4
火事場の馬鹿力、というやつだろうか。宝井の逃げ足は存外に速かった。こっちはほとんどが運動部なのに、誰一人として宝井に追いつく者はいなかった。
もしかしたら、皆どこかで手を抜いていたのかもしれないが、この状況で宝井を逃がそうと思う奴がいるようには思えない。あるいは、宝井がどこに逃げ込むのか、泳がせていたのかもしれない。
一心不乱に走る宝井は滑り落ちるように階段を下ると、普段なら立ち寄る生徒の少ない、ほとんど物置と変わらない小部屋へと駆け込んだ。扉に掛けられているプレートはcloseと記されてあったが、宝井は構うことなく中に入る。
「やっぱり、心の相談室ね……!」
憎々しげにそうこぼしたのは鷲宮。彼女は誰よりも速く扉の前にたどり着いたが、そのまま中に押し入る──ことはなかった。内側から鍵がかけられているようだ。
アリアちゃんはね、心の相談室にいるんだよ。いつだったか、猫屋敷が薄ら笑いを浮かべながら言っていたことを思い出す。心の病気。足りない子が、行く場所。
幸か不幸か、今日はまだカウンセラーが来ていないらしい。内側からは、一切の音がしない──宝井が、中で息を殺しているのだろうか。
もうやめよう、そう言いたかった。これ以上宝井を追いかけ回して、何になる? 宝井が直接、何かをした訳じゃないのに、どうして彼女がこうも糾弾されなくてはならないのか。
だが、俺は宝井の敵に回ってしまった。先程、流れるように外へと出た言葉の数々は、もう取り消せない。それに、宝井を追いかけるクラスメートたちを止めるどころか、いっしょに付いてきてしまった。どうしたって、手遅れだ。
「閉じこもるなんて、卑怯者!」
「隠れてないで出てこい!」
「皆に謝れ!」
ガチャガチャガチャガチャ、鷲宮が壊れそうな勢いでドアノブを動かす。猪上と元木が刺々しく声を張り上げ、信也と長内が周辺の壁を足で蹴りつけ、大きな音を立てる。
ここが地獄だろうか。死んだこともないのに、俺はそう錯覚した。
「なあ、外側に窓付いてたよな? あっちに回って、挟み撃ちにしようぜ」
にやにやと笑いながら、長内が提案する。宝井を追い詰めるためだけに、奴は頭を回している。
どうして。どうして、そうまでしなくちゃならない。
喉がからからに渇いて、上手く言葉が出てこない。こんなことが許されていいのか。宝井が相手だったら何をしても良いのだと、いつ、誰が決めたのだろう。
謝れ、謝れ、謝れ。女子の甲高い声が、耳にこびりつく。たしかに、宝井のノートにはクラスメートへの愚痴が書いてあった。けれど、それは俺たち全てを許すだけの罪になるのだろうか?
内側からの反応はない。あっても、周囲の声や音が大きすぎて、遮られているのかもしれない。いつもの教室と変わりのないことだ。宝井の声は、当然のように無視される。
「──ちょっと、何してるの」
──そのはずだった、けれど。
俺たちの背後から、制止の声がかかった。示し合わせたように怒号がやんで、一瞬ではあったけれど、その場に沈黙が広がった。
俺は恐々と、声のした方へと振り返る。彼がどんな表情をしているのか、想像できないのが少し恐ろしかった──あいつは、いつでも締まりのない笑みを浮かべているのが常だったから。怒りに満ちた顔は、未知の領域だった。
「……秋月、先生」
知らず、俺は奴の名前を呼んでいた。そんなつもりは、欠片もなかったのに。
秋月は一人だった。相変わらず、くたびれたスーツ姿で、疲れのにじんだ顔をしていた。
それでも、きっと気付かない奴はいなかっただろう。秋月の視線は今までにないくらいの冷ややかな温度を持って、俺たちを見つめていた──それが秋月なりの怒りだと、はっきりわかった。
いくら舐めていたって、秋月は教師で、大人だ。彼が一歩踏み込むと、途端に周囲の威勢が縮んでいった。
「もう授業が始まってるっていうのに、こんな大勢でサボりとは感心しないなあ。その上、さっきの大騒ぎは何? 一年の教室まで聞こえたって、苦情が入ってるんだけど」
秋月の口調はあくまでも穏やかで、子供を相手にする『先生』のものだ。少なくとも、秋月にとっての教師像とは、無闇に声を荒げるものではないのだろう。
けれど、秋月の言葉尻には、今まで聞いたことのないトゲがこもっている。怒られているのだ、俺たちは。
猪上に元木、それに信也や長内は不真面目な態度を叱られることも多いから、こういう時は多少の不満があっても大人しくしておいた方が早く終わることを心得ている。わかりやすく反抗的な顔をしながらも、皆黙って秋月のお叱りを受けるつもりでいるようだ。そうした方が長引かないし、変にこじれないとわかっているから、黙りを貫く。言うまでもない、暗黙のルール。
「サボりじゃありません。私たちは被害者なんです」
だが、ここで態度だけでなく、はっきりと異論を口に出す者があった。信也がぎょっとして目を動かす。
凛とした態度で秋月に突っかかったのは、まなじりをつり上げた鷲宮だ。狂ったようにドアノブを上下させていたさっきよりも落ち着いてはいるが、鷲宮の瞳には絶えず憤りが宿っている。
「この奥に、宝井さんがいるんです。あの人、隠れて私たちの悪口を書いていた上に、猫屋敷さんのタオルを盗んだ犯人だったんですよ。そんなの、皆嫌な思いをするに決まってますよね。だから、謝ってもらおうとしていたんです。教室を出たのは、宝井さんが卑怯にも逃げ出したからで、あの人が大人しく謝って、私たちに反省した態度を見せてくれたなら、私たちがここまで来る必要なんてなかった。だから、先生が責めるべきは、私たちではなくて隠れている宝井さんだと思います」
鷲宮はすらすらと、台本でも読んでいるかのように言い切った。その表情はどこまでも真っ直ぐで、自らに間違いがあるなんてこれっぽっちも思っていないことは明らかだった。
先程まで宝井を追い込んでいた面々は、鷲宮の反論に対して、揃って渋い顔をしていた。勉強ができなくたって、あの教室で──いや、集団生活を営んでいるなら、わかるはずだ。鷲宮の選択は、大いに間違っていて、墓穴を掘ったのだと。
秋月が、何かの前触れのように銀縁眼鏡を押し上げた。その指先が震えているのを、俺は目にしてしまった。──鷲宮は、失敗したのだ。
「……じゃあまず聞くけどさ、鷲宮さん。君たちは、ちゃんと宝井さんと対話をした訳?」
あの時、教室に秋月はいなかった。それなのに、奴はわかったような口を利く。
対話。そんなものはなかった。宝井の反論は無視され、あたかも宝井が全ての悪事をしでかしたように決めつけられた。あれは対話じゃない。宝井の言葉はなかったことにされて、事実が明かされぬまま結果を歪められた。
あの場に、鷲宮もいたはずだ。しかし、鷲宮は堂々と、はい、と肯定で返した。
秋月の目が細まる。ああ、終わった。あいつは多分、俺たちのしたことを見透かしている。給食の時間、へらへらしながら俺たちの様子を観察している大人に、中学生の狭い視野が敵う日は来ない。
「ふうん、そう。だったら、鷲宮さんは対話って単語を一回辞書で調べ直してきた方がいいよ。対話ってのはさ、お互いが向き合って、フラットな状態で言葉を交わすことをいうんだよ。君たちは、宝井さんの事情も一から十まで聞いた? 一度でも、感情を剥き出しにしたり、大人数なのをいいことに威圧的な態度を取ったりしなかった? そもそも、宝井さんのことを、同じ立場の、直線上にいるクラスメートとして見てる? 適切な対応をしていなかったから、宝井さんはその場を離れたんじゃないの? 逃げたっていうけどさ、それって生き物としては当然の反応だよね。危険が差し迫ってたら、普通はその危ない状況からできるだけ離れようとするものでしょ。要するに、君たちは宝井さんが危険だと判断するに値する言動を、さも当然のように取ってきたんじゃない? 相手の気持ち、一度でも考えた? まさか、自分がされて嫌だと感じることを、宝井さんにならしてもいいって思ってたりしないよね」
「でも、宝井さんが悪口を書いていたのは本当のことです。あの人の机に、ノートが置いてありましたから。後ろめたいと思うことがあったから、逃げ出したんじゃないですか? それって、自分の罪を認めているようなものですよね」
「へえ、ノートが。それなら、君たちはどうやってそのノートの中身を確認したの? 勝手に開いて見た訳じゃないよね。宝井さんに後ろめたい気持ちがあるなら、そんなノートをわざわざ開いた状態で置いてはおかないでしょ」
強気に食い下がっていた鷲宮が、ここで初めて言葉に詰まった。その隙を見逃す秋月ではない。
「宝井さんが悪口を書いてるとか書いてないとか以前にさ、君たちは彼女のプライバシーを侵害したって訳だ。普通、どんなに仲の良い友達でも、個人のものを許可もなく暴き立てはしないよね? 相手が自分たちの悪口を書いているかもしれないから、宝井さんの持ち物を勝手に開いて、まるで宝井さんだけが悪いみたいに扱うのは正直たちが悪いよ。その上、大勢で寄ってたかって、宝井さんを追いかけ回すとか、やっていいことと悪いことの区別も付いてないの? 猫屋敷さんのタオルに関してだってそうだよ。ちゃんと対話をして、宝井さんが認めたのならまだわかるけど、この様子だと一方的に決めつけただけなのがバレバレだから。──とにかく、詳しい話はおいおい聞くから。君たちは教室に戻って授業を受けなさい」
「……宝井さんはどうするんですか? あの人だけサボりが許されるのは、えこひいきだと思いますけど」
「英里奈、もうやめとけって」
信也が小声で止めたが、鷲宮が引き下がる様子はない。じっと秋月を睨み付け、恨めしげに続ける。
「前々から思ってましたけど、秋月先生は宝井さんだけ特別扱いしているように見えます。あの人と私たち、何が違うというんですか? 秋月先生は、教師ですよね。さっき、先生は私たちに対話をしたのかと聞きましたけど、先生こそ私たちと対話しているんですか? フラットに、私たち生徒のことを見ているんですか? 自分にはできていないことを他人に求めるなんて、正直大人としてあり得ないです」
秋月の三白眼が、鷲宮の姿を上から下までゆっくりと捉える。その眼差しはひんやりと冷え切って、向かい合っている訳でもない俺の背筋さえ粟立たせる。
鷲宮もまた、何も思わないという訳ではないのだろう。だが、あいつは昔から気が強い。怯えなんてひとつも見せず、自分よりも背が高くて成熟した『大人』の秋月を睨み付けている。大した度胸だと思った。
はあ、と溜め息が聞こえる。それは紛れもなく秋月のもので、しかし奴は困った顔などしてはいなかった。
「……何が違う、って。君たちがそれを問うんだ」
おおよそ教師が生徒に向けるべきではない、失望と侮蔑。それを感じ取った時には、秋月が口を開いている。
「それなら君たちは、どこかへ向かうってなった時、道に障害物があってもそのまま通れって言われて、はいそうですかと納得できるの。退かすなり迂回するなりしたくない? それとも、何の違いもないはずの宝井さんにだけは、苦労することを強いるのかな。自分たちだけは、舗装した道があるべきだと思っているくせに?」
「先生──それって、私たちのことを、」
「言ったよね。教室に戻りなさい。君たちは自発的に教室を出た。ああ、宝井さんもそうだとか、この期に及んで言わないよね? 彼女がそうしなければならないくらいに仕向けたのが誰か、わからない程の馬鹿じゃあないでしょ」
それと、と秋月が鷲宮から視線を外す。標的に定められたのは、黙って突っ立っている俺だ。
「磐根君。君、まがりなりにも学級委員でしょ。一人で複数人を止めろとか、さすがにそんな無茶は言わないけどさ……なんでいっしょになって教室を出てきたの? 磐根君にとっては、これが正しい選択肢だとでも?」
「……すいません」
「謝れって言ってるんじゃないの。はいかいいえで答えるべきところだよ、今のは。どうせ口先だけでも謝れば良いって思ってるんでしょ。反省のひとつもしていないのにね」
まあいいや、と秋月はさっさと非難を切り上げる。
「このことは、木下先生と横尾先生にもきっちり伝えさせてもらうから。詳しい話はおいおいになるだろうね。教室に戻りなさい。これが最後通告だ」
これ以上食い下がっても無意味だと、きっと誰もが理解している。鷲宮だけはまだ反抗的な目をしていたが、無言で周囲に促され、秋月を一睨みしてから踵を返す。
心の相談室の内側に、宝井はいるのだろうか。もしかしたら、俺たちが回り込もうとしていた窓から外に出て、もっと安全な場所に逃げ込んだかもしれない。
俺が宝井の居所を知る術はない。秋月がそうさせてくれないからだ。
俺たちがいなくなるまで、奴は扉の前に立ち続けるだろう。果たしてそれが教師としての行動か、それともあいつの個人的な判断によるものなのか──どちらだって構わない。どうしたって、今最も正しいのは秋月なのだから。
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