第43話 クルシェと九紫美の戦い

 クオンの執務室の電話が鳴った。


 クオンは胸騒ぎを感じながら受話器を取り、相手の出方を待とうと思ったが、すぐに声が流れてくる。


「クオンね。顔は合わせたけれど、話をするのは初めてかしら」

「まさか、クルシェか?」


 その名前を横で聞いた九紫美が眉宇をひそめる。


「ハチロウは死んだわよ。次はあなたの番」

「バカな……!」


 常に沈着なクオンの声がさすがに震えていた。尋常でないクオンの様子に、九紫美が驚いてその横顔に視線を注ぐ。


「言われた通り、今からそっちに行くわ。九紫美にも、そう伝えておいて」

「いい気になるなよ」

「九紫美がいるから落ち着いていられるんでしょ? 惚れた女を戦わせておいて、自分は隠れているといいわ」

「この……」


 クオンが声を絞り出す前に通話は切れた。暗然と受話器を置くクオンへと、顔色を伺いながら九紫美が尋ねる。


「何があったの?」

「ハチロウが、クルシェに殺されたようだ」

「そんな⁉ あり得ないわ。きっと……旦那は行き違いになったのよ」

「ハチロウにつけた部下からの連絡もない。一応、こちらから連絡してみるか」


 クオンはハチロウと一緒にいるはずの配下に電話をかけたが、五人とも応答が無かった。


「どうやら、クルシェの言ったことは本当らしい」

「旦那が、あんな小娘に負けるなんて」


 信じられない、という本音を飲み込んだようだった。

 だが、失意と驚愕をすぐに抑え、九紫美は静かに言った。


「行ってくるわね。安心して、私は負けないから」


 クルシェを迎え撃つために九紫美が扉へと向かう。その細い後姿へと呼びかけようとしたクオンが思い止まり、黙ってその背を見送った。


 一人残されたクオンは机上に険しい目を向けている。

 まさか九紫美がクルシェに負けるなどとは微塵も思っていないが、クオンの胸中はクルシェの放った一言で荒れていた。


 惚れた女を戦わせて、自分は隠れていると抜かしやがったな……!


 クオンは執務机の引き出しを開いた。そこには護身用の拳銃がしまわれている。

 クオンは決して配下に守られているだけの男ではなく、自力で身を守れる程度には修羅場を潜っている人物である。


 しかし、クオンが心中穏やかでないのは、彼の力量を軽んじられたからではない。


 俺は九紫美だけを戦わせるつもりは無い! 俺にとって九紫美は……!


 激情に揺らめくクオンの浅葱の瞳が銃身に吸い寄せられていた。





 クルシェはクオンとの通話を終えた公衆電話を切ると、〈月猟会〉の事務所へと歩を進める。


 できることは全て行ったつもりだ。

 後は、全身全霊をかけて九紫美と戦うだけである。


 ハチロウとの戦いで受けた負傷は、人気の無い場所で応急処置をしている。包帯を巻いたおかげで出血も止まったし、左腕と腹部の傷の痛みも和らいでいる。


 ソウイチがいれば手早く済んだと思うと、改めて彼のありがたさを感じ入るようだ。とにかく、一刻も早く〈月猟会〉と決着をつけてソウイチを助けに行かなければならない。


 指定された〈月猟会〉の支部は目抜き通りから外れた場所にある。中小の商社の建物が並ぶ一角に位置していた。時計の短針が頂点を過ぎているため、明かりの点いている窓はほとんどない。


 クルシェはある建造物の前で立ち止まった。三階建てのこの建物が〈月猟会〉の支部にして若頭であるクオンの本拠であった。三階の照明が灯っている部屋にクオンがいるのだろう。それまでの道筋に九紫美が待ち構えているに違いない。


 クルシェは何気なく背後を振り返った。そこには、いつもいるはずの二つの人影が欠けている。どこか背中にうすら寒さを感じつつ、クルシェは入り口を潜った。


 玄関を入ってすぐの一階は広間になっていて人気は無い。クオンが動かせる配下が少ないとはいえ、事務所が無人ということはあり得ない。恐らくはクルシェと戦えるのは九紫美のみと心得ていて、人払いをしているのだろう。


 クルシェは不意打ちを警戒しながら二階への階段を上がる。


 九紫美ならば壁面を擦り抜けて、どこからでも攻撃を仕掛けてこられるのだ。建物に入った時点で油断はならない。


 階段を上がり切って二階に辿り着いたクルシェは踊り場から広間に進み出た。

 このまま三階に直行してクオンを狙うこともできるが、九紫美に後ろをとられることは避けたい。


 クルシェは二階もくまなく調べることにした。二階は構成員達の事務室に使われているのか、事務机が並べられており遮蔽物が多い。


 事務所内を進んでいき、室内に幾つか据えられている柱の横を通り過ぎたとき、いきなりクルシェが上半身を沈めた。


 柱のなかから伸びた手が拳銃を発砲したのだ。銃撃をやり過ごしたクルシェが素早く前転して机の陰に隠れると、用心深く柱の方を窺う。


 柱から生えた腕に続いて足が、肩が、そして冷涼な表情の容貌が現れる。何としてもクルシェが倒さねばならない強敵、〈影踏み〉の九紫美だった。


「ちゃんと来たのね。その素直さは、とても喜ばしいわ。それを利用する人間からすれば」

「冥府の門の前でも同じことを言えるか楽しみね」


 九紫美の柳眉が逆立つ。減らず口そのものよりも、クルシェがこの状況に臆していないことへの苛立ちのようである。


「小娘、自分の立場を理解していないようね。あなたは、ただの蝋燭の灯火。これから圧倒的な闇に飲み込まれるのを待つだけ」

「自分のことが見えていないのは、あなたの方よ」

「何ですって?」


 九紫美が声音にも不快の粒子を含ませる。


「あなたが望むように、クオンがこの街の権力者になる道は断たれたわ」

「……」

「〈月猟会〉が今まで敵対組織に勝ち続けられたのは、あなたとハチロウの二人が揃っていたから。あなた一人では、クオンを守るのと、敵を殺す役割を分担することはできない」


 それまで抑えていた九紫美の激情が、平静の仮面に瑕疵を入れ始める。


「ハチロウが死んだ今、その代わりを努められる人物は存在しない。ハチロウほどの実力者は二度と見つからないし、その人物を雇う前に〈月猟会〉は敵対勢力に敗北するわ」


 九紫美の仮面が音立てて割れ、その下から憤怒を覗かせた。


「そんなことない! 私一人で彼を守ってみせる!」

「あなたも今ここで死ぬわ」

「クオンの夢を邪魔しないで!」


 九紫美が叫んで拳銃を連射する。


 クルシェが隠れている机の表面を具現化した怒りが蹂躙した。

 その感情の発露の派手さと裏腹に、クルシェには傷一つつかない狙いの粗雑さが、九紫美の動揺を露呈していた。


 クルシェの思惑の第一段階は成功した。


 九紫美の平静を失わせること。九紫美もさすがにこの程度で我を忘れることはないが、判断力を鈍らせることはできるだろう。

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