第639話

 未だ逆向きの足跡が残る道を、アベルは飛ぶように戻った。

 

 踏まれて解けて再び凍った、走りにくい地面をものともしない。いや、悪路であることにも気付かないほど、心も足取りも弾んでいる。


 集落に戻ると、出発した時よりも人──いやエルフが多く、賑やかだった。

 魔物狩りに出ていた戦士たちが戻ってきて、家族や村長に戦果を語っているところだ。


 『お、アベル! 戦果アリって顔だな! こっちも──』

 『悪い! 後で話そう!』

 『ははっ、オーケー。後でな!』


 上機嫌な同僚の言葉を、アベルは言葉とは裏腹に喜色満面で遮る。

 家に向かう足を止めることすらしない様子に同僚は苦笑を浮かべたが、まだ狩りの成功による達成感や満足感が抜けておらず、朗らかに笑って手を振った。


 一息で十メートル以上を跳び、自宅ツリーハウスに続く回廊へ上がる。

 どたどたと足音を立てて走る無作法は、普段ならご近所さんに咎められるが、今日は魔物狩りもあって皆が浮かれている。


 足音、豪快な笑い声、ヒートアップした話し声。

 そういうちょっとした騒音は、もはやそこかしこから聞こえてきた。

 

 『ジェーン! ただいま!』 

 『おかえりなさい、アベル』

 

 走ってきた勢いのままドアを開け、文字通り転がり込むような帰宅となったアベル。

 その顔に浮かぶ満面の笑みや汗の雫を見て、ジェーンは幼子に向けるような慈愛の笑みを浮かべた。


 『援助に来てくれた子たち、「用は済んだから」って──』

 『聞いてくれジェーン! これで君の記憶を治せる!』


 妻の言葉までも勢いよく遮り、アベルは懐から小さなガラス瓶を取り出した。

 僅かに震える手で、しかし絶対に落としたりしないようしっかりと掴んだその中には、小さな黒色の結晶が一つ。


 サイズや形状は氷砂糖のようだが、透き通った黒色と屈折率はエルフの知るどの薬品とも一致しない結晶だ。


 『それは何?』


 ジェーンは一瞥程度の観察のあと、すぐに尋ねた。

 単なる宝石か、知らない物質か、はたまた知ってはいるが素っ頓狂なタグ情報と繋がっているのか。彼女自身では判別のしようがない。

 

 だから一瞥して分からないものがあればすぐに尋ねる癖が、この100年で染みついている。

 エルフはほぼ例外なく薬学を修め、その家には様々な薬品がある。なにを触るにもまず訊いて確認しなければ、危険すぎて歯磨きもできない。


 なんせ、彼女は保護された初日に歯磨きをしようとして、歯ブラシの代わりに防毒マスクを、歯磨き粉の代わりに大物狩りに使う猛毒を使いかけたくらいだ。

 アベルが念のため見守っていたおかげで事なきを得たし、エルフの肉体性能なら、300キロの熊を殺す毒でも解毒剤を作るまでの時間くらいは普通に持ちそうだが。

 

 『魔力に作用する薬なんだ! 君の記憶障害は神経回路を魔術的に遮断することで連想機能を……って、ごめん、この話は長くなるから、先に飲んで!』

 『もう……。分かったわ』


 捲し立てるようなアベルの口ぶりに圧されつつ、ジェーンは素直に小瓶を傾け、内容物を直に口へ落とす。

 得体の知れない薬を口に含むことに対する忌避感は、100年間で培われた夫への信頼が打ち消した。


 舌に乗せると、氷ほどではないが冷感がある。

 噛み砕くべきかと一瞬考えて、そのまま嚥下した。固いものが喉を通り、胃に落ちていく感覚が消え──。


 「…………」

 『ジェーン……?』


 力を失った手から小瓶が落ち、アベルは床に落ちて砕ける前に慌てて受け止める。


 全てを思い出した妻が満面の笑みを浮かべると、アベルは無邪気に信じていたわけではない。


 重篤な記憶障害に至る経験それ自体が、きっと痛かったり辛かったりしただろう。


 エルフの肉体年齢は当てにならないが、知識量や精神的には500歳のアベルより更に年上のような感覚もある。

 もしその感覚が正しければ、最低でも500年分の記憶や思い出を、この100年、ずっと思い出せなかったわけだ。


 だから。


 「──、」


 彼女が吐息を震わせて落涙したことに、アベルは驚かなかった。


 予期していたし、心の準備もしていた。

 こぼれ落ちそうなほど見開かれた翠玉のような双眸も、流れ落ちる雫も、全部。


 それでもやはり、胸が締め付けられる。


 彼女は明朗快活というタイプではないが、よく笑う。

 声を上げたり、楽しいから笑うのではなく、遊ぶ子供を見守る親のような慈愛を滲ませて。アベルにも、彼の姉にも、他のエルフにも分け隔てなく優しい笑みを向ける。


 そんな彼女の涙は、長く共に居るアベルをして初めて見るものだ。

 ジェーンは自分の記憶障害をどこか客観視している風でもあったし、アベルも妻を泣かせるような真似は一度たりともしたことがない。


 大切な記憶や思い出を、これまでの彼女はそうと認識していなかった。

 たった今、それらを失っていたことを認識したのだ。


 『……帰らないと』

 『ジェーン、記憶が戻ったんだね! 元の家とか、家族とか、思い出せた? その、もしもそこに戻りたいのなら、俺としては──』


 涙に濡れた虚ろな呟き。

 胸の詰まるような感情に急かされて、アベルは努めて明るい声を出した。


 『……探さないと』

 『うん、まだ思い出せないことがあるのなら、勿論協力するよ! まずは──』


 何を聞こう、と、アベルは言葉に詰まった。

 いや、ジェーンの記憶機能が治った後、何を聞くべきかは決めていた。決めていたが、妻の涙を前にして、用意も何も無くなってしまった。頭の中は真っ白だ。


 『ごめんなさい……』


 ジェーンは両手で顔を覆い、伏せる。

 それでも指の間からぽたぽたと雫が溢れるほど、滂沱の涙を流していた。


 それはこの100年で最も大きな感情の発露であり、100年前に抱くべきだった喪失感を100年熟成させて作った悲哀と後悔の表出だ。


 『大丈夫。大丈夫だよ。俺が必ず力になる』


 肩に手を添え、元気づけるように繰り返す。

 しっかりと、しかし語調が強くならないように気を配りながら。


 その言葉も届いていないかのように、ジェーンは顔を覆ったまま啜り泣いていた。

 謝罪と後悔を繰り返し呟き、湧き上がる感情を必死に吐き出し続けている。そうしなければ、激情は毒となって精神を蝕むと、誰よりも彼女自身が理解しているかのように。


 『ごめんなさい……ウィルヘルミナ』

 『それは──』


 ぽつりと呟かれた、誰かの名前。


 そうだ、と、アベルはようやく思い出した。

 妻の記憶が正常に戻った後、初めに言おうと思っていたこと。


 名前を、聞こうと思っていた。

 カルテに書いた仮名で、彼女が「響きが可愛いから」と今でも名乗っているジェーン名無しではなく、本当の名前を。


 そして。


 ──それが、アベルの最後の思考だった。


 ジェーンは顔を上げ、流れる涙も、腫れた目元もそのままに踵を返す。


 「──」


 その背後、どっ、と鈍い音を立てて、首のない身体が倒れ伏した。


 『すぅ……ふぅ……。落ち着くのよ、カイナ。癇癪も八つ当たりも、何の役にも立たないでしょう。ミナはきっと使用人たちが守ってくれているわ……』


 癇癪。八つ当たり。

 そう自覚している感情任せの動きには、油断していたとはいえエルフの戦士であるアベルが知覚できないほどの速度と術理があった。


 飛び回るだけで無害な羽虫を払い除けるような裏拳が、頭蓋を砕きながら頚椎を千切るほど。


 『さっきの子……あの気配、魔王の加護だったわよね。人間じゃない……人魚、よね、多分』


 じわり、じわりと、床板に血が染みていく。

 夫婦二人だけが住む小さなツリーハウスは、木々や薬品の臭いから、濃密な血の臭いに塗り替わる。


 100年過ごした家。

 壁板を修繕した記憶までもが確かに残っているのに、初めて訪れた場所のように感じる。


 その中で、ジェーン──そう呼ばれていた、そしてカイナという本来の名を思い出したエルフは、周囲の状況に気を配る余裕が無かった。


 いま自分は誰を殺したのか、とか。

 せめて死体の処理だとか、証拠の隠滅だとか、そういうことを考えるべき場面のはずなのに。


 『鍵の守護者がこんなところまで浸透しているなんて、一体どういうこと? 本気で人類を滅ぼすつもりなのかしら……?』


 人類が滅びるかもしれない──そんなことはどうでもいい。


 彼女の気がかりはただ一つ、100年前に別れたきりの娘のことだった。

 戦闘も、戦争も、何も知らない娘。しかし魔王の加護は当然に、穢れなき無垢を血と鉄と炎の中に叩き込むだろう。


 それが魔王との契約。

 庇護を受け、領地を与え、聖性による邪悪特攻を跳ね除ける加護を与える。その代価は、魔術契約によって必ず支払わなければならない。


 『……とにかく、彼女に話を聞きましょう。落ち着いて……』


 最優先は帰還。

 娘の現状を確認し、一刻も早く保護しなければならない。


 魔王と人類との戦争について考えるのは、その後だ。


 100年──そう、100年もあった。

 優秀な使用人たちが娘を教え、鍛え、強く育て上げているかもしれない。或いは、自分と入れ違いに帰還した夫が、正しく責務を果たしているかもしれない。


 その希望は十分に見える。


 「──、」


 ジェーン──カイナは深呼吸を繰り返す。

 血の臭いが鼻腔を通り、肺に満ち、吐き出す。


 吸って、吐く。

 数十秒をかけて、大丈夫、大丈夫と繰り返し自分に言い聞かせ、言葉を脳髄へ染み渡らせる。


 そうして不安と焦燥を、ある程度吐き出したときだった。


 とんとん、と、玄関の扉が軽く叩かれた。

 控えめな音によって、絶望と恐怖と後悔とが渦巻いていた脳内に、僅かな現実感が戻ってくる。


 『ジェーンちゃん、アベルはもう戻ってる?』


 義姉──アベルの姉の声。

 記憶障害を引き起こし、自分の名前すら思い出せなかった彼女を背負い、安全な場所まで連れ帰ってくれた、一人目の恩人。


 その声に引き寄せられるように、カイナは幽鬼のような足取りで扉へと近づいた。


 朦朧と……ではない。

 足音を殺し、気配を消し、動きを風に溶かすような


 『あら? 血の匂いがするけれど、ジェーンちゃん、大丈夫──、え?』


 扉は外から開けられた。

 何百年も同じ顔ぶれで過ごすエルフのコミュニティでは、泥棒の類を端から想定していない。家の扉には鍵も閂も、設計段階から付いていない。


 実の弟の家で、ましてや義妹が怪我をしている疑惑まであって、扉を開けないという選択肢は無い。


 故に、彼女は死んだ。


 とん、と胸に手が触れる。

 扉を開けたすぐ先に居たジェーンが、驚いて咄嗟に手を伸ばし、それが偶々当たっただけ。そんな自然な動きで、その程度の衝撃で。


 そして。


 それが平手ではなく柔らかく握られた拳であることと、ちょうど心臓の真上であることに気付いた時には、もう遅かった。

 

 ズドン! と、擬音にするならそういう類の、重い衝撃が加わる。

 乳房が潰れ、胸筋が裂け、胸骨が砕け、肋骨が歪み、心臓が撓む。まるで、巨岩が降ってきたかのよう。


 拳が触れた状態から繰り出されたゼロインチ・パンチ。


 『う、ッ──!?』


 驚愕と苦悶が入り混じった僅かな呻き声、或いは断末魔を上げ、望まれぬ訪問者は玄関口に倒れ伏した。


 心臓震盪による心室細動、致命的不整脈。

 如何なエルフとはいえ、心臓が動かなければどうしようもない。


 戦闘も、会話も出来ない。息を吸って吐いたところで、血液循環が止まっていては酸素の交換も供給もあったものではない。 


 『たす、けて──』


 彼女は最後に手を伸ばした。

 倒れ伏したまま懸命に顔を上げ、義妹の足に縋るように。


 殺意のない事故だと思ったのか、「敵」と分かった上で心停止の苦しみがそうさせたのか。


 誰にも分からないし、誰の関心も買わない。どうでもいいことだ。

 

 『しーっ』


 唇に人差し指を添え、カイナは一歩踏み出す。

 躊躇いなく。倒れた義姉の頭蓋へと。


 鈍い破砕音と、液体がぶちまけられる湿った音が木材に吸われる。

 恩人の頭を踏み潰した女の口からは、ほっとしたような溜息が零れた。


 そして扉の閉まる音を最後に、ツリーハウスは静寂に包まれた。


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