3.蝉時雨

 幸尽島と本州を繋ぐ定期船が着港する時間に、私は港で倫太郎を待っていた。やっぱり倫太郎の学ラン姿をこの目で見たかったのだ。

 フェリーから降りてきた倫太郎は私の姿を捉えた瞬間に顔を綻ばせた。


「制服、すっげー似合ってるね」


 可愛い、と照れもなく褒めてくる倫太郎が少し恨めしい。


「倫太郎も、学ラン似合ってる」

「分かる、俺も学ラン似合うなって思った」

「んふふ、めっちゃ自分のこと褒めるじゃん」


 クスクスと笑う私を見て、倫太郎は安心したようにさらに目尻を下げた。


「小夜、高校どうだった?」

「んー?相変わらずだよ、ずっと悠と一緒にいた」

「んはっ!いーじゃん、楽しそう」


 力いっぱい大きな口を開けて豪快に笑う倫太郎を見ていると、私の心までもが晴れてゆく。


 去年の夏前のあの防波堤での出来事から、私と倫太郎は少しぎこちなくなっていた。翌日、「ごめんね。イライラしてて八つ当たりだった」と謝った私を倫太郎は快く許してくれた。それどころか「俺、きっと無神経だったんだな。ごめん」と頭まで下げてくれたのだ。しかしそれで元通りとはならなかった。

 私たち3人以外は誰も気づかないような本当に微妙なズレは、それでも確かに存在していて、私の心の底を黒く澱ませた。それは倫太郎も同じだったようで、倫太郎の笑顔にも少しの翳りができたのだ。


 しかし今日の倫太郎は以前のように一点の曇りもない笑顔だ。


「倫太郎は?高校どうだった?」

「楽しかったよ、すごく」

「そう、それは良かった。友達はたくさんできたの?」


 まるで保護者みたいな聞き方になってしまった。しかしこうやって心に防波堤を設置した上で聞かないと、私の知らない世界を構築していく倫太郎に和かに対応できないのだ。

 そんなに嫌なら聞かなければいいのにと思うが、倫太郎の高校生活のことはどうしたって気になってしまう。難儀な恋をしてしまった。というか、素直になれない私の性格に問題があるのだけれど。


「友達?できたよ、いっぱい」

「そっかそっか。まぁ、そこは心配してなかったけど……勉強は大丈夫そ?」

「いや、ほんとそれ!俺、月曜テストだからねぇ」

「私もだよ」


 だけど、もう私たちが同じテストを受けることはないのだ。これぐらいのことでいちいち悲しんでたらこれから先が思いやられるぞと、自分自身を叱って、頑張れ頑張れ、これからも倫太郎と友達でいたいんでしょ?と奮い立たせた。


「マジ?なら一緒にテスト勉強しようぜ」

「え?でも範囲違うでしょ?」

「中学の復習だろ?なら一緒じゃん」


 倫太郎って、ほんと狡い。私がどれだけ心の鍵を厳重にかけても、そんなのお構いなしにズカズカと踏み込んでくるんだもん。私の肩を抱いて「頼むよ〜」なんて言われたら、断る選択肢なんて浮かんでこなかった。


 大好き、倫太郎、大好き。身に余るほどの幸せは望まないから、これからもそばにいさせて。





 ジーワジーワという蝉の鳴き声を聞いていたら、暑さが倍増する。首筋にじっとりと滲む汗を乱暴に拭う私を見ていた倫太郎が、「強く擦るなよ」とその手を止めた。


「肌、すぐ赤くなるくせに」

「……だね。ありがと」


 私は倫太郎の部屋で夏休みの宿題をしていた。室内なのにどうしてこうも暑いのか……それは単純に倫太郎の部屋にエアコンがないからだ。扇風機はあるが、それから送られてくる風は、むわりとした湿度を含んだ生温いものであった。


「あっち〜!マジで暑い!」


 遂に耐えきれなくなったのか倫太郎はそう言うと、握っていたシャーペンをノートの上に置いて、畳の上に大の字で寝転んだ。


「エアコン付けた方がいいよ」

「だな!さすがに耐えれん」


 結局私と倫太郎は高校が違えど、以前と同じように会っている。そりゃあ、一緒にいるトータル時間は減ったが、それでも放課後はほぼ毎日会っていたし、夏休みなんて会わない日の方が少ないぐらいだ。中学生の倫太郎が言っていた通り、私たちの関係は何も変わっていない。


「あっち〜、これマジで死ねるな」

「なんか毎年暑くなってるよね」

「なぁ……あー、でも畳に寝転んでると気持ち涼しいわ」


 小夜もこっち来いよ、と手招きされて、私はまた始まったか、と倫太郎にバレないように溜息を吐いた。本当に少しも変わってないね。私が倫太郎の横に寝転んでも、彼は一切緊張しないのだ。相変わらず私は手のかかる妹みたいなものらしい。

 まぁ、こうやって文句を言いながらも、迷うことなく倫太郎の横に寝転ぶ私も私で大概だなぁと思うけれど。


「な?ちょっと涼しいだろ?」

「え〜?そうかな?全然分かんない」


 クスクスと笑う私に口を歪ませた倫太郎が「嘘だろ?」と、非難めいた言葉を口にした。だけど本当に違いが分からない。相変わらず嫌になるほど暑くて、流れ出る汗で体はベトベトだ。


「見て、汗すごいよ」

「俺の方がすごいからね?」


 何を張りあってるんだか。私は首を反らして、そこを流れる汗を倫太郎に見せつけた。倫太郎も負けじと首を反らし、「ほら、こことか川になってね?」と滴る汗を指で示した。

 太く男らしい首筋と浮き出る喉仏にドキドキと胸が高鳴る。滲む汗が私を誘うように流れ、これが欲情しているってことか、とその汗に魅了された自分自身を変に冷静な私が分析した。


「ね、私の汗も見てよ、倫太郎に負けてないよ」


 と、これは私なりの賭けだった。私が倫太郎の首筋や汗に男を感じたように、倫太郎も私に女を感じてはくれないかと、下品な願いを込めたのだ。


「お前……肌、白いなぁ……」

「ひゃっ、」


 私の直接的なお色気攻撃が功を奏したのか、そう呟いた倫太郎は徐に私の首筋に手を添えた。そしてそれだけにとどまらず、突然の接触に変な声を上げてしまった私を無視して、ゆっくりと指先を動かし始めたのだ。

 私の流れる汗を追うような規則的な動きをする指先が、首筋を往復する。それに追い詰められているのは勿論私だけで、倫太郎は涼しい顔をしたまま「細いしなぁ」と私の首への感想を述べている。


「り、倫太郎っ、汗汚いからね?」


 だから、もう止めてと暗に匂わせたつもりだった。


「汚い?小夜の汗が?どっちかっつーと、美味そう」


 頭痛がする。この男は、このセリフをなんの恥らいも衒いもなく言ってのけているのだ。普通ならこれって良い雰囲気だよね?誘ってきてるよね?と思う言葉も、彼が言ったなら話は別だ。勘繰ってはいけない。倫太郎はただ純粋な感想を言っているだけなのだ。彼が私の汗を「美味しそう」と言った、その言葉に他意はないのだ。


「私の汗も倫太郎と同じだよ。しょっぱいだけ」

「そりゃそうか。でも、小夜と俺が同じ人間だなんて思えねーな」

「ふふ、なにそれ。どういう意味?」

「ん?だってほら、身体の大きさから汗の匂いまで全部違う」


 え?匂い?と、私が声に出す前に、倫太郎は自分の鼻を私の首筋に近づけて、犬よろしくクンクンと匂いを吸い込んだのだ。


「ちょ、ちょっと、何考えてんの?!バカ、変態!!!」

「俺?!変態じゃねーわ」


 失礼な、と倫太郎は眉根を寄せているが、普通は人の汗の匂いなんてそんな唐突に嗅いだりしないからね?!

 私は顔を真っ赤にして、倫太郎を責めた。


「倫太郎のバカ!ほんと恥ずかしい!」

「え〜、マジか、それはごめん。じゃ、小夜も俺の汗の匂い嗅ぐ?な?それでおあいこってのは?」


 ほら嗅いでいいよ、って首筋を私に見せつけるように首を反らした倫太郎を見て、私は頭を抱えた。やっぱり倫太郎って、人との距離感が狂ってる。


「ねぇ、高校の友達にもそんな感じなの?」

「え?そんなって?」


 首の位置を戻した倫太郎は、本当になんのことを言われているのか分かっていないようだ。彼のキョトンとした無垢な瞳がなによりの証拠だ。


「汗の匂い嗅いだり、嗅がせたりだよ……」


 言ってて恥ずかしくなってきた。とんだ羞恥プレイだと、語尾がどんどん弱まっていく。


「あぁ、しないしない。さすがに誰にでもしないから。そんなんヤバイ奴じゃん?」


 と、一応の線引きはあるらしい。が、倫太郎の言葉をそっくりそのまま信じてはいけない。ここまでぶっ飛んだ行動はしないにせよ、倫太郎の人との距離感がおかしいのは小中学校で嫌というほど見てきた。だからきっと、高校でもそうなのだろう。

 倫太郎本人はその接し方が当たり前だから、それが人とは違うことに気づいていないのだ。それがどれだけの女の子に期待を抱かせ、夢中にさせるのかなんて、考えてもいないだろう。なんて罪深い人。


「あ、そーだそーだ、それで思い出した!」


 私が倫太郎の魔性具合を恨めしく思っていると、その倫太郎が突然大きな声を出した。


「なにを?」

「いやー、高校の友達が来たいっつっててさ」

「?」

「ここに、島に遊びに来たいんだってさ」


 だから、盆明けに来るってよ、と倫太郎はサラリと告げた。友達の来訪を楽しみにしていることが、倫太郎の下がった目尻から伝わってくる。私が反射的に、嫌だな、って思ったことは内緒だ。

 

「楽しみだね。男の子?」


 まず第一に性別を気にしちゃうのも嫌だ。だけどとても大事なこと。男の子だけなら歓迎できそうだ。


「と、女子も何人か」

「……そうなんだ!仲良しなんだね」


 私は自分の声が動揺で上擦らないように必死だった。その甲斐あってか、倫太郎はその日を思って楽しそうに話を続ける。


「そーそー。みんないい奴だから、小夜とハルカも絶対仲良くなれると思う」

「へぇ、楽しみだな」

「2泊するから、バーベキューとかもしような」

「えっ?!泊まるの?!」


 どこに?という私の言葉を聞くより早く、倫太郎は「俺んちにな」と答えた。


「え、え、エアコンないのに大丈夫?」

「居間にはあるだろ?そこに雑魚寝する」


 私の心配したことなんて、とうに解決していたようだ。雑魚寝ってことは、その、女の子も同じ部屋で寝るってことだよね……?それってどうなの。それ、すごく嫌だ。


「もし小夜も泊まれるなら、一緒に泊まろうぜ」


 キラキラの太陽みたいな眩しい笑顔。私はそんな倫太郎に、嫌だって言える立場ではないのだ。

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