第32話 窮地と暗転と
「もう、クルシェってば、やっぱり怒ったわね」
床に伏せて様子を見ていたソナマナンが、中腰になると移動を開始した。
クルシェの猛攻は無駄ではあるが、九紫美を引き付けておくという点では重要な働きをしている。
この機を逃さずソナマナンはクオンを殺害してしまおうと考えた。今なら彼を守るのはエンパ一人。不可能なことではない。
クオンとエンパはクルシェ達の観戦に釘付けであり、物陰を選んで標的に接近するソナマナンを察知した気配はない。
射撃の腕にあまり自信が無いソナマナンは確実に相手を仕留められるよう、もう少し近づこうと歩を進めた。
そのとき、思いがけなく声がかけられる。
「ソナマナン、気をつけろ!」
「ちょっと、シーよ、シー……!」
ソナマナンが押し殺した声音を返すと同時、その首筋に冷たい感触を覚えて彼女は動きを止めた。
「そのまま静かにしているのが賢明だ」
「私ってば疲れているのかしら? これはここにいないはずのハチロウの声に似ているわ……」
言葉では否定したがっているソナマナンだが、背後から伸びている血に曇った鈍い輝きは間違いなくハチロウの長脇差だった。
「昨日はあんたを斬らなくて命拾いしたよ、毒婦殿」
「あなたと九紫美が二人揃っているなんて、どうして?」
「それだけあんた方を警戒しているということだ。うちの若頭はな」
言外に自分はそうではないと語るハチロウへと、ソナマナンは努めて余裕のある半面を振り返らせた。
「いいのかしら? 私の返り血を浴びれば、あなたもただでは済まなくてよ」
「俺には、刃の峰であんたのその可愛い首を叩き折ることもできる」
「きゃー、痛い!」
「まだ、やっていないが?」
一瞬で余裕を失ったソナマナンの悲鳴を聞いて、クルシェが我に帰って声のした方に顔を向けた。
クルシェが驚愕と絶望がない交ぜになった表情を浮かべる。
九紫美だけでも苦戦しているというのに、ハチロウまで出現してはクオンを倒すどころかクルシェ達が殺されてしまう。
常の冷静さを喪失したクルシェの動きが乱れ、九紫美が的を狙うように銃撃する。辛うじて直撃を避けたクルシェだったが、二発目を回避できる体勢ではなかった。
「残念だったわね。小娘」
九紫美の向ける銃口が生命を飲み込む深淵となってクルシェを照準し、敗北を認めたくない無念がクルシェの面に走った。
「させるかあ‼」
今まで隠れていたソウイチがなけなしの勇気を奮い起こして円卓から飛び出し、その手に握ったものを九紫美へと突き出した。
ソウイチの手元から伸びた光条が九紫美の顔に当たり、彼女は怯んで左手を目の前に翳した。
ソウイチが手にしていたのは懐中電灯だった。薄暗い酒場にあっては眩い光源となって九紫美の目を眩惑させる。
ただ九紫美が動揺したのも寸時のことで、九紫美の撃った弾丸が懐中電灯を破壊する。穴が開いて破片が零れる懐中電灯を持つソウイチに、九紫美が問いを放った。
「どなた?」
「あ、いや、名乗るほどの者では」
「ソウイチだとしたら、ついでに殺すことになっているわ」
「だから、俺の価値って」
後退りして逃げ出そうとしたソウイチの頭部から、銃声とともに鮮血が弾けた。
「ソウイチ!」
自身が撃たれたかのようにクルシェが悲鳴を上げる。
よろめいたソウイチが踏み止まり、頭部に手を当てた。どうやら、弾はソウイチのこめかみを掠めたらしい。出血は多いが傷は深くなさそうだ。
九紫美は目の眩みも治ったようで、次の射撃までは外してくれないだろう。
ソナマナンはハチロウに捕まって動けない。死の足音がクルシェ達に近付いてくるのが聞こえるようだった。
クルシェは決然とした意思を封じ込めた瞳で九紫美を射抜いた。
突如、クルシェはその身を颶風と化してクオンの方へ駆け出した。出遅れた九紫美が振り向いたとき、クルシェの背は遠くにある。
「旦那!」
九紫美の呼びかけよりも速くハチロウは行動を起こしている。ソナマナンに打撃を与えて転倒させると、倉皇とクルシェの横手から走り寄る。
真正面から迎え撃つのはエンパだ。機関銃を掃射し、二十発の弾丸を二秒で消費する。クルシェの周囲の床や天井が砕け、飛び散った粉末の幕を割って無傷のクルシェが肉薄する。
クオンはエンパに頼ろうとせず、懐から拳銃を引き抜いた。その顔には些かの気後れも無い。
弾を装填したエンパが狙いをつけるも、クルシェはもはや眼前に迫っていた。邪魔なエンパを斬り払おうと身構えたクルシェの左側から、ハチロウが踊りかかった。
体勢を崩しながらもクルシェは一刀から逃れる。
「クソ、無茶だ、クルシェ!」
頭を押さえた手から血を溢れさせながらソウイチが叫ぶ。そこへソナマナンが駆けつけてソウイチを支えた。
「何やっているの。今のうちに逃げるのよ」
ソナマナンがソウイチの手を引いて裏口に向かう。
「でも、クルシェを残しては行けないよ!」
「クルシェは私達を逃がすために無理しているのよ。いつまでもここにいたら、クルシェまで逃げ遅れるわ」
釈然としない面持ちで、ソウイチはソナマナンに連れられて裏口から出ていった。
二人の姿が消えたのを視界の隅で見届け、クルシェは自身も逃走に移る。
だが、それを簡単に許す面子ではない。正面からはハチロウが攻め立て、少しでもクルシェの動きに遅滞が生まれれば九紫美が銃弾を見舞う。
「命がけで仲間を逃がすとは見上げたものだ。だが、それだけにお嬢ちゃんを生かしておくわけにはいかない」
クルシェは応じる余力が無いのか、その口唇を呼吸のためだけに使っている。
「旦那、早く斬ってしまって!」
「それができない程度には手強い相手でな」
ハチロウは無駄口を叩く余裕があるものの、逃げ回るクルシェを捉えきれないようだ。しかし、この戦いが長引けばクルシェに限界が訪れることは必至だった。
九紫美が苛立ちを湛えた黒い瞳をクルシェに注いでいたとき、突然その視野が暗幕に包まれたように閉ざされる。
酒場の照明が落ちたことに、その場の全員が思い至ったのは数瞬後だった。
「な、何? 停電っすか⁉」
「さっき逃げたあいつらじゃないか? 裏口の方に配電盤があったろう」
「クオン! 落ち着いている場合じゃないわ、もっと慌てて!」
「影嬢、色々と逆では?」
クルシェの気配が消失していることに〈月猟会〉の一同が気付いたのは、もっと後のことだった。
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