蝉と少年と私たち

秋丘光

蝉と少年と私たち

 夏のある日、道路で泣いている少年がいた。

「ぼく、こんなところで泣いて、何があったの?」

 少年はしゃくり上げながら、木を指さし私の質問に答える。

「セ、セミにぃ…おしっこされたぁっ…」と。

 どうやら少年はセミに尿をかけられたことに泣いているらしい。

「ただぁっ、見てただけなのにぃ、急におしっこかけてきて、どっかに飛んで逃げっちゃったぁ…」

 うーん、情けない。今の子供はこのくらいのことで泣いてしまうのか。それともこの子が特別に泣き虫なのだろうか…。

「そっか、急におしっこかけられてびっくりしっちゃたんだね。ママとパパは一緒じゃないの?」

 少年は泣きながら首を横に振る。

「一人か…。じゃあ、お姉ちゃんとあそぼっか」

「やだっ。服と体、きれいにぃっ…、したい」

「じゃ、自分のお家帰って、服を洗濯してもらって、お風呂にはいろっか」

「いえにぃっ…かえりぃっ、かえりたくないっのっ…」とまた少年は首を横に振る。

「…」困った。声をかけた以上、ここでバイバイするわけにもいかないし、どうしたものか。

「おねえちゃんの、おうちぃ、がっ、いい」


 というわけで、先ほどの少年の服が私の家の洗濯機で回っている。いや洗濯機で回されている。

 そして私はなぜか少年とお風呂に入っていた。家に帰りたくない、なんて言うから虐待かと少し思ったのだが、裸の少年のどこにも傷や痣もなければ、痩せ細っているわけでもない。羨ましいほどの白くもちもちとした健康的な肌だ。

 少年の背中を洗いながら私は聞いた。

「あんなところに一人で何してたの。お家にも帰りたくないっていうし、ママかパパと喧嘩でもしちゃったのかな」

「パパ、今日お休みで、なのに、新しい…、新しい、マ、ママっ…と、お出掛するってっぇ…」

「そ、そっか…」

 泣き止んでいた少年は、また今にも泣きそうである。油断していたが、複雑で繊細な問題があったみたいだ。

 そのまま私が無言でいると、少年は泣くのこらえながら、鏡に映る私を見ながら言った。

「おねえちゃん、なんでお風呂なのに服着てるの?」

 ―。この少年、下心か何かあるのか…。何とも言えない気持ちになる。こうなったら…。

「そうだよね。変だよね。お姉ちゃんも服ぬいじゃお」私は、服と下着を全部脱いで裸になる。

「あれ、毛生えてる…」

 少年は小さく呟やいた。私は恥ずかしくなって、顔が赤くなる。

「そんな変なことみたいに言わないで。パパもママも生えてるでしょ」

「パパは生えてるけど、ママは…知らない。ぼくが赤ちゃんのときに死んじゃって、一緒にお風呂とか入ったことないんだ」

 やってしまった。つい、体を洗っている手に力が入る。

「おねちゃん、いたいよ」

「ご、ごめんね。じゃ次は前を洗おっか。ほら、こっち向いて」

 少年は恥ずかしそうなそぶりを見せながら、こっちを向いた。少年の大事なところには毛が生えていない。ほんと、まだまだ子供だ。

「ママと一緒にお風呂に入ってるみたいで、なんか嬉しい」

 照れながら少年が言った。少年が恥ずかしそうにしていたのは、そういうことだったのか。全く違うことを想像してしまった自分が恥ずかしい。風呂からあがった私たちは、服が乾くのを一緒にゲームをして待った。


「おねえちゃん、ありがとっ」

 少年は満点の笑顔で手を振っている。服も体も顔も心もサッパリと綺麗になったようだ。

 出会った場所では蝉がまだ鳴いていた。だけど鳴いているのはヒグラシに変わっていた。

「おにいちゃんもありがとー」

 そう言って少年は走り去った。


「お兄ちゃん、ありがとーだってさ」

 私は横に立つ男を横目で見ながら言う。

「私の家に来てくれたと思ったら、『男の子が一人で道路で泣いてるだけど、どうしよっ』ってなに」

 そうだ。せっかくの二人きりのお家デートを楽しみにしていたのに、男が家に来た開口一番がそれだった。もちろん放っておくわけにもいかず、私が少年に声をかけにいったのだ。

「だってさ、大人の男と泣いてる少年が並んでるのって、なんか、ヤバいじゃん」

 男は笑いながら、頭をかいている。

「それに、ほら、子供がどうこうみたいな事件も最近あったし…。女ならまだ大丈夫じゃん」

「そういうさ、男は危険だけど女なら大丈夫みたいなの、良くないよ。女でもする人はするよ」

 私はムッとしながら言う。

「ま、確かにそうだけどさ。イライラすんなよ。何、自分がその危ない女の一人ですーっとでも言いたいの?」

「はぁ…?」

 つい、呆れたような、イラつきまじりのため息が出てしまう。この男のこういうところは、好きになれそうもない。

「そういうことじゃないでしょ…。ま、可愛いとは思ったけど」

「…。やっぱり」

「な、なんて言うの。あんたとか私みたいに、穢れてなくて純粋で可愛いってこと」

「何言ってんの、お前も穢れてなくて純粋で可愛いじゃん。さらに綺麗!」

「バ、バカ。急に恥ずかしいこと言わないでよぉ…。ほら、帰ってゲームの続きしよ」

 照れた私を見ながら、男はいたずらな笑みを浮かべている。

「ゲームねぇ。ほんとにそれで良いの」

 この男のこういうところは、嫌いになれそうにない。

 日が暮れ、少年は帰り、ヒグラシも鳴きやみ、今度は私たちがなく番だ。

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蝉と少年と私たち 秋丘光 @akinokisetu

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