あ、はい。アレが封印を破って出てきたときに、偶々同じ場所に居て──って、この話はしてませんでしたっけ?」

 「いえ、初耳ね……」


 言われてみれば、昨日は「ミナはいかに素敵な化け物か」という話しかしていなかった気もする。

 カイナへの優しさからくる現状説明ではなく、ご主人様自慢の心持で語っていたし、当然と言えば当然かもしれないが。


 それに、この一家の中でフィリップの最優先はミナだ。あとの二人はおまけに過ぎない。

 

 「彼とも仲が良かったの?」

 「いえ別に」


 フィリップはきっぱりと頭を振った。

 あんな狂人と仲が良いと思われるのは甚だ心外──いや、まあ、それを言うなら“魔王の寵児”と仲が良いと思われる方も心外かもしれないけれど。


 「なんやかんや絡んでは来ましたけど、ディアボリカと一緒に居るとミナがあんまりいい顔をしないっていうのもあり、紳士としてだの夫としてだの教えようとしてくるのが鬱陶しくもあり、って感じですね」


 そういえばアレは、遊びに行ったきり帰らなかった形なのだったか。


 古城で聞いた限りだと、確か「人間の町まで遊びに行って、その近くの森で実験していたらヴィカリウス・システムを嗾けられて」封印されたとか。

 

 雑談半分、再会した後に怒られてしまえというディアボリカへの悪意半分でそれを話してみたが、カイナの反応は予想とは違っていた。


 「そう……」


 彼女は静かに、どこか慈愛を滲ませて呟く。

 夫の行動に呆れているという風ではないし、むしろ何かを理解したように頷いてさえいて、フィリップは思わず怪訝そうに眉根を寄せた。


 ずっと我関せずという顔で食事をしていたアンテノーラでさえ、ちょっと引くほどのエピソードだというのに。


 「意外そうな顔ね。彼にどういう印象を抱いているのか大体の察しは付くけれど……」


 “娘婿”の件に関してはやっぱり思うところがあるのか、カイナは気まずそうに微苦笑する。

 しかしそれでも、「でもその件に関しては、ただの遊びじゃないわ」と、確信を持った口ぶりで言い切った。


 「……求血症、という病気があるの。簡単に言うと、性的興奮を伴わず、その代わり強迫性を持つ暴力的血液性愛ヘマトフィリア……と言って分かるかしら」


 フィリップは数秒だけ考えたが、頭を振って否定する。

 精神病理を学ぶ上で異常性愛パラフィリアについて触れたことはあるが、流石に個々の症例や病名までは細かく覚えていない。


 実は知り合いに同じ性癖を持った元暗殺者のメイドがいるのだが、当然ながら「友達の従者」の性癖なんか知る由もないので、フィリップにとっては初耳だった。


 「もっと具体的に言うと、不定期かつ衝動的に、血を見たり浴びたりしたくなる病気ね。獣の血でも、人間の血でも、エルフのものでも構わないけれど、赤くないと駄目。そして、でないと駄目」

 「へえ、そんなものが……? あぁ、ディアボリカはそれを?」


 馬鹿げた行動の裏にあった悲しい病気の話……或いは、あの古城で過ごした二週間、フィリップに病の片鱗さえ感じさせなかった懸命な自己管理に感動すべきなのだろうか。

 

 正直どうでもいいというか、「不死身の吸血鬼なんだし自分の腹でも捌いてろよ」と言いたいところではあるけれど──。


 「いえ、私がそうなの」


 さらりと言われて、フィリップはぱちぱちと目を瞬かせた。


 「……なるほど。ちなみにそれって感染うつりますか?」


 精神疾患のようだし、そんなことは無いと思いたいが、これで「咳やくしゃみでうつるわ」とか言われたら最悪だ。

 その場合はもう速やかに殺すしかない。


 魔王軍の情報は惜しいが、不定期に制御できない暴力衝動が湧き上がるような病気を抱えて王都に戻る方が問題だ。

 感染者がカイナであれ、フィリップであれ。


 問われたカイナは首を横に振ったが、残念ながら、それはNOという意味ではなかった。


 「分からないわ。私に周りで誰かに感染ったことはないけれど、そもそも吸血鬼との長期的な接触によって感染し発現する、とても希少な病気なのよ。実例が少なすぎて何とも言えないわ」

 「……? へ、へぇ……?」


 いや、「へぇ」ではない。

 そんな気の抜けた相槌を打っている場合ではない。


 それは分かっているのだが、物凄く嫌な話だった。

 嫌な話過ぎて、耳から入った情報が頭蓋の上を滑って逆の耳から出て行ったような気がするくらいに。


 「ちょ、っと……もう一回いいですか?」


 食器を置いて頭を抱えたフィリップに、カイナは不思議そうに首を傾げつつも頷いた。 

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