いなべラプソディー~ガパオライスと心の弱さと~

Writer Q

年上の女編

 その女(ひと)は、いなべ市北勢町阿下喜にある三洋堂書店のCD販売棚で、「テ」から始まるアーティストのCDを探していた。

「ひょっとして探しているのはTMネットワークですか? だったら、ここですよ」と声をかけたら、その人は驚いた表情を浮かべた。

「何で、探しているCDが分かったん?」

「直感です。エレクトロな楽曲が好きそうに見えたから」

 直感で引き寄せられたボクたちは、すぐに二人で会うようになった。そのひとはノリ子さんという。年上の女だ。農業や農地に関する仕事をしていて近くに住んでいるそうだ。細身で背が高く鼻筋が通っているそのヴィジュアルの印象どおり、意志はしっかり持っている。

 近くにある農業喫茶マロンで、一緒にガパオライスを食べていたら、ふと、ノリ子さんが吐き捨てるように言った。

「つまらないことばっかり。この前、初めて琵琶湖の向こう側にあるメタセコイア並木に行ったけど、密を避けるように気を使ってたらつまらなくて、すぐに帰ってきたわ。そういえば、このテレビニュースもコロナ、コロナって同じことばっかりでつまらない」

 ノリ子さんがネガティブなことを立て続けに言っても、ボクは批判せず「そうだね」と受け止めた。個人で広告デザインの仕事をしている孤独で社会的基盤の弱いボクは、ノリ子さんの気持ちとチューニングが合う。弱いもの同士だから、一緒にいて救われるのだ。


 そして、ボクたちは車で藤原文化センターに行き、星空を見ることにした。到着すると駐車場には、他に車が一台もない。気が付いたら雪が舞い出し、やがて吹雪になった。車の中で、マスクをしたボクたちは見つめ合う。

「このマスクごしだったら、キスしていい?」とボクが言うと、ノリ子さんは静かにうなずく。顔を近づけて二つのマスクが接すると、口許で擦れて、サーラ、サーラと淫靡な音を車内に響き渡らせた。

 サーラ、サラサラ、サッサッサッサ、サ、ジッ、ジー。

 その淫らな摩擦音は次第に小刻みになり、マスクごしにリアルな唇の感触や湿り気が伝わってくる。隔てるマスクが、ただただまどろっこしい。引っぺがそうと、ボクはあごの下から2つのマスクを掴んで、強引に下へ引っ張る。すると、潤った柔らかな感触と、「あっ……」という吐息交じりの声づかいが生々しいものになった。

「キミは若いけど結婚してない? しかも子どももいそう」

「今まで黙っていたけど、その通りだよ。家族の誰もボクを相手にしてくれなくて孤独だけどね。どうしてこんな最中に聞くの?」

「その方がドキドキするでしょ? キミを悦ばせようと思ってね」

罪悪感を抱いたボクの手は救いを求めて人肌を彷徨い、熱を帯びたリズムで次々と指紋をつけて純な心を汚していく。そのリズムの広がりはやがて罪深さと物憂げの核心にたどり着き、落としどころを見つけたコマのように動きが1点に収れんした。そして、ジェットコースターでうねりながら急降下するような恍惚の表情を浮かべる。

 良識という仮面を被った強い人には、ボクの気持ちなど分からないだろう。だけど、ボクは知っているのだ。誰だって、一歩踏み間違えば、簡単に弱者の世界に簡単に落ちてしまうことを。笑いたければ、ボクを笑えばいい。そこにある落とし穴が、見えているか?

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いなべラプソディー~ガパオライスと心の弱さと~ Writer Q @SizSin

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